終章 11
赤面したきり沈黙してしまった青蘭の、細い手に手を重ねた碧柊は薄い笑みを浮かべて言葉を待つ。
戦いは明日にも起こるだろう。
できるだけの手は打ってあり、あとは順次もたらされる覗見からの知らせから戦況を読み判断していくしかない。
この先、二人きりの時間を持てるかどうかは難しいだろう。今、こうしている時間があるなら、青蘭を少しでも長く休ませ、自身もそうすべきなのかもしれない。しかし、今はそれよりも少しでも長くこうしていたかった。
最後の逢瀬になるかもしれないという想いを、消すことはできない。
そっと髪に触れる。しっとりとした手触りは湿気を含んで濡れたように重い。水にさらした絹糸はこのような光沢を帯びるのだろうか。
青蘭はいつの間にか束ねた髪をとかれ、梳くように指をからめられていることに気づき、狼狽したように眼を瞠った。碧柊はその反応にからかうように目を細めただけで、それ以上触れて来ようとはしない。
青蘭はわずかに口を尖らせて目を逸らし、やがてぽつりと口を開いた。
「私は、西葉に行く前から、あなたのことは多少なりとも耳にしておりました。肖像画も目にしていましたから、はじめてお会いした時も一目であなただとわかりました」
「――それで、吾は想像していた通りだったか?」
青蘭はちらっと碧柊を一瞥すると、また黙りこんだ。
碧柊はそっと身を寄せると、さり気なく肩に腕をまわして抱き寄せる。青蘭はそれに気づいているのかいないのか、おとなしくされるままになっている。
小難しい顔でしばらく考えた末に、戸惑いがちに、しかし訥々と語りはじめた。
「ずっとこれまでのことを思い返していました――あなたのことを温厚な方だとうかがっていたのですけれど……そうでもありませんでしたわよね? 一言二言余計でいらっしゃるし……その、なんだかずいぶんと強引な所もおありだし……私、どうしてあなたのことを、その――想うようになったのか自分でも不思議に思えてきて」
嫌味だとかあてこすりではなく、本気でそう思案しているらしい様子に、碧柊は慌てた。
「今さらそれはなかろう」
ぐいと細い肩を掴んで自分の方を向かせ、動揺した顔で詰め寄る。
青蘭は納得のいかない表情で、夫の顔を見つめる。
「――もう私と結婚なさったのですから、それでいいのではないのですか?」
「なにを……」
「葉の統一がなった後の正式な即位の儀でも、盾にはあなたを選びます」
青蘭は生真面目にそう念を押す。
碧柊は頭痛のしそうな想いで溜息をつき、妻の目をのぞきこんだ。
「それは是非ともそうしていただかねば困るが――確かに吾は東葉王子としてあなたと政略上結婚する必要がある。だが、それとは別に、葉碧柊としては惚れた女性を妻にできたとばかり思うておったが?」
「それはそうなのですけれど――」
碧柊の縋るような思いの言葉を、青蘭はあっさり流す。碧柊はいきなりとんでもないことを云いだした恋人に、さらに言葉を重ねて迫る。それをみっともないとは思わなかった。
「いまさら気の迷いだったなどと、云い出すつもりではなかろうな」
「気の迷いだとは思っていませんけれど、なんだか――」
「なんだかとはなんだ?」
「なんだか、納得がいかないというか……」
一度は碧柊の言葉や行いを受け入れてくれた青蘭だが、それははじめて互いに想いの通じた喜びに乗じたどさくさまぎれともいえた。冷静に考えてみれば、そうあっさりと認められない思いもあるのだろう。
碧柊は後悔と狼狽に曝されながらもなんとか持ちこたえ、率直に詫びた。
「確かにあなたには色々と嫌な思いをさせ、辛い目にもあわせた。それは詫びる――だが、許してくださったのではなかったか? それとも、まだ根に持っておられるのか?」
「別に根には持っていません。ただ、あの状況であなたに惹かれたのが不思議な気もして……」
許す許さないという問題でもないらしい。事実、青蘭の声に怒りはみじんも感じられない。本当にただ不思議がっているらしい。
碧柊はそれを確信すると、正攻法を捨てることにした。
「あなたがそのように己の心境変化を不思議に思われるのも無理もないかも知れぬ。それは認めよう――肝心なのは、いくら納得いかなかろうと、実際に吾のことをどう思うておられるかということだ」
碧柊は深刻な顔で問いただす。
青蘭はわずかに首をかしげつつ、あっさりと肯定した。
「だから、気の迷いだとは思っていません、と」
「それは吾を好きだということか?」
「だから、そうです、と。先ほどからなにもあなたを好きでなくなったとは一言も申しておりませんけれど」
「――確かにそうだが、紛らわしい」
碧柊は心底ほっとした顔をみせ、肩を掴んだ手を背に回し、力任せに抱き寄せた。青蘭は彼のその表情に申し訳なくなりながら、そっと応じるように広い背に腕を回す。
耳朶にあつい息がかかったと思うと、生温かく湿った感触が這う。青蘭は思わず身をよじったが、痛いほど抱きしめられているため、それはかなわなかった。
力が抜けそうになるのを堪えながら、吐息を何度か漏らしているうちに、それもふさがれる息苦しいような深い口づけの後に、ようやく解放される。
額への口づけを、目を細めて受けながら、青蘭はふと小さく笑った。
「なんだ?」
「いえ――先に言っておきますけれど、根に持っているわけではありませんわよ」
「――ということは、吾のことか……」
「ええ、まぁ……はじめて、あなたから口づけられた時のことを思い出して」
碧柊はばつの悪そうに口元を歪めて苦笑し、もう一度額に唇を寄せる――できるだけ優しく。
「――あれは口付けというより、口封じだったな」
「ええ――あの時はただ怖くて混乱して……こんなに……」
青蘭は言葉の続きのかわりに、目線を落として碧柊の肩に頬を寄せた。
「――こんなに? 」
「……云いません」
小さい声ながらもきっぱりと断言し、ぎゅっと彼の衣を握る。碧柊は目を細めて溜息とも小さな笑いともつかないものを漏らし、すぐそこにある白く柔らかそうな耳朶に唇をよせ、そっと甘く噛んだ。腕のなかに閉じ込めた細い体がぴくりと反応する。それに満足げな笑みを浮かべると、ゆっくりと唇と舌でそれを嬲る。
やがてやわらかく脱力した肢体が身を預けてくると、ようやく満足したように唇を頬へ滑らせ、そこでふと動きを止めた。
「――?」
甘い熱に侵されたような動きの変化を敏感に悟ったのか、青蘭がそっと顔を離そうとした。それを反射的に髪に梳き入れた指先で封じ、碧柊は溜息まじりにつぶやいた。
「――吾より先にあなたに口づけた奴がおったな」
「え?」
「苓南の砦でのことだ――違うか?」
「……そういえば、そのようなこともありましたわね」
確かに頬にかすめるように、唇を感じたことがあった。それは明柊が碧柊を挑発するためにやったことだった。
いきなりなにを言い出すのかと思いつつ、彼がどんな顔をしているのか見たくなり、青蘭は身を離そうとする。その意志を察したのか、逆に強く抱き寄せられてしまう。
「――そのようなこと、か」
「だって、あれは明柊殿がふざけておられただけのことで」
「ふざけてであろうがなんだろうが、気に食わぬ」
そのいかにもむっとしたような、面白くないといった口ぶりに、青蘭は悟られないように小さく笑う。
「嫉妬、ですか?」
「ああ、そうだ」
それは自棄で云っているわけでもないらしい。
青蘭はたまらずに笑いだした。
「笑いごとではないぞ。あなたに触れて良いのは吾だけだ」
抗議するようにさらに強く抱きしめられ、青蘭は小さな声で「痛いわ」と訴えた。わずかに力が緩み、ほっとしたのも束の間、再び深い口づけを受ける。青蘭は小さく身を震わせ、心のままに身を委ねた。