第2章 砦 16
風を切る音が何十にも重なり、まさしく雨の如く矢が降りそそぐ。
青蘭は王太子の胴にしっかり腕をまわし、体を縮こまらせてしがみついていた。その方が彼の動きの妨げになるにしても、最低限ですむ。
兜や背中に矢尻が弾ける。直接身を傷つけられるわけではないが、その衝撃と音は心の底から慄かせるには十分だ。
碧柊にも青蘭をかまっている余裕はなかった。
降りかかる矢に注意を払っているゆとりはない。太刀を抜き放ち、四方から迫る白刃をはねのける。そうしつつ、城門へと急がねばならない。砦の外にも苓家の兵たちがひしめているはずだった。
一難去ってまた一難だが、このまま砦の内側に閉じ込められてしまえば、文字通り命運は断ち切られる。
ともかく、あの鉄扉にその前途を閉ざされる前に抜けなければならない。
近衛兵たちが狭いそこへいっせいに殺到するため、その閉門もじりじりとしか進まない。
出陣の準備は整っていたとはいえ、砦内の苓家兵のほとんどは馬に乗っていなかった。弓を射る者以外は太刀を抜き、近衛隊へと押し寄せる。
その刃は人よりもその馬に向けられる。馬をつぶせば、騎手は落馬する。そこを襲った方が効率も良い。
碧柊の太刀は、その長身の半分ほどもある長大なものだ。それを振りかぶり、馬を狙う輩をなで斬りにする。
悲鳴や呻き声が上がり、血しぶきが飛ぶ。
倒れた者を馬が踏み潰し、負傷者を絶命させる。その血潮が中庭を浸していく。
馬をつぶされ、落馬したものにいっせいに振り下ろされる刃。
折り重なる怪我人と骸を踏み越えて馬を進める。もはや人命など気に留めているゆとりはない。
ともかく、城門を抜けなければならない。
血糊に足を滑らせ、その均衡を崩した兵を切り捨てる。振り下ろした手首を返し、その隣の兵の首筋を下から斬り裂く。
そして、反対側から馬の脚を狙う輩にも同様に無情な死がもたらされる。
青蘭は目を閉じ、必死の思いで逞しい体に取りすがっていた。頬に生暖かなものがかかるのを何度も感じた。怒号、悲鳴、嘶き、耳慣れない鈍い音、それはおそらく人が切りつけられるもの。
ぴりりと頬が焼けるような痛みが走る。
青蘭は思わず目を開けた。そして、その前に王太子の背後から馬の脚を狙う者がいることに気づく。まるで一つ身のようにして王太子に身を寄せている青蘭など認識していないらしい。王太子が応戦に精一杯なことに、油断しているのか。
白刃がきらめく。それが即ち次になにを意味するかを悟った青蘭は、咄嗟に刀の柄をつかんで抜き放つと、そのまま振り上げ、兜の首を蔽う部分と鎧の境目のわずかな隙間に刃をつきたてた。
そのまま得物を失っては元も子もない。
首の反対側まで突き出た刃を引き戻すと、まるで噴水の如く血が噴きあがり、彼女の顔にも降りそそいだ。顔をそむけて視界が奪われるのを避ける。眇めた視界に、目を大きく瞠り、力なく開いた口から声にならない最後の呼吸が押し出されるのを見る。
「雪蘭殿?」
彼女の抜刀に気づいた碧柊が、刃を跳ね返したすきに声をかける。
自身の脇腹に顔を伏せるようにして、背後を見る彼女の顔は隠れている。
「私なら大丈夫です、こちらは私にお任せください」
暴れようとする馬の背で、振り落とされないように彼の体にしがみつきつつ、効き手で刃をふるうことは難しい。女の腕力で切りつけることは難しく、いかに効率よく急所を突くかということに集中する。
碧柊にはそれをやめさせることはできなかった。
四方八方から押し寄せる敵を相手に、一人で立ち向かうには限度がある。
それを物語るように、じわじわと近衛は人数を減らしていく。
「二人連れは囮だ! 王太子はあっちにいるぞ!」
どこからか声が上がる。その先には東宮の紋章を染め抜いた外套をまとった人物がいた。
綾罧だと、青蘭はとっさに思った。
身を蔽う黒の外套の背に白く浮かぶ、東宮の証。目深に被った兜。その下の素顔を見なければ、正体を知ることは難しい。
それでも、つられたように敵兵はそちらに向かう。
一変した人の流れの隙を突くように、王太子は馬の腹を蹴った。
それに気づいた幾人かの近衛が命がけで道を開く。
青蘭も渾身の力で襲いかかる刃を跳ね返し、切りつける代わりに切っ先を鋭く突きだす。
混乱、そして、喚声、悲鳴、絶叫、血の匂い、嘶き、手のしびれ、残る感触は人の命を断ち切るもの。
「ばかもの、王太子はそっちの二人連れだ!」
まるで一人で双刀をふるうような青蘭と碧柊に、注意が戻る。
しかし、ちょうど二人は馬一頭ぎりぎり抜けられるまで閉ざされつつある鉄扉の隙間を抜けるところだった。
城壁の上からの弓箭は届かない。前後を守る近衛が太刀となり、敵の刃を遠ざける。
「城門を抜ければ左に、南へ逃れてください!」
誰かが叫んだ。
碧柊は二人を切り捨て、さらに一人の頭を蹴り飛ばし、そして馬の腹を思いっきり蹴った。
青蘭は抜き身の太刀を鞘に戻すこともできないまま、必死の思いで彼の服をつかむ。その腕を守るのは厚手の皮の袖と籠手のみ。脳天まで突き抜けるような痛みが左腕を走る。
右腕にも同じ痛みが走り、一瞬意識が遠ざかりそうになったが、きつく唇をかみしめてそれを堪える。
目を閉ざすこともできず、遠ざかる景色を目に焼き付ける。
碧柊と青蘭ののった馬を守るように、外で持ちこたえていた数騎の近衛がつき従う。
外で待ちかまえていた敵兵は、予定より早く城外に出てきた近衛を殲滅することはできなった。
城壁から射かけられる矢は、味方まで巻き込んでいく。
死に物狂いの近衛の反撃と同志討ちに、砦の外でも混乱が生まれていた。
その隙をつく形で、なんとか城門の前から遠ざかる。
誰かの言葉通り、王都とは反対側に当たる南側には敵はいない。おそらく、城内で王太子をはじめとする近衛を壊滅させる計画だったのだろう。場外にまでその余波が及ぶとまでは想定していなかったのか。
追いすがる苓家の騎兵を討ち果たそうと、一人、また一人と近衛の数も減っていく。
碧柊は太刀を握ったまま、その逞しい腕でまるで雛鳥を守る親鳥のように少女の華奢な体を支え、ひたすらに馬を走らせた。