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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第2章 砦 13

 初夏の風を想わせる香がまだたちこめていた。

 幾重もの紗の帳がおろされた寝台には、白絹の寝具が用いられ、主の就寝を待つのみとなっている。ここで、花嫁ははじめて花婿と顔をあわせ、閨を共にするはずであった。寝具からほのかに立ちのぼる香りは、まだ年若い花嫁の緊張を和らげるためにたきこまれたものだったのか。

 腰高の窓辺に椅子を寄せ、一晩中まどろむこともできずにいた彼女には、いっこうに効かぬようだった。まんじりともせずに長い夜を過ごしたその顔には、疲労が影を落とす。

 高々と結いあげた髪は、花鳥にみたてたとりどりの貴石や金銀をあしらった歩揺ほゆうや生花でふんだんに飾られていたが、それらも今はすべて外され、傍らの小卓の上に積まれている。

 とき流された髪は肩のあたりでゆるく結わえられている。やわらかな絹糸の如き黒髪は、腰に届くほど長い。

 衣装だけが宴にのぞむ盛装のままだった。

 払暁の光は未だ届かぬ。夜と朝の端境は闇を靄でときほぐしたように曖昧で、その移ろいも定かではない。

 彼女は窓の桟にもたれ、焦点のあわない視線をさまよわせていた。それがわずかに眇められる。注視していなければわからないほどの、わずかな動きだった。

 わずかに呼吸をするように唇が動く。


「姫は?」

「城の何処にも」


 影が囁く。いずこに潜んでいるのかは知れぬ。


「遺留品も?」

「姫につけておりました覗見かきまみの遺骸のみ」

「手掛かりがあるはずもなし」

「はい」

「姫を探して。生きていれば必ず接触を求めてくるはず」

「はい」


 影が消える。焔が燃え尽きるほどの、わずかな気配を残して。

 黒目がちの大きな瞳を細め、口の端を引きむすぶ。

 その時、隣の控室の扉が静かに叩かれた。主寝室の隣には、女官の控える小部屋がある。

 外と通じる唯一の扉の前には、警備と称した見張りの兵がはりついている。上層階にあるため、他に逃げ道はない。

 静かに滑り込んできた女官長は、三〇前後の小作りな顔だちの女だった。

 天蓋付きの大きな寝台を中心に、名高い画家により描かれた衝立や凝った意匠と重厚な装飾に飾られた様々な家具の並ぶ広い室内。

 その片隅に少女の姿を見つける。

 近づけば、ようやく振り向く。くっきりとした目には勝ち気な光が宿っている。それ以外は無表情に近い。女官長ともう一人だけが知る、彼女の素顔だった。


「姫につけておいた覗見かきまみが殺された。姫に関する手掛かりは見つからない。おそらく城内にはいない」

「東葉王は崩御なされ、王太子は行方知れず。王太子の従兄の苓公は王城を脱出したそうです」 

「城を掌握しているのは蒼杞そうき

「はい」


 眉間に皺が寄る。その名を彼女が口にする時、必ずと言っていいほど見せる癖だった。


「事態が明らかになるまで、私が姫を演じるしかない」

「そうでございますね」

香露こうろ狭霰さえいと共に私に協力を」

「勿論です、雪蘭さま」


 その応えに、少女はかすかに笑んだ。

 香露と呼ばれた女官長ともう一人の女官狭霰の二人だけが、青蘭と雪蘭がたびたび入れ替わっていることを知っている。

 二人は雪蘭について奥の宮に入り、それ以来十年以上にわたり仕えてきた。それは亡き主、よう紅桂こうけいの遺志でもあった。彼女たちは幼児期を西葉東宮で過ごし、紅桂が廃太子となる以前の子供のころから傍近くで忠勤に励んできた。


「姫さまはご無事でございますよ」

「おそらくは――あの子になにかあれば、必ず私にはわかる」 


 雪蘭は静かに断言し、膝の上にのせた手をきつく握りしめる。香露はそっとその上に手を重ねた。   

 



 雪蘭が香露のいれてくれた茶を飲んでいると、なんの前触れもなく扉が開かれた。

 乱暴に開かれた扉は壁に跳ね返る。

 扉を開いたのは兵士だった。そして彼らは慌てて膝をつき、頭を垂れる。

 彼らに一瞥もくれず、断りもなく踏み込んできたのは、紺の繻子織の絹地に銀の縫いとりの西葉東宮の衣をまとった青年だった。

 肩をおおう髪は濡れ濡れと光り、切れ長の涼やかな目元。端正な顔立ちの印象は、彼の妹よりも従妹である雪蘭との方がより似通っていた。


「そなたが青蘭か」


 はじめてみる妹の素顔を、彼はどんな感慨も見せずに眺める。


「――兄上ですか」

「ああ、蒼杞だ」


 嫁ぐ前の父王への挨拶のおりに、間接的に二人は顔を合わせている――正確には青蘭と蒼杞だが。雪蘭も青蘭に従いそばに侍っていたが、御簾越しの視界は悪く、その顔立ちを見分けられるほど身近に接することはなかった。


「これはいったいなんの真似です」


 静かに詰る妹に、彼はかすかに眉をひそめた。


「なんだ、その態度は。私はそなたを救い出してやったのだぞ。女神の直系であるそなたが、みすみす東の葉王家を僭称する詐欺師の手に落ちるのを防いでやったのだ。感謝すべきではないのか」

「そのようなことをお願いした覚えはございません」


 きっぱりと言い返せば、とたんにその端麗な面が醜く歪んだ。


「そなたは分かっていないのか。吾等の体に流れる血こそ、女神から受け継いだ尊いものなのだぞ。それを、王族を名乗るのをおこがましい山師に渡すなど、言語道断。ここまで代々受け継いできた純潔の血を汚すなど、許されることではない」

「なれど仕方のないのことでありましょう。戦に敗れたのですから。そして、その指揮を執っておられたのは、兄上、あなたではありませんか」


 そのこめかみに血管が浮かんだように見えた。その瞬間、雪蘭の頬に灼熱感が走った。反動で椅子から転がり落ちる。そばに控えていた香露が慌ててその身を抱き起こす。

 蒼杞は汚らわしいものに触れてしまったとでも言いたげに、厭わしそうにその手を払っていた。


「そなたは貴い血が汚されるのを良しとするのか! 葉王家直系の王族としての矜持はないのか」

「どのような矜持です。血筋に胡坐をかいた末が、この有様ではありませんか。堕落したのは西葉王家です。だからこそ、女神直系である我が国が敗れたのではありませんか」


 次に腹部に衝撃が走る。雪蘭はさきほど口にしたばかりの茶と茶菓子を吐瀉した。蒼杞がその足で妹であるはずの青蘭の腹を蹴ったのだった。


「なにも知らぬくせに抜け抜けと」


 憎々しげに言い捨てると、踵を返して去っていった。

 腹部を抑えて痛みに顔をゆがめる雪蘭を、香露が抱きとめた。 


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