第8章 偽り 14
ようやく支度が整う頃にはとっくに夜は明けていた。
人々の拝殿での参拝はまだ続いている。即位の儀は普段は神官しか入ることの許されない本殿で行われる。神殿の主人の末裔である王族とはいえ、神官以外の人間が本殿にあがった例はない。
あとは先導にあたる権大神官が部屋まで呼びにくるのを待つだけだった。
大仕事を終えた祥香は、精根尽き果てたようすで椅子にへたりこんでいる。王城での即位には女官長が城内の社殿まで付き添うが、本殿に立ち入るのは青蘭と盾の候補のみにとどめて欲しいという神殿側の要望で、祥香は大役から解放された。
彼女に伴われ助っ人として神殿にやってきたのは、嵜葉家に奉公に上がっている貴族の娘たちだった。
彼女らはただの聖地詣でのお供のつもりでついてきていたので、神殿に入ってから本当の目的を知らされた。最初はかなり戸惑っていたようだが、蒼杞の所業は既に彼女らの耳にも届いており、正統な女王の即位に立ち合えることを素直に誉れとすら感じているようだった。
決して人前に姿をさらすことのなかった王女に、間近に接することができることにも感銘を受けているらしい。
貴族であっても、家格によっては王城に上がることさえ許されない。主家筋に娘を見習い奉公に上げるのは、主にそういう低い家格の貴族だった。中途半端な身分ゆえに、庶民よりも王家に対する想いや憧れは強い。有力貴族よりも王統家に奉公に上がることを名誉だと考えるため、王統家に伝手のある者は領地から多少遠くても、危険を冒して旅をさせてでも、仕えに出すこともめずらしくない。
そんな彼女らにとって青蘭は雲上人に等しい。
もとより人並み以上の容色の青蘭が、身分にふさわしいみなりを整えれば、彼女等の期待に十分応えられるものだった。憧れ混じりに遠巻きにされ、理解できないままでも祥香に促されてにおっとりと微笑んでみせれば効果は十分だった。
やがて扉が叩かれ、正装した権大神官が姿をあらわした。
青蘭は無言で立ち上がり、彼女以上に緊張した面持ちの祥香や少女たちに感謝をこめた微笑を浮かべて静かに皆の顔を見渡し、最後に優雅な一礼をしてみせた。
すかさず祥香が膝を折って深々と頭を垂れると、少女たちは次々とそれに倣う。
期待と励ましに満ちた空気に押されるように、青蘭は一歩踏み出した。
先頭を歩く神兵たちも、女神の命日とされる日や新年、夏至や冬至など特別な大祭のおりにしか着用しない、朱の正装に身を包んでいる。
血を連想させる装いが正装であることを、青蘭は不可解な想いで見つめる。
そんな青蘭の疑問に大神官は、人の生とは血潮の洗礼を受けてはじまるからだと説明した。
確かに出産時の出血は避けられないものである。しかし自分の出生と同時に母を亡くした青蘭にとって、その血の色は生よりも死を連想させる。
神兵が朱であれば、彼らより高位の権大神官の衣装は紅に近い。これが大神官ともなれば真紅となるのだろう。
対する青蘭はひたすらに白を重ねた装いだった。柔らかな白から硬質な色合いまで。くすんだ色を一番下にし、次第に明度があがっていく。最後にまとう白は白鳥の羽毛の如く、あるいは新雪のような白だった。
小規模な都市にも匹敵する機能を持つ神殿は広く、複雑に入り組んでいる。本殿は最も奥にあり、そこへいたる道筋は高位の神官しか知らないと云う。
途中にあった大きな石の扉の前で護衛の神兵たちと別れたのちは、権大神官と二人きりで進む。大神官よりも年かさの彼はすでに老境に入っているが、その足取りはしっかりとしたものだった。
石扉から先はまるで迷路のようだった。道を覚えようとしてみたが、じきに放棄する。それほどまでに複雑に入り組み、また頻繁に分岐を繰り返していた。
権大神官は確信に満ちたようすで道を選んでいく。その歩みは早く、青蘭はあとをついていくのがやっとだった。
ようやく磨きこまれた鉄扉の前にたどりつく頃には息が上がっていた。肩で息をしている王女に、彼は声こそかけなかったが息が整うまでその場で待ってくれた。
額をつたう汗を、化粧を崩さないように気遣いながら押さえつつ、深く呼吸を繰り返す。ようやく乱れた息が整い、熱が治まると、青蘭はおまけのようにさらに一つ大きく深呼吸した。
それが合図だったわけではないが、権大神官が扉を押し開いた。
そこは暗く湿った空間だった。
神殿の大半は峡谷の岩盤を掘削してつくられている。建造されたというよりも、彫刻のように削り出されたという表現の方がより当てはまる。
最奥に位置する本殿は、神殿が築かれる前の原初の姿をそのまま伝えているようだった。
あちこちに篝火が焚かれ、暗闇を照らしだしている。炎が揺れるということは、空気の流れがあるのだろう。耳を澄ませばかすかに水音も聞こえる。そして、ほぼ定期的に響く雫の垂れる音。
やわらかな焔に照らし出される天井は陰影に富み、それを生み出しているのは無数の鍾乳石だった。
本殿は鍾乳洞の大きな空洞をそのまま姿で用いていた。
不定形だが円形に近く、あちこちに常闇へと続く口がひらいている。まだ奥へと続いているのだろう。川の流れのような水音は、それらの何れかから響いてくるようだった。
空洞の中央には太い石柱がそびえ、天井と床をつないでいる。表面の濡れたような光沢は、かつては石筍だったものが、気の遠くなるような時間の末に、垂れ下がる鍾乳石とつながり柱と化したものだった。
緩やかな壁は棚田のように水をたたえ、水滴が垂れるたびに漣が光をはじく。
暗く冷たいが、どこか懐かしさも感じる別世界だった。
青蘭は目を奪われてそこから動けなくなった。はじめて目にする光景に呼吸も忘れて見入る。その間、誰も彼女を急かしはしなかった。
やがて石柱の前に泉が沸き、そのほとりに見覚えのある姿があることに気づく。片膝を付き、反対側の手を地面について頭を垂れているのは三人。
孜葉桂琉、嵜葉哉杞、そして葉碧柊の三人だった。
その傍らに大神官・成昊の姿があり、その背後にもう一人の権大神官が控えている。彼の手には一振りの抜き身の太刀があった。
泉のほとりまでは階段が続いている。それだけがこの空間で目にする人の手によるものだった。
岩床も濡れている。裳裾を引きながら濡れた階段を降りるのは一苦労だった。
導かれるままに泉のほとり、三人の候補者たちと大神官たちの対岸にたどりつく。
歩くたびに髪にさした歩揺が涼やかな音を立て、衣擦れがやけに大きく響く。
しずしずと歩み、ようやく泉のほとりの水際に立つ。なにげなく目線を落とし、その泉が赤い水で満たされていることに気づき、息を呑んだ。
泉のほぼ中央あたりから常に波紋が生じている。地下よりこんこんと水が湧き出している証に他ならない。にもかかわらず、その水は赤い。灯りはその畔にもいくつも点されている。水面は暗いわけではない。泉の水は血を思わせる色合いだった。
またしても目を奪われ動けなくなった青蘭を、今度は澄んだ音が引き戻した。
大神官成昊が手にした錫杖をひと振りした。その頭部の大きな鈴が空間を震わせる。
それを合図に三人が顔を上げた。泉の向こうに立つ青蘭を見つめるそれぞれの顔に讃嘆のいろが浮かぶ。哉杞はぽかんと口をあけ、桂琉は呆気にとられたように眼を瞠っている。
白い衣を幾重にも重ね、結いあげた髪に白珠や水晶の歩揺をいくつも挿した青蘭の姿は、泉の波紋の照り返しと焔を受けて暗闇に浮かびあがり、たった今泉から生まれ出たばかりの女神その人のように神々しかった。
碧柊もとっさに目を奪われたようだが、じきに冷静さを取り戻す。賞賛のいろをまじえながらも、彼女が間違いなく自分を選ぶことを確認するようにまっすぐに見据える。その眼差しが青蘭を現実に引き戻した。
大神官は予想していたように真紅の衣に身を包んでいた。泉の水から染め上げたような色だった。その袖がゆらりと動くと、それが合図であったように太刀を捧げ持つ権大神官が歩き出す。再び三人が頭を垂れる。
太刀をもった権大神官は泉のほとりを大きく迂回して、青蘭の前で両膝をついた。太刀を持つ腕をさらに高く掲げる。
盾の代わりに太刀を用いるということは事前に聞かされていたが、それは手に取ることを躊躇わせるような太刀だった。
神器だけあって拵えは見事なものだった。太刀とはいうが、刃は直刃であり正式には大刀と書いて「たち」と呼ぶ。古い形であり、日ごろ目にする形状ではない。手に取るのを躊躇わせるのはその外形ではない。
闇を一閃するような白刃は、半ばまで血に染まっていた。まるでつい先ほど人を斬ったかのようなぬめぬめとした血は、未だ乾ききっていない。いったい誰のものだというのか。
青蘭はもう一度この場に居合わせる全員を見渡す。誰一人として負傷している者はいない。
では、この刃を汚す血は誰のものなのか。
大刀を目にしても一切の発言を慎むようにと大神官は云っていた。この本殿では言葉そのものが禁じられているという。そこに意図的なものを感じつつも、仕方なく大刀を受け取る。
両手で柄を握ったが、ずしりと重い。全体の長さは青蘭が碧柊から譲られた小太刀に近く、男性よりは女性向きの小振りなものだったが、外観以上の重さだった。
今にも切っ先から滴り落ちそうな血糊からは目を背け、その切っ先を水面と並行に保つ。あとは三人のうちの一人を指し示せば、それで<盾>の選定は終了する。
青蘭は迷うことなく彼に大刀を向けた。
昼近くになっても拝殿には人々が静かに詰め寄せていた。
早くに参拝を済ませた者のなかにはすでに聖地を後にした者もいるが、未だ大半のものが神殿や参道にとどまっている。
そこへなんの前触れもなく鐘が高らかにならされた。それは主に朝の開門と夕の閉門を知らせるためのものである。
それ以外の鐘は変事を告げるものだった。