終章 16
闇そのものが嵐であるかのようだった。鎧戸を叩く雨音は容赦なく、平原をざわめかす風は山城をゆるがせる。
青蘭は肩で息をしていた。体を支配する感覚は余韻を残し、薄れつつある。未だになじみのある感覚ではないが、自分でも戸惑うほどの速さで体はなじみつつあるらしい。
空気を取り込もうと上下しようとする胸と腹部を阻むのは、逞しく引きしまった体だった。鍛錬を欠かしたことのない武人の肢体が、そんなこととは無縁の華奢な体と同じか、それ以上に荒い息を吐いている。
うっすらと汗をかき、息を弾ませる体にのしかかる重さは重苦しいが愛おしくもある。さきほどまで固く絡ませあっていた指先が、限界の訪れと同時に力を失っている。
極限を超えてもなお、これ以上彼女の体に重みをかけないようにという気遣いか、体を支えようとついた逞しい片肘を汗が伝っている。それはつい先ほどまで、なにがあっても逃すものかときつく彼女の体を抱きしめていた腕だった。
荒波に翻弄されるような感覚にさらされ続け、すがるように伸ばした細い腕はまだ彼の背にとどまっている。
二人分の汗を吸い、わずかに湿り気を帯びた寝具は生ぬるい。
細い体に覆いかぶさったままの青年もまた、胸を大きく上下させている。
空を見つめていた瞳がやがて焦点を結ぶ。ようやく青蘭はぽたぽたと頬を濡らす雫が、自分のものでないことに気づいた。
のしかかる逞しい肩。その筋肉の隆起をたどる汗。それが彼女の上気した白い頬に落ちかかっていた。彼は青蘭の肩口に顔を伏せるようにして、未だに荒い息をしている。少し首を動かせば、乱れた髪とうっすらと青い髭に覆われた頬が見える。
青蘭は背に回していた腕をそっと下ろすと、その頬を伝う汗を拭うように指を滑らせた。
碧柊はそれに気づくと顔を上げ、間近にある青蘭にそっと微笑んだ。その息は未だに弾んでいる。熱の冷めつつある白い頬に軽く唇を寄せ、それからそっと彼女のその手をとり、手首の内側にも口づけた。
やや荒れた唇が手首を伝い、生温かいものが這う。そうする間、碧柊は目を細め熱のこもった眼差しを青蘭に注いだまま。いったん冷めかけていた熱を帯び戻すような、艶めいたいろに青蘭はたまらず目を逸らす。
碧柊はそんな彼女の心中を察したように唇を歪めると、からめていた指を離してかわりに顎をとらえ、唇を重ねた。さらに薄い背に両腕をまわして抱きしめる。それまで遠慮がちだった体の重みが一気にかかり、まだ息の整わない青蘭は唇を塞がれたまま苦し紛れに抗議するようにその腕を叩いた。彼は華奢な体を抱きしめたまま、くるりと体の位置を逆転させた。
思いがけないことに青蘭が唇の端から小さな声をもらすと、碧柊は唇を重ねたまま低く笑った。やや強引に音を立てて彼女の唇を吸い、音を立ててはなす。そのまま真上にある上気した秀麗な顔をのぞきこむ。
「重かったであろう?」
からかうように唇を歪めれば、艶っぽさとあどけなさの相まった表情が羞恥と困惑で一人の女のものとなる。
「……別にそのようなことは」
口ごもりながらの返事に、碧柊は意味ありげに口の端を上げただけで、それ以上の追及はしなかった。
そのかわり少し不満げに、けれどほっとした顔の青蘭の唇を再び塞ぐと、しばらくの間深く重ねて堪能した。上下は逆転したものの、しっかりと抱きしめられて逃れようもなく。青蘭は戸惑いつつもそれを受け入れ、ぎこちない動きで彼の首に腕をまわした。
それに気づいた碧柊は薄く眼を開き、頼りない蝋燭の灯りに照らされる妻の顔を確かめた。白い頬を上気させ、どこか陶然とした表情で目を閉じている。彼女なりに恥じらいつつも、この状況を受け入れているらしい。無理強いしているわけではないらしいことを確認すると、さらに強くしなやかな肢体を抱き寄せた。
やがてその拘束する力がゆるやかにとかれ、ゆっくりと唇がはなれる甘やかな余韻に浸りながら眼をひらいた青蘭のそれを、碧柊は未練がましく追いかけて軽く啄ばむ。その一瞬で余情から醒めてしまった青蘭は、思わず苦笑した。
「……きりがないな」
「ええ」
己の救いがたさに苦笑する彼に、青蘭も同じ思いをこめて微笑む。
想いのたけの溢れる柔らかな表情に、碧柊は目を細める。再び口づけたい衝動を堪え、かわりに汗に濡れた髪に指先を滑らせた。寝具に散る髪の長さは、彼とほとんど変わりない。
愛おしそうに何度も髪を梳き、最後にその一房を手に取り口づけた。
「続きは戦の後だ」
「……続きって……」
青蘭がさっと頬を赤らめると、にやりと笑い囁いた。
「終わりなどないがな」
「――」
返す言葉もなく、耳まで赤く染める。抗議するように恥ずかしそうに睨みつける眼尻に口づけを一つ落とし、ようやく彼女を開放した。
その後の身支度は碧柊の方が早かった。さっさと武具も身につけ、武装を整える。最後に腰に太刀を佩く。
その時点で、青蘭はまだ袖に腕を通しているところだった。雨と汗に湿ってしまった衣のかわりに、青蘭は男物を用意させた。陣頭に立つことはなくとも、戦に臨む想いは兵士たちと変わらないという意志の表明だった。
碧柊は床に落ちていた帯を手に取ると、彼女の前に膝をつき、帯を結んでやろうとした。
「自分でできますわ」
「よい。その間に髪でも結っておられよ」
とりあわずに手を青蘭の背後に回して帯を渡し、前で結びかけて、ふと手を止めた。
「如何なさいました?」
細い腰元をじっとみつめられ、青蘭は居心地悪そうに首を傾げた。碧柊は答える代わりにそっと下腹部に触れた。
「すでにここにはわが娘が宿っているやもしれぬのだな」
感慨ぶかげな声に、青蘭も目を細める。
「姫と決まったわけではありませんわ」
「姫に決まっている。だいたいそなたがいったのだろう。次の女王の顔を早く見たいものだ」
「そのためにもお勝ちください」
「必ずや勝利する。愛しい人と娘のためだ。これ以上の心強い支えはない」
「……あなたはまた、そう云う事を……」
「想いは言葉にせねばな。特にあなたには伝わらぬようだしな」
頬を赤らめる娘に、上目づかいでにやりといやらしく笑う。青蘭は顔に熱を感じながら、口を尖らせて膝まずいたままの夫をねめつけた。
碧柊はそっと青蘭の胴衣の裾をまくりあげた。
「ちょ……」
慌てて裾をおさえようとするその手を掴んで阻み、碧柊は生真面目な顔で白くまだ平らな腹をそっと撫でた。
「わが姫に挨拶しておきたいだけだ」
「……気が早すぎます」
「そうとも限らぬ。ただの一度の契りで孕むこともあると聞く――吾等の場合、一度だけというわけではなかろう?」
にやっと口元を歪める。青蘭は首まで赤くして、憤然と手首をつかむ彼の手を振り払った。
その隙に碧柊は彼女の腹に軽く口づけた。それで気が済んだらしく、手早く帯を結んでやった。
そして衣の上からもう一度腹部を撫でてやる。そっと触れ、なぞるだけの優しい手つき。青蘭はそっとその手に自分のそれを重ねた。碧柊はちらりと笑みの交じった一瞥をかえし、白い手の甲に口付けをおとす。
青蘭は応じるように碧柊の手を包み、もう一方の手で彼の髪を撫でた。
「――いつだったか、綾罧殿があなたのことを子煩悩な親におなりでしょうと……」
「……あれがそのようなことを云うておったか」
「ええ」
碧柊は手を止めるとわずかに目を細めた。それ以上の感情はうかがえない。青蘭は無言で彼の髪を撫で続ける。
「……ただ無事とのみ?」
「――東葉南部の兵をひそかにまとめることはできている故に、身動きもできぬというわけでもないのだろう」
綾罧がどのようにしてあの苓南の砦を逃れ、その際にどれほどの傷を負っていたのか。その一切は碧柊にすら知らされていない。綾罧は彼の乳母子であり、その絆の深さは兄弟と云ってもいい。それでも碧柊はほとんどそのことに触れない。
彼は自らの父の死についてもついに語らなかった。前東葉王の死を知らせた使者の死。その際に彼の拳が震えていたことを、青蘭は今も鮮明に覚えている。
「翼波の動きにも油断できぬ今、あれが東葉にあることはかえって都合がよい」
冷徹な王族としての言葉。そこに感傷は含まれない。
青蘭はふっと顔を上げて閉ざされた窓の向こうを思った。雨は未だに降り続いている。
同じ嵐のなかに、雪蘭がいる。これほど長く彼女と離れていたことは一度もない。今、このとき、彼女はどうしているのだろう。
そう思えば胸が痛み、息が苦しくなる。けれど、それを口にすることはできなかった。