終章 19
風雨にまじって軒車の扉を叩く者があった。香露がそっと窓のおおいをあけると、びしょ濡れになった明柊の乳母子の姿があった。
「苓さまです」
明柊は浅く首肯すると扉をあけて外へ出ていった。雨がすこしでも降り込まぬよう遠慮がちに開かれた扉の隙間からは、冷たく湿った風と大粒の雨が入り込んだ。
「おさまりそうにありませんね」
その言葉に雪蘭は小さくうなずいただけだった。
「苓公のお戯れなどお気になさいますな」
「――そうね」
雪蘭はそう言って無表情に受け流したが、香露は気掛かりな思わしげな眼差しで主人を見つめていた。
雪蘭は幼いころからあまり動じることのない、泰然とした子供だった。六華の奥の宮に入ってからは、それにますます磨きがかかった。
そんな彼女が明柊の前では少なからず狼狽を見せる。確かに明柊の言葉は巧みに人を翻弄するが、雪蘭はそれにたやすくろうじられるような柔な人格の持ち主ではない。
それでも多感な年ごろの娘でもある。明柊は見目がすぐれているだけでなく、弄弁にも長けている。甘い言葉で丸め込むばかりが、娘心を手玉にとるすべではない。
明柊はすぐに戻ってきた。わずかな間にすっかり濡れそぼってしまっている。前髪の先からも雫がたれ、風に乱された髪が頬にはりついていた。
「はじまったようです」
そう言った彼の口振りは事務的だった。それだけの報告を受けるためだけに、この雨のなかをわざわざ出かけていったわけではないだろう。なにかしらの意図があり、それを雪蘭に聞かれたくなかったのかもしれない。
すっかり濡れてしまっているためか、明柊は先ほどのように雪蘭のそば近くまで近づくことはしなかった。
雪蘭も彼に静かな一瞥をよこしただけで、気遣いをみせることもなく、戦況を問うた。
「状況は如何です?」
「なかなか苦戦しているようですよ。碧柊は自分の軍事的な才能を信用しきれていないようだが、俺はこれでも彼のことを買っているのでね」
「――共に何度も戦ってこられたのでしたわね、西葉を、翼波を相手に」
「そうですよ、だから俺達は互いのことがよくわかる」
「あなたの思惑もお見通しだと?」
「そうであってもらいたいものですね。これほどまでに想っているのですから、愛に深さが以心伝心すればこれ以上の幸福はない」
久々に耳にするその大仰な軽口に、雪蘭は思わず失笑する。
「相変わらず矛盾なさっておられること」
「矛盾ととるかどうかは受け取り方次第でしょう。愛故の試練もありますからね」
「――愛故、ですか」
小さく息を吐いたのに、明柊はおやという顔をした。
「あなたの行動も愛故でしょう」
「さぁ、どうなのでしょう」
「いとこ殿のためならば己の命が危うくなることすら厭わない。それが愛でなくてなんだというのです」
「私がいなければと想わせたのが、あの子だっただけのこと」
「まるで保護者ですね――母君のようだ。母親というものは子のためならば命を投げ出す人もあるそうですから」
「それは個人の資質でしょう。決してそういう人ばかりではありません。逆をいえば、そういう父もいるでしょう」
「……あなたは母上より父上に想い入れがおありのようだ」
「さぁ、どうでしょう。それこそどうでも良いことではありませんか?」
皮肉な口調で彼の決まり文句を返され、明柊は苦笑した。
「あなたの言葉を信用するなら、あなたの父上は紅桂殿下だということになる。真に王にふさわしい器の持ち主だったという評価は、東葉にも届いておりましたよ。優れた父を持てば、人間は素直に親を尊敬できるものですからね。あれもそうだった。だが、そうではない親もいれば、子もいる」
それは青蘭も同じだった。彼女の口から父への想いが語られたことはない。青蘭は母を亡くしたときに、父を喪ったのも同然だった。
青蘭にとって肉親として意識せざるをえなかったのは、兄だった。それも王権を巡る政敵として。
だが、同じく血の濃い従姉である雪蘭のことは素直に慕っている。血のつながりがそのまま警戒心や敵対につながるわけではないことを、青蘭は知っている。
「あなたと俺の立場は同じだが、同じではない」
「当然でしょう。私はあの子のためにこのようなばかげたことをするはずがありません」
「そう、ばかげている。だからこそ俺はしかけた」
「結果は予想通りだったのですか?」
「さぁ、どうでしょうね。まだ、終わってはいませんし。だが、あれはまずまず頑張っていると認めますよ。どうやら伴侶の力が大きいようですが」
「――まだ、終わっていないとはっきり仰いましたね。まだ何か企んでおられるのですね」
「終わってはいないでしょう。予想どおり蒼杞殿が倒れたとしても、次は俺がいる。俺はあれを愛していますが、だからといって手加減してやるつもりはない。いくらあなたが大切ないとこ殿のためにそうしてくれと云われても、そればかりはお聞き入れするわけにはいかない」
「私が尋ねているのはそういうことではありません」
分かっているでしょうと、雪蘭は言外にわずかに苛立ちをにじませる。このくらいのことで感情を乱すのは、やはり彼女らしいとはいえない。香露葉心配そうに二人の様子を見守る。
「終わりではないことだけは確かですよ。俺はあれの敵であることを選んだ。その俺がなにも企んでいないと想いますか? それこそあなたらしくない」
「――愚問でした」
苦い顔で雪蘭が顔を背ける。それを明柊は静かな眼差しで見つめていたが、やがて膝の上でかたく握りしめられていた細く白い手をそっと包み込むように手を重ねた。
「そろそろいかねばなりません。戦に巻き込まれぬようここを動かないでください。あなたが今、なさるべきことはここを動かず、迎えを待つことです」
「迎え?」
はっとして顔を上げた雪蘭に、明柊は華やかな笑みを向ける。
「約束は守ると云ったでしょう――あの約束も忘れてはいませんよ」
低く柔らかな声でささやき、そっと雪蘭の手の甲に口づけを落とす。
「では、ご無事で。我が君」
明柊はさっと身を翻し、すばやく軒車からおりた。
雪蘭はとっさに立ち上がったが、じきに顔を青ざめさせた。まさか彼の後を追おうとしたというのか。自分でも自分の行動が信じられないように、顔を強ばらせている。そんな風に動揺を露わにすることは、香露でも何度も目にしたことはない。
香露はそんな少女の肩にそっと触れた。
「――お役目が終わったのです」
雪蘭は異論を唱えるような承服できない顔をみせたが、痛ましそうな香露の顔を見て、その言葉を飲み込んだ。
「そういうことなのでしょう」
静かに同意する言葉に、窓をたたく風雨の囁きが重なる。諦めとは違う、だが静かで確かな気配に、香露は安堵していいものかどうか分からなくなった。
明柊が雪蘭の手に口づける前に囁いた言葉は、香露には届かなかった。
仮とはいえ短い間だが、夫婦だった二人。それが形ばかりだったことを香露も知っている。明柊は口づけ以上のことはしなかった。それも唇に唇を重ねることすらしなかった。
それでも二人が夜、枕を並べている時、二人の間で交わされた言葉のすべてを知っているわけではない。
雪蘭は怜悧だが、冷淡ではない。情のあついところがある。情がうつったとしても、しかたないのかもしれない。その上、彼女の保護の対象であった青蘭は、女王として彼女いないところで立ち上がろうとしている。雪蘭がもう以前のように必要とされることはないだろう。
それは雪蘭も分かっているだろう。
本来、雪蘭は嫁ぐ青蘭の傍らにあり続け、終生共にあるはずだった。それが本人たちの意志とは無関係に争乱が起こり、現在に至っている。
青蘭の身を守るためとはいえ、身分を詐称し、なおかつ偽の女王として担ぎ出されてしまった。
青蘭のもとに戻ったとしても、その罪を問われずにすむのか。
そんな不安を敏感に悟ったのか。雪蘭はふっと薄い笑みを浮かべた。
「大丈夫です。私はずっと青蘭の味方として動いてきた。それは青蘭も、岑家の義兄たちも分かってくださっている」
明柊の傍らにあって、彼の動向についての情報を青蘭側に流してきたのは雪蘭だった。その動きに明柊が気づいていなかったとは、香露も思わない。
あえてそれを許していたのか。
それとも支障はないと見なしていたのか。
それをたてに雪蘭を追いつめたり、不利な材料として手札にすることはなかった。
香露にとって明柊という人は、どう考えても不可解な人だ。
雪蘭が彼のことをどう思っているのか。香露には伺い知るすべはない。
雪蘭がその胸の内を他者にあかすことは滅多とない。
「どちらにせよ、まずはこの戦いに決着がつかねばならない。香露、青蘭に連絡は?」
「いつでも可能です」
「では、知らせを。明柊殿はおそらく蒼杞殿に手を貸さないでしょう。しかし、彼は私を惑わす為にそういっただけかもしれない。その恐れのあることも忘れないように付け加えて」
「はい」
香露が首肯すると、雪蘭は小さく息を吐き、一気に脱力したように背もたれによりかかった。
軒車の警護には、明柊の命を受けた兵士たちが当たっている。彼らの注意を引かぬように、いかにも所用があるふりで手のものを呼び寄せ、伝言をつたえる。
そうしながらも香露の注意は雪蘭に向けられたままだった。
ようやく手を打ち終えると、雪蘭のそばまで戻る。
「お疲れになられましたね」
「ええ」
雪蘭は目を閉じたまま、話すことさえ億劫そうだった。めったと機嫌や疲れで態度を左右させることのない雪蘭だけに、その無愛想ともとれる態度はいかに疲弊しているかの証でもある。
「ああ伝えるようには言ったが、おそらく明柊殿は蒼杞殿に手を貸すまい――私の役目もこれで終わる」
「雪蘭さま……」
「やっと青蘭に会える――それから私は……」
「雪蘭様?」
雪蘭は薄く目を開き、窓の方へ視線を滑らせた。
相変わらず風のうなり声は聞こえるが、先ほどまでの激しさは和らいできている。
「まだ終わってはいない――けれど、先のことは、終わってから考えればいい」
まるで自分に言い聞かせるような言葉に、香露は応えることはできなかった。