終章 15
夜はいつまで続くのか知れない。天幕を叩く雨音が止むことはなかった。
飽くことなく髪を撫で続ける武骨な指先。
ただ、そっと寄り掛かるだけのわずかな温もり。
他者の熱を腕に抱き、抱かれていれば、遠い記憶が呼び覚まされる。
遠い日。凍える夜。凍りつくような夜の庭に、従妹はいた。
あえかな星の瞬きさえも氷片となり、地上に降り注ぐような深更。
薄くひらいた唇の隙間から、押し出される息は細く。震えの止まらない体は、果たして寒さのためだけだったのだろうか。
寒さのあまりかじかみ、自ら動くことさえままならなかった従妹をなんとか自室に引っぱりこみ、辛うじて温もりの残る寝台に引き上げた時には、すっかり息が上がっていた。
一つの年の差は、大きいようでいて、それほど違うものではなかった。
もっと小さくて華奢だとばかり思っていた従妹が、実は自分と大差なく、しかしこれ以上はないというほどに震えている。
歯の根はあわず、目を合わせることもできない虚ろな眼差し、指先は腕も足も本当に氷のごとく冷え切っていた。
人は寒さで死ぬこともある。それは父から聞かされていた。
山の背を超える時、夏であっても油断したところを悪天候に見舞われれば、凍死することもあると。
このままでは従妹は死んでしまうのではないか。
大人を呼ぶという知恵も働かないまま、ただ不安と恐怖に耐えて凍りついた体を抱いて明かした。
氷を抱くようだったその冷たさが消え、戻ってきた温もりに知らず知らずまどろんでいた。その翌朝、同じ寝台に従妹の笑みを認めた時、雪蘭はそれまで感じたことのない感情に包まれた。
父や母に感じる想いではなく、岑家の義理の両親や兄弟に感じるそれでもなく、もっと近しく血を分けあったような親近感。
一人っ子の雪蘭が、兄弟というものを本当の意味ではじめて感じた朝だった。岑家の養女となった雪蘭には義理の兄弟も数人あるが、主筋である彼女との間には常に遠慮が伴った。
父や養家に守られ、王城に入ってからも香露たちに助けられてきた雪蘭は、誰かを守りたいという気持ちを抱いたことはなかった。守られるのを当然のこととしてきた少女が、はじめてそれを感じたのが従妹の青蘭だったのだ。
それ以来、雪蘭はその思いを守り続けてきた。
降りしきる雨の向こうに、その青蘭がいる。
開戦を控えた緊張と悲壮感の漂うこのとき、彼女のそばには夫となった碧柊という人がいるのだろう。戦いの行く末いかんによっては最後の契りともなる時を噛みしめているのかもしれない。
雪蘭は碧柊という人を伝聞でしか知らない。
春の木漏れ日のもとで、肩をよせあってのぞきこんだ肖像の細密画。確かにいわれてみれば明柊の顔立ちは、擦れつつある彼の記憶の印象と重なるような気がする。しかしその印象は正反対といっていいほどに異なっている。
どちらが大切な従妹の夫として相応しいか。
碧柊という人物は知らないが、明柊のことならば短い間ではあるが傍らでみてきた。分からないところの多い人物ではあるが、それでも青蘭の夫と仮に考えてみる。
これだけの事態を仕掛けたその才覚と手腕。軍事にかかわる才もあると聞く。その器だけをみれば、女王の夫に相応しいといえなくもない。だが、彼の性向を考えれば、裏で糸を引く策略家の方が向いているように思われる。
本音のしれない言葉と表情、人を食ったような態度。人を翻弄することに楽しみを見出すような男だ。
苓南の砦でのことを、この男はほとんど語らない。ただ、思わせぶりなことを口走るのみ。それだけでも、ある意味純朴な青蘭が目を白黒させている様子が目に浮かぶようだった。
めったと動じることもなく、冷静沈着な自分を自覚している雪蘭とて、気がつけば振り回されていることすらある。
碧柊という人は、明柊という厄介な従兄をどう考えているのか。知りたい気がするが、果して彼の人と言葉を交わす機会などこの先あるのだろうか。
誰もがこの男に振り回され、迷惑していることだけは確かだった。
こんな事態になってしまい、ついに碧柊という人を知らないままだが、それでも青蘭の相手が明柊でなくてよかったのだろう。
そして、青蘭のふりのしている自分の隣には明柊その人がいる。あの時、入れ替わらなければ彼の隣にいるのは青蘭本人だったはずだ。
皮肉な成り行きに、雪蘭は小さく嗤った。
雰囲気のささやかな変化に気づいたのか。髪を撫でる彼の手がふと止まった。雪蘭もそれに気づきながらも問いかけることはしなかった。
ひときわ強い風が吹いたのか。
天幕が激しく波打つ。嵐のなかでの会戦は、いかなる結末にたどりつくのだろうか。
荒れ狂う風と雨に指一つ動かすこともなく。肩をわずかであろうとも震わせることもない。
そんな雪蘭に、明柊はその距離はそのままにゆっくりと口を開いた。
「どちらにとっても良い結果とはなりそうない天候です――それでもあなたはここにいらっしゃるおつもりか?」
「そのために来たのですから」
なにをいまさらと珍しく雪蘭の方から逆に揶揄する。
明柊の言葉に感傷はうかがえないが、ここへ来させようとせず、またとどめようとしない言葉の繰り返しは、彼にしては珍しいように思われた。
「――何故、そこまでいとこ殿のために体を張ることがおできになるのですかな。確かにあなたのいとこ殿は愛らしい方でいらっしゃったが、まさか男女の情でもありますまい」
「そのお言葉をそのままあなたにお返ししますわ」
雪蘭はかすかに笑みを含んだ声でそう返した。
それは揶揄なのか、それとも別の感情か。雪蘭自身にも判然としなかった。
「おや、俺をあなたのお仲間に加えていただけるのですか――それは光栄なことですが、残念ながら辞退させていただきますよ」
「あら、残念ですこと」
少しも残念そうに聞こえない声音に、明柊も低く笑う。
「このようなことをして、果てにあなたがなにを得るというのです?」
「なにかを得るためではありません――が、強いて言うなら自己満足でしょう。しょせんは私が自分を満足させるためにしていること。それは明柊殿とて同じでは?」
「俺の場合は楽しむためですよ」
「――どのように?」
「さぁ……楽しみ方にはいろいろありますからね。それに俺はうまくやればすべてを手にすることができる。東と西の“葉”のすべてを」
「……それが本当にあなたの望みだと?」
平淡な呟きに、明柊は体を放して正面から雪蘭の顔をのぞきこんだ。
白い顔には疲れがにじんでいる。しかし、明晰さは失われていない。
秀麗な輪郭をそっと指先がたどっても、彼女は嫌がりはしなかった。苓南の砦で似た顔立ちに少女と出会った。くるくると表情を変えていた彼女とは異なり、彼の“妻”はめったと感情をのぞかせることはない。その点、似たもの“夫婦”とも云えるのかもしれない。
「ずいぶんと俺のことを買い被ってくださってるようですね」
「そういうわけではありません。いい意味で云ったわけではありませんから」
「そうでしょうね。そうでなくては、あなたらしくない」
「私らしい?」
「そうでしょう――俺に情をうつすなど、あなたにはあってはならないことだ」
薄い笑みを浮かべて囁かれた言葉に、雪蘭はわずかに目を瞠る。
何度か言葉を紡ごうとかすかに唇をふるわせた末、ようやく押しだした声はかすれていた。
「……ばかなことを」
嘲笑したつもりだが、笑えていなかっただろう。
「そう、ばかなことだ」
明柊はそう繰り返し、わずかに目を細めた。これまでになく優しげな表情に、雪蘭は言葉を失う。呆然とする雪蘭の頬を、柔らかく少しざらついた感触がかすめていった。
蓄積した疲労のためか、彼の唇はひどく荒れていた。