第2章 砦 10
扉が静かに閉まり、綾罧の足音が遠ざかっていく。螺旋階段に規則正しい残響が幾重にも絡まるのを遠く聴きながら、青蘭は深々と溜息をついた。
一刻、とは区切ったものの。
正直、頭は真っ白で、どんな考えも浮かんでこない。
いたずらに鼓動だけが早鐘を打つ。
はやく決めなくては、結論を出さなくては。
焦燥感だけが胸を焼く。
空回りを続ける思考と、苛々と募るもどかしさ。
頭を抱えて俯き、ひたすら考えようとするが、どうにも動揺がおさまらない。
指先を頭皮に食い込ませ、唇を噛みしめているとぽたりとなにかが滴り落ちた。
使いこまれた机の上に、黒々とした小さな滴の跡。指先でなぞると、かすかに温かい。それと同時に鈍い痛みが走る。
「……」
手の甲を押しあててみれば、一筋の跡。それも同じく薄明の中では黒く見えた。
それを舌先でなめとる。嫌な味がするが、鈍痛とそれが少しは気分を落ち着かせてくれたようだった。
それと同時に、近づいてくる靴音に気づく。遠い残響が次第に近づく。その足取りに耳を澄ませ、誰が来たのかを悟り、青蘭は困惑した。
まだ、結論は到底出せない。綾罧は一刻だけ待ってくれると請け合ってくれたが、その主は了解してくれなかったのだろうか。
事態は刻一刻と悪化している。それどころではないことはわかる。けれど、決断を迫るなら、もっと前から知らせてほしかった。
自分なりに色々考えてはいたが、まさかこんな事態になっているとは。予想外に過ぎた。事態を把握することすら満足にできていない。動揺している時間はない。けれど、それが分かっているからといって、感情まで制御できるわけではない。
雪蘭なら動揺などしないだろうか。もっと落ち着いて事態を把握し、即断できるだろうか。
きっと、できる。雪蘭なら。
けれど、自分は雪蘭ではない。ここにいるのが本当に雪蘭だったなら、こんな非常事態に彼らを煩わせずにすんだかもしれないのに。
そんな自己嫌悪をしている暇はない。それが分かっていながら、青蘭の想いは逃げる。逃げていると分かっているから、尚更に自己嫌悪は募る。
再び、噛みしめてしまう。痛みで気持ちのおさまるような気がした。
結局、結論を出すこともできないまま、彼が扉を開いた。
青蘭は重い体を引きずりながらのろのろと立ち上がり、席を譲る。だいたい、小姓として振舞うなら、ここに座っていたことすら間違っている。
俯いたままの青蘭に声もかけず、彼は運んできたものを机の上に置いた。ふっと温かな臭いが鼻孔をくすぐる。つられて顔を上げると、そこには盆にのせられた湯気の上がる木の器があった。
王太子は振り返ると、青蘭の顔を眺め、次いで深々と溜息をついた。
「またか――このような癖は早々に治せ」
節くれだった硬い指先が、やさしく青蘭の唇を拭った。その指先にも血が付いていた。それを検分するように見る彼の表情は苦い。
またやってしまったと、冷静に一歩離れて己を見つめるような心地になれば、呆れてものもいえない。恥ずかしさでうつむけば、両肩を強引につかまれた。抗う間もなく引きずられるように移動させられ、また椅子に座らされてしまう。
「ともかく食せ。空腹だとろくな考えも浮かばぬものだ。まずは腹を満たせ。それから考えろ」
「けれど……」
強引に木匙を持たされる。
「吾はもうすませた。摂れる時に摂っておかねばな。これも務めだ」
食欲がないと訴える前に封じられてしまった。
確かに、食べられる時に摂っておかなければならない。空腹で倒れたりすれば、迷惑をかけるだけだ。これ以上足手まといになりかねない条件は増やしたくはない。
だいたい、食欲がないなどとごねるのはただの我儘だ。それこそ、今はそんなことをいっていられる場合ではない。
「はい」
小さいが、しっかりした口調で応じると、小さな笑いが降ってくる。
何故かその笑顔を見たい衝動にかられ、振り返って見上げる。彼は子供を見守るような温かな眼差しで、青蘭を見つめていた。
「如何した?」
「いえ――いただきます」
戸惑った末に、にこりと笑ってみせる。笑うのは難しかった。笑えただろうかと不安がよぎれば、彼は口の端を意地悪気に歪めた。
「食い意地がはっているようなら大丈夫だな」
「――!」
思わず木匙を握る手に力が入る。むっとした顔で握り拳を作るのを確認すると、彼はぽんと青蘭の頭に手をのせた。
「ほら、早く食せ。冷める」
「言われずともいただきます!」
ぱしりとその手を払い落し、青蘭はぷいと顔をそむける。椀を手にすると王太子に背を向け、ぱくぱくと食事をはじめた。
「ゆっくり食べよ――一刻後にまた来る」
そう云い置いて、彼は出ていった。
最後の言葉は優しいが、厳しいものでもあった。
青蘭は手を止め、しまった扉を振り返る。
「……ありがとうございます」
誰もいない空間に、言葉が落ちる。
なんとも言えない気持ちがこみ上げる。それは嬉しさなのか、感謝なのか、それとも気恥ずかしさなのか。青蘭にも分からない。ただ、今度はきちんと面と向かって伝えたいと、そう思っていた。