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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第1章 脱出 1

 ようはもとは一つの国だった。東西の二つの国に別れてすでに百年以上の時がたつ。両国はともに自国の正当性を主張して譲らず、故国統一の名の下に夥しい量の血が流されてきた。



 西の葉王家ようおうけの国、西葉さいは。葉王家の姫は俗世とは隔絶された奥の宮で育つ。そこは現王お手つきの女性ばかりが収容される後宮の一角でもあった。

 後宮の主は王妃である。彼女だけは奥の宮をはじめとする、後宮のなかを自由に行き来することが許される――裏を返せば、主であってもその自由は後宮内に限定されている。

 王子が生まれれば三つになる頃に東宮とうぐうにうつされる。王女の場合は結婚か出家か、あるいは一生を奥の宮で過ごすか、その三つしか選択肢はない。

 いったん後宮にはいると死ぬまで出ることはできない。生きたまま出入りできるのは、王子と王女、そして嫁ぐ王女につき従うごく一部の女官に限られる。

 そんな流動の少ない一定の人間が構成する環境は、ひどく閉鎖的なものとなる。そこでは主であるはずの妃妾やその所生の子女が、そのやるかたない憤懣のはけ口となることすらあった。

 それは表だって礼を失するようなやり方ではなく、巧妙かつ陰険に、集団で行われるため、的となった人間に逃げ場はない。ささやかな失言をたしなめる者はおらず、ちょっとした失態はその被害を受けた者に原因がなすりつけられることすらあった。


「雪蘭さまと青蘭さまが似ていらっしゃるのは見かけだけのこと。聡明さと優雅さにおいては比すまでもありません。あの父君にしてこの姫君ありですわね」

「英邁にして温雅であられた紅柱こうけい殿下のお姿が本当にお懐かしいこと。愚昧な弟君に位を譲って退かれたのに、あのような若さでお命を……きっと陛下がひそかに手をまわされたに違いありませんわ」

「血は争えぬとは申せ、青蘭さまはまことに気難しくていらっしゃるうえに愛らしさの欠片もお持ちでない」


 青蘭は、聞こえがよしの悪意に満ちた囁きに曝されて、成長したようなものだった。

 国で一番高貴な女性であったはずの母を早くに亡くし、唯一の味方であるはずの乳母も頼りにはならなかった。

 乳母は優しく気立てのいい女ではあったが、気が弱く、下級貴族出身という出自に委縮していた。長じるにつれて、彼女を守ることすらも青蘭の役割の一部となっていた。

 王妃は産褥がもとで亡くなった。その原因となった娘の青蘭に、王は見向きもせず、奥の宮に半ば放置して顧みることはなかった。愛妻を失ってのちは後宮に近寄ることすらしなくなった。王妃亡きあとの寵愛を期待していた女たちの不満が、その因である青蘭に集中したのは無理もなかったのかもしれない。

 そんな悪意に満ちた環境に慣らされてしまう前に、盾となってくれたのはたった一人。一つ年上の従妹、雪蘭だった。




 つまずいた拍子に膝の力が抜けそうになる。つんのめりそのまま前へ倒れかけた体を、逞しい腕が支えてくれた。


「……あ――ご……申し訳ありません」


 とっさに抱きかかえるように回された腕は、記憶にある誰のものよりも太く逞しかった。

 どこかまだぼんやりとした意識で、果ての知れない暗い隧道の先を見つめる。

 薄暗い庭を、雪蘭に手をひかれて、あてどなく歩いたことがある。そんなことをまるで他人事のように、遠くに思い起こしながら、現状を改めて認識する。

 事態が理解できないまま、反射的についてきてしまった。非常事態だということだけは確かだが、それがどういうものなのか見当もつかない。

 そんな状態で云われるままに、明日には夫となる人だとは云え、敵国の王子について来てしまった判断は、迂闊だったかもしれない。けれど悪意にさらされて育ったためか、この先はともかく、今この時に自分に害なす人間かどうかを見分ける力には長けているつもりだった。

 外界と通じる通気口のようなものが、どこかに設けられているらしい。わずかだが、確かに空気の流れを頬に感じる。

 眼を開けていようといまいが、なにも変わらない。自分の指先すら見分けられないほどの、深い闇。星のない夜よりもさらに暗い。そんな状態では手を引いてくれる温もりだけが唯一の頼りとなる。

 一心に歩いているうちに、いつのまにか幼いころを思い出していたらしい。雪蘭に手をひかれて歩いた記憶が、生まれてから最初の鮮明な思い出だった。それ以前の記憶はひどく曖昧だ。おそらく自分で封じてしまったのだろう。

 そういうしているうちに迂闊にも躓いてしまい、先を行く人の手を煩わせてしまった。

 慌てて謝ったものの、動転してさらに足元がよろける。

 背後から片腕がまわされ、体ごと抱きすくめられる。それが自分を転倒から守ってくれた結果だと分かっていても、動揺が生じる。

 ずいぶんと腕も胸板も逞しいということを背で感じつつ、そこに戸惑いが生じる。奥の宮で同性しか知らずに育った身には、異性がどういうものなのか実感としては分からないままだった。


「いや、かまわぬが。怪我はないか?」

「大丈夫です――ありがとうございます」


 こくこくと頷き、何度も足元を確かめてから立つと、ようやく解放される。

 このように立ち止っている場合でないことは、彼の気振りから察せられる。それなのに追想に耽っていた己の間抜けさに情けなくなる。


「足元には気を付けられよ――といっても、この暗闇では無理があるな」

「注意すればなんとか」


 しばし考えこむような沈黙ののち、唐突にすぐそばにあるはずの気配が動いた。何事かと立ちすくんでいると、不意に足もとからすくわれた。


「――っ」


 ふわりと体が浮き上がる。それこそ事態が飲み込めず、目を白黒させる。おぶわれたのだと理解するのにしばしを要する。反射的に抗議しかけたが、苦笑いに機先を制された。


「非常時だ、非礼は許されよ。この暗がり故人目を気になさる必要はなかろう。体裁よりはまず命だ。今は堪えられよ」

「……はい」


 不承不承でも頷くしかない。彼の言葉はもっともだ。そんなことは分かっている。わかってはいても、そういう問題ではないと抗議したい部分もある。どんな状況であれ、こんな風におぶわれることがどれだけ恥ずかしいかなんてことは、彼には説明するだけ無駄なのだろう。


「……あの、でも、重くはないですか?」

「軽くはないな、人一人だ」

「……申し訳ありません」


 むっとしながらも一応謝する。そこに潜む気色を察してか、彼は小さく笑った。


「だが、重くもないな。女性というのは案外軽いものなのだな。少々拍子抜けしたほどだ」

「――それほど重そうに見えていましたか?」


 内心衝撃を受けつつ、なんとか持ちこたえる。王子の言葉に悪意はない。それだけにたちも悪い。


「そなたと同じくらいの身丈の少年ならばもっと重いな。女性を背負うのはこれがはじめてだ。故に見当のつけようがない。少年を目安にしていたが、やはり男と女では勝手が違うものらしい」


 問題点が微妙にずれている気もするが、あくまで生真面目な様子に、憤慨するのもばかばかしくなってくる。第一、出会ったばかりの女官相手に、こんな会話をしている場合ではないはずだった。

 実際、歩く速度も先ほどより格段に上がっている。上背はあるが、筋骨隆々というわけでもない。それでも息切れ一つない。体を鍛錬するということを知らない身にも、ひどく頼もしく思われる。


「ところで問うが、女官殿の名は?」

「え、あ……せ、雪蘭です」


 とっさに問われても、従姉の名を騙るだけの分別はまだ残っていた。その答えに、彼がちらりと振り返る気配があった。


「蘭? 王族か?」


 しまったと一瞬思ったものの、考え直す。この先どうなるか知れないにせよ、青蘭と雪蘭が酷似していることは偽りようがない。その状況を利用するつもりなら、出自は下手に誤魔化さない方がいいかもしれない。


「王族の資格はありません。母が王族ではありませんので」

「だが、王家に連なるのであろう」

「父は先の王太子――現王陛下の兄であった紅桂でございます。母は東宮に仕える奴婢でした」

「……娘御がおられたか」


 その口ぶりから、伯父の話が広く知られていることを感じ取り、青蘭はそっと息をついた。父がその兄を殺めたという風聞も、同じく広まっているのだろうか。


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