終章 1
雪蘭は再び鳥かごに戻されていた。代々後宮としてつかわれてきたあの塔である。部屋も同じものだった。
王女に相応しい贅をつくした豪奢な部屋。設えは西葉のものと比べるとやや品が悪い。成金的な要素を感じてしまうのは、急速に成りあがったこの国の成長ぶりを思えば、この部屋の趣味もその一端ともいえるのかもしれない。
あの場での雪蘭の突然の問題発言に、明柊はまったく慌てたようすも見せなかった。まるで予想していたように落ち着きを払っていた。
広間に会した貴族たちは、雪蘭の言葉の真偽どころか意味すらはかりかねて沈黙していた。
さらに雪蘭が言葉を重ねようとしたところで、明柊が静かに歩み寄ってきた。逃れられるとは思っていなかった雪蘭は、じっと彼を見据えた。彼はいかにも案じているような表情を浮かべてそばまで来ると、まるで雪蘭の身を労わるようかのように腕を回してきた。
そこで記憶は途切れている。
失神してしまい、次に目覚めた時にはもうこの部屋に移されていた。
あのとき、彼は実に見事な手並みで雪蘭の頸動脈を強く抑えて彼女を失神させたのだ。傍目には異変を察した明柊の腕のなかに、ちょうど彼女が倒れこんだように見えただろう。
明柊は意識を失った雪蘭を抱いたまま、ここ数日女王は連日の慣れぬ政務や戦の支度で疲労が募り、気が弱っていた。おそらくそのために気が迷ったのだろうと、言葉巧みにその場を治めてしまったらしい。
その後も女王は衰弱が甚だしく、休養を要するため、しばらく表には出られないということになっているらしい。
かわりに明柊がすべてを取り仕切っているが、それはその場に“女王”の姿がないというだけのことで、これまで通りといってもいい。
これらはすべて明柊の口から聞かされた。
彼は雪蘭を責めたり問い詰めたりということを、一切しなかった。
ただ楽しそうに彼女を見つめる。
「あなたと、俺が出会った“雪蘭”殿。そのどちらが本物か、などということはどうでもいいことなのですよ。実際にあなた方はよく似ている。正確に区別できる者はごく一部なのでしょう。肝心なのは、それぞれに“女王”をいただいた、俺とわが従弟殿のどちらが最終的な勝者となるかということです。勝利した方の“女王”こそが、真の女王ということになる。あなたが本物であろうが偽物であろうが、どちらでもかまわないのですよ」
「そんな道理が通じるわけはありません」
「通じる通じないではありません。通じさせるから道理なのです」
雪蘭は窓際の椅子に腰かけていた。明柊は寝台の足元側の柱にもたれかかるようにして彼女に向き合っていた。
だが彼女がどんな話にも眉一つ動かさないでいると、それを眺めているのにも飽いたのか、つかつかと傍まで歩み寄ってきた。
「勝ったものこそが正義なのですよ、などとこんな馬鹿げたことを俺に云わせて楽しいですか? 聡明なあなたなら説明するまでもないでしょうに」
そして「あいかわらず意地の悪いお方だ」と囁き、低く笑う。
生暖かく湿った息が耳朶にかかるが、雪蘭は身をよじって避ける代わりに、すぐそばにある端正な男の顔を真直ぐに見据えた。
「あなたには本当に勝つ気があるのですか?」
明柊はわずかに目を細める。眸の奥に愉快そうな光が閃いた。
「――何故そのようなことを?」
「あなたにしてはなさることの詰めが甘い」
「たとえばどうように?」
「それこそ説明する必要はないでしょう。それを一番よく承知しているのはあなたのはずです」
明柊は喉の奥で低く笑った。細めたままの眸は心底楽しげだ。
彼はわずかに視線を落とすと、雪蘭の手をとった。
恭しく捧げるように持ち上げられたその手は、白い薄絹の手袋に包まれている。細かな刺繍が白絹に銀を織り交ぜた糸で手背に施され、かすかに煌めいている。
明柊はその文様を指先でゆっくりとなぞる。
「――それはあなたも同じことでしょう。一石投じただけで終わりとは、いささか呆気なさすぎるとはしませんか?」
「どう思われようとあなたの勝手です」
雪蘭はそっととられた手を引っ込めようとしたが、かなわなかった。その手はしっかりと握られていた。
「そうですね、たしかに、そうだ――そして、あなたの役目はこれで終わったわけでしょう? それではこれからは、俺のために役に立っていただきましょう。なに、しばらくの間のご辛抱です」
彼はやわらかく微笑し、その華奢な手に口づけた。
雪蘭はそんな彼をじっと見つめながら、ぽつりと呟く。
「――本当にそれでよろしいのですか?」
「いいのですよ。あなたにはご迷惑かもしれないが、結果的に目的は一致するでしょう」
雪蘭は目をわずかに伏せて小さくため息をついたが、結局なにもいえなかった。
“女王の混乱”によって東葉の出陣は二日遅れた。
すでに西葉側にも東葉軍の動きに関する情報が伝わっているため、その遅れは不利にしかならない。だが、それでもなお東葉の方が有利だろうというのが大方の見解だった。
女王が体調を崩したところで、実質的に指揮をとるのは明柊であるため、二日も遅らせる必要はなかったのだが。
女王には休息が必要としながらも、急遽、女王が軍を率いることとなった。二日という期間は女王の休養とその出陣の準備のために費やされた。
「私などが陣頭に立ったところで、役にも立ちませんのに」
役に立たないことはない。むしろ大いに士気を高めるだろう。それを承知で雪蘭は異議を唱えてみせた。
彼が自分のために役に立てと云ったのは、こういうことだったのか。見当はついていたが。
「わざと物分かりの悪いふりをなさるのは、いちいち億劫でしょう。俺の前ではそのように装わなくてもよろしいのですよ」
そんな彼の言葉も予想できたことだ。確かに装う必要はないのだろう。分かっていてもなおそのように振舞ってしまうのは、身にしみついた性か、それとも天の邪鬼な想い故なのか。
雪蘭には自分でも分からなかった。
彼はあいかわらず艶やか笑みを浮かべて、雪蘭を見つめる。からかっているのか、それともどこまでかは本気なのか見当もつかない。胡乱な態度に、雪蘭も曖昧な笑みを浮かべるのみ。
「それに、俺は“雪蘭”殿との約束がありますからね」
雪蘭はびくりとふるえそうになる衝動をなんとか堪え、怪訝な想いはそのままに首をかしげた。彼のいう“雪蘭”が誰なのか、どういう意図に基づくものか。下手に反応するわけにはいかない。
「――約束?」
「そう、苓南の砦で。俺は“雪蘭”殿からあなたへの伝言を言付かった」
彼はそう囁き、覚えていますかと問うように雪蘭を見つめる。
忘れているはずがない。必ず再会するという従妹からの伝言だった。
「その約束は、言伝を私に伝えた時点で果たされたはずでは?」
「確かにそうですが、それだけでは男として甲斐性がなさすぎるでしょう」
「――いったい?」
「伝えるだけなら子供でもできる。愛しい女性のためならば、そのお手伝いに手を尽くさないのは男ではないでしょう」
その愛しい女性とは誰なのか。雪蘭は問う気になれない。
押し黙る態度をどう解したのか、彼は依然として微笑んでいる。
「大切ないとこ殿にお会いになりたいでしょう?」
「――」
雪蘭は無表情のまま、じっと明柊を見つめる。無機質な視線を受けて、彼はいかにも優しげに眼を細める。
「会わせてさしあげますよ」
その言葉が本気だということだけは確かだが、いったいどういうつもりなのか。その内心をうかがうことはついにできなかった。




