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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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終章 13

 遠慮がちに雪蘭を揺り起したのは、香露だった。

 熟睡できないままうとうとしていた雪蘭は、はっきりしない意識のまま眼をひらいた。間近にはほのかな蝋燭の灯りに照らしだされる香露の、遠慮がちな顔があった。


「如何した?」


 ゆっくりと身を起こすと、それを傍らから香露が手を貸す。雪蘭はそれを拒むように手で押しとどめ、顔におちかかる髪をかきあげた。その物憂い仕草の裏には、疲労とはっきりとした覚醒がのぞく。

 主の熟睡していなかったことを悟り、香露はわずかに眉をひそめる。

 この状況では熟睡などできようはずもないが、雪蘭のそれはずっと続いている。あの夜、彼女が従妹だと偽ったときがはじまりだった。

 もともと寝起きの悪さで、従者に手こずらせるような主ではない。寝つきの悪さでぐずることもなければ、いつまでも起きてこないということもない。一言でいえば手のかからない子供だった。それを香露は主の大人びて早熟な聡明さに由来しているものだと思ってきたが、実際はどうだったのだろう。

 香露や狭霰にはもちろん、母親にさえ甘える子供ではなかった。ただ一人を除いては。その人は彼女が幼いうちに世を去ってしまった。それ以来、彼女が誰かに甘えたことなどあったのだろうか。

 従妹である青蘭王女も、感情を殺してじっと堪えるような子供だったが、その様子はある意味雪蘭とは逆だった。王女は甘えることを知らない子供であり、雪蘭は甘えようとはしない子供だった。

 それを裏付けるように、王女は雪蘭と打ち解けるにつれて次第に子供らしさをみせるようになったが、雪蘭はそれを受け入れるだけで、香露や女官たちに見せる態度は少しも変わることはなかった。

 雪蘭のみせる子供らしさといえば、青蘭と一緒にいるときはなにかとお姉さんぶってみせることくらいのものだった。そして、それは二人が別れることとなった日の、その別離の直前まで変わることはなかった。

 時折、この従姉妹たちはどちらかの寝台に潜り込み、おしゃべりに花を咲かせた末に仲良く寝入ってしまうことがあった。そんな朝は二人ともになかなか起きださず、起こす役目の者だけが少女たちの安らかな寝顔を目にすることができた。香露はそんな役得を長くひとり占めしてきた。

 そんな想いが去来し反応の鈍った従者に、雪蘭はわずかに眉をひそめて同じ問いを繰り返す。 

 声に苛立ちはないが、訝しんでいるのは確かだった。


「――失礼しました。もう出立するそうです。軒車にお移りください。少しでも休んでいただけるように支度も整えました」

「まだ深更か?」

「はい。夜明けまではまだしばしあります」

「そう」


 雪蘭はふっと軽く息をつくと立ち上がり、そのまま天幕を出た。雨はまだ降り続いているが、その勢いは衰えている。天幕のなかにいれば分からなかった。

 しっとりと肌にはりつくような小雨に目を細めて、雪蘭は立ち止まった。

 この辺りはすでに国境地帯のはずだった。

 天に光なく、地には影ばかりが落ちる。霧のような雨の中、揺らめく火影は軍のものばかり。遠くに街明かり一つ見えない。

 元々、国境地帯は地味の豊かな牧草地帯だった。それが恒例行事のように繰り返される戦いのたび焼かれ、荒らされ、血が流され。もはや常に住みつこうとする者はいない。

 国境沿いの町や村は高く厚い塀に囲われ、なにかあれば息を潜めて嵐の過ぎるのを待つばかりの暮らしを余儀なくされてきた。


「雪蘭さま?」


 濡れるにもかかわらず動こうとしない雪蘭に、香露がそっと声をかける。


「嵐は去った。そして、この時刻の出立――戦場はいずこに?」

「おそらくは嵜州となるでしょう」

「嵜州――青蘭もそこにいる」


 やっと再会がかなう。喜びは微塵もなかった。 




 それからは休みといっても小休止のみで、強行軍が続いた。

 さすがの雪蘭も疲労困憊し、がたがたとひどく揺れる軒車のなかで眠りについていた。

 軍の大半はすでに嵜州入りした明柊のあとを追い、雪蘭たちよりはるか先を進んでいるらしい。そのあとを追いかけるのは、“女王”を守る役目をおった一部隊だけだった。

 女王の存在は軍の士気にかかわるため、遅れているとはいえ悠長にかまえているわけにもいかない。

 守備隊を指揮しているのは、貴族の一人だった。彼がいかにも申し訳なさそうに強行軍を詫びるのを、雪蘭は軒車のなかで無言のまま聞いていた。かわりに香露が返事をすると、彼はかすかに失望したような表情をみせる。

 直に言葉をかけてもらえないかと期待していたのだろう。

 雨は依然降り続いている。

 軒車の屋根や窓をたたく音に耳を傾け、目を閉ざし、眠っているのか定かでない雪蘭に、香露がそっと耳打ちする。


「――好機ではございませんか?」


 雨天の夕暮れ。紗の蔽いに外界と遮断された車内は暗い。

 滑らかな天鵞絨の座席。振動による苦痛を最大限和らげるように設計されてはいるが、その疲労を完全に防ぐことはできない。

 雪蘭はいくつも積まれたクッションにもたれかかり、自分の腕を枕にして目を閉ざしている。

 白い頬におちる疲労の影は濃い。静かな呼吸は、眠っているものかどうか見分けることは難しい。

 香露はじっとその秀麗な青ざめた面をのぞきこんでいたが、睫毛一つ動くことはなかった、

 やがて諦めたように彼女が自分の席に戻ると、雪蘭は小さく息を押しだした。

 



 それからも雨がやむことはなかった。

 国境を越えると、一転進路を南に変えて山の背の麓沿いに嵜州を目指す。

 ようやく帰国した雪蘭にとって、悪天候の暗い風景は、懐かしさを感じられるものではない。

 八歳で六華の王城に入るまで、雪蘭は山の背の麓の岑家の城で育った。

 雪蘭自身は婢の母を持つため、卑腹の生まれとして王族でも貴族でもない。王族の父に庇護され、その手で養育されたため、高位の貴族の子弟と同じ環境を与えられたにすぎない。

 苓家の奥庭からも、万年雪をいただく白い頂が見えた。それが青い空に映える日もあれば、灰色の厚い雲に覆い隠され見えない日もあった。

 そんな山々を仰いで暮した頃の記憶はすでにおぼろ。

 王城・奥の宮から山は見えなかった。高い塀に閉ざされ、王都の様子すらほとんど見たことはない。

 故国と聞いて思い出すのは、奥の宮の狭い庭園と、父と共にみた蘭の記憶。

 そのくらいのものだ。

 荒天に隠された尾根の姿を記憶のなかに求めながら、雪蘭はそんなことを思い出していた。

 その道中にも、雪蘭のもとには密かに青蘭側の動きが知らされていた。

 聖地にとどまるかと思われた青蘭が、ひそかに聖地を出たという報せに、雪蘭はかすかに眉をひらいた。


「やはり行先は……」


 香露がわずかに顔を曇らせる。


「一つしかない」


 言葉少なに断じた雪蘭の顔を、香露は案じるように見つめる。


「覚悟していたこと――それに、これは良い知らせでもある」


 青ざめた唇が淡々と言葉を紡ぐ。


「良い、ですか?」

「そう、これは良い報せ――私はあの子の力になれる」


 雪蘭はまるで自分に言い聞かせるように呟いた。

 香露が好機ではと囁いた時、それは雪蘭が一番よく分かっていた。

 明柊のもとから逃げ出し、偽の女王としてではなく、雪蘭として青蘭のもとへ駆けつけることもできた。

 何故、それを選択しなかったのか。

 あの時はそれが最善の策のはずだった。

 


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