第2章 砦 15
明柊の話した通り、西葉軍を迎える軍の主力を苓家の軍が占める。碧柊配下の近衛で王城を脱出し、この砦にたどりつけたものは現在三百にも満たない。苓家軍と連係するにも一翼を任せられる人数ではない。
苓家の主力もこの非常事態に全軍が揃っているわけではない。報告によれば西葉軍は三万。それを迎える苓家の軍は一万に満たない。最終的には砦にこもっての籠城戦になる可能性が高い。
劣勢を補うために王太子も近衛を率いて出陣はするが、身の安全をはかるため後方につくことになっていた。
苓南の砦の外には、すでに数千の苓家軍が揃っている。近衛も隊列を整えその後方に控えてくれるようにという、いわば催促だった。
明柊の求めに碧柊も応じ、傍に控えていた綾罧に指示する。中将は一礼すると急ぎ足で仲間のもとへ向かった。
その後に続こうとする碧柊を、明柊が呼び止める。腕を掴まれていた青蘭も止まらざるを得なかった。
「なんだ?」
「この戦い、なにが起こるか分からないからね、愛するものは手元から離さない方がいい」
「――なにがいいたい?」
「言葉のままだよ。たまには『にいちゃま』の忠告を素直に受け取ったらどうだい。愛しい弟の身を想ってのことだよ」
「これ以上相手をしている暇はない」
碧柊は冷たく言って踵を返す。
「そうだね」
その声音に、青蘭は思わず振り返った。見送る明柊は笑っていた。だが、細められたその目は、笑んでいるのはなく、眇められているように見えた。
「さっさと行くぞ」
やや乱暴に腕をひっぱられる。
「……はい」
彼にしては珍しく苛立ちが感じられ、青蘭は戸惑う。その一方で明柊のことが気になっていた。先ほど彼の目と、そしてもう一つ。それがなんだったのか、咄嗟に思いだせない。
「あれが気にかかるか?」
「え? ――ええ」
彼の問いと自分の応えが微妙にずれていると感じながらも、青蘭は頷く。とたんに手首を握る手の力が増す。痛いほどの力だが、何故か苦情を口にできない。
「なにを話していた?」
「落馬しそうになったので、助けていただきました」
「それで?」
「それで――あの調子で……」
王太子はいったい自分になにを問おうとしているのか。青蘭は見当がつかず、口ごもる。話したことといえば、冗談のようなことばかりだ。王太子に接している時となんら変わりなかった。
「ど、どれだけ苓公殿下が王太子殿下のことを愛しているかを語っておいででした」
とたんに腕を掴む力が緩む。心なしかその肩も落ちたようだ。げんなりした気配が漂い、その歩む速度も低下した。
「で、何故にああいうことになった?」
「落馬しかけたところを抱きとめて下さった後、放していただけなくて――私のことも可愛いとは仰っておられましたが」
「だから二人きりになるなと言うたのだ」
「あれは不可抗力です――それに、私を置いていかれたのは殿下ではありませんか」
王太子が悪いわけではないが、青蘭とて油断していたわけではない。一方的に責められるのも癪で、ついつい抗弁する。
彼はついに足を止め、手を放した。無意識にその手首をさすってしまう。かすかに赤くなっていた。振り返った彼もそれに気付き、気まずげに眉をひそめた。
「悪かった」
どれについて詫びているのか分からなかった。青蘭は薄く笑って頷いた。
「いえ――けれど、気にかかることがあったような気がして」
「なんだ?」
穏やかな問いかけに、ようやく青蘭はほっとする。先ほどの彼の様子は彼女を戸惑わせた。
「姫に――青蘭に伝言を届けてやるとおっしゃられたので、私は『じきに参ります』と託したのですが、殿下はすぐに会えるかどうかは分からないと付け加えられて。それがなんだか……」
最後まで口にすることはできなかった。
王太子は再び青蘭の腕をつかみ、駆けだした。今度こそ有無を言わさぬ強い力だった。青蘭が躓こうが、ついていくのに必死だろうがお構いなしだ。
砦の庭の一角に集っている近衛たちはすっかり支度を終えていた。
「吾の馬をひけ! 皆、騎乗せよ! 乗ったものから城門を出よ。一刻の猶予もない!!」
「殿下?」
「散り散りになってもよい、ともかく苓州から出よ! 苓公が裏切り者だ!!」
声を限りに碧柊が叫んだ。衝撃に似たものが走ったが、驚いたようすを見せるものはいなかった。皆、素早く馬にまたがる。
じきに碧柊の前にも馬が引いてこられた。碧柊は先にまたがり、ぐいと青蘭の脇に手をまわして抱き上げた。
「殿下?」
「説明している暇はない。ともかく吾にしっかりしがみついておれ。顔を伏せていよ」
手綱をとるや馬首を返し、馬の腹を蹴る。いっせいに多数の馬が動き出し、馬蹄が地鳴りのように轟いた。
騎馬の群れは城門にいっせいに向かう。突然の近衛のこの動きに、苓家の紋章を負った兵たちが慌てる。動揺しつつも太刀や弓を手にとる。
近衛兵たちも太刀を抜き放った。
「城門を閉ざせ! 馬に狙い矢を射かけ、落馬したものを血祭りにあげよ!」
朗々とした声が城壁の上から響いてきた。聞き覚えのある声に、まさかと青蘭は顔をあげる。
城門はすぐそこだった。すでにそこを潜った近衛兵もあるらしく、城壁の上では、砦の外へ向けて弓を持ち走り寄る影もある。
その城門のすぐ上に、彼は立っていた。彼は明らかに混戦の中にある青蘭と碧柊を見分けていた。
嫣然と笑みを浮かべ、青蘭と目が合うと片目すら閉じてみせた。
「二人連れが王太子だ。碧柊を討ちとれ!」
それは従弟に愛を囁き、辟易させていたときと同じ声音だった。