第2章 砦 12
螺旋階段を降りたところで、青蘭は足を止めた。足のはやい王太子のあとを雛鳥のように懸命に追い、ひたすらぐるぐると回るはめになったため、少なからず気分が悪くなっていた。
先を行く王太子に声をかける余裕もないまま、青蘭は壁にもたれて少し屈む。
塔の外の風は、初夏の朝の瑞々しい心地よさで頬に触れる。
苓南の砦は、砦といっても街道守備隊の主要拠点でもあり、常時一定の人数が駐屯しているため、その規模は城に近い。
城壁沿いにある五つの塔からのびる直線の通路は、砦の中央で交わる。その上に王太子や苓公の居室のある中央の塔が聳えていた。
中央の塔の階段は門に通じる広場に面している。通路や広場は人々や馬でごった返していた。あちこちでなにやら指示する大声や怒声が飛び交い、防具をつけた大柄な男たちが全身から金属音を立てながら行き交う。
引き立てられる馬にも、すでに防具が取り付けられていた。
いよいよ出陣が間近に迫った緊迫感は、まったく戦場を知らない青蘭の肌にも感じられた。雑然としているようでいて、一つの目標に向かって人々は動いている。騒然としつつも、緊張の糸が張りつめている。
近衛の軍服を身につけ、髪を切り凛々しく一纏めに束ねてみても、青蘭の体格の貧弱さはなんともしようがない。鎧は小さな鉄の板を革で編み上げたもので、軽量化が図られているが、青蘭が身につければ立っていることすら難しいだろう。
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、顔をあげてあたりのようすをよく見る。
非常に不利な事態だときいたが、そのわりに悲壮感は漂っていない。それは何故だろうと内心首をひねりつつ、なんとか気を取り直して立ち上がると、王太子が慌てた様子で戻ってくるところだった。
「白罧、なにを――」
「申し訳ありません、少し気分が悪くなっ……」
「今ごろご起床かい。ずいぶんと大切にされてるねぇ」
するりと脇から肩に手を回される。こんな事態にもかかわらず、朝からこの調子のいい物言いは、一人しかいない。
青蘭は息の詰まるような想いで身を竦ませ、恐る恐るそれを確認した。さりげない仕草でがっちり青蘭を抱き寄せてしまった当人は、実に上機嫌で碧柊に笑顔をふりまいていた。
「これほど愛らしいのだから無理もないが、ここまでお前に大切にされているのかと思うと妬けてくるよ。俺にはとことん冷たいのにね」
「――明柊」
底冷えのするような声で低く名を呼ばれると、苓公は嬉しげに身を震わせてみせる。その拍子にさらにきつく抱き寄せられる形になり、青蘭は逃げられなくなる。力ずくで押さえこまれているわけではないのに、身をよじることさえかなわない。手にした盆も取り落としてしまったが、騒然した空気にかき消されてしまう。
「朝からお前に名を呼んでもらえるなんて、今日はいい一日になりそうだ」
「人生最後の日になってもよいのか」
そばで聴く者があれば、肝が冷えるような殺気に満ちている。それにも負けずに、明柊は青蘭を引きずるようにして嬉しげに従弟に近づいていく。
「長年の片思いがかなうなら、死んで本望だ」
「では殺してやる。その前に、それを返せ。それは吾のお気に入りだ」
首根っこを掴まれ、乱暴に引きはがされる。一時的に首がしまって呼吸ができなくなる。ようやく解放されてもひどく咳きこんでしまう。抗議しようにもその余裕もない。その背を碧柊の手が撫でてくれる。
「この期に及んでけち臭いことをいうな」
名残惜しそうに手を伸ばしてくる明柊のそれを乱暴に払いのけ、碧柊はぐいと青蘭を自分の背後に押しやった。
彼の影に隠れ、青蘭はやっと人心地を取り戻す。それでも到底顔を上げられる状態ではない。雪蘭と相似形のこの顔を、真正面から苓公にさらすわけにはいかない。
「お前はとっくに朝食をすませたくせに、まだ盆を持ってどこへ行くのやらと気になってしようがなくてね。そうすれば連れだって塔から降りてくるじゃないか。王太子殿下が手ずから食事を運んでくださるなんて、前代未聞だろう。妬けるのは当然じゃないか」
明柊はわざわざ碧柊の背後をのぞきこむ。狙い通り従弟が眉間にしわを寄せ、乱暴に明柊を押しやろうとすると、それを待ちかまえていたように逆にその腕を掴んだ。
腕を掴まれた碧柊はしまったと振りほどこうとしたが、それ以上に力でしがみつかれ、どうにもならない。
青蘭は慄いて後ずさる。
子供同士なら無邪気で微笑ましいが、どう見ても尋常な構図ではない。
「明柊……」
碧柊の声がわずかに震える。あまりの剣呑さに固唾をのんで見守っていると、ひゅんと音がして白刃が空を切った。
「ひっ」
声を飲んだのは青蘭だった。太刀を抜き放った碧柊は、容赦なく従兄に切りつけた。
「おおっと」
明柊は間の抜けた声を上げながら、易々とそれを避ける。見事な身のこなしに、青蘭は武人としての彼の資質を思い知らされた。
「ひどいなぁ、いきなり切りつけるなんて」
「死んで本望だと申したではないか」
男に二言はないと言って、碧柊はさらに太刀を構える。明柊は奇声をあげて飛びのき、そのついでにすっかり呆気に取られていた青蘭の顔を正面からのぞきこんでいった。
形の良い唇が笑みに歪み、切れ長の眼はまるでおもちゃでも見つけたように楽しそうに煌めいている。日に焼けた精悍で凛々しい顔は、華やかな艶っぽさをも持ち合わせていた。同じような造作でも、その持ち主の気質一つでこれほどまでに異なるものかと思わせるほどに。
一方、驚きのあまり目を瞠って口をぽかんとあけている青蘭は、実際の年齢以上に稚く見える。見事な黒髪に縁どられた白い貌と黒目がちの大きな目は、とうてい少年のものではない。
「――っ」
己のあまりの迂闊さに、青蘭は顔をひきつらせて息をのむ。慌てて顔を覆ったが、後の祭りだ。
それに気づいた碧柊は、とたんに冷めた目をして太刀をおろした。抜き放ったままだが、自然に切っ先をおろしている。柄は利き手である右手で軽く握ったままだ。
それこそが彼本来の構えだと知る明柊は、素早く刃の届かぬところまで退いた。
「昨日はちらりとしか顔を拝せなかったから、気になっていたんだよ。やはり愛らしい小姓だね、まるで乙女のようだ――どこかでお会いしたような気もするが、これほどの可憐さをこの俺が見忘れるはずもないしねぇ。嶄家のものなら、いずれかの折に王城でお目にかかったかも知れないね」
「そういうことだろう」
碧柊は明柊の視線を遮るように青蘭の前に立ちはだかる。
「まぁ、そういうことにしておこうか――よく似たご令嬢もいらっしゃったよう気もするが、それも気のせいかな?」
「気のせいだろう。お前は気が多すぎる。いちいち覚えていられぬと言っておったではないか」
「そんなこともいったかな」
無責任に言いおいて、明柊はからからと笑った。
「四度目にお目にかかれる日を楽しみにしているよ、白罧殿」
さらに接吻を投げてよこし、碧柊はあきれかえったように息をついた。明柊はそのまま陽気な足取りで去っていく。
ようやく王太子の影から顔をのぞかせた青蘭は、心底くたびれた想いで肩を落とした。
「四度目? まだこれで二度目なのに……」
「一度目は入城式のときだったと言いたいのだろう」
碧柊は苦り切った口調で応じ、落ちた盆と食器を拾い上げた。青蘭は慌ててそれを引き取り、二人は強張った顔を見合わせた。
「そなたが雪蘭殿だと確信したようだな」
「けれど、何故、なにも仰られないのでしょう」
「面白がっているのだろう」
彼はそう云って苦笑して見せた。だが、そんなはずのないことを一番よく承知しているのは碧柊だった。