終章 23(ひとまず完結)
ほどなくして、無事に保護された雪蘭が連れてこられた。
身分の高い女性がそうするように、彼女も被衣で身を覆っていた。その足取りはしっかりしている。
案内をする青年は若い貴族。岑袁柳、雪蘭の義兄にあたり、岑本家の当主だった。彼もまたこの戦いに、はやくから参じていた。
ざわめきの中、まっすぐに青蘭のもとへ案内されるその女性が誰なのか。承知している者は数名だ。
青蘭は太刀の柄を握りしめ、緊張した面持ちでその人をひたすらに見つめている。
しばらくはじっと耐え忍ぶように息をつめてそうしていたが、ついに我慢しきれなくなったのか。
四方にきらめく滴を蹴散らすようにして、一、二歩歩みだし、それすらもどかしげに駈け出した。
そのまままっすぐに駆け寄る。その先にいた袁柳が、行く手を遮らぬよう遠慮がちに体をどかす。
青蘭はそんな袁柳の配慮にすら、気付いていなかった。
ひたすらに雪蘭の顔があるであろう位置を見つめたまま、すがりつくようにその両手に腕をかける。それに応じるように彼女の指が動くと、青蘭はひどくほっとしたのか、泣き出しそうな顔でかすかに笑う。
片方の手でその面を隠す布をそっとかきわけ、彼女の顔を確認する。
薄絹のかげでほほ笑む面は、間違いなく大切な従姉のものだった。
記憶にあるよりも窶れ、疲労の陰が濃いが、鏡に映したような面差し。だが、誰ももうこの二人を間違えることはないかもしれない。
「――」
青蘭は一瞬息をのんだ。
言葉にならないのか、何度か口を動かしたが、結局食いしばるように唇を引き結ぶ。
その口元に、細い指先がそっと触れる。
「青蘭」
被衣の影でやわらかな声が優しく名を呼び、包み込むような笑みが広がる。青蘭は目をみはった。
かすかに口を動かしたが、やはり声にはならず。かわりに彼女の首に腕を回し、細い体を抱きしめていた。
言葉のかわりに涙が溢れる。渾身の力で従姉を抱きしめ、声もなく体をふるわせる青蘭を、雪蘭もそっと抱擁を返す。
すがりつくように抱きついた青蘭に対し、それを抱きとめ、傍目にも優しく抱きしめる雪蘭の様子は、まさしく姉と妹のようだった。
「良かったわ――元気そうで」
万感の想いを言葉にできない青蘭の心中を察したように、雪蘭がささやく。青蘭は従姉の肩に顔を埋めたまま、何度も小さく頷く。もともと青蘭は、そう容易く涙を見せる方ではない。だが、雪蘭の前でだけは別だった。
そんな二人の様子を離れて見守っている碧柊に、里桂がそっと話しかける。
「ようございましたな」
「姉妹同然に育ったと話しておられた故、な」
そういって、あらためて二人を見つめる元東葉王太子の眼差しはやわらかい。
しばらくの間、雪蘭はあやすように従妹の頭を撫で続けていた。
やがて体を拘束する力も緩んでくる。それを機に、そっと青蘭の肩を掴んで体を少し離し、その顔をあげさせた。
「青蘭、積もる話はあとでしましょう。それよりも今はやるべきことがあるでしょう――あなたは女王なのだから」
諭すような言葉に、青蘭はようやくその腕をとく。こぼれる涙を指先で拭い、しゃくりあげる息を整えるように小さく息を吐いた。
雪蘭は青蘭にだけその顔が見えるように、そっと被衣を持ち上げてその影で微笑んだ。
「私は――」
「あなたは私にとっては大切な妹。それは今でも同じこと。あなたが王女であろうと、女王となろうと」
「……私もよ」
青蘭はやっとの想いで、かすかに笑みを浮かべる。雪蘭は潤んだ眼尻にたまった涙を指先で拭ってやり、薄い背にそっと手を添わす。
「明柊殿は翼波を葉に招き入れようとしているわ。それは明柊殿の率いる軍にも知らされてはいない。早く手を打たないと、内乱どころではなくなるでしょう」
雪蘭はなるべく穏やかな口調でそう話す。
それはあらかじめ知らされていたものではあったが、青蘭はそれを未だに受け止め切れていなかった。
翼波の脅威は、西葉には詳しく伝わっていない。
だが、青蘭だけは碧柊の言葉を通して、それがどれほどの大きな危険となりうるかをおぼろげに理解しつつあった。
「その通りだわ」
青蘭は肩におかれた雪蘭の手をそっと握り返すと肩からおろし、小さく頷いた。そして、くるりと振り返る。
毅然と肩をそびやかし、まっすぐに前を見据える。その表情を目にした碧柊や里桂は、自然と頭を垂れていた。
踏み出す先には難題が山と待ちかまえており、青蘭一人で乗り越えていけるものではない。それは青蘭自身理解しており、支えてくれる人々がいることもわかっていた。
その後、国境を越えた翼波は東葉王都にまで迫った。
軍を率いて東葉に戻った明柊は、そのまま翼波と対峙すると見えた。しかし、その間際になって態度を豹変させた。
明柊の乳母子である苓秦旗率いる苓家の軍が、突然同じ東葉軍に刃を向けた。
突然のことに東葉軍は一気に崩壊した。そこへ翼波も攻撃に加わったため、苓家軍に属するもの以外で、生き残ったものはごくわずかだった。
そのため、その報が西葉の青蘭たちや、東葉南部で動いていた嶄綾罧のもとへ届けられたのは、遅くなった。
その間に、明柊は翼波をさらに東葉国内深くまで侵入させた。
なんとか両国の軍を再編し、東葉南部をまとめる綾罧と連携をとり、翼波に対抗できるだけの態勢が整う頃には、東葉王都をどちらが押さえるかというまでに事態は悪化していた。
翼波兵は、優れた資質を持っているものが多い。その前に練兵の行き届いた東葉軍は苦戦し、西葉軍にいたっては軍そのものがそもそも脆弱だった。
両葉の軍は総数では翼波を上回ったが、翼波は精鋭ぞろい上に、葉の地理やさまざまな内部事情に精通した明柊までもが敵に回ったため、そう易々と片は付かなかった。
それどころか、連携のうまくとれない統一葉軍の隙をつかれる形で負けを喫した。勢いに乗った翼波はさらに西進し、一時的とはいえ、西葉にまで侵入を果たした。
いくつもの戦いが繰り返された結果、自然と全体の統率を碧柊が掌握するようになっていった。
西葉の貴族層出身の将たちは翼波との戦いの経験がなく、軍事的な才を持つものも少ない。有能な側近を持つものもわずかだった。そんな中で確実に戦いを有利なものとし、冷静に采配を振るう碧柊への信頼は、西葉内部においても着実に増していった。
東葉の兵はもともと王太子であった碧柊への信頼は厚い。このような形で祖国を裏切った明柊への恨みは深く、その分碧柊への敬愛にも似た想いは増していく。
明るさと親しみやすさで人望を集めていた明柊とは違い、物静かで穏やかな碧柊は、側近のものをのぞけばどちらかといえば遠巻きにされてきていた。
そんな彼がいざ戦いとなれば冷静であり、時に勇猛果敢にして、鮮やかに采配を振るう。その姿は確実に尊崇の視線を集めていった。
東葉南部と西葉の再編を終えると、次第に形勢は葉に有利なものへと変わっていった。
青蘭は正式に碧柊に軍の全権を預け、東葉から翼波を完全に排除するには二年近い月日を要した。
その間に、青蘭は元東葉王太子である碧柊を夫として迎えることを明らかにした。
葉の統一を象徴するものとして、これ以上はない組み合わせであった。
対翼波戦で積み上げた戦歴と、その立場をわきまえた言動で人望を厚くしつつあった碧柊が、王配となることに異議を唱えるものは少なかった。
ほどなくして二人の間には女児が誕生し、次代の王位後期者として期待を集めることとなる。
同時に百年にわたり王女の誕生をみなかった東葉王家出身の碧柊を、夫として迎えることに異議を唱えていたものも、その婚姻を認めざるをなくなった。
青蘭が王女を生んだことこそが、その結婚が女神の意に叶っている証であるともいえた。
動乱の中で統一を果たした“葉”は、そのもっとも多難な時期を乗り越え、新たな時代を築いていくこととなる。
<完>
このあとに、青蘭と雪蘭のエピソードが幕間として入ります。
そちらをお読みになられるかどうかは、お任せいたします。