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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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終章 3

 雨が降っていた。

 冷たい風を伴い、時に霧雨のように時に豪雨をと、不安定な空模様は本格的な秋の訪れを告げる序章だ。

 これがおさまれば収穫の季節を迎える。

 青蘭は神殿の高層階にある貴賓室の窓辺に腰かけ、荒れる空と湖を眺めていた。

 窓越しに冷たい雨の気配が忍び込んでくる。そっと腕をさすってそれを払う。

 西葉は穀倉地帯でもある。収穫されればそのまま兵糧ともなる。いよいよ戦となれば、耕作地にも火がはなたれるだろう。

 それが戦法の一つでもあることは、青蘭も承知している。碧柊とて必要と判断すれば火を放つだろう。それは蒼杞や明柊も同様だ。

 戦火が広がるほどに沃野も焼かれ、被害は拡大する。戦そのものは長引かずとも、影響は長く尾を引く。翌年に蒔くべき種が失われるどころか、餓死者を出すかもしれない。

 百年の間断続的に戦は続いていたが、それは主に北の国境地帯でのことで、戦場は限局されていた。

 春先の戦いでは、惨敗し壊走した西葉勢を追ってきた東葉軍との戦いが王都近くでも行われたが、しょせん敗残兵狩りに過ぎなかった。

 その後の軍の解体も予想以上にすみやかに行われ、たいした混乱もないままに西葉は東葉の支配下におかれた。

 国境近くに住んでいるわけでもなく、戦に出たこともない一般の人々にとって、百年の争いは事実ではあるが現実味に欠けるところもある。

 戦が近づけば税が上がり、時には臨時に徴収されることさえあったが、人々の生活を深刻に圧迫するほどではなかった。

 しかし、今回の戦は西葉全土に戦火が広がるかもしれない。少なくとも東葉との国境地帯から王都にかけて、そして王都から碧柊たちが陣取る嵜州までの間は確実に戦場となる。

 国の中央部にもあたる嵜州周辺は国内屈指の穀倉地帯であり、この一帯だけでも全土の収穫量の何割かを占める。 

 ここが焼き払われた場合、その被害の甚大さは想像もしたくないほどだ。

 これまでどこか他人事だった多くの人々の上にも、今回こそは戦火は降りかかるだろう。

 青蘭の即位は知らされたばかりであり、彼女を擁立して兵が集められつつあることは、まだ明らか動きにはなっていないはずだ。

 これまで戦禍と無縁だった地域が戦場となるかもしれないことは、青蘭達のようなごく一部のものしか知らない。

 それでも不穏な空気は、自然と広がっていくものなのか。

 国内ではもっとも安全であるはずの聖地においても、人々の顔は晴れない。

 うすうす不安を感じた人々が救いを求めているのか、聖地の対岸を訪れる参拝者の数が少しずつ増えているという。

 門前の参道沿いを冷やかす参拝者のようすも、はじめて青蘭がこの地を踏んだ時のことを思えば、賑わいに欠けているようにも思える。

 戦禍を憂いながら、それを引き起こそうとしているのも自分だ。

 みすみす蒼杞に国権を渡すわけにはいかない。彼が本当にこの国を治めることになればどうなるか。未来が明るいものでないことだけは確かだ。

 そんな蒼杞と組み、そもそもこの争乱の原因を作りだした明柊も認めるわけにはいかない。

 いくら碧柊のいうように、彼の本音が那辺なへんにあるにせよ、現実は変わらない。どのような理由や原因があるのであれ、この事態は許されることではない。

 青蘭はそれらを認めるわけにも、負けるわけにもいかない。

 自分なら国をうまく治めていけると思っているわけではない。自分こそが女王に相応しく、正統な血筋に故に国権を手にして当然だなどと考えているわけではない。

 そもそも国を治めることなど考えたこともなかったし、ましてや自信などあるはずがない。

 その一方で、碧柊を想う気持に偽りはない。

 身分など関係のない市井に生まれ、こんなことに思い悩むことなく、彼とごくありふれた夫婦として暮らせていけたらと、そんな夢想をすることもある。

 けれど、彼女の想像はそこで止まってしまう。

 市井の暮らしなど知らない。ごくありふれた夫婦がどういうものなのか想像もつかない。

 青蘭は葉の王女として生まれ、女神の血筋としてこの国を受け継いでいくために育てられた。いずれは相応しい夫を迎え、娘を生み、その子に王家と国を引き継がせるために。ただそれだけのための存在。

 それは今も何ら変わりはない。

 碧柊は夫に相応しい人物であり、やがては娘も生まれるだろう。ひょっとするともうすでに胎内に宿っている可能性もある。

 青蘭はそっと下腹部に触れてみる。直系の王女は必ず娘を産む。

 青蘭の母は生まれつき虚弱な人だったという。とてもお産に耐えられそうにないと思われていたが、王子を生み、そして娘である青蘭を産み落とし、それと引き換えるように息を引き取った。

 どのような状態であれ、血脈だけは確実につながれてきた。

 だから青蘭も娘を産むはずだ。それが第一子とは限らないが、青蘭の最初の子はきっと女の子だろう。根拠などないが、青蘭はそう確信している。

 東葉の王子を夫に選んだのか、選ばされたのか。そもそも彼ははじめから青蘭の夫となるはずの人ではあったけれど、最終的にこのような状況でそうなるとは思ってもいなかった。

 それがこの地に眠る、自分の祖先でもある女神の意志なのか。 

 青蘭にとって、そんなことはどうでもいいことだった。

 青蘭が正式に女王として立つ以外の道も、碧柊は示してくれた。それでもあえてこの道を選択したのは青蘭自身だ。

 これは彼女の意志であり、結局、他の生き方などできるはずもない。

 このために生み出され、そして自分の意志でそう生きると決めたのならば、進むしかない。

 

「青蘭さま、お寒いですか?」


 いつのまにかすぐそばに祥香が立っていた。その腕にはすでに薄い毛織布が用意されている。

 神殿は堅牢な建物であり、隙間風などほとんど感じられない。夜になると点される灯火が、わずかな風に揺らぐこともない。それでも、冷気は忍び寄ってくる。

 尋ねるというよりも、確認を求めるような祥香の口ぶりに、青蘭は素直に頷いた。


「そうね。まだ秋のはじめだというのに」

「この秋雨ですから、無理もありませんわ。それに聖地は山の麓ですし、山から吹き下ろす風は、夏でも冷たいものです。これをおつかいください」


 祥香が丁寧な手つきでさっと布を広げる。青蘭がやや体をひねるようにして彼女に背を向けると、祥香はそっとその肩を抱くように毛織物を羽織らせた。薄い肩と細い腕が覆われると、常に感じていた悪寒も徐々にひいていった。


「ありがとう」


 振り返り笑んで礼を云うと、祥香は遠慮がちにはにかんで首を振った。


「いいえ――それより、さきほどより思い沈んでおられるようですが……」


 祥香は微笑みの奥に、気遣いを隠しきれないようすでいる。

 おそらくひどく思いつめた顔で、外の景色を見つめていたのだろう。祥香はそんな青蘭に声をかけそびれていたのかもしれない。 

 青蘭はそんな自分に思い至り、小さく頷いた。


「ええ、色々と」

「ご心労の多い時ですから」

「――そういうことではないの……」


 次の言葉を探すような青蘭の表情に、祥香はじっと待つ。

 青蘭は無意識に祥香が羽織らせてくれた肩かけに触れながら、視線を再び窓の向こうに彷徨わせる。

 特に聞き手を欲しているわけではないが、言葉にしておきたい想いがあった。


「私は――私はずっと、雪蘭と自分を比べて力の無さや愚かさ、自分にないものばかりを見つめて、いじけていた……雪蘭は完璧すぎて――完璧すぎるから……そもそも比べることが間違っていたのだけれど、彼女は私の憧れで――それは、今も変わらないけれど――それでも、いくら憧れても、私は雪蘭にはなれない……やっとそれに気付けたような気がするの――雪蘭にはなれない、いいえ、私は雪蘭ではない。雪蘭は私の大切な――大切な人で、私はこんな人間だけれど、私でしかなく……私には私にしかできない生き方しかないのだわ」

「――青蘭さま……」


 祥香は雪蘭と青蘭の間柄については従姉妹同士という以上のことは知らない。だから彼女の呟きの大半は分からなかったが、想いにまで見当がつかないわけではない。

 誰しも抱えている思いや迷いはあるものだが、その一つに折り合いをつけることができたのだろう。

 それを物語るように青蘭はどこかすっきりした顔をしている。

 祥香はそれを見てほっと安堵した。

 そこで扉が叩かれた。祥香が一言断って応対に出る。やりとりは青蘭の耳まで届かなかった。やがて戻ってきた祥香の手には、小さな紙片が握られていた。どこからか知らせが届いたのだろう。

 この時期にもたらされるものは、どんな報せであれ戦況に関わるものに違いない。青蘭は息をつめてそれを受け取り、できるだけ落ち着いて畳まれたものをひらいた。

 祥香は中身を見てしまわないように一歩下がり、即位したばかりの女王を見守る。

 青蘭は真剣な顔で文面に目を通していた。じきに口をかたく引き結ぶ。かすかにその手が震えていた。


「雪蘭が明柊殿と共に出陣したそうよ――女王として」

「――な……」


 祥香は返す言葉を失い、口ごもる。雪蘭の意志ではないことは確かだが、事実は変わらない。

 青蘭はくしゃりとそれを握りつぶし、まっすぐに顔をあげて窓の外を見つめる。ちょうど風が激しさを増し、叩きつけるように雨粒がはじける。風景は滲んでしまい、湖すら見えない。

 唇をかみしめることなく、けれど険しい顔でしばしそんな空模様を見据えた末に、青蘭は静かに立ち上がった。


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