第2章 砦 9
主の去った後の椅子はまだかすかにあたたかい。蜜蝋の灯りを受けやすいように燭台を動かし、綾罧は手当ての準備のためにかいがいしく動いている。
綾罧はまず水を浸した布で傷口を洗ってくれた。彼が運んできていた水差しと空の盥は、そもそも誰のために用意されたものだったのだろう。
口先では礼を述べながら、ついつい空いている方の指先で額に触れてしまう。
「顔から落ちたのですか?」
「ええ」
ばつが悪くて笑うしかない。
「顔に傷が残ったらどうするんですか」
手をどけてくださいと言い添えて、綾罧は額の傷も拭ってくれた。何故か心残りな想いも感じながら、青蘭は小さく息をつく。
「普通はそういう風にいってくださいますよね」
「また殿下がなにか?」
問う前から予想はつくといいたげに、綾罧は苦笑する。
「唾でもつけておけば治ると笑われて」
不服そうに前髪の上から額をさする。
綾罧は仕方ないですねと肩を落とし、ふと眉をあげた。
「まさかとは思いますが、殿下が?」
「……」
さすがに答えられず、気まずげな顔で黙り込んでしまう。
王太子と入れ替わりで入室した時の彼女のようすも、ただ寝台から落ちたにしてはおかしかったもしれない。
中将にも察しがついたらしく、深々と溜息をついた。
「――中将殿もされたことが?」
「はい――といっても、ずっと昔のお互いにまだ子供だったの頃のことです。ですから、それがあの方の癖だというわけではないのですが。たまに小姓見習いの子供が入ってくると、今でも稀になさいますね。父性本能が刺激されるのか……基本的に面倒見のよい方なので、よい父親になる素養をお持ちだとも云えるのですが」
云い繕う分、多弁になる。言い訳するほど苦しくなることをようやく悟ってか、彼はなんともいえない表情で口をつぐんだ。
いくら小姓として仕えることになったとはいえ、青蘭は妙齢の女性だ。こうして男装をしていても、その持前の愛らしさは損なわることはない。成熟した美よりも愛らしさが勝る分、保護欲をそそられるといえばそうかもしれないが。
青蘭は納得のいかない想いをかみしめていた。
もう十七歳になる。一つ違いの雪蘭と何度も入れ替わったが、疑われたことはない。従姉は十二分に年頃の娘らしさをまとっている。
青蘭は自分でも気づいていなかった。青蘭も従姉を装っている間は、確かにそれらしい年頃に見えている。けれど、塗装がはげて地金が見えてくるにつれ、年よりも幼く見えてしまう。それは外見よりむしろ青蘭自身の性質のためだ。
「あなたを見ていると、私でもついつい世話を焼きたくなりますからね。殿下のお気持ちも分からないではありませんが。あなたにとってはそれですむことではありませんね」
「……悪気でなさってわけではないことは分かっていますから」
「水に流してくださいますか?」
「はい」
素直に頷くと、何故か同時に目があってしまい、二人は小さくふきだした。
「本当に申し訳ありませんね」
「本当に」
くつくつとしばらく笑ったのち、青蘭は一呼吸置いて姿勢をただした。
「それでは、お話をお聞かせください。中将殿」
綾罧は壁にもたれかかり、静かに切り出した。
すでに高い窓から淡い光があふれつつある。日の出は反対側の方角になるため、眩しいほどではない。長い一日になるかもしれないと、青蘭は小さく息をついた。
「雪蘭殿はなにをどこまでご存知ですか?」
「東葉王陛下が西葉の手の者により弑されたらしいとのみ。殿下はそれ以外のことはなにも仰られませんでした。先ほど、私は王城に戻った方が安全かも知れないとは仰られましたが、それだけです」
彼がそう判断するにいたるまでに、経緯はあったのだろう。昨晩だけでなく、一昨日の夜も書簡が届いていた。それに険しい顔をしていたのは、青蘭も目にしている。
「まだ状況は混乱しています。今、分かっている範囲で説明しましょう」
そう云いおいて、綾罧は腕を組んだ。
青蘭があの林泉のある庭で王太子とはじめて会ったころ、大広間では花嫁の入城式に引き続き宴がひらかれていた。
王女は面紗で顔を隠し、さらに十重二十重に張り巡らされた帳に守られて臨席する。それをいいことに、青蘭は雪蘭に我がままを云って入城式と宴の間に入替ってもらっていた。
王女は出席せねばならないが、女官の一人くらい欠けても支障はない。声をかけられることがあっても、王女が自ら直接答えるようなことは絶対にない。必ず女官長がさしさわりのない短い応えを返す。それはある種の儀式めいており、慣例通りの受け答えが繰り返されるだけの退屈極まりないものだった。
だからこそ青蘭はこれが最後を言い訳に逃げ出すのを選んだわけだが、今となっては悔やまれるばかりだ。
花嫁の一行のなかには、青蘭の父・西葉王の代理である遣使もまじっていた。遣使が東葉王に謁見するため前に進み出たおり、遣使の隋人の一人が東葉王に刃物をむけたということらしい。
宴には入城式直前に東葉王都に到着した蒼杞の一行も列席していた。王が斃れた瞬間、その一行が太刀を抜いたらしい。花嫁として上座にあった青蘭を守るはずの、西葉近衛小隊の者までそれに続いたという報告もあるという。
それでも両者あわせても百名前後に過ぎない。さらに宮殿の外にも数百人が控えていたはずだが、東葉軍の数が圧倒的に勝っていたはずだ。それにもかかわらず西葉側が不意を突いた形が有利に動き、上級貴族を人質にとられた東葉側は抵抗もできず、あっけなく王城を明け渡してしまった。
西葉の軍人とは別に、東葉軍の中からも所属不明のものたちがそれに呼応する形で王城制圧に加担した。
両国の国境沿いの森に潜んでいた西葉軍の一師団が越境していたらしく、夜明け前には東葉王都翠華に到着した。混乱に乗じて王都までもが易々と占領されてしまった。
その翌日には本体である軍団が国境を侵した。
「何故、そんなことに……」
冬の終わりの戦いで、西葉は惨敗した。
圧倒的な勝利を手にした東葉は、西葉軍をほぼ解体した上、王位継承者である青蘭を差し出させた。それは事実上、東西にわかれた葉の再統一への布石であり、同時に西葉の滅亡を意味した。
「おそらく、東葉側の有力者の中に内通者がいたのでしょう」
綾罧は苦々しさを隠しきれない様子で応じた。
青蘭にも西葉軍の解体の経過は知らされていた。東葉による内政干渉は、順調に進んでいるように思われた。
「けれど、どうすればそのようなことを隠しきれるのですか」
隠すには規模が大きすぎる。確かに西葉の自衛のため、王家直属の軍団が一つだけ残された。それとて東葉の監視下に置かれていたはずだった。
「だからこそ、内通者は有力者でなければ無理だということです」
「内通……統一を阻むものが東葉側に?」
まさかと顔をひきつらせた青蘭に、綾罧は小さく首を振った。
「祖国統一を皆が皆、諸手をあげて歓迎しているわけではありません」
「……それもそうですね」
何事にも利害が絡む。両国が対立していてこそ、利を貪ることができるものがあり、立場を守れるものがある。二つの国に分かたれておよそ百年。両国は争いを繰り返しながらも、それぞれの国内ではそれなりの安定を得ていた。それにはそれだけの理由があったのだ。
「王太子殿下と苓公殿下が共に王城を脱出され、この苓南の砦におられることは知られています。西葉東宮は軍団を率いてこちらを目指し、南下しているとのこと。当主を人質に取られ、あるいは亡くし、他の貴族たちは未だ混乱のなかにあります。援軍を期待できる状況ではありません」
戦力は苓南の砦の守備隊と、苓家の領主の手勢のみ。王太子の率いる近衛師団も不意打ちにちりじりになり、未だ全員が集まりきっているわけではないという。せいぜい数百から千。万を擁する西葉側に到底かなう数字ではない。
青蘭はうなだれつつ、力なく呟いた。
「だからこそ、殿下は私に翠華へ戻った方が良いかもしれないと仰ったのですね」
打ちのめされる。なにに、ではなく、すべてに。
青蘭は文字通り頭を抱える。吐き気がこみあげてくる。なにを考えればよいか分からず、ただいたずらに拍動が増す。まるで耳のすぐそばで鼓動が繰り返されているように、耳についてはなれない。
雪蘭、と声にせず呼ぶ。本当は叫びたい。雪蘭、助けて、と。どうすればいいのか教えてほしかった。呪いのように従姉の名を心の中で繰り返した末、ようやっとの思いで呟いた。
「一刻……一刻だけ、時間をくださいませんか」
絞り出すような声に、綾罧は沈鬱な面持ちでうなづいてくれた。




