第2章 砦 6
突然入ってきた男も、驚いたようにその場で足を止めた。窓から差し込む光は西日。赤銅色に染め上げられたのは若い男だった。それだけをとっさに見極めると、青蘭は面を伏せた。
窓を背にしているため、青蘭の顔は影になってよく見えないはずだ。そう自分に云いきかせ気を落ちつかせる。
いったい誰だろう。
誰かに似ているのは確か。それもかなり相似性は高い。けれど、服装に見覚えはない。目になじんできた近衛ものではないし、守備隊のそれでもない。
機能的かつ形式化された意匠は軍の正装を思わせる。それも高級士官のものに違いない。残照を受け暗色としか分からないが、服地の光沢は天鵞絨のようで、いっかいの軍人とはとても思われない。
やたらときらびやかだが、ややくたびれた感のある外套の裾から太刀の石突がのぞいている。下を向けばいやでもその足元が目に入る。奇石がちりばめられ儀礼ばった長靴は泥で汚れている。まるで儀式の途中で抜け出してきたようないでたち。
ほぼ同時に脳裏に蘇ったのは、印象的な切れ長の深い瞳。時に厳しく、時にからかうように、そして稀に優しげに細められる双眸。絵姿を初見した時から、目に焼き付いていたのは特にその目元の印象だった。
一瞬で得た闖入者の面影がその印象と重なろうとしたその瞬間、その当人が追いついてきた。青蘭は緊張のあまりもう一人、いや二人分の足音に気付かなかった。
当人の後ろには彼の乳母子たる綾罧もいるらしい。顔をあげずとも、その足元を見れば誰なのかは分かった。
「苓公、この部屋は違うというておるだろう!」
珍しくその声には狼狽がにじんでいる。彼が感情をあらわにするところにあまり接したことのない青蘭は、どんな顔をしているのか気になってしようがない。
「悪い悪い、いつもはここが俺の部屋だったからな。うっかりしてたぜ。最上階の部屋はもっとも高貴なお方に。さぁ、どうぞ、王太子殿下」
「……苓公」
あまりに頓着しない物言いと、すっかり苦り切った口ぶりに、青蘭は堪え切れず少しだけ顔を上げた。
扉を開けはなったまま、同じくらいの背格好の二人の青年が対峙している。先ほどの口ぶりもさもあらんとばかりに、険しい顔をしているのは王太子だった。そして、非難に満ちた眼差しになどどこ吹く風、とばかりにあっけらかんと笑っている青年。
彼らのまとう雰囲気は対照的だが、よく見れば雪蘭と青蘭ほどではないにしろ、その顔立ちはよく似ている。
磊落に笑っている青年こそが、苓公こと葉明柊なのだろう。
王太子とは父方・母方の両方で従兄弟にあたる。彼の父は東葉王王弟、母はその王妃の姉だった。青蘭と雪蘭の関係よりも血は近い。まるで兄弟のように似ているのも無理もない。
「その他人行儀な呼び方はやめてくれといってるだろ。昔のように『にーちゃま』と呼んでくれとまではいわないからさ。あの頃のお前はほんとに可愛かったよな。いっつも俺のあとをついて回って、舌足らずな高い声で『にーちゃま、にーちゃま』って連呼してさ。それがなんでこんな風に育つんだ?」
ほぼ同じ背丈の従弟の頭を乱暴に掻き乱す。王太子はさも嫌そうにその手を振り払い、手の届く範囲から退避するように一歩後退した。
それに青蘭は既視感を覚える。まるっきり王太子と自分のやりとりの焼き直しではないか。
二人の後ろでは、室内をのぞきこんでいた綾罧が必至の態で笑いをかみ殺している。
「毎回毎回その話はもういいといっておろう。だいたい、先日も王城で同じことを申し上げたはずだが?」
「そうだったかい? 悪いね、忘れてしまったみたいだ。俺が昔のことを覚えてられないのは、お前が一番よく知ってるだろ? せめて“明柊”と親愛をこめて呼んでくれよ。たった一人の従兄だろう? それより、お前、ほんとに残念だったな。せっかくやっと嫁取りが決まったってのにさ、それが寸前に台無しだからな。しかも青蘭姫はなかなか可愛らしい姫君だって評判じゃないか。惜しいことをしたな」
明柊が慰めようと一歩進み出て手を伸ばしてくるのを、王太子はさらに後退して避ける。
「可愛らしいだと? どこにそのような根拠が――」
王女はその実の親兄弟にすらまともに容貌を曝すことはない。実際の容姿がどの程度のものなのか、知りえる異性はせいぜいのところ医者と夫と、やがて生まれるかもしれない息子くらいのものだ。
訝しげに眼を眇める王太子に、明柊はにやりと口の端をゆがめる。
「お前のことだからどうせ青蘭姫の絵姿も見ていないだろうとは思ってたが、図星か――あの入城式で見なかったのか? 青蘭姫の被衣の裾を持っていた女官を。あれは姫の従姉だという話じゃないか。見事な黒髪と白い肌の、なかなかに綺麗な女だったぞ。従姉があれなら、姫の器量もそう悪くはないだろう?」
そう思わないか? と問うような口ぶりに、王太子は気難しい顔で眉間に皺を刻む。
青蘭には明柊の後ろ姿しか見えないが、その台詞に血の気が引く。このまま彼が振り返れば、この小姓こそがその女官だと気付かれてしまうかもしれない。
返事がないことにもかまわず、明柊は陽気に続ける。
「あんまり女気がないから、実は王太子殿下は男色家じゃないかって噂がたってたのはお前も知ってるだろ。単に堅物なだけだと分かってるから、俺は信じてなかったけどな――けど、だ。お前、やっぱりそうだったのか?」
その疑問符と共に、唐突に明柊が振り返った。不意打ちに、びくりと青蘭は縮みあがる。彼の背後では王太子も綾罧も揃って顔をこわばらせる。
明柊はつかつかと歩み寄ると、体をこわばらせて後ずさる青蘭の様子などお構いなしにいきなり両腕を掴んだ。
「こんな愛らしい小姓、いつから侍らせてるんだ? 青蘭姫の入城式の時には見かけなかったぞ。まるっきり女の子みたいじゃないか。おい、お前、名は何という?」
そう問いながら、青蘭の顔をのぞきこもうとする。青蘭は体を硬直させ、ひたすら首をすくめて俯く。明柊は「おやおや」とため息をつき、その腕を放した。強引に上向かせるような真似はしなかった。そのことに青蘭は心底ほっとした。
青蘭のかたくなな様子に一歩下がり、腕組みをして観察は続ける。
「で、名は?」
「……」
「嶄白罧だ」
代わりに答えてくれたのは王太子だった。ひどく救われた心地で、青蘭はほっと息をつく。その様子を明柊は見逃さない。
「嶄、か。中将の一族か?」
問われて、綾罧が進みでる。
「はい。私の遠縁にあたります」
「遠縁か。嶄家のものにしてはやけに優雅な物腰をしていると思ったよ。なるほどね」
感心したように再び青蘭をしげしげと眺める。その視線を感じて、青蘭はひたすら身を縮こまらせてうつむくばかり。
じきにその前に王太子が立ちはだかった。
「もう気がすんだろう。さっさと自室で休んでこられよ。ついでにその馬鹿げたなりも改めていただきたい」
「その言い草は横暴だぜ、碧柊。これでも宴の最中に命からがら逃げてきたんだ。道化じみた格好も仕方ないだろう。そもそもお前の花嫁をお迎えするために着飾ったんだ。ひいてはお前のため。それをそのような物言いは冷たすぎる」
明柊は大げさなほど悲しげに嘆いてみせる。それにうんざりしたように王太子はあっちへ行けと手の甲で払う。
「相変わらずつれないねぇ、碧柊は。そんなに俺が嫌いかい?」
「ああ、大嫌いだ」
すげない返事に、明柊はさらに大仰に頭を抱えてよろけてみせる。二、三歩よろけたついでに、素早く青蘭の腕をつかんで引き寄せた。
「――明柊!!」
王太子が鋭く詰り、強引に青蘭を奪回する。そのわずかな一瞬に、明柊は青蘭の頬に唇をかすらせていた。
「俺は女も男もいける口なんだ。その朴念仁に愛想が尽きたら俺のところにおいで。大切にするよ」
と、艶やかな笑顔でさらに接吻まで投げてよこす。
青蘭は王太子の背後に逃げ込んだまま、唖然として見送る。
「待て、明柊」
「そうそう、そうやって名前で呼んでくれると嬉しんだよ、碧柊。で、なんだい?」
明柊はさも嬉しそうにほほ笑む。同じような造作でも、人となりが違うとこれほど華やかな笑みを浮かべることができるらしい。そもそも二人とも並より美形である。
王太子は不愉快そうに眉間のしわをますます深くする。
「そなた、どうやってあの騒乱から逃れたのだ?」
「どうやってって?」
くすりと笑い、王太子にそのまま歩み寄る。その肩に親しげに手をかけ、耳打ちするように唇を寄せる。その時、彼の背後に隠れる青蘭に意味ありげな一瞥を寄こすのを忘れなかった。
「命からがら、だよ――お前が無事だと聞いた時は、嬉しさでここが震えたよ」
そう囁き、大げさに己の心臓のあたりをさすってみせる。
碧柊はうんざりした顔で後ずさり、同時に従兄の肩を押しやって遠ざけた。
「つれないね」
「当たり前だ」
「かなわぬ想いに胸を震わせるのも、人生の楽しみの一つには違いないけれど――切ないものだね」
うっとりと碧柊に囁きかけ、彼が太刀の柄に手をかけるのを見届けると、嫣然と笑って去っていった。
「……あれが、苓公殿下ですか?」
王太子の袖を強く握ったまま、呆然と青蘭は囁いた。
階段で頭を垂れて苓公を見送った綾罧は、苦笑しつつ戻ってきた。
「はい、殿下の天敵です」
「――綾罧」
低い声で名を呼ばれ、乳兄弟の中将は詫びるように肩をすくめた。
青蘭は細かな震えに、掴んだままの王太子の袖を放すことができない。頬をかすめるように、とはいえ、生まれてこの方異性からあんな風に触れられたことはない。身がすくんでしまい、強張りは容易に解けない。
「大丈夫か?」
「……はい」
かすれた応えに、王太子は困り果てた顔でともかく頭を撫でてくれる。他に術が見つからないのだろう。異性に対して免疫がないという点では、二人ともに似たようなもの。
「……」
「どうした?」
小さな呟きを聴き逃した碧柊は、それを拾おうと身をかがめてくれた。その耳元に、青蘭は大真面目に囁いた。
「――上には上がいるんですね」
それまで優しかった仕草が、急に乱暴になったのは言うまでもない。