終章 9
軒車は森の入口でとまった。
遠くからはなだらかな斜面が続き、その小高いいただきに山城の城壁が垣間見えていた。それは山の背から続く支脈の先端で、山城の築かれた尾根はそのまま延々と天然の屏風となっている。
軒車から降りた青蘭は空を見上げたが、そこには木々の枝葉に縁取られた雨空があるばかりだった。
森の奥へ細い道が続いていた。獣道のような、草木を掻き分けてつけられたばかりの道のようだった。
青蘭はふと夏の森の逃避行を思い出し、わずかに目を細めた。あの時も雨が降ったが、これほど冷たいものではなかった。
ぬかるんだ道を歩く。泥の水たまりや木の根に時々足をとられそうになる。そんな青蘭以上に難儀しているのは祥香だった。
名門貴族の一門に生まれ、王統家に嫁いだ彼女が、自分の足でこんな道を歩くことはおそらく生まれて初めてなのだろう。
青蘭同様に男装しているが、青蘭の後に続くはずの彼女の声や息遣いはしばしば遅れがちだった。道すがら何度か振り返ってみれば、幹に手をかけて息を整えていたり、足元をとられて危うく転倒しそうになったところを介添え役の兵士に助けられたりしていた。
それでも祥香は青蘭と目が合うと、ばつの悪そうに微笑んで見せるだけだった。弱音も愚痴もその口からこぼれることはない。
青蘭にとって、彼女が同行してくれたことはこれ以上なく心強いことだった。
森のなかにはいると、雨に打たれる代わりに不規則に落下してくる滴の餌食になる。目深におろした頭巾や外套にも撥水加工はなされているが、次第に水を吸っていくのは防ぎようがない。
緩やかな傾斜はじきに険しくなり、むき出しの岩や地面に手をかけて登らなければならないところもあった。
息が上がり、汗が頬を伝う。全身に汗を吸った衣がはりつき、動きを妨げる。
青蘭は不快感に無意識に眉をひそめながらも、気づかわしげに振り返った袁楊には薄く笑んで首を振ってみせた。
ようやく山城の門にたどりつくと、先行した者が知らせたのか、人だかりができていた。
登ってきた一行のなかには、小柄な姿が二つばかり混じっている。そのどちらかが即位したばかりの彼等の女王に違いないため、自然と視線が集まる。
青蘭はようやく屋根の下にたどりつけたことでほっとして、無造作に頭巾を後ろへおろし、目に入る汗を袖で拭った。それからようやく衆目の的となっていることに気づいた。
「陛下、これをお使いください」
人だかりの前には、彼等を抑えるように里桂が立っていた。
青蘭が面をあらわにすると恭しく腰を折り、傍らの者が手にしていた手拭を受取り差し出す。青蘭は小さく頷いてそれを受け取り、人だかりをちらりと一瞥した。人垣の後方に苦い顔の夫を目ざとく見つけ、思わず苦笑してしまった。
一見無表情にも思えるが、目が笑っていない。青蘭に対して苛立ちを抱いているのは明白だった。
後でもめることになりそうだと、辛うじて溜息を押し殺し、目下のところ里桂に従う。
青蘭が手拭を受け取ると、里桂はあらためて膝を折り、頭を垂れた。一瞬遅れてその場に居合わせた者たちもそれに従う。碧柊もそれに倣った。
青蘭はそれに一瞬戸惑いをみせたが、じきに婉然と微笑んだ。
ゆったりとした仕草で臣下である彼等を見渡し、それから腰に佩いた太刀を抜いた。
曇りの無い刀身が、雨模様の午後にあっても鈍く光る。
「これは我が祖、女神が自ら手にした刃。我等が母なる神の加護とご意志はここに明らかです。共に闘い、吾等が“葉”に平穏と秩序を取り戻しましょう」
雨の静寂に澄んだ声が響いた。
女神の太刀を思わせる言葉に、つられるように顔があげる者たちが続く。青蘭は彼等に静かな眼差しで応じ、ゆっくりと手にした太刀を高く掲げた。
山を登ってきたせいで上気した頬は活き活きとし、冷静だが力強い眼差しで白刃をみつめる姿は清冽であり、凛々しくすらある。
彼等は沈黙を守ったまま、新たな主となると少女を見つめ、そして再び頭を垂れた。
女神の娘自らがその御祖の太刀を手に、彼等と共に国を鎮めるべく立った瞬間だった。
山城に詰めているのはそれぞれに軍を率いてきた、主だった貴族や王統家の者たちが多かった。
正当な王位継承者である青蘭を支持した者たちに、彼女はあえて礼を述べたりはしなかった。彼等の選択は葉の者として当然の選択であり、褒めたり感謝したりするようなことではない。
そのかわりに青蘭は誰にも平等に穏やかに微笑みかけ、彼等の言葉を受けとり参戦をねぎらった。
それが一通り済む頃には夕刻となっていた。
戦力の大部分を占める兵士たちは、山の中腹や裾野、森の中、王都六華の方角をにらむ平野にそれぞれ幕舎をはっている。雨をしのぐ術を持たぬものも多い。
青蘭はひどい疲労を感じていたが、そのまま山を降り道すがら兵士たちをねぎらって回った。
直接の主である貴族や準王族すら、声をかけられたことのない者が多い。
青蘭は自ら進んで彼等の間に入っていき、親しげに声をかけていった。
あえて化粧はせず、短い髪と男装のままの青蘭は、その美貌と相まって中性的な魅力をまとって見える。
その後に付き従う祥香は成熟した女性の美しさと、慎ましいが温かな態度を通した。
女神その人もかくやという風情の青蘭と、若い女性の存在にその士気は一気に高まった。
果たすべき役割をようやく終えた青蘭が、ようやく一息つくことができたのは深更も近かった。
山城に到着してから飲み物すら口にしていなかった青蘭は、用意された香草茶を一息に飲み干した。準備してくれていたのは祥香で、喉の渇きを見越したように冷まされていた。
甘くさわやかな香りに包まれると同時に、どっと疲労感に襲われ、青蘭は一気に脱力しそうになった。それをなんとか堪え、礼を述べる。
里桂は粗末なものしか支度できませんがと、一言断って簡単な夜食を運ばせるとさっさと下がってしまった。
室内に残されたのは青蘭と、数日前に別れたばかりの夫である碧柊だった。
碧柊は地味な衣装を身にまとい、腕を組んで壁にもたれかかっている。
一瞥も寄こさない冷たい横顔に、青蘭は無言で肩をすくめた。
怒っている。それもそうとう深く。
結局、青蘭は涼しい顔で食事を摂ることにした。
青蘭が食事を終えるのを待って、低い声が詰った。
「そなたが来るなどと聞いていないぞ」
「云えばお止めになったでしょう。だからお知らせしなかったのです。すべて私の独断です」
青蘭は満面の笑みでそう云ってのけた。