終章 21
「雨もやんだようでございます」
窓掛けの隙間から外をうかがっていた香露がそう囁いた。雪蘭は小さく息をつくと、戦況はどうなっているのかと問いかけた。その問いは香露を通して覗見に伝えられる。
しばらく間をおいて、霧が晴れてきたせいもあってか、蒼杞勢が攻勢を強めているという報告がもたらされた。
それに雪蘭はわずかに眉をひそめる。
「明柊殿に動きは?」
明柊率いる東葉勢に動きはみられないとのことだった。
蒼杞方と青蘭方の間で形勢の優劣がはっきりするには、もうしばらく時間がかかるだろう。
雪蘭は無表情で窓を見つめていた。その向こうはすっかり明るくなっている。秋の朝の清々しい光が、嵐のあとの原野を照らしているだろう。
雪蘭は内心では考えあぐねていた。
明柊に動きがみられない以上、自分が次にどうすべきか判断がつかない。彼が雪蘭と青蘭を会わせるという約束を果たすつもりでいるらしいことは確かなようだが、それがどうやって成されるものなのか想像もつかない。
明柊がこの戦いに勝って青蘭を捕らえるつもりなら、もっと違う動きを見せるだろう。とてもこのままで勝てるとは、戦に疎い雪蘭でも考えられない。
嵐がおさまれば、当然北上しつつある西葉南部勢の到着ははやまるだろう。そうなれば蒼杞と明柊にとって、形勢は不利になる一方だ。
それを明柊ははじめから承知しているはずだろう。彼がそれを、ただ手をこまねいて待っているだけとは思えない
ここで偽の女王であると再び己の正体を明かすにも、戦ははじまってしまっている。
のこのこと姿を現したところで、誰が耳を貸すというのか。
それに先だって雪蘭がそうしたおりには、明柊にもうまく言い繕われてしまった。同じことを繰り返し訴えたとしても、まっとうな主張として受けいれられるかどうか。ますます正気を疑われるだけかもしれない。
考え込む雪蘭の横顔は、珍しく険しい。それを香露が気がかりそうに、けれどかける言葉もなく見つめる。
そこへ急にあたりが騒がしくなった。いったい何事かと軒車の窓から外をのぞいた露がことの次第を確認する前に、明柊が姿をあらわした。
「いったい何事です」
香露が毅然と問うと、彼は応えのかわりに悠然と微笑んだ。
無言で彼女を押し退け、軒車の扉を開け放つ。湿った風と淡い光が雪蘭の面にも届く。性急で乱暴ともいえる振舞いだったが、それ以上入ってこようとはしない。入り口から身を乗り出すようにして、顔をのぞかせただけだった。
彼はすっかり濡れそぼち、乱れた髪が頬にはりつき、扉を押しあけた腕からも滴がしたたっている。
ずぶ濡れの黒衣の男は、いかにも不吉だった。
「青蘭女王陛下がただいま戦場のただ中に姿を現したそうですよ。聖地の権大神官を引き連れ、女神の太刀を手になさってね。蒼杞殿の軍は戦意を喪失している。東葉にも信心深い者は多い、こちらまで巻き込まれる前に撤退いたします。翼波も無事に国境を越えたようですし」
その飄々とした口ぶりは、まるで世間話でもしているようだった。
雪蘭はとっさに理解しかねた。青蘭のことはいい。すぐそこに彼女のいることはわかっていた。どうやってその状況を演出したのかは気になるが、それは後回しでも十分だ。
だが、さらに問題となる言葉を、この男はなんでもないように口にしたのではなかったか。
「――翼波が、なんと?」
腰を浮かしかけたが、かろうじてこらえる。だがもう動揺を隠しきることはできなかった。
明柊は額を伝う滴が目に入るのか、やや鬱陶しそうに目を眇め拳でそれを拭う。そのついでのように応じる容子は、あくまでいつも通りだった。
「無事に国境を越え、東葉に侵入したそうです」
「……無事に?」
それはその言葉の本来の意味とはまったく異なる、不穏な響きとなる。
「手引きしたのは俺ですから」
にこやかに告げた男に、香露だけでなく雪蘭も愕然とする。
蒼杞の行いも常軌を逸しているが、では、そんな彼と手を組んだこの男は果たして正気なのか。
「――なにを言っているのか分かっていらっしゃるのですか?」
「分かっていますよ。俺はこの国の連中がどうなろうとかまいはしない」
「翼波が侵入すればどうなるか、分かっているのですか?」
「いいえ、分かりませんよ、誰にもね。なにせ前例がありませんから。彼らが良き支配者である証がないのと同様、悪しき者だと決まったわけでもない。なにごとも試してみなければわからぬものです」
葉は他国の支配を受けたことがない。同様に他国を侵略したこともない。それは大陸の端に突き出た半島という地の利が大いに幸いしている。
だからといって、他国と交流がないわけではない。
翼波は各部族の長たちによる、ゆるやかな連合でつながっているに過ぎず、葉とはまるで国の体制が異なる。勇猛だが、残酷な性質は周辺の国々に知れ渡っている。
彼らの支配が現王室を頂点とするものよりましなものになるとは、雪蘭にはとうてい考えられない。
「――正気とは思えません」
「正気と狂気の境は曖昧なものでしょう。蒼杞殿がいい例だ。彼が愚か者なのか、狂人なのか、あなたにははっきりと区別できるとおっしゃるのですか?」
「そういうことでは」
分別くさい顔でまるで諭すような口ぶりの彼の台詞は、はぐらかそうとしているのかどうかすら分からない。
雪蘭はそれに苛立つ。
「雪蘭殿」
かっとなった彼女のその機先を制するように、明柊が強い口調で雪蘭の名を呼んだ。これまでにない険しい語気に、さすがの雪蘭も鼻白む。
「残念ながらこちらは一刻を争う事態です。あなたと言葉遊びをしている暇はない。いとこ同士の感動の再会に立ち会えないのは残念ですが――彼女にお伝えください。確かに約束は果たしましたよと」
明柊はそういって晴れやかに笑う。その笑みに雪蘭は言葉を失う。
その沈黙に付け入るように、明柊はさりげない様子で車内に乗り込んできた。それまでのあまりの成り行きに絶句していた香露も、咄嗟にそれを止められなかった。
貴賓のための軒車とはいえ、車内は狭い。しかし、彼はそこがまるで広間であるかのように優雅に膝をつく。呆気にとられて身動ぎ一つできない雪蘭の右手をとると、うやうやしく押し頂いてその甲に口づけを落とした。
雪蘭は混乱したままさっと顔を赤らめ、反射的に手を引いてしまう。
彼はまるで少女のように頬を紅潮させた雪蘭の顔を見つめる。
縫いとめるような眼差しから、雪蘭も目をそらすことができなかった。
どれほどの時が経過したのか。そんな気がするほどに張りつめ、凝縮した瞬間だった。
彼はくっと口の端を歪めて笑みを形作り、一礼する。
そして颯爽と軒車から降りると、振り返りもせず去っていった。
言葉をかけることも、とっさに後を追うこともできなかった雪蘭は、ぎゅっと右手をかたく握りしめた。