終章 14
戦場となるであろうその地に到着したのは、深更の頃のこと。
なだらかな平野をゆるやかに見下ろす高台に、陣は敷かれていた。その遠く向こう側には山の背の支脈が屏風のように伸び、その末端の山城に敵方はこもっているという。
雨はいっこうに降りやまず。やがては濃い霧まで伴い、その向こう側にあるという敵の陣地までは、夜の闇を透かし見ることは到底叶わなかった。
戦端はまだひらかれていなかった。開戦を控えた緊張感が張り詰めている。
ようやく戦場に姿をあらわした“妹”に、蒼杞は休む暇も与えず呼び付けた。今や東葉の“女王”である彼女が“西葉王”である蒼杞を訪ねる事に、東葉貴族たちは騒然となった。
女系相続を続けてきた王家では、王よりも女王の方が高位とみなされる。それは女王から実権が奪われてからも変わることはなかった。
建国以来百年、東葉では東葉王家の非正統性を証明するかのように、一人として王女は誕生していない。政争に敗れた西葉王女や王統家の姫の血をとりこんでも、それは同じだった。
それだけに、東葉貴族の女王への憧憬は一方ならぬものがある。
雪蘭の演じる青蘭王女は、彼等がもっとも望んだ葉王家の直系。女神の娘、その人だった。
女王をいただくことは、国を挙げての宿願ともなっていた。
ようやく彼等の上に君臨するはずの“青蘭女王”が、兄とはいえ、西葉のたかが“王”に呼びつけられるなど。彼等とすれば言語道断ともいえる。
色めき立った彼等の反応は、明柊にも予想はついていた。
内心では東葉を一国としてすら見なしていないであろう蒼杞に、そんな事情が理解できるわけもない。たとえ説明を試みたところで、報われる筈もないだろう。
戦に敗れ、さらに明柊と結託して故国を裏切らなければ何も手に入らなかったはずの事実は、蒼杞のなかでは都合よく処理されてしまっており、そのままの現実をみることはそもそも不可能に近いともいえる。
それらも含め理解している明柊にとって、そんな事態も難局とはいわないのだろう。
彼はうまく蒼杞を言い包め、対等な東の女王と西の王としての対面をとりつけた。
両者の陣地の境に天幕が急遽用意され、互いにわずかばかりの従者をつけて対談する。それを両国の軍が遠巻きにする。王家の自軍しかもたない蒼杞に対し、東葉北部の貴族たちの支持をとりつけた明柊の軍のほうが多かった。
「よくぞ、戦場まで自らお越しくださった、東葉女王にしてわが妹よ」
戦局は有利とも云えるため、蒼杞には余裕もあり機嫌も良かった。王家伝来の鎧兜は、彼の優美な容姿をりりしく飾り立てる。
雪蘭は優雅な仕草で妹としての礼をとった。対等の王位に着くものとしてではなく、兄妹の礼節を優先したことに、蒼杞は明らかに気をよくしていた。
王家の伝統を守り沈黙する雪蘭に代わって、夫である明柊が言葉を返す。
儀礼的なやりとりも明柊が介入すると、それ以上に効果を発するらしい。
蒼杞をうまくあしらい、なおかつ親近感まで抱かせる彼の弁舌に、雪蘭は内心呆れながら耳を傾けていた。
開戦は曙光と同時にと決まった。細かな手筈はすでに蒼杞と明柊の間で話し合いがついていたらしい。
李州公・桂貴率いる西葉南部の貴族や王統家の軍が迫りつつあることは、蒼杞たちもつかんでいる。彼等が到着するまでに相手を叩く必要がある。
桂貴率いる軍はこの状況を逆転させるほどの大軍ではない。せいぜい、互角に持ち込めれば良いところだろう。
どちらにせよ、少しでも有利なうちに相手を叩く必要のあることは、蒼杞にも分かっていた。
会見が終わると、夜明けまでの一時、偽の夫婦は二人きりの時間を持つことになった。
遮るもののない野外にはられた天幕をたたきつける、雨に容赦はない。激しい雨音に雪蘭はまるで何かを聞き分けようと耳をすましているようだった。
雪蘭は疲れた顔で息を吐いた。そっとけどられぬように押し出したそれを、明柊は耳ざとくききつける。
「一時とはいえ、体をお休みなさい、陛下」
天幕の中には簡素な折畳みの椅子が、座り心地を配慮して置かれていた。
明柊はそっと諭すように雪蘭の肩に降れ、力加減はしながらも無理を言わさず座らせる。雪蘭も逆らうことはせず、おとなしく従った。
「せっかくお膳立てさせていただいたのに、かいのない方ですね」
明柊は雪蘭の細い肩を抱くようにして身を屈め、笑みを含んだ声で耳打ちした。雪蘭は薄い笑みを浮かべて彼の手を払った。
「私がのるとは思っておられないでしょうに」
「――男の心遣いをむげになさるものではありませんよ」
「あくまで心遣いとおっしゃるおつもりなら、そういうことにしておきましょう」
「相変わらずつれないお方だ」
むしろ嬉しげにも聞こえるその響きに、雪蘭は半ば呆れたような曖昧な笑みを浮かべる。
強行軍や蒼杞との対面で、疲労の極みにあるといってもいい。明柊の戯言の相手をする気力はほとんど残っていない。
雪蘭の生気のなさを明柊はどうとらえているのか。苛むつもりか、それともいたわるつもりなのか。
いつもはある種の威厳と怜悧さを潜めている、雪蘭の漆黒の瞳が虚ろに己を映し出す。
力のないその双眸を見つめた末、明柊はその椅子の端に浅く腰掛け、華奢な肩をごく自然に抱き寄せた。
雪蘭は何故か抗う気になれず、おとなしく身をまかせた。
半端な座り方のせいでただでさえ身長差があるのに、さらに低いところに頭がくる。広い胸元にそっと頭をよりかからせるようにして、雪蘭はじっとしている。
その表情までは見えないが、体を強ばらせることもなくゆったりと身を任せている。明柊は抱き締めるわけでもなく、いつものようにふざけた調子でそれ以上に触れてこようとはしなかった。