第2章 砦 2
机の上には蜜蝋に灯りが点された。温かな光が室内を照らす。
頭巾を下ろし、面をあらわにした少女の口元には笑みが浮かんでいる。二重の目はなにやら嬉しげに輝き、白い顔を縁取る髪も艶やかに波打つ。疲労の影は未だ抜けきらないが、生気の戻った顔はそれだけで十分に愛らしく見える。
湯気の立つスープと麺麭を前に、青蘭のおなかが大きくなった。そういえば昨夜からほとんどなにも口にしていなかったことを思い出す。
「冷めないうちにどうぞ」
それをここまで運んできてくれた男は、短く促す。
「はい」
木の器に手をのばしながら、机の傍らで壁に凭れる男をちらりと見上げる。
彼はあの隧道で松明を掲げ、守備隊とのやりとりも任されていた人物だった。無駄のない黒の軍服は、彼の引き締まった体つきを明らかにする。巨躯ではないが、長身を活かしたしなやかな動きを想像させる。
無造作にまとめられた髪や、いつもなにやら考えこんでいるような風情、さりげない仕草の一つ一つ、それらすべての印象がある人物と重なる。意識していなければ身につけようのないことばかりだ。特に印象を残さない地味な顔立ちが、その狙いをさらに高めるのだろう。
「なにか?」
ちらちらと向けられる視線に、彼は穏やかに問いを返してきた。
青蘭はこくんとスープを一口飲むと、そのまま顔を上げる。向けられる眼差しはやわらかい。昨夜はやけに油断ならないものを感じさせられたが、あれは気のせいだったのか。
「失礼ですが、あなたは?」
「嶄綾罧と申します、雪蘭殿。王太子殿下の乳母子にして、東宮近衛中将を拝命しております」
その声もまた柔和。壁にもたれたまま姿勢を正さないのは、雪蘭が王族ではないと知っているためだろう。だが、それは無礼というよりは気取りのなさで、親しみやすさを醸し出している。昨夜の印象さえなければ、青蘭も早々に気を許したかもしれない。
「中将殿でしたか」
器を卓上に戻し、敬意を示すように手を膝の上でそろえる。
「……色々とお気に召さなかったでしょう」
あれこれを思い起こしつつ、申し訳なさそうに目線を上げる。綾罧は微笑して首を振った。
「お気づかいは無用です。それより冷めないうちに召し上がってください」
「――はい」
ありがたく言葉に従う。食器が空になるまで待っていてくれるのだろう。なにか聞き出すにしても、食事を終えるまでは答えてもらえそうにない。綾罧も青蘭に問いただしたいことがあるのだろう。そうでなければこのような危急時に、中将の彼がわざわざ来るはずはない。食事のことなど配下に任せればいいはずだ。
空腹も手伝って、あっという間に平らげてしまった。冷めてしまった気取った料理より、よほど美味しかった。心底の満足した笑顔で「ごちそうさまでした」と綾罧に礼を述べれば、彼はわずかに目を瞠り、じきに頬をゆるめた。
「このような粗食でご満足いただけましたか」
「はい、十分です――では、ご質問を。私にわかる範囲で、お答えします」
笑顔を崩さずに切り込めば、中将はわずかに眉を動かす。そんなところも彼の主とよく似ている。
「参りましたね――しかし、何故そうお考えに?」
「中将殿に給仕をしていただく身分ではありませんから――それに、それどころではないのではありませんか?」
笑みをはいたまま小首を傾げてみせる。彼は降参するように苦笑し片手をあげてみせた。
「お言葉通りです。殿下はとんだ懐刀を拾ってこられたようですね――入手なさった経緯を教えていただけましょうか」
「しょせんはなまくら刀にすぎません。女官としての心得がなっておりませんで、職務放棄をしているところを偶然拾っていただきました」
「偶然だと」
「偶然です」
にこやかにきっぱりと言い切れば、綾罧は小さく溜息をついた。
「――では、そういうことにしておきましょう」
それで納得しろといわれても、無理な話だろう。それは青蘭も承知している。
「殿下も同様にお疑いです。けれど、私も姫も、この事態には一切かかわっておりません。殿下にお連れいただいたのは、その疑いを晴らすためです」
一転して厳しい表情で断言する。
綾罧は無表情のまま、青蘭の目をまっすぐに見つめた。そこに感情のいろはない。ただ、昨夜と同じ印象を抱く。やはり、気の許せる相手ではない。
目をそらさずにいれば、綾罧はまた表情を和らげる。腕を組み、壁にもたれる。目線を伏せるようにしつつ、眼の端に青蘭の顔をとらえている。それは、どれほどわずかな表情の変化も見逃さないものだった。
「それで殿下が納得なさったのなら、私が差し出口をはさむ必要はありません」
「殿下は殿下、綾罧殿は綾罧殿でしょう。信じてくださいとは申しません。信用はお願いするものではありませんから」
青蘭は生真面目な顔に笑みを浮かべる。媚びるでもなく、同情を引こうとするわけでもない。そんなことをすればいい結果は産まないだろう。根拠があるわけではないが、姑息な手段が通じる相手でないことだけは確かだ。
綾罧は表情をゆるめる。それはこれまでの表情に比べると、ごくごく自然にうつる。
「確かにあなたの仰るとおりです――信用に値するかどうかの即断は避けましょう。ただ、そういうところが殿下のお気に召したようですね。あなたを小姓として遇するそうです。よって、今宵からあなたがお休みになるのはここです」
台詞の後半は、明らかに意図的な物言いだった。その期待通り、青蘭はぽかんと口を開け、次いで硬直する。言葉の意味はゆるゆると脳裡でとける。
「――それは、殿下と同室ということですか?」
「砦に余分な部屋はありませんからね」
綾罧は同情的な表情で、けれど無情に言い切った。
青蘭は反射的に立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、結局背もたれに力なく凭れかかる。
いくら世間知らずの青蘭でも、それがどういうことかという弁えはある。つつがなく婚儀が終わっていれば、今宵、確かに青蘭は王太子と閨を共にするはずだった。が、今の青蘭は雪蘭であり、婚礼は成立していない。いくらある意味予定通りとはいえ、事情が違いすぎる。
「あくまで殿下は雪蘭殿を小姓として遇される、ということです。あの方は男色の嗜好をお持ちではない。どうしてもお嫌ならば我らと同室となりますが、近衛だけでなく守備隊の者たちもおります」
「大部屋、ですか」
「一〇人が一部屋でひしめき合っています――殿下は雪蘭殿を男性に見えないこともないと仰っておられましたが、同じ感想を持つものは少ないと思いますよ。それに、たとえ男性だと見なされたとしても、それが即ち雪蘭殿の身の安全を意味するものでもありません」
青蘭はその理由を問いかけたが、結局口をつぐんだ。さすがに綾罧もいいにくそうにしている。だからわざわざ、王太子に男色の嗜好はないといってくれたわけだ。
厚意に感謝するように笑みを浮かべ、青蘭は頷いた。
「分かりました。あくまで私は小姓として殿下にお仕えします」
「それが賢明でしょう」
綾罧も安堵したように小さく首肯し、空になった盆を手にする。退室の意図を察して、青蘭は礼を述べ小さく頭を垂れる。
そこで彼は足を止めた。
「……殿下のお言葉が気に障ることもあるでしょうが、悪意はないのです。気にせず、流していただいた方がいいでしょう」
「そのようですね」
青蘭も思わず苦笑する。分かっているなら受け流せばいいのだが、ついついむきになってしまうのは何故なのか。自分でも不思議だった。
そんな反応に、綾罧も微苦笑する。そこにはわずかに同情ものぞく。
「殿下は女性とどう接すればよいのかご存じでない。雪蘭殿への態度は、お気に入りの小姓にかまうときとまったく同じです。昔からそうなのですよ」
諦めたような口ぶりに、青蘭は目を瞠る。
「綾罧殿にも?」
「困った方です――このようなことにならず、無事に婚儀がなっていたとしても、あれでは妃殿下に愛想を尽かされてしまうのではないかと、近衛一同案じていたほどです。雪蘭殿のような方ならその懸念もないのですが、青蘭姫では如何でしょうね」
くすりと思わず青蘭は笑う。
「ご心配無用です――姫も気の強い方、負けてはおられませんでしょうから」
顔をほころばせた青蘭に、綾罧も頬をゆるめる。
「心強いことです――そのためにも、この事態の収拾をつけねばなりません」
綾罧は盆を脇に手挟むと、恭しく一礼して下がっていった。
独りになった青蘭はふぅっと一息つくと、机に頬杖をつく。
王太子は少なくとも近衛からは親しまれているらしい。人となりの一環に触れることができ、何故か心が浮き立つようだった。