終章 12
雪蘭は四頭立ての軒車のなかで、揺れに身を任せていた。
扉に設けられた窓には幾重にも薄物がかけられ、ほの暗い光を通しながらも外界の様子を覆い隠している。
一度、通ったことのある道だった。だが、その時も窓は同じように覆われていたため、見覚えのある景色があるはずもない。それは西葉から東葉へと続く道のりだった。今はそれを逆にたどっている。
はじめてこの道を東へ向かったときは、連れがあった。その連れこそが主客であり、雪蘭にとってもすべての中心である青蘭だった。
その青蘭は先に西葉に戻り、雪蘭も生国に帰ろうとしている。
青蘭を逃した時点で、もう二度と生きて会うことはないだろうと覚悟していた。一度は断念した再会もかなえられようとしている。その場所はおそらく戦場。それも敵として従妹の前に現れなくてはならないとは。
そんなめぐり合わせを、雪蘭は嘆いたりしない
青蘭が即位した時点で、自分の役割は終わるものと思っていた。それを明柊が逆手にとって利用するというのなら、雪蘭もそれに便乗するしかない。利用されるくらいなら、利用した方がいい。
雪蘭が偽の女王として振舞うことは、結果的に青蘭の立場を強固なものにするだろう。
一時的にとはいえ、青蘭の敵となり、その行く手を阻むことは不本意極まりないが、そうするほかないのであれば、その結果が彼女のためとなるようにするしかない。
決めてしまえば、あとは明柊に協力するだけだった。なるべく青蘭達の不利とならないように気遣いながらではあるが。
軒車には香露と狭霰も同乗していた。明柊は二人を雪蘭の身辺から遠ざけようとはしなかった。彼女たちが亡き父紅桂の意を受けていることを、明柊はおそらく承知しているだろう。それでも放置しているということは、かまわないと思っているからなのか。彼女らを甘く見ているとはとうてい思えない。
やはり明柊という人間がなにを考えているのか、読むのは難しい。
雪蘭はそういったん結論付ける。
行程は強行軍だった。明柊は雪蘭に体調を問うものの、最低限しか休もうとしない。それでも先に先遣隊を率いて西葉に入り、蒼杞側との交渉の席についたりしており、明柊自身も過酷な状況にある。
夜になり、昼から重苦しいほどの曇天だった空から大粒の雫がふりはじめた。風は横殴り、雨粒が軒車だけでなく天幕や馬、あらゆるものを叩きつける音が風の唸り声にまじった。
嵐となりそうだった。行軍の足を止め、休憩をとることになった。雪蘭のために簡単な天幕が張られ、折りたたみ式の寝椅子が設えられる。ようやく足を伸ばせ、雪蘭も珍しくほっとした表情を浮かべた。
雨に混じり、明柊からの使いが香露に面会を求めた。雪蘭に断って天幕を出た香露は、その間際に少しでも休むよう促していった。
戻ってきた香露は、わずかな間だったにも関らずびしょ濡れになっていた。狭霰が黙って差し出した手拭を受け取り、横になった雪蘭の頭もとで膝を折った。
天幕の隙間から吹き込む風に、小さな円卓の上の蝋燭に点された焔が大きく踊る。
「苓公は正式に蒼杞殿と手を結ばれたそうです」
「正式に、ね」
皮肉な口調で繰り返し、雪蘭はゆっくりと身を起こした。それを香露はとどめようとしたが、雪蘭は目顔でそれを拒んだ。
「なにを今さら、というのも莫迦らしい」
表向き、そもそも最初に蒼杞と組んでいたのは碧柊だということになっている
葉の慣習として大罪である親殺しを行い、東葉王位をねらったとされる碧柊。彼が西葉へ落ち延び、正式な女王を騙る偽の王族雪蘭と結び、東と西の王位をあわせた“葉”の王位簒奪をはかっているとされている。
それを阻止するという名目で、明柊は自分の正統性を主張している。そしてなおかつ、雪蘭を正統な女王である青蘭として推戴している。青蘭が碧柊との婚儀のために東葉に入ったことは公のことだ。
にも拘らず突如、西葉・嵜州の聖地に現れた“正統な女王”。翠華にいたはずの“青蘭王女”が何故、嵜州にいるのか。それも父親殺しであり王位簒奪をねらった碧柊と共に。
それをどこまで東葉貴族たちは信じているのか。そして、国を裏切った碧柊と結んでいたはずの蒼杞と、今度は彼の罪を問うはずの明柊が提携することを、彼等は受けいれるだろうか。
「貴族たちの反応を」
「今、調べさせております」
明柊は蒼杞との交渉を、彼等に知らせずに先に西葉に入っていた。
動揺が広がっているだろうという予想はつくが、弁の立つ明柊のこと。うまく丸めこんでしまうだろう。先にその話を切り出して、彼等の了解を得ていたのでは時間がかかる。事後の承諾を得る形にしたのは、考えた末のことだろう。
眉をひそめる雪蘭に、香露がさらに声を押さえて付け加える。
「連絡のつかぬ覗見がおります。翼波の動きを青蘭さまにお知らせする役目を負っておった者で、その報が届いていない恐れがあると」
さっと雪蘭の面が曇った。それがもっとも気がかりなことであり、一刻も早く知らせておきたいことだった。それが届いていないとなると――
「綾罧殿には?」
東葉で潜伏し、東葉南部の貴族をまとめるべく動いている綾罧にも同じことを知らせてあったはずだった。
「それも、今、調べさせております」
香露の顔は晴れない。おそらく、そちらとも連絡がつかないのだろう。
「急ぎ、二人に連絡を」
「ご安心を。それが判明した時点で動いております」
雪蘭はこわばった表情のまま、小さく息をついた。
「――おそらくは苓公の手によるもの」
「……否定はできません」
「油断していたのは私の方だった」
雪蘭は苦い想いでそう呟き、口をかたく引き結んだ。
風はいっそう猛々しく狂い、灯りが揺らぎ、影が歪んだ。