第2章 砦 8
青蘭を揺り起したのは王太子だった。
眠い目をこすりながらなんとか起き上がると、王太子は椅子の背にかけてあった外套をまとい、身づくろいをしているところだった。
室内はまだ薄暗い。夏の夜明けの早さを思えば、時刻はずいぶん早いはずだ。
簡素な机の上の蜜蝋は、あと少しで燃え尽きそうだった。それを眠る前に新しいものと変えたのは青蘭自身。先に眠るように促され、素直に従った。
机の上には書簡がいくつも投げ出されている。ちらりと目をやるが、字を読み取る前に回収されてしまった。
結局あれから彼は一睡もしていないのだろうか。
几帳面に手にした紙を机の上で軽く揃えて整える。その横顔に、疲労の影は見えない。
昨日の明柊との一件でずいぶん印象が変わったような気もしたが、基本的に彼は他人に体調や感情を悟らせないのだろう。
「白罧、目は覚めたか?」
一揃えにしてまとめた書簡を、ぐしゃりと握りつぶす。そして、青蘭に呼びかける低い声。
青蘭はびくりと肩を震わせ、一呼吸おいて王太子を見上げた。
この薄暗さ、そして自分を白罧と読んだそのことと、王太子の声。
なにかあったのだ。もしくは、ようやく判明したのか。
青蘭は緊張して言葉を待つ。
王太子は髪を結わえる結び布を口にくわえ、無造作に髪を束ねなおしていた。ゆるんでいた髪をきつく結わえると、凛とした横顔がさらに厳しく引き締まる。空を見据える眼差しは鋭い。
窓の向こうももはや夜の闇ではない。夜明けに白む直前の淡い闇。そして、やわらかな蜜蝋の灯火。
その境に佇むような彼の姿は、切れ味鋭くそのくせ見る者を惑わせる怪しい光を放つ神刀の輝きを思わせる。
東葉に嫁ぐ前に、青蘭は宝物庫の奥深くにしまわれてきたそれと対峙してきた。
王室の祖である女神が手にしたという神刀の写し。本物は神殿の総本山で守られているという。
正確にいえば、それをふるったのが女神自身であるかどうかは定かではない。担い手にはもう一人候補が存在する。それは女神の太刀にして盾でもあったという人の子。彼を父とし、そして女神を母として、葉王家は誕生した。それは遥かな古のこと。
神代から伝わるという太刀の刀身には一片も曇りもなく、ゆるやかに優美な弧を描く反りはしたたかにして強靭な粘り強さを思わせ、装飾一つない実用本位の拵えは清廉潔白な女神の性格にふさわしいものだった。
その太刀と並んで収蔵されてきたものが、盾。こちらは写しではなく、本物である。女神の印が刻まれた他に装飾性のないそれは、経てきた年月を思わせる手かがりは一つとしてなく、鋳造されたその瞬間をそのままにとどめていた。
いずれ青蘭の“夫”が西葉の王として即位する時に必要とされる。形式上は女王として即位するのは青蘭自身だが、祭祀をつかさどる巫女王にすぎず、国権は夫のものとなる。そのため、いつしか王統の継承権を自身が握るにもかかわらず、“女王”は王妃と通称されるようになった。
その、二つの神器。正確には太刀の方は写しであって本物ではないが。順当に婚儀が終わっていれば、いずれ彼がそれらを手に青蘭の夫として“西葉王位”を襲い、それをもって名実ともに“葉”の統一が成るはずだった。
けれどその時、青蘭に見えたものは、そういうものではなかったような気がした。
彼は青蘭の太刀と盾には違いない。けれど、その意味合いが従来とは異なるような気がした。
髪を縛り終えた王太子は、自分をみつめたまま放心している青蘭に眉をひそめた。起こされたばかりで寝ぼけているという風ではない。
黒目がちで瞳が大きく、実際の年齢より幼い印象を与える双眸が、まるで鏡面のように光を帯びて見えた。表情も欠損している。だからといって自失している様子もなく、妖しげというよりも幽明の境にいるようだった。
「――雪蘭殿?」
その呼びかけに、青蘭は小さく肩を動かした。ゆっくりとその瞳孔から光が失せ、今度こそ呆けているような“表情”が戻ってきた。
「いかがした、まるで神がかったようだったぞ」
訝しさのまじった呆れたような声に、青蘭は明らかに動揺を見せた。
「……私はなにか?」
声が震えていた。わずだが、体も震えている。
すがるような目に、碧柊は思わずたじろぐ。あくまで比喩として口にしただけであって、実際に神がかりをみたことがあるわけではない。そういえば、“真の直系”である西葉の王女が巫女でもあることを思い出す。けれど、彼女は王族ではないはずだった。
「いや、呆けておったのでな――まだ寝ぼけておるのか?」
「……そうかもしれません。でも、もう覚めました」
青蘭は誤魔化すように笑ってみせ、ぽんと自分の頭を叩く。彼はそれ以上言及せず、何気ない口調で問題を切り出した。
「今日中に砦を発つことになろう。状況は悪い――吾にとってはな。そなたはこのまま王城に取って返した方が安全かもしれぬ。その場合は供をつけてやる。まずは中将から話を聞け。そして自分で判断を下せ」
思いがけない言葉だった。
今度こそぽかんと見上げる彼女を一瞥することもせず、王太子は部屋を出て行こうとする。青蘭は咄嗟にその後ろ姿を追いかけようとして、寝台から転落した。
あきらかに人が落ちた音に、さすがに彼も足を止めた。
床の上に蹲った青蘭は、痛そうに額をさすっている。
「顔から落ちたのか?」
「はい」
苦笑する眦には、痛みのあまり光るものがにじんでいる。
王太子はとってかえし膝をつくと、傷をかばう青蘭の腕を強引にどけた。
派手な音をたてたわりに、そこは薄い発赤と擦り傷がいくつかあるだけだった。うっすらと血がにじんでいる。みれば、顔をかばったものらしく細い腕のあちこちにも擦り傷とうち身があった。
思わず小さく笑うと、無言で抗議するように鋭い視線が返ってくる。
そうとう痛かったのだろう。
幼かった頃、明柊と庭園で遊んでいた頃には似たようなことは何度もあった。ひどくなつかしい心地で、ついついその頃のやり方がでてしまった。
傷口にかぶさる前髪をかきあげ、唇を寄せるとその舌先で傷口をなぞった。
ひりひりと焼けるような額に、生温かく柔らかな感触が伝っていった。
反射的に青蘭は凍りつく。傷をのぞきこんでいたので、そもそも王太子の顔はかなり近くにあった。痛みのあまりそんなことまで気にしていられなかったが、今度は事情が違う。
なにをされたのか分からずぽかんと顔を上げれば、彼は小さく笑いながら立ち上がろうとしていた。
「かすり傷だ、唾でもつけておけばじき治ろう」
そしてぽんと青蘭の頭を叩き、そのまま部屋を出ていった。
唖然と見送っていると、入れ替わりで綾罧が入ってくる。
床に蹲り、あちこちに血をにじませて呆然としている青蘭を目にすると、慌てて駆け寄ってきた。




