終章 4
静かに立ち上がった青蘭は、羽織っていた毛織物を背後へ滑らせ、それを畳んで腕にかけていた。
結いあげるには長さの足りない髪は、植物性の油をなじませてよく梳かれている。癖一つない見事な黒髪が白い面輪を縁取り、昂然と顎をあげた顔に浮かぶ表情を冴え冴えと浮き上がらせる。
「――せい……陛下、如何なさいました?」
突然席を立った彼女の気色に気圧されたように、祥香はその名を呼ぶのを躊躇った。
「大神官のところへいきます。先触れを」
口調も表情も、ともに落ち着きを払っている。
雪蘭が女王として明柊に擁立され、その出陣に伴われているという。その報せを受けての行動なのだろうが、何故行先が大神官のもとなのか。意図の読めないまま、祥香は小さく「はい」と応じ、控えの間に続く扉を開けて手近な者を呼びよせた。
すでに至高の位についた青蘭とはいえ、思いつくままに行動できるわけではない。大神官と面会するにも踏むべき手続きがある。聖地にあるこの総本山を治めているのは大神官であり、女王といえども賓客に過ぎない。
「陛下、いったい――?」
青蘭のそばに戻ってきた祥香は、年若い娘の顔を遠慮がちにみつめる。青蘭はその眼差しに微笑で応じ、答えるかわりに「支度を」と促した。部屋着のまま大神官に会うわけにはいかない。
祥香はその指示を受け、ようやく着替えの準備に思い至る。
「すぐに準備いたします。それまでおかけになってお待ちください」
慌てた様子でそれだけ云いおくと、再び隣の控えの間に向かう。自分の役目をうっかり失念していたことに動転したためか、足取りが乱れがちになる。
その後ろ姿を青蘭はかすかに口の端を上げて見送り、小さく息をつくと再び椅子に腰かけた。
窓の向こうで猛り狂う風は、まるで嵐のようだった。
白い簡素な衣装に着替え、肩を覆う短い髪を見苦しくない程度にまとめ上げた頃に、大神官から遣いが寄こされた。
祥香が至急と念を押させたためか、じきに面会できるという返答だった。
身分から云えば青蘭の方から面会に赴くのはおかしいのだが、総本山という場所柄と相手への敬意を示すためにそうする。
即位が公のものとなって以来、青蘭の行動はいちいち束縛されることが増えた。女王らしく振舞うためには必要なことであり、そうでなければ周囲のものが困るという事情もある。
例外的な場合を除いて、青蘭はおとなしく“女王らしい振舞い”のために周囲から云われるままに従っている。こうなってくるとどちらが主なのか分からないが、王女として育った奥の宮でも似たような状況だった。主には主の、仕える者には仕える者の、それらしい振舞いという規則がある。それに気づいたのも、雪蘭と入れ替わっていたおかげだ。
大神官からのつかいが、そのまま青蘭を先導してくれるという。祥香を供に、青蘭は貴賓室を後にした。
大神官の部屋へ至る経路はとうに覚えてしまったが、それでも女王が一人で歩き回ることなどできない。
“雪蘭”として振舞う時の身軽さを懐かしく思い出し、同時にもう二度とそんな時は持ち得ないのだと気付く。今さらながらではあったが、そう思うだけで雪蘭をひどく遠くに感じられて、胸が苦しくなった。
強風は回廊の窓も震わせている。崖に面した窓は、石くれの飛散から硝子を守るために板戸が閉ざされている。そのため昼間にもかかわらず灯火が点されていた。その燈心に宿るほのかな焔も、隙間から吹き込む風に頼りなく揺れている。
ゆらゆらと揺れる灯りのなかを進み、ようやく目当ての扉にたどりつく。
控えの間に祥香を残し、青蘭は一人で入室を促す声に応じた。
荒天であっても、大きな窓をそなえた室内は十分に明るかった。晴れた日とは比べものにならないが、暗い廊下に慣れた目には優しい明るさだ。
その窓を背に、大神官は佇んでいた。
青蘭の背後で、祥香が外から静かに扉を閉めた。
それを確認してから、青蘭は落ち着いた足取りで部屋の中央に進む。
大神官は恭しく一礼すると、顔を上げ微笑した。
「いかがなされました」
彼は前口上を口にしない。青蘭はそこが気に入っている。
「わが従姉雪蘭が、葉の女王を僭称して兵をあげました」
これを口にするだけで心が痛んだ。雪蘭がそんなことを自ら望むわけがない。分かっているが、傍から見れば事実はそうだ。雪蘭はそれも覚悟で翠華に残ったはずだ。青蘭はそれを徹底的に利用するほかない。
大神官・成昊も大まかな経緯は知っている。
彼は穏やかな表情はそのままに、小さく頷いて先を促した。
「盾は王家の証。けれどそれは六華にあります――私は女神の娘である証が欲しいのです」
その言葉が何をさしているのか。大神官はすでに理解しているようだった。
わずかに眉をひそめる。
「あれを抜けば必ず人の血が流されましょう」
「――すでに流されています」
「その刃が陛下ご自身に向く可能性もあります」
「それも女神のご意志でしょう」
「あなたご自身の手も汚れましょう」
青蘭は思わず固く手を握りしめた。
体はまだ覚えている。人の体を断った時の感触を。頬に感じた血潮の熱さを。そして断末魔の表情も。
「とうに汚れています」
太刀を掴んだ時の感触を思い返すように掌を見つめながら、青蘭は薄く微笑んだ。
その笑みを目にした大神官はしばらく黙していたが、やがてゆっくりと歩み寄ってきた。
並び立つようにすれば、大神官の方がずいぶんと背は高い。青蘭は顔をあげて、初老の男のなにもかも洗い流されたような面を見つめた。
大神官もまた臆することないまっすぐな視線を受け止め、そこにゆるぎないものを認めると小さく頷いた。
「分かりました。お預けしましょう」
そして、その日の夕刻。
参拝を終えて聖地を去る人々をのせた小舟の群れの中に、一艘だけ異なる空気を漂わせた一行がまじっていた。