第2章 砦 5
中庭がにわかににぎやかになる。その騒ぎに紛れるように、綾罧は青蘭の袖を引いた。
「ここにいてはまずい。今のうちに殿下のお部屋へ」
不自然に急いではかえって人目を引きかねない。それまでと変わりない歩調で、けれど先を急ぐ。
急ぐあまり盆を取り落とさないようするのがせいいっぱいだった。
見覚えのあるような気のする通路を戻り、ようやく塔の入口にたどりつく。
綾罧は素早くあたりをうかがい、誰もいないことを確認する。
「私は急ぎ殿下にお知らせしてきます。あなたは気をつけて階段を上ってきてください。最上階が殿下のお部屋です。大丈夫ですね?」
「はい」
「近衛のものか殿下がお戻りになるまで、部屋からは出ないように。あなたが雪蘭殿であることを知るのは近衛だけです。苓公は鋭いお方です。くれぐれも悟られないように」
口早にそれだけ囁くと、身を翻して階段を上っていく。軽やかな足音がいくつも重なるように上へと響いていく。青蘭はそれを追いかけるように螺旋階段をのぼる。
塔の中心を周回するように一段一段踏みしめていると、間もなく目が回るような心地に襲われる。少し気分が悪くなり立ち止っていると、上の方で扉の開閉する音が響き、二つの足音が近づいてきた。
綾罧は早くもあの部屋まで辿りついたのかと、感心しながら階段の脇に身を避ける。
ほどなくして綾罧と、それに続いて王太子が姿を現した。険しい顔で階段を駆け下りてきた王太子は、青蘭を見つけると表情を和ませその歩調をゆるめた。
通りすがりざまに足を止め、ぽんと頭に手をのせる。青蘭は盆を持っているためその手を払うこともできず、仏頂面で睨みかえす。
「早くお行きください」
「部屋にいつ戻れるか分からぬ。これはそなたが食せ。夜までかかるかもしれぬ。いくら腹が減っているからとて、一時に平らげるなよ」
まだ朝も早い。先を見越しての忠告はありがたいが、その物言いがいちいち気に障る。
「承知いたしました」
「ではおとなしくしておれ」
つっけんどんな物言いに王太子は愉快そうに口の端をゆがめ、青蘭の髪を掻き乱す。それを鬱陶しそうに首を振って拒もうと苦闘していると、苦笑を噛み殺す綾罧と目があった。中将殿は詫びるようにかすかに頭を下げてくれたが、その目には同情より楽しげな光があった。
二人が揃って姿を消すと、青蘭は壁にもたれたまま深々と溜息をついた。
「さすがは乳兄弟。結局揃って人の悪いこと」
苦々しくひとりごち、もう一度溜息をつくと気を取り直して部屋を目指した。
部屋に戻り、扉を閉める。盆を手にしたまま扉に凭れる。人が二人横になるのが精一杯の狭い部屋だが、戻ると心底ほっとしている自分に気がつく。
机に盆をのせ、念のために扉に鍵をかけるべきかどうか迷う。王太子が在室している間は階段に綾罧が控えていたようだが、今は誰もいない。いっかいの小姓に過ぎない青蘭のために人手をさく必要はない。
扉の前のしばらく逡巡したのち、鍵をかけるのは諦めた。小姓に過ぎない身でそこまでするのは逆に疑いを招くかもしれない。
自分はただの小姓にすぎないのだと繰り返し、不安は残るがそのままにした。たとえ男色嗜好の輩に目をつけられることがあったとしても、まさか王太子の居室で暴挙に出るような真似はしないだろう。
不安で仕方ない。今、信頼できるのは王太子と綾罧だけ。その二人も実際のところ味方なのか敵なのかわからない。成り行きと雪蘭の勘だけを頼りにここにいる。
不安の余り敵味方の区別をつけたいと、焦る気持ちを宥めるように深呼吸を繰り返す。
「雪蘭ならどう考えるかしら」
呪文のように繰り返す。
雪蘭なら、雪蘭なら。
東葉に対抗できる王太子として人々の期待を集めていた紅桂。ただ一人その血を引く、紅桂の愛娘雪蘭なら。
青蘭は、その英傑な紅桂を殺したと噂される愚昧な現王の血を引く。同じ血を受けた兄にはなにかと暗い噂が付きまとい、実際に東宮では奇怪な人の死が相次いでいる。東宮に仕えるというだけで人々は震え上がるとも聞く。紅桂を害したのも兄である可能性のあることも知っている。
青蘭の立場はその兄より上に位置するはずなのに、それをどうするにもできなかった。ただ、自分一人の命を守るだけでせいいっぱいだった。
それを気に病む青蘭に、雪蘭は自分にできることは絶対に死なないことだと諭し続けた。
青蘭が死ねば、西葉の王権は兄にわたる。それだけは絶対に防がねばらないことだと。それが最も多くの人々を守ることにつながると。
それでも無力感は拭いきれなかった。力のない、知恵もない、人望もない。ないないづくしの青蘭の支えは雪蘭だけだった。雪蘭がすべてを与えてくれた。
孤独と心の痛みに折れそうになっていた青蘭の前に、雪蘭が現れたのは七つの時。それからずっと守ってくれたのは雪蘭だった。
そして、今、また青蘭は一人でここにいる。雪蘭はいない。雪蘭がいないと、どうすればいいのか分からない。だから、考える。雪蘭ならどう考えるだろうか、と。
気がつけば、頬を伝うものがあった。それを指先で拭う。
「――これくらいで泣いては駄目よ」
雪蘭なら、そう云って笑うだろう。
だから、青蘭も笑ってみる。ほっとするようでいて、心はうつろなままだった。
気欝な思いとは裏腹に、体は空腹を主張した。誰もいない空間に、その音は嫌に大きく響く。思わず吹き出してしまい、しばらく笑い続けてから、青蘭はようやく机にむかった。
「まずは腹ごしらえよ、青蘭」
従姉を口真似てみる。それは本当に雪蘭が囁いてくれたようだった。
昼を過ぎても誰も塔を上がってくる気配はなかった。
王太子は従兄である明柊を信用しきれない様子だった。嫁いでくる前に、雪蘭が東葉の国内情勢を調べさせ、青蘭もともに把握してきた。
青蘭の知る限り、明柊にまつわる悪い噂はなかった。確かに王太子に次いで王位に近い立場にはあるが、野心的な側面をうかがわせる評判はない。疑いを招くようでは迂闊としか言いようがないが。むしろ警戒心を抱かせてくれる程度の方が、底の浅さが知れていて御しやすいとも言えるのかもしれない。
王太子も明言はしなかった。信用すべきか疑うべきか。そのどちらとも決めかねている様子だった。それを青蘭に判断できるわけがない。
昨夜、明るくなってから一体の地形を把握しようと考えたことを思い出す。椅子を運び、窓をのぞきこんでみる。
そこに広がるのは森と、その彼方にわずかに拓かれた農地、そして雄大な山
々。山の背を一望することができた。砦は森のなかの小高い丘の上に築かれているらしい。
青蘭が山の背のその山容を目にするのははじめてだった。東葉の王都は山の背からは遠く離れていた。輿入れの際も山脈から遠く、もっとも発達し、安全な街道が選ばれた。西葉の王都からも山並みが見えることはなかったが、東葉の王都ほど遠くはない。
白日のもとでも険峻な峰々は雲の彼方に身を隠し、白い山麓はやがて青い山裾へと変じていく。夏になってもとけることのない万年雪だという。今はまだ初夏。雪が舞うのはまだまだ先だ。
その尾根を越える峠道をこの塔から望むことはできないが、そこから通じているのであろう街道が山裾から砦に向かってのびている。
今、その道に人の姿はない。
この事態に、西葉はどう動いているのだろう。そもそも、どう絡んでいるのだろう。なにを狙っているのか。兄の企みならば、真っ先に狙われるのは青蘭のはずだった。
それにしても、故郷西葉との風景の違いに目を奪われる。
西葉では、山の背から流れ出るいくつもの大河によって形成された平野が国土の大半を占める。雪どけ水は時として氾濫を繰り返すが、絶えず滋養に富んだ土も運んできてくれるため、沃野に恵まれ豊作が続く。さほど労をかけずとも一定の収穫がえられるため、西葉の農業はあまり発達していない。
東葉は山がちな土地に大半を占められ、耕地は限られている。その反面、鉱物は豊富にとれる。けれど、人間にはまず食料が必要となる。国民を自国の生産だけで飢えさせないためには、その耕地は狭すぎる。西葉では人の手が入ることのない山の斜面や森まで拓かれ、また生産性を上げるために農業は著しく発達した。穀類に限って両国を比較すれば、同じ面積の土地から上がる収穫量は倍も違うともいわれる。
また、東葉は西葉だけでなく東の隣国翼波とも常に緊張状態にある。翼波は東葉の鉱山を狙い、その次には西葉の沃土をも求めているといわれている。翼波は荒野と山ばかりの国で、まず農業を行うことが難しい。そしてその山からはなにも産出しない。貧しい国の人々は荒々しく、そして武力に富んでいる。
その点、西葉は東葉以外の隣国を持たない。周囲を海に囲まれた大きな半島のほぼ全土を占めている“葉”の国は、そのほぼ中央で土地を分断する山の背の東西でその気候も風土も大きく異なる。それは次第に東西の民の気質にも変化をもたらした。
地平まで続く青い森と、それを縁どる淡い緑の耕地が広がる。やがて山の裾と融合し、白い山肌へと変じ、白い雲海のあわいに消えていく。
はじめて目にする、美しい光景だった。
「……綺麗」
呟き、嘆息をもらす。
ほぼ爪先立ってその光景に見とれていたが、じきに疲れて椅子から降りる。
手持無沙汰なまま机に向かっていると、あとは眠気がやってくるのみ。誰かが来てくれるまでは待っていようとなんとか睡魔と戦っていたのだが、それもあえなく敗退してしまった。
それからどれほど時間が経過したのか。
足音が階段を上ってくる。気が張っていたのか、青蘭はじきに目を覚ました。
慌てて椅子から立ち上がり、髪を整える。上がってくるのが近衛とは限らない。誰かの意を受けた砦の守備隊の可能性もある。
窓から差し込む光はすでに頼りなく、茜色に染まっていた。狭い部屋にも暮色が満ちる。昨日はじめてこの部屋で目覚めたのもこんな時刻だったと思い返していると、じきに部屋の前で足音がとまる。
青蘭はうつむき加減で息をつめて待ち構える。
扉をたたく音もなしに唐突に開かれた。それにてっきり王太子が戻ったのかと顔を上げると、そこに立っていたのは見覚えはあるようだが、しかし見覚えのない若い男だった。