序章
そこは奥の宮の一隅。窓辺に椅子を寄せ、頭を突き合わせるようにして、一つの絵姿をのぞきこんでいる二人の少女。双子か姉妹かと思わせるほどに似通った面差しの彼女たちは、従姉妹同士だった。
緑陰に木漏れ日が差し込む。煌めく光は磨きこまれた真鍮におさまった人物の細密画と、それをみつめる少女らの上に均等にそそぐ。
熱心に見つめる少女は上質ながら機能的な女官の出で立ちをし、関心を持ち切れずにいるようすの少女は豪奢な衣装に身を包んでいる。
「ねぇ、なかなかの美男子じゃない? 」
「そうかしら」
「今までに持ち込まれた縁談の中では、一番ましでしょう? 」
「もう確定の縁談ですけれどね」
ふっと小さく息をついた少女は、二重の大きな目をしばたたかせた。どうでもいいとでも云いたげな投げやりな風情に、女官姿の少女が薄く笑う。
「見栄えと条件はこれまでで、一番ましな殿方よ?」
「確かにね――隣国の王太子、容姿端麗、頭脳明晰、温厚篤実、浮名を流すこともなし……胡散臭すぎはしない?」
細い指先が絵姿をはじく。それを手にしていた従姉は、そんな従妹に咎めるような一瞥をよこしたものの、じきに笑いだした。
「その逆の評判でも困るでしょう? 嫁ぐのはあなたなのだから」
「あなたが乗り気なら入れ替わってもいいのよ。私たちがこれほど似ていることはほとんど知られていないのだから、あなたが青蘭姫でも支障はないのよ。本来の血筋でいえば、あなたが直系なのだから」
「青蘭、私は生まれたときから姫でもなんでもないのよ。無茶をいわないで」
「――ごめんなさい」
諭す従姉に、青蘭は素直に詫びる。そんな従妹の髪を、彼女はやさしく撫でつける。
「あなたがどうしても嫌だというのなら、閨のときだけでも入れ替わってあげてもいいのだけれど。さすがに代わりに御子を産んでさしあげるわけにもいかないから」
「とんでもないわ、そんなこと。私の願いはあなたの幸せなのよ。そんなことをあなたにさせるぐらいなら、おとなしくどのような閨にだって、私自身が赴きます」
「私の願いもあなたの幸せなのよ――青蘭、それだけは忘れないでね。あなたの幸せのためなら、私はなんだってできるから」
「それは私だって同じなのよ」
ひどく生真面目な顔で言い募ろうとする青蘭の唇を、従姉の細い指が塞ぐ。
「あなたが幸せなら、私も幸せ。あなたが不幸なら、私も不幸。それだけは忘れないで」
「……雪蘭、それは私も同じ」
「分かっているわ――私にとって一番大切なのはあなたよでも、あなたはこの国の姫。私のことは三番目にしておいてね」
長いまつげに囲まれた瞳を瞠り、青蘭はかすかに首をかしげる。
「三番目?」
「一番は私たちの故国である“葉”、二番目はあなたの夫となる殿方」
「一番はともかく、二番目はわからないわ」
「大丈夫、私の勘はあたるのよ――それはあなたも知っているでしょう?」
雪蘭の悪戯っぽい笑みに、青蘭もはじめて薄い笑みを浮かべた。
「ええ――でも、大切なものに順番なんてつけられない、それは分かっていてね」
「ありがとう、青蘭」
従姉妹同士は額を寄せ合って微笑み、共に絵姿をみつめる。
黒髪に黒い瞳、すっきりとした立ち姿は毅然として頼もしくすらある。
この絵が真実、その人をあらわしているのであれば、悪くない話には違いない。敗戦の人身御供として差し出されるとしても、それが即ち未来を語るわけではない。
夕星が瞬いている。奥庭に落ちる影はすでに濃い。林泉をぬけてくる風は、初夏の夕べであっても心地よい。
こんこんと湧き出す泉の縁に腰かけて、彼女はふぅっと息をついた。
故国を出立してすでに十日以上たつ。
馬を駆れば数日の距離だが、両国をあげての婚姻の嫁入り行列は、なにかにつけて大仰で、とても行程を稼げるものではない。行く先々で歓待を受け、敵国でもあった隣国に入ってからは、出迎えの一行もまじってさらにその足は遅くなった。心底うんざりしたころに、ようやく新たな故郷となる隣国の王都に到着した。
「雪蘭には悪いけれど、本当に息が詰まる」
王族の女性は顔をさらすことはない。薄絹で面を蔽い、自ら声を発することもない。それでも事実上衆人環視だった道のりには心底辟易し、鬱屈した想いを持て余す。
二人の関係は、ごく身近に仕えるものでなければその真実を知ることもなく、彼女たちを見分けることもできない。それに青蘭はすっかり甘えていた。旅の最中にもいよいよ嫌気がさせば、雪蘭に入れ替わってもらうこともあった。さすがに妃としての立場まで入れ替わってもらうわけにはいかず、その甘えも今宵が最後だ。
女官の服装は隣国でも似たようなものだった。そもそももとは同じ一つの国だったのだから、その風俗が似通っているのも当然。国が割れ、二つに別れてすでに一〇〇年以上たつ。それでも今のところはっきりと感じるほどの違いはない。
引きずることもない、足首までの衣装の裾。動きを妨げることのない無駄のない袖。すっきりと結いあげた髪。普段その逆の制約に煩わされている青蘭には、女官の衣装はなにかと意にそぐう都合のいいものだ。
無駄に着飾るからこその王族という立場は分かっていても、個人の好みまでは如何ともしがたい。あまり堅苦しいことが好きではない青蘭にとって、姫としてのあれこれは息苦しいばかり。
小さく鼻歌を口ずさみながら、泉の水をすくう。指の間からこぼれおちる湧水は、ひどく冷たくて心地いい。思わず目を細めたそこへ、唐突に何者かの存在を察して、素早く振り返った。
「そこでなにをしている」
深く響く、静かな声だった。
林泉を中心とする奥庭をかこむ銀柳の木陰に立つ姿は、暮れなずむ光にもかろうじて見てとれた。
紺青の衣装に身を包んだ、すっきりとした立ち姿。上背もあるようだった。凛々しいまなざしと、賢明な顔立ち。
その見覚えのある容姿に、青蘭はとっさに立ち上がる。
「殿下でいらっしゃいますか?」
裳の裾を持ち上げ、咄嗟に身を折る。すかさず返された反応に、声音の鋭さが和らぐ。
「青蘭姫に仕える女官か?」
「はい」
顔を伏せたまま、青蘭は応じる。下手に面をさらせば、今だけとはいえ一時的に入れ替わっていることが、のちのち露呈しかねない。
「かようなところでなにをしておる」
「息抜きを――姫様からお許しを得ましたので」
「……彼の姫は身近なものに寛容なのだな」
どこか感慨深げな物言いに、つい顔をあげてしまった。
そこに立っているのはまがうことなく隣国の王太子にして、明日には夫となるその人だった。
あの絵姿に修正は入っていなかったのだと、妙に感心する。興味深げに無遠慮な視線を向けてくる女官に、王太子は訝しげに首をかしげる
「吾の顔になにかついておるか?」
「いえ、とんでもありません。失礼いたしました」
慌てて再び頭を垂れ、その陰でひそかに首をかしげる。夕闇のなかとはいえ、彼はまったく彼女の正体に気づいていないらしい。
「――しかし、明日には婚礼という夕べに侍女を好きにさせるのだ。さほど手のかからぬ方ということか」
「確かに姫様はおひとりでなにもかもなされようとなさいますが」
着替えから食事にいたるまでの一切合財に人手を介さねばならぬというのは、たまらなく煩わしいことでもあった。思わず漏らしてしまった本音に、彼は小さく笑う。
「一風変わった姫のようだな――だが、これ以上はもう問うまい」
「何故にございますか?」
「先入観を持ってしまうからな」
「……はぁ?」
合点がいかぬといいたげに首をかしげる女官に、王太子は生真面目に応じる。
「妻とする女性は妃一人と決めておる故、思い込みに左右されたくないのだ」
「……けれど、絵姿をお目になされば、多少なりとてお感じになる印象もおありなのでは?」
「ゆえに見ておらぬ」
「――妻となられるお方の容姿をご存じないのですか?」
「見ておらぬ故な」
勝手に先入観を抱いて、実際に人となりがそれとは違うというのは相手にも失礼だろう、とあくまで大真面目にかえしてくる彼に、青蘭は思わず笑いをかみ殺す。
「期待もなさっておられぬと?」
「すべては己の目で確かめ、決めたいだけのことだ」
気難しげに眉間に皺を寄せる。青蘭は肩の震えを堪えるのがやっとだった。
真面目な人柄らしいとは耳にしていたが、そこには馬鹿がつくほどらしい。いっかいの女官相手にもこの対応なのだ。融通が利かないのだろうが、悪い印象でもない。
「――なんだ?」
必死に笑みを押し殺している青蘭の様子を察してか、怪訝そうに険しい表情を見せる。
「いえ、なんでもありませぬ」
従容と頭を垂れつつ、口元が緩むのはなんともしようがない。確かに従姉の勘の外れることは滅多とない。
「そなたもそろそろ主のもとへ戻れ。夜風が冷えてきた」
「はい」
静かな物言いは心地よい。
笑みを浮かべたまま面を上げ、小さく頷いた女官に、王太子もいちいち頷き返す。
その時、唐突に騒がしくなった。鬨の声が上がり、王宮の表のほうより火の手が上がる。ゆるい風になにかが燃える、きな臭さがまじっている。
「――?」
何事が起ったのか。見当もつかず狼狽し、立ちすくむ。
王太子も同じ方向を見、腕を組んだまま言葉はない。
そこへなんの前触れもなく、二人の前に影が跪いた。
青蘭は驚いて息をのむ。王太子はあらかじめ予想していたのか、身じろぎ一つしなかった。
「青蘭姫の一行に、刺客が混じっていたようです。陛下がお斃れになりました」
「なんだと?」
「こちらへ向かってくる手勢もございます。一刻も早く避難なさってください」
影は落ち着いた声でそれだけ告げると、立ち上がり急ぎ足で木蔭へ向かう。王太子もその後ろ姿に続きかけたが、不意に思いついたように青蘭の手をつかんだ。
「巻き添えにならぬように、そなたも来い」
「――!?」
有無を言わさぬ腕の力。
事態がわからないまま絶句し、引きずり込まれたのは奥庭の石畳にたくみに隠された通路への入り口だった。