第2章 砦 7
目配せを交わして笑い続ける小姓と乳兄弟を、王太子は苦り切った顔で見据えている。二人ともに首をすくめて笑いをおさめたが、口元のゆるむのはどうしようもない。
碧柊は苦々しげに溜息をつき、咎めるように青蘭の頭を軽く叩いて脇へどかせて、椅子に腰かけた。ついでに机を一瞥し、盆の上の食器が二皿共に空になっているのを確認する。その仕草に気づいた綾罧が黙ってその盆を下げる。
「あ、それなら私が下げてきます」
慌てて青蘭が横から受け取ろうとしたが、それを王太子が制した。
「綾罧に任せよ。ついでに仕事もある故な」
綾罧もその言葉をうけて青蘭に頷いてみせ、そのまま下がる。
その後ろ姿を見送る青蘭に、王太子は寝台にでも腰かけるように促した。
「……苓公殿下はお気づきになったでしょうか」
青蘭は気がかりを隠しきれない声で呟いた。無意識のうちに指先が頬に触れる。柔らかい感触がかすっただけだが、困惑とかすかな不快感を拭いきれない。
指先でさすっていると、それを見咎めたように王太子は目を眇め、椅子に腰かけたまま青蘭の方へ腕を伸ばしてきた。何事かと身を引く前に、乱暴に節くれだった指先でその頬を拭われる。
痛みを伴うほどの力に、青蘭は顔をしかめて睨みかえす。その手を払いのけた。
「痛いではありませんか」
「――ふん」
彼は何故か面白くなさそうに鼻先で笑い、椅子にもたれかかる。
青蘭は痛み残る頬を撫でさすりながら、不可解な彼の態度を横目で観察する。
「そなたが女性だということには気づいたかも知れぬ。夕日が逆光になっておった故、顔までははっきり見ておらぬだろうとは思うが」
「本当に私が女だとお気づきになられたのなら、何故なにも仰らなかったのでしょう。それだけでも十分不審でありましょうに」
「面白そうだとでも判断したのだろう。あれは楽しむことにかけては貪欲故にな。そなたにどうからんでくるか、想像もつかぬが……」
文字通り頭を抱えるような仕草に、青蘭は不謹慎にもまた口元がゆるんでしまいそうになる。
「――ところで、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「情勢はどのように――姫様の安否が気にかかって仕方ないのです」
雪蘭のことを思えば息がつまりそうになる。
その切実な表情に、彼はやや眉をひそめた。青蘭はその表情に思わず胸を押さえた。
「よもや、よくない知らせでも?」
「急くな。そういうことではない。正直にいおう。王城がどうなっておるのか、今のところ何一つ情報が手に入っておらぬのだ。伺見を放ってある。もうしばし待たれよ。姫のことが分かり次第、そなたにも知らせる」
「……お願いします」
不安を隠しきれず、両手を握りしめるようにして頭を下げる。王太子は「ああ」と小さく答えると、まるで子供をあやすようにその頭をなでてやる。
「不安に思うのは無理もない。そなたは吾を信じるというてくれた。故に、それを裏切るようなまねはせぬ」
「はい」
小さくうなづくと、力づけるように華奢な肩を叩き、再び椅子に凭れた。
青蘭は取り乱しそうになってしまったことを恥じ、小さく息をつくと口元に笑みを浮かべて顔をあげた。
本当は雪蘭のことばかりでなく、いったいなにが起こっているのか、それも気になるところだが。王太子にはそれを話すつもりはないらしい。必要であればいずれ説明してくれるだろう。信じると決めたのだ。
かわりに、別のことを相談する。
「先ほどのお話に戻りますが。もし、何故女の私が小姓のふりをしてここにいると問われるようなことになりましたら、如何いたしましょう」
「――先にいっておくが、絶対にあれと二人きりにならぬよう、肝に銘じておけ。そうなった場合、そなたの操がどうなっても知らぬからな。あれは自分でも云うておったように、女でも男でも見境がない。どうやらそなたは気に入られておるようだしな」
「……はい」
絶句しつつも、神妙に頷く。諦めと軽侮の混じった声には、説得力があった。
「問われればそなたのことは吾の女だともいうておくが。わざわざそのようなことで先に釘をさすのも妙ではあるし……そなたももしも時は吾と付きおうておることにしておけ。さすがに思いとどまるだろう、と思うのだがな……」
確信とはほど遠い語尾ははえらく説得力に欠ける。
青蘭は眉をひそめ、困惑顔で王太子を見る。
「いいきれないんですね」
「――ああ」
「では、ともかく二人きりになるような状況は避けるよう努めます」
「それが一番確実ではあるな」
王太子は困り果てたような顔で、深々と溜息をついた。
いつも余裕綽々だと思っていた彼に、こんな表情をさせる人物がいることが、青蘭はおかしくて仕方がない。
「苓公殿下は読めない方ですね。あれはどこまで本気でいらっしゃるのですか?」
「――それが分からぬのだ」
だからこそ、苓南の砦からきた守備隊と出会ったとき、彼の態度は煮え切らなかったのだろう。
「幼いうちはああではなかったのだが、いつしかな。吾にも彼の真意は読めぬ。そのくせ、あれの周囲には疑惑を招く要素が多すぎる。疑惑を招くくせに、確証は掴ませない。それがあれ独特の遊戯なのか、それとも疑惑が真なのか――いつもはぐらかされてばかりだ」
苦り切った言葉には、かすかに感情が混じっていた。できれば疑いたくはないのだ、とそんな本音が透けて見えるような。
「疑い、ですか?」
「彼の両親のことはそなたも知っておるか?」
「はい」
「明柊こそが東葉直系だという意見もあるのだ。あれの母は吾の母の異父姉に当たる故な」
母系の血筋こそがものをいうのは両国ともに同じ。西葉であっても、同じような意見は上がるだろう。というよりも、西葉にあっては碧柊が王太子とみなされることはありえない。父親の身分は問われない。姉妹の順序にこそ重きを置かれる。
西葉であれば王妃にふさわしいのは明柊の母であり、碧柊の母は王弟と結婚することになっていたはずだ。
「……確かにそれはそうかもしれませぬね」
「東葉では父親の身分も問われるのだ。吾の祖父――母の父は王族だった故な。だからわが母が王妃に選ばれた。そのあたりが東西では少々違う事情だな」
「そうですね」
西葉王女たる青蘭には理解しがたいことだが、表向きは頷いておく。
「だが、明柊の母――伯母上はそうは思っておられぬ。明柊こそが王太子にふさわしいと昔から憚ることなく公言されておられてな。明柊はそのことに一切触れぬが、母を敬愛していることも確かだ」
「……」
「もう一つ加えるなら。吾の父と叔母上は若いころは恋仲にあったらしい。それを父親の出自を理由に引き裂かれ、妹である我が母が王妃となった」
そんな事情は初耳だった。青蘭には言葉が出てこない。結婚する以前に男性と恋仲になるということそのものが理解の範疇を超えている。
「こ、恋仲に、ですか……」
「王族の結婚は義務故、意に沿わぬ結婚は当然だが、それでも長年連れ添うことになるのだ。気持ちが通じているにこしたことはなかろう。その点、父も叔母上も気の毒なことではあると思う。立場上、頻繁に顔を合わせることになるのだからな」
机に片肘をつき、王太子は小さく息をついた。
燃えるような夕日は遠ざかり、ゆっくりと空には藍が深まっていく。闇の帳は次第にこの部屋にも忍び込みつつある。うすぼんやりとした夕間暮れの一室で、その横顔の秀麗さは印象的だった。
「――殿下ご自身も気持ちは通じていた方がよいとお考えですか?」
「それにこしたことはなかろう。事実上人身御供のような形で嫁いできていただいた故、それは難しいかも知れぬがな。そもそもその前にこの事態を一刻も早く収集せねばなるまい」
「……殿下は、姫のことをどう思っていらっしゃいますか?」
「そなたの話を聞く限り、連れ添うには心強い方であるようだ――先入観は持ちたくないなどというたが、身近で親交のあるそなたから聞く話ならば当てにならぬ風評ではないしな」
そう呟いて、何故かはにかんだようにも見える笑顔を青蘭に向ける。
青蘭がした姫の話はほとんど雪蘭のことだった。
笑みを返しながらも、何故か胸の奥がちくりと痛んだ。