第2章 砦 11
一刻も経つと、西向きの窓からも朝の明るさがさしこんでくる。その淡い光のなかで、青蘭は穏やかなようすで座っていた。
果たしてどんな決断を下したかと、案じながら長い階段をのぼってきた王太子は、彼女の落ち着いた表情にとりあえず安堵した。
「結論は出たか?」
「はい――足手まといでなければ、このまま残らせてください」
碧柊はしばし黙した後、腕組みをして壁にもたれた。
「重ねて申すが状況は悪い。それに吾はもはやそなたも青蘭姫のことも疑ってはおらぬ――姫のためにも、そなたは戻った方が良いのではないか?」
表情は険しい。自分で判断しろとはいったが、十中八九戻ると結論すると思っていたのだろう。
青蘭は小さく首を振る。
青蘭がここに残れば間違いなく足手まといになる。それをも承知で残ると決めたのは、それなりの理由あってのことだ。それは彼にも理解しておいてもらった方が良いことでもあった。
「東宮は――蒼杞さまはいずれ姫を亡きものにしようとなさるでしょう。これまでにも何度とあったことです。私がここで戻ったところで防ぎきれるものではありません。それよりも一刻も早く事態を収拾し、姫を救出していただけるよう尽力させていただいた方が良いと考えました」
兄がなにを考えて、このような事態を引き起こしたのかは知らない。それでも、いくら考えてもこの先も彼に命を狙われる公算はますます高いように思われる。
青蘭が生きている限り、西葉の王位も、葉の玉座も兄の手には届かない。青蘭が死んではじめてようやく彼の出番となる。ましてやそれまでに青蘭が結婚し、万が一王女を出産すれば、さらにそれは彼から遠ざかる。
ここで雪蘭として東葉王都翠華に戻ったところで、二人諸共命を落とすことになりかねない。
本当は一刻も早く雪蘭のもとに戻りたい。けれど、そういうわけにもいかない。
絶対に死なないというのは、二人の間で固く結ばれた約束だった。
今となってみれば、入城式の後の宴の前に入替るのを認めてくれたのは、日ごろ厳しい雪蘭にしてはおかしなことだった。
長かった旅程と堅苦しい入城式にうんざりし、閉口していた青蘭の不機嫌をやたらと指摘し、入替ってほしいと云いだすように仕向けられたような気もする。
おそらく雪蘭は直前になってようやく蒼杞の企みを掴んだものの、もはやどうしようもなかったのだろう。
東葉の不意を突く形で勝利をおさめ、万が一にも葉の統一をはかれるような事態になった場合、真っ先に邪魔になるのは青蘭だ。青蘭だけでも逃がそうと、入れ替わるように仕向けたのだろう。
それを知らされていれば、青蘭は絶対に入れ替わることなど云い出しはしなかった。そんな場所に大切な従姉を残して逃げることなどできない。だからこそ、雪蘭はなにもしらせてくれなかったのだろう。
真の狙いの知らせないまま、遊戯のように女官と王女の入替りをそそのかした従姉だ。青蘭を守るためならば、本当に自らの命を危険をさらすこともためらわない。
そんな彼女との約束をみすみす破るような真似につながる行動は、青蘭には選択できなかった。
こうなると、もはや雪蘭は命を落としている可能性すらある。
そこまで思い至った時、青蘭は思わず摂ったばかりの朝食を戻しそうになったが辛うじて堪えた。
葉王家直系の王女として生まれ、雪蘭の助力でここまで生き延びることができた。
父が犯したかも知れぬ罪、そして兄にまつわる悪業。同じ血をひくものとして、青蘭にはそれを正す義務と償いと務めがある。
絶対にあなたは死んではだめ。
幾人もの女官が目の前で落命した。自分の命より大切な従姉ですら、生死の境をさまよった。それらを目の当たりにしても、雪蘭は青蘭に生きることを命じた。
青蘭の自己評価は低い。雪蘭と比すれば、どれほどの価値もないと思っている。それでも己の命を優先せねばと考えるのは、もはや刷り込みに近い。
物心つく前から、周囲から存在を、価値を、否定され続け、自分でもそれを受け入れていた幼子。そんな青蘭の前に現れた、救世主のごとき存在。彼女のいうことならば、どんなことでも無条件で受け入れた。自分を肯定してくれる唯一の存在故、その温もりと信頼には逆らえなかった。
青蘭にとって、雪蘭は絶対的な存在で、己の世界の根幹にかかわる唯一の存在だった。故に、その言葉に逆らうことはできない。
「それも、青蘭姫ならどう考えるか、か?」
「はい」
応じる青蘭にためらいはない。それに、王太子は眉をひそめる。
「そなたはそれでよいのか?」
「はい」
生真面目に頷く青蘭に、王太子は小さく息をついた。彼の抱く危惧は、彼女には通じない。
「――尽力、と云うたな。では問う。そなたになにができる」
「紅桂殿下の残したものがあります」
「ほう――その実態は如何なるものだ?」
「西葉における組織網にございます」
実際に掌握しているのは雪蘭だが、青蘭にも同じだけの術がゆだねられている。蒼杞のことは青蘭を納得させる暇がなかったため、雪蘭はあえて伏せたのだろう。それ以外のことは青蘭も雪蘭と同等に把握してきた。ただそれをどう活かすかは、雪蘭に任せっきりだった。
思いがけないことを耳にしたというように、王太子はわずかに目を瞠った。手ごたえを得た青蘭は、畳みかける。
「西葉貴族のすべてが蒼杞さまを支持しているわけではございません。むしろ、蒼杞さまを恐れている者の方が多いほどです。此度、西葉がこのような暴挙に出たからと言って、それが西葉の総意というわけではございません」
だからこそ、青蘭もこれまで生き延びることができたのだ。
碧柊は目を眇めるようにして青蘭を見据えていた。それでも臆することのないようすに納得したのか、姿勢をただすとそのまま青蘭のそばまで歩み寄り、右手を差し出した。
「ではご尽力いただこう、雪蘭殿」
重々しい言葉。その表情にいつものようなからかう気振りはみじんもない。青蘭は一呼吸置き、その手を握り返した。
「承りました、殿下」
軽く握手を交わしたのち、碧柊は青蘭の顔にかかる前髪をそっと指先ですくう。
「――なれど、真に後悔せぬか?」
「……絶対に死んではいけないと約束したのです」
俯き加減で応じる青蘭の顔は今にも泣きそうだしそうに強張っていたが、彼はあえて指摘はしなかった。
「では、その盆を持ってついてこい。色々支度がある故。それから、これだ――太刀は扱えるか?」
そう云って、腰帯にさした太刀を鞘ごと抜いてよこした。
小ぶりの太刀だった。砦の兵士たちと比べれば華奢でみえる青蘭だが、女性としては小柄なわけではない。上背だけなら小姓見習いの少年と名乗ってもおかしくない。
その太刀は青蘭にも扱いやすいものだった。刀身の中ほどから反りが入っている。刃先を上にして腰帯にさすと、王太子は眉を上げる。
「ほう、そうさすか」
「この長さなら、この方が抜きやすいですから」
武芸は王女の嗜みの一つでもある。その一方で高貴な女性が掌の固くなるほど訓練するものではないとも窘められたため、鍛錬していたわけではない。武人と比べれば心得があるうちにも入らない。
昔から葉では女性も武芸をたしなんできた。上古、女神自ら太刀を手にし戦ったという伝承にのっとっての伝統だが、次第に廃れ、あまり熱心にするものではないという風潮もある。
それでも、伝統は伝統。特に貴族階級の女性なら必須とされる。そのくせ、あまりに勇名をはせると、縁談が遠のいてしまうということもままある。
東葉ではその風潮が強く、わざわざ娘に得物を与えない親もいる。
「百年たつと、それぞれに違いが出てくるものなのだな」
「?」
「東葉の女性ならそうはいくまい」
東葉王家でも時代が下るにつれその傾向が強くなり、今では王女には太刀の一通りの扱いは教えるが、武芸ということまではやらせない。王女が太刀を手にするのは儀式のときのみだった。
ましてや太刀の長さと反り具合から抜刀のしやすさ考慮して、刃を上向きにさすなどできることではない。
感心したようにしげしげと見つられ、青蘭はなにを思ったか眉をひそめた。
「どうせ西葉の女は怖いですよ」
巷にはこんな話がある。
夫婦喧嘩をしても、東葉の女ならせいぜい鍋や桶が飛んでくるくらいだが、西葉の女は血の雨をふらせるという。太刀を手にすれば腕前が夫より上な妻もいるほどで、特に西葉では笑い話にならないこともある。
青蘭に睨まれて、ようやくそれに思い至ったのか、王太子は笑いだした。
「いや、逞しくていいことだと吾は思うがな。守ってやりたくとも、その腕が届かぬこともある。太刀を手にした敵に囲まれてへたり込んでしまう女性より、共に戦ってくれる西葉の女性の方が吾は良い」
「……それをいわれて、私はどうお返しすれば良いのです? 同等に見なしていただいたお礼を述べるべきか、それとも頼りない殿方と詰るべきなのですか?」
素直に困惑する青蘭に、碧柊はまた笑う。
「好きなようになさるがよい」
ぽんと青蘭の頭を軽く叩き、行くぞと促す。納得いかない顔で青蘭が続こうとすると、彼は扉をあけたまま足を止めた。振り返ると、盆を持ったまま何事からきょとんと見上げる青蘭の頭に手をのせる。
「そなた、何事も青蘭姫を指標に判断していると思うておるようだが、それは違うのではないか?」
「――え?」
「ここにいるのはそなただけだ。そなたが自分で考え、判断を下したことだ。その過程で姫のやりようを参考にしたのだとしても、実際に考えておるのはそなただろう。なんというべきか……もう少し、そのあたりを自覚せねばならぬと思うがな」
「……」
いわれていることが分からず、青蘭は沈黙する。その困り切った顔に、王太子は少し困ったように眉尻を下げた。
「いわれて分かることでもないな――そなたは確かに頼りないが、吾は頼もしいと思っておるぞ」
「……ますます分かりません」
いつものように、からかわれているわけでもないらしい。青蘭はますます理解に苦しみ、眉間にしわを寄せた。
彼は苦笑いし、「まぁ、よい」と呟いた。そしてやおら顔を近付け、青蘭の耳元に囁いた。
「そなたは吾か綾罧か、せめて近衛のものから絶対に離れるな――少々解せぬことがある。なにが起こるか分からぬ故、絶対に傍を離れるでないぞ」
その声は低く、冷やかに響いた。
補足:青蘭に渡された得物を小ぶりの太刀としていますが、実質的には打ち刀と同じです。反り具合も同じです。太刀はもっと切っ先に近い方から反りが入ります。太刀は本来刃を下に向けます。刃が上を向いた時点で打ち刀とすべきかもしれませんが、そう書くとなんだか江戸が舞台の時代劇のような印象になってしまうので(あくまで私が、ですが)そっとしておいてください。