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ハリーウィンストンが欲しくて

作者: 長坂はるか
掲載日:2018/01/03

夜十一時、電話が鳴った。

「今から会えない?」

眠い目を擦り、いそいそとメイクを始めるとメールが来た。

「やっぱり無理」。

あなたはいつもそうだ。


本当は、ファッション誌「ポパイ」のお洒落編集長になりたかったあなた。行きたかったマガジンハウスに最終面接で落ち、今は大手新聞社で記者をしている。ジャーナリストになりたい人なんてたくさんいるから、本望でないなんて罰当たりもいいところだ。


出会いは六年前。入社三年目の若手記者だったわたしが、静岡に赴任した時のこと。八つ年上のあなたが直属の上司になった。

異動したその日に目を付けられた。

「そのバッグ、フェリージじゃない?」。

買い物好きのわたしは、イタリアのブランド、フェリージの肩掛けバッグとポシェットを使っていた。

「俺もバッグ、フェリージなんだよね」。

あなたは挨拶代わりに同じネイビーのリュックサックを出した。

その日から、わたしはあなたのお気に入りになった。ただ、彼女という定義なのかは、未だに謎のまま。良い様に使われている疑惑もある。


初めてあなたの家に行った日。玄関を開けて驚いた。一面に広がる五十足の革靴は、ジョン・ロブ、チャーチ、J.M.ウェストン。棚には、バスケ部出身だからという理由で初版から全部揃えてられている百足近いナイキのエアフォース・ワン。コレクションの山々が、わたしを出迎えた。

わたしは困惑した。これは厄介な男に惚れてしまったと。


あなたは過ぎるくらいこだわりがある。あなたの部屋は、厳選されたお気に入りの数々が並ぶセレクトショップだ。ペンダントライトは、ルイスポールセン、壁にはジョージネルソンの時計。ダイニングチェアはイームズだ。家電はアマダナ、ベッドはシモンズ。夜はアングロポイズドのライトの明かりの下、読めもしないフランス語のボードレールの詩を眺めながら眠りにつくのが、あなたの日課だ。


ハードすぎる新聞記者の業務で身体を壊し、早々に会社を辞めたわたしは、国際開発を勉強しにアメリカの大学院に国外逃亡した。

あなたは世渡りがうまい。一年後、東京に異動し、それからは地方に飛ばされることもなく東京に留まり続けている。高給取りのマスコミ業界で、記者十七年目。正に独身貴族だ。

わたしとは付かず離れずの関係が続き、既に五年が経過する。


あなたのこだわりは、横にいるわたしにも及ぶ。

「足が華奢に見えるから」。

わたしが履くのはレペットのサンドリヨンかジジ。最近はアクネ・ストゥディオのスキニーデニムがわたしの制服だ。あなたが着て欲しい服をわたしは着る。あなたはファストファッションが嫌いだ。だからわたしもファストファッションを着ない。寒がり屋のわたしのために、唯一、ユニクロのヒートテックの着用だけは許してくれているけれど。


「ボーダーは俺が着る」。

神保町で古本屋巡りをしたとき。セントジェームスのウエッソンにジーンズ、ニューバランスの九九六を履いて待ち合わせ場所に行くと、色違いの全く同じ格好をしたあなたを見つけた。予期せぬペアルックがよっぽど嫌だったのだろう。以来、わたしにはボーダー禁止令が出ている。わたしの衣装はジェームス・パースやフランク・アンド・アイリーン、あなたの着ないものになった。あなたは言う。ただ、可愛い女は駄目だと。一緒にいて絵になる女が必要なのだと。あなたの理想は高い。




気づけばわたしも、もう三十。周りの友達はとうに結婚し、子供もいる。

旦那の愚痴をこぼす友人たちは、不満を抱えながらも安定した家庭を築き、幸せそうだ。

「いいよね、独り身で。自由で」。

友人たちはわたしを羨む。

本当は、わたしだって、そろそろ落ち着きたい。


銀座一丁目のハリーウィンストンを通るたびに思う。

わたしも欲しい。セックス・アンド・ザ・シティで主人公のキャリーが付けていたあのダイヤのエンゲージリングが。


知っている。あなたが宝石に全く興味がないことを。それは、自分が身に付けるものではないからだ。

知っている。あなたにはこだわりがある。でも、それが自分のためにしか注がれていないことを。

でも、わたしはあなたを急かしたりはしない。自分に言い聞かせる。これは長期戦なのだということを。




あなたは松戸に住んでいる。駅は常磐線の松戸じゃなくて北松戸。会社の社宅だからだ。知っている。あなたが、そこに住むのが不本意であるということを。


留学生活も終わりに近づき、今後の進路を考えた。そろそろ本気で落ち着きたくて、今後の秘策を練った。東京の国際NGOに就職が決まり、「仕事決まった、神楽坂に住む」と連絡すると、すぐ電話が鳴った。

「明日休みだから、今晩一杯どう?」。

戦略は当った。

わかっている。神楽坂はあなたの一番好きな街なのだということを。


新聞記者の業務は不規則だ。連日深夜まで働き、休みは昼まで寝ているあなた。わたしは朝一番に神楽坂のアルパージュに行きチーズを、イタリア食材屋のドルチェ・ヴィータでワインと生ハムを、それからメゾンカイザーかポールでバケットを買い、松戸に繰り出す。あなたに代わり、あなたの好きなものを選ぶのがわたしの任務だ。

昼下がり、あなたの家に着く。わたしはダイソンの掃除機で部屋を掃除し、四十近くあるあなたのスラックスにプレスをかけ、三十は下らないあなたのジャケットにブラシを入れる。あなたに代わり、全オーダーメイドのあなたのお気に入りを手入れする。ワイシャツはプレスが綺麗に入らないと嫌だというので、クリーニングに出しに行く。あなたはごろごろしながら、お気に入りの雑誌「ポパイ」を読み、マイルス・デイビスを聴く。

わたしが「このシャツ可愛いね」と言うと、あなたは目の色を変えて話始める。

「ヤエカで買ったんだよ、生地が、仕事着っぽいのがいいよね」。

「ワンピースみたいに着られるかな」。

わたしはあなたのヤエカのシャツを羽織る。一八〇センチ近いあなたの大きなシャツやライダースを、一五〇センチのわたしが上手く着こなすのが目下の課題だ。

あなたより粋な女になれば、きっとあなたはわたしが欲しくなる。

ちなみに、靴磨きは俺の趣味だそうで、彼の靴コレクションは触らせてもらったことがない。


あなたのこだわりは食べ物にも及ぶ。

「適当に昼ごはんを済ませるのは嫌だ」。

あなたは決して、会社の社食やコンビニ弁当は食べない。好きなのはカレー。あなたの地元愛知のカレーハウスココ壱番屋ではお気に召さないらしく、東京の美味しいカレー屋を巡っている。もう二百件以上回ったよと、薀蓄を連ねる。

夜は、チーズとワイン。チーズはパルメジャーノ・レッジャーノ。スーパーで売っているプロセスチーズは食べないし、缶酎ハイも絶対に飲まない。ウイスキーはマッカランの十二年じゃなくて、十八年。ウイスキーが全く飲めないわたしにはわからないが、十八年は香りが違うらしい。リキュールはロートレックが愛したアブサン。あなたが一番好きなビールだけは、なぜかコンビニで買えるプレミアムモルツだけど。

あなたがラムチョップを食べたいと言えば、わたしは新宿伊勢丹まで買い出しに行き、一時間かけて松戸まで配達する。「肉料理は男の仕事」らしく、料理はあなた。わたしは助手。ショットグラスはバカラ、ワイングラスはリーデル。

「カットがいいんだよね」。

大好きなバローロを飲みながら、あなたは話し出す。わたしはひたすらあなたの話を聞く。

あなたは知っている。わたしがあなたのこだわりを聞くのが好きだということを。


この日のあなたはご機嫌だった。最後の一点だった限定のマッキントッシュのデニムコートが手に入ったことが、よっぽど嬉しかったのだろう。意気揚々とコートを見せてくれた。

「デニムコートってさ、糊を落とすのが大変なんだよね」。

「お洒落さんだね」。

知っている。あなたが、ただハンサムな人にはなりたくないということを。物の価値を知っている人でありたいということを。だから、わたしは会話の端々にあなたが粋であることを表わす言葉を散りばめる。

こだわり談義が終わるとあなたは寝てしまうから、洗い物はわたしがする。


あなたは負けず嫌いだ。ことお洒落に関して。自分が欲しかったハンターのブリティッシュグリーンの長靴を、わたしが履いていたのが悔しくて、あなたはネイビーのショートブーツを買った。本当は緑色が欲しかったのに。意地を張って「男はネイビーだ」と言っていた。

ふと、あなたが何を目指しているのか知りたくなった。聞けば、将来の夢はセルジュ・ゲンズブールだという。そうしたら、わたしはジェーン・バーキンだ。エルメスに鞄を作ってもらえる女になるまでの道程は険しい。



あなたに構ってもらいたくて、わたしはきょうも策を練る。メールの書き方、電話のタイミング。電話は基本しない。

知っている。あなたが自分の時間を阻害されるのが嫌いなことを。

気が向いたときはチャットのようにメールが来るし、来ないときは二週間近く返信がない。ほかの女と違って、わたしは返事を急かさない。仕事の話も理解できる。五年もこの関係が続いているのは、きっとわたしが楽なのだろうと踏んでいる。

本当のところは分からないけれど。


週末のバンコク出張が急きょ中止になった。この週末はあなたの三か月ぶりの暦通りの休みだ。あなたに会える。早速メールの文面を考える。「会いたい」なんて言葉は使わない。面倒くさい女にはなりたくないから。

「出張中止になった、やってらんない。おっさん遊んで」。

メールの送信ボタンを押す前に、電話が鳴った。

「やってらんない、出張入った…」。

なんと、選挙の取材で人手が足りず、休み返上で新潟に行くそうだ。相当ショックだったのだろう。あなたの声は、どことなくか細かった。

「さみしい」の代わりに、「おっさん頑張れ、お土産忘れずに!」と返す。


社会部に異動になり、あなたの仕事はますます忙しくなった。仕事の愚痴も増えた。この前会ったときは、夜中の三時に呼び出されていた。負けず嫌いのあなたにしては珍しく、「地方に異動して、田舎でゆっくりしたい」なんて、弱音まで言い始めた。

これは危険だ。ストレス解消には部屋に緑があると良いと聞いて、仕事帰りに待ち合わせ、パキラを日比谷花壇に買いに行った。二人とも買ったことに満足して配送手配を忘れ、二メートル近くあるパキラを抱えて、帰宅ラッシュの常磐線に乗って松戸まで帰った。周囲に白い目で見られながら。

水をあげるのはもちろんわたし。あなたの観葉植物になりたいと思いながら。


残念ながら、あなたは世渡りが上手い。

気づいている。あなたがもうしばらく、少なくとも二〇二〇年の東京オリンピックまでは東京にいるということを。あと四年はこの激務が続くということも。岩のように固くなったあなたの肩を揉みながら、わたしはあなたの健康を願う。


そういえば、「島流しにあったら、付いていってあげるよ」と冗談半分で言ったら、「ほんと? 毎日掃除機かけてもらえるね」と、満更でもなさそうだった。


もしかしたら勝利宣言の日は近いのかもしれない。


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