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言語論的推理小説集③「アフター・ザ・クエイク」

作者: 鈴木准丸


 目的の高速出口まであともう五分ほどの地点だった。峠を過ぎ下り坂に入ってスピードが上がりがちだった車が急に、文字通りガタ、ガタと音を立てて揺れ始めた。私は思わずタコメーターに目をやった。五万キロを少し越えたところ。むろんたかが隣県へのこの旅でいきなり走行距離が延びているはずもなかったが、五万キロ、その程度で果たしてミッションがイカ(・・)れるものか? 私は訝りつつも宥めるように、あるいは労わるように愛車を路肩へ寄せた。ハンドルに添えられた震え続ける私の手を、真奈美が助手席で不安気に見つめていた。周囲には残雪があった。私たち以外に走行車は見当たらなかった。

「これって?」と車が停車し、僅かばかりの間の後で、先に口を開いたのは真奈美のほうだった。

「うん」を私は揺れ泳ぐような視線を前方から彼女に向け、頷いた。頷きつつ、愛車にアクシデントがあったわけではないことに胸を撫で下ろしてもいた。

「大きい?」

「うん。たぶん。かなり――」

 長い時間だったような気もするが実際には数秒だったのかもしれない。完全に停止してからも車は揺れ続けたのだった。

揺れていたのは車ではなく、地面のほうだった。走っている車がてっきり故障したと思えるほど大きなもの(・・・・・)を私は、そして真奈美もそれまで体験したことはなかった。私は恐る恐る辺りを見回した。視界の内では崩落は見てとれなかった。私はラジオのスウィッチを入れた。ノイズばかりでどの局も受信できなかった。じきにこの道路は閉鎖されるに違いなかった。国道(した)へ降りるしかなかった。

「大きな地震だったようですよ」と言う料金所の係員の声は上ずっていた。

ETCレーンはすでに閉鎖されていた。私がカードをスロットから抜こうとするのを係員は制し、「どちらから?」と訊いてきた。

「盛岡です」

 言われた金額を私は小銭で支払った。料金所を出たところで携帯電話が鳴り出した。東京本社の同僚からだった。大きな揺れからそうもしないうちに電話があったということは、東京でも強い揺れを感じたのに違いなかった。

「震度7」という彼の情報を真奈美に伝えると、彼女の目も口も開かれ、どちらもしばらくはすぼめられなかった。その数値を現実のものとして耳にするのは初めてだった。あとから、「7」を記録したのはずっと南のほうだと知ることになるわけだが、そのとき私は未体験の数字に圧倒されてしまっていた。津波警報が出ている、気をつけろ、また連絡する、と同僚は立て続けに言い電話を切った。内陸のこの地では津波の心配はなかったが。

国道へ降りると、前方をランドクルーザーがゆっくりとした速度で走っていた。道路にはそこかしこに小石が転がっていて、いずれ大きな岩に出くわすとも限らなかった。

「どうするの? このまま盛岡まで戻る?」と言いながら真奈美が私のジャケットの袖を引いた。

「とりあえずホテルまで行ってみよう」と私は小さく首を振った。「戻ろうにも、停電しているかもしれないし」

 頭の中では、支店のことと東京の家族のこととがごっちゃになっていた。支店には、東京に帰ってくると言ってあった。東京の家族には、先月末に事故死した部下の四十九日の法要に沿岸に行ってくると伝えてあった。真奈美も携帯電話をしきりにいじっていて、私は車をいったん停め「無事」とだけ東京に、そして「皆無事か? 東京もだいぶ揺れた」と支店にメールを送った。真奈美は仙台の実家にダイヤルしたがやはり不通になっていて、メールで「無事。」と「無事?」と送信した。どちらもすぐに届く確証はなかったが。

 ホテルに着くと、チェックイン時間を三十分ほど過ぎたばかりだったが、ロビーには宿泊客がすでに溢れていた。ロビー全体は暗く、一部の電灯だけが点いていて、自家発電をしているようだった。フロント前にテレビが設置され東京からの地震速報が映されていた。津波警報発令中を示す赤い帯が太平洋沿岸で点滅していた。東京でも震度5強だったことをこのとき知った。出ているのは「津波警報」ではなく「大津波警報」だった。私たちが所在なげにソファーに腰を降ろしたのと前後して一人の警察官が外からロビーに駆け込んできた。高速道路は閉鎖され、国道のほうは信号がどこも消えているので車での移動は危険きわまりなくしばらくはここに留まるよう叫び、すぐにまた飛び出していった。ホテル従業員がその背中を迷惑そうに見送っていたが、興奮状態の警察官はホテルとの打ち合わせもなく勝手に、ここから動くな、と言い放っていったのだろう。緊急時には情報の出元を一本化する。各自が勝手な判断で情報発信を行わない。平常時の警察官であればそうした基本的なルールが当然念頭にあるはずだった。

 順番に宿泊客をまわっていた従業員がじきに私たちのところにもやってきた。私が自分の名前を告げようとするとそれに声を覆い被せるように、こうした状況なので今日の営業はとりやめたい、状況がわかるまでここで待機してもらっても構わないが宿泊はできないと、意識的に心がけていることが表情に見てとれるような、噛んで含める口調で告げた。折しもテレビからは盛岡市内も含め岩手県内の広域で停電になっていることが伝えられていた。私は真奈美と顔を見合わせた。他の宿泊客たちは茫然とした表情でテレビ画面に視線を注いでいた。まさにそのとき、防波堤を越える津波の映像が画面に流れ、ロビーのあちこちで悲鳴が上がった。

「信号が消えていたら帰ろうにも帰れないですし」と私はテレビ画面に目を向けながら支配人とおぼしきそのホテル従業員に言った。「ましてや、日が暮れてしまったら危険きわまりなくなる」

「わかりました。夕食は弁当重になります。一泊一万円でお願いします」

 あっけない返答に私は拍子抜けしてしまった。できるだけ宿泊者を減らそうと、まずは退去を促したということだったのか。冷静に 考えてみれば、私たちのように比較的近間から車で訪れている客ばかりとは限らないはずだった。遠方から公共交通機関で来ている客を放り出すようなことにでもなれば、あとあとホテルの責任を問われることにもなりかねない。私たちのように車で移動する人間も万一事故となれば、追い出したホテルが追及される可能性がある。一泊一万円は予約していた本来の宿泊費より数千円低い金額だった。

「それと」と支配人は続けた。「お部屋には給電がありません。夜になればかなり冷えてきます。お風呂は今晩は大丈夫だと思いますが、明朝には湯熱が下がると思います。ご了承ください」

源泉かけ流しの宿ということで選んだが、普段は加熱しているということだろう。それでも、オール電化の盛岡のマンションに戻ったところで、停電していれば風呂も入れられないし、それ以前に給水すらままならないはずだった。たとえぬるくなっても湯で暖をとれるのはありがたかった。

 エレベーターも停止していて、宿泊客に供されるのは一、二階の部屋だけだった。私たちには二階の奥から二番目の部屋があてがわれた。部屋に入ってすぐに真奈美はルームフォンから仙台の実家に電話を入れた。震度7を観測したのが宮城県内だったことがわかり、真奈美の受話器を握る手には力がこもったが、やはり不通だった。直後に私も盛岡のマンションの管理人室にダイヤルした。けれども、停電のせいだろう、呼び出し音は聞こえてこなかった。携帯電話には、さきほど送ったメールへの反応はいまだになかった。

「どうする? 連絡がつくまで待つか?」

 私がそう訊くと真奈美は「うん」とも「いいえ」ともつなかい首の傾げかたをした。

「お風呂に行こうかしら。冷めてしまわないうちに」

 三月にだいぶ足を踏み入れていたが、北の地にはまだおおよそ春らしさは訪れていなかった。その中で、テレビ画面で見た津波を思うと身の毛のよだつ思いだった。大きな揺れから一時間が経ち、私も真奈美も、そしておそらく揺れを経験した人間誰しもが、冷静さを取り戻し、と同時に急に心細くなり、うろたえ出したとしても何の不思議もない状況だった。

「あったまりに行くか」と私は真奈美に同意した。

 真奈美は頷き、押入れから浴衣を取りだしてサイズの大きいほうを私によこした。その横顔が、不安というより、どこか淋しそうに見えた。

 風呂場にはまだ人影はまばらだったが、湯に浸かっている宿泊客は、普段であればそうしたこともないだろうが、見知らぬ者同志が言葉を交わしていた。そのうち一人は東京からの旅行者のようだった。あおものよこちょう、という地名が聞こえてきた。

「家内と北からずっと回ってきて、明日戻る予定だったんですがねえ」とその男は風呂場の天井を見上げながら横にいる別の男に話していた。「仙台駅の状況からして新幹線は無理でしょうね。どうやって帰ったらよいものやら」

 ひしゃげた天井がプラットホームに覆い被さっている仙台駅の様子がさきほどテレビに映し出されていた。

「仙台駅を映しながら、伝えている交通状況は東京のもんばかりだったな」と別の男が言った。「山手線がどうとか、小田急線がどうしたとか」

「台風だってなんだってそうだな。東京に近づく時は大騒ぎして伝えるが、いったん東京を過ぎたら、台風は無事に東北に抜けました、なんて平気で言いおる」

 私は湯船の青物横丁の男の横に浸かった。

「今はこっちなんですが、私ももともとは東京です」と私は言いかけそうになった「単身赴任」という言葉を呑み込んで男に話しかけた。

 男は一瞬だけ戸惑うような表情を見せたが、自分たちの会話が聞こえていたのは先刻承知のようだった。それくらい、男たちは大声で語り合っていたのだった。

「それにしても困りましたね。お察しします」

「はあ。年金暮らしの身で、急いで東京に帰らなきゃいけないとう理由もないんですが、先が見えないことには、どうにも」

 実際のところ、道路も鉄路もままならない状況では、残る選択肢は空路しかないはずだった。大館空港ならここからそう遠くもなかったが、それでもどうやってそこまで行くか。

「犬をね」と男が天井を見上げながら言った。「預けているんです。家内の妹のところに。神経が細いと言うか、飼い主が不在だとストレスを抱える性質なもんで、それだけは心配なんですが、あの状況を見たらとうてい、犬のことなんて言ってられません」

「あの状況」というのはむろん、テレビに映し出された津波を差していた。男が漏らした深い吐息に、湯船は静まりかえった。

 部屋に戻ろうと真奈美と待ちあわせていたフロントまで来ると、長い延長コードにつながれたテレビの前には椅子がいくつも並べられ、宿泊客が無言で画面に見入っていた。薄暗くなった中、何人かは肩から毛布を被っていた。家も車も片端から津波にさらわれていく様子が上空からとらえられていた。川が完全に逆流していた。未曽有の事態であるのはもはや明らかだった。私は列の最後尾から他の宿泊客の肩越しにテレビ画面を眺めた。

しばらくして真奈美が風呂からあがってきた。髪は濡れたままで、バスタオルで水気をしきりに拭きとっていた。ドライヤーも使えないのだった。

「沿岸に行くって言ってあったんでしょ」と私の横に座りながら真奈美は言った。「きっと、すごく心配されてるわ」

「うむ。そちらはどうなの?」と私は話題を逸らすように真奈美に訊ねた。

「実家は高台だけど、下の妹が荒浜で、そっちのほうが心配」

「あらはま?」

「海沿い。サーフィン好きの亭主がボードを何百枚もしまえる倉庫つきの家を建てたの」

 サーフィンと言えば湘南や房総と決めつける東京の人間には、「仙台」と「サーフィン」とが思うように結びつかなかった。しかし、サーフボードの倉庫まであるとなると、そこは海に近いのに違いなかった。

「戻ろうか。連絡が入っているかもしれない」と私は真奈美に言った。

 私の携帯電話には東京からメールが届いていた。よかった、こちらもかなり揺れたけどだいじょうぶ、というだけの簡単なメッセージだった。いっぽう、真奈美の携帯電話には着信があり、折り返しコールしてみたものの、やはり発信音は鳴らなかった。私が促すと真奈美は部屋の電話の受話器をとった。


 あの日、彼は海沿いの町に行くと聞いていたので、テレビ画面につぎつぎに流れる津波の狂涛を見ていたら気が気ではありませんでした。最初は、電話をしても呼び出しませんし、メールを送っても返信はありませんでした。でも、やがて地震の直後に彼が発信したメールが届き、いまどこでどうしているのか、そしてどうやってあの大きな波を逃れられたのかはわかりませんでしたが、ひとまずは胸を撫で下ろし、通信状況も考え短い返信をしたのです。でも、考えてみたら地震の直後にはまだ津波は来ていなかったはずなので、もし目的地に達していたらと思うと、再び私は不安に苛まれました。けれども、電話は通じません。メールも、届いているのかも、それ以前に、送れているのかどうかもわかりません。もちろん会社にも電話を入れましたが、停電しているのでしょう、コールしてもうんともすんともいいません。文字通りのお手上げ状態です。第一波はせいぜい50センチ程度だったと報じられていた津波も、すでに警報の数字は「10メートル以上」になっていました。彼は泳ぎが得意ではありませんでした。いえ、桁違いの津波の中では泳ぎの得手不得手なんて何の意味もないのかもしれません。三年前の大地震は内陸が震源でした。彼はその一週間前に、追って地震で崩落することになる橋を渡っていたそうです。もし出張が一週間遅かったらと彼は、まるで運も実力のうちとでも言いたげに後日私に話して聞かせました。何かあったときのために泳げるようになっておこうか。そんな彼の言葉は、もちろん口先ばかりで、無定見でした。そんな粗忽なことを言っているから、と私はまたいまいましくさえ思いました、今度は出張のまさにその日にこんな災難に見舞われるのだと。

 テレビでは東北の津波の様子と、東京の交通機関の状況が交互に伝えられていました。それはどこか異様でした。津波が山手線や中央線を停めているような、そんな感覚にさえなりました。新宿や渋谷の通りには、歩く人々が徐々に増えてきていました。その人たちも、津波に追われ帰宅を急いでいるかのようでした。テレビを通じて世界がシンクロしていました。グローバル・ビレッジ。そんな言葉が思い浮かびました。


 夕食時間に指定された六時前になりロビーに降りると、テレビでは原子力安全保安院の緊急放送が流れていた。どうやら福島原発で深刻な事態になっているようだった。テレビの前の宿泊客はつぎつぎに明るみになる局面に、ただひたすら言葉を失っていた。フロントデスクには地方紙の号外が積まれていて、私と真奈美もそれぞれ一部をとって、大きく写された津波の写真に目を落としながら食事処へ向かった。

 食事の席につくとすぐに、隣にさきほど浴場で出くわした青物横丁の男が、夫人とおぼしき女性とともに高脚膳の前に座った。私たちは目で軽く会釈をし、しかし、出る言葉はなく膳に載った松花堂弁当に箸を伸ばした。部屋の角に、天井から発電機系統の電気コードが垂れ下がっていて、その先端にうざる(・・・)ようにつながれたたこ足にいくつもの携帯電話から充電ケーブルが伸びていた。しばらくは空きがでそうにもなかった。

食事を始めてそうもしないうちに真奈美の携帯電話が鳴った。画面を確かめ、「実家から」と彼女は言って、席を外した。その様子を青物横丁の夫婦が心配そうに見つめていた。真奈美の表情が着信音とともに無意識のうちに強張っていたようだった。

「実家が仙台なんです」と私は真奈美の背に視線を向け、二人に言った。「テレビに映っていた海沿いに妹夫婦が住んでいます」

「それはご心配ですね」と言ったのは夫人のほうだった。「何事もなければ良いのですが」

「はい」と私は頷きながら、目の前の夫婦には私たちはやはり夫婦に映っているだろうか、とすれば真奈美の妹夫婦との親近さをもう少し言葉に籠めたほうがよかっただろうかなどと後悔したが、そんな私の小心さが大災害の前にしてみすぼらしくも思えた。私は再び視線を膳に落とし、小魚を箸で突ついた。

 真奈美は五分ほどして戻ってきた。その表情には安堵の色があった。

「無事だったか?」と私が彼女に訊くのを、隣の夫婦が心配そうに見ていた。

「うん。家族全員、無事だった。でも……」

「でも?」

「妹の家はやっぱり流されたって。建っていたところからだいぶ離れたところにあるのがテレビに映っていたみたい」

「どうする? 帰るか?」

「帰って何ができるってわけでもないけど、心配は心配。でも、こっちの状況しだいね」

「電気が戻るまではここにいたほうがよさそうだけどな」

「そうよねえ」と真奈美は言い、肩を落とし、短い吐息をもらした。「ガソリンは?」

「ガソリン? 一昨日入れたばかりだけど?」

「よかった。仙台ではガソリンスタンドに行列ができてるって。こっちもたぶん同じじゃないかな。いまあるぶんがなくなったらとうぶん供給が止まるって皆思ってるのね」

 港も鉄道も道路も機能しないとなれば当然ながらガソリンを輸送する手立ては途絶えるはずだった。ガソリンだけではなかった。輸送手段が麻痺するとなれば、そもそも食料だって早晩底をつくのが目に見えていた。いまごろはスーパーマーケットやコンビニエンスストアにも人々が列をなしているのに違いなかったが、山里の宿にこうしてじっとしている限りは、その狂騒が耳に届くはずもなかった。

 何を食べたかもろくに覚えていないような食事を済ませると、私たちは再びロビーのテレビの前に陣取った。置かれた二十脚ばかりの椅子はほぼ満席だった。原子力緊急事態宣言が出されていた。津波の被害は深刻さを増していた。八戸でも港で車が流されていた。石巻では火災も起こっているようだった。東京では方々の道路に帰宅難民が溢れていた。

「どうして、あんなにしてまで帰ろうとするの? オフィスのデスクに突っ伏して仮眠をとるとかできないのかしら」

「台風だって雪だって、東京の人間はとにかく家に帰ろうとするな」と言いつつ、いまこのとき、息せき切って家に帰るという選択肢を脇に追いやっている自分に私は驚いたのだった。それはもしかしたら、この場では家に帰ろうとしないほうが大勢だからかもしれなかった。つまり、東京はその逆で家に帰ろうとするほうが大勢だから、ないしは大勢のように見えるから、誰もが家に帰ろうとしている、ということにほかならなかった。

「まだここにいるか? 部屋に戻ってもテレビも点かないし布団を被って寝るだけだけど」

「私はもう少しここにいる」

 真奈美がそう言ったのは、むろん私に気を使ってのことだった。彼女は家族と電話で連絡がとれたが、私は「無事」とメールを送ったままになっていた。そして、いまのところそれへの返信は入っていなかった。少なくとも部屋の電話が通じていることは、先刻真由美が仙台に電話をして確認できていた。そろそろ、私のほうも部屋から電話をしてもよい頃合いだった。一年近く前にIP電話に切り替えていたが、テレビで見る限り、東京は停電していないようだった。支店とマンションの管理室にももういちど連絡を入れたほうがよさそうだった。私は毛布がかかった真奈美の肩を軽く叩いてから、部屋へと向かった。


 彼とようやく連絡がとれたのは夜の九時過ぎでした。電話は、携帯ではなく家に入りました。こうしたことになるとはよもや思っておらず、彼のその日の予定も、沿岸のほうに若くして亡くなった社員の法要に行くとうる覚えしていただけで、それ以外の細かなことは聞き流していました。具体的な地名があったとしてもこちらにはピンときませんから聞き流さざるをえない、そう言ったほうが正確でしょうか。しかし、彼が向かっていたのが、庁舎が流され町長を含む町の幹部が大勢行方不明になっていた大槌だったことをあらためて聞かされると、身体ががたがたと震え出しました。その日の午後は代休にし、法要の前日から現地に入り、一泊しながらゆっくり沿岸めぐりでもする心づもりだったようです。とにかく彼がそのとき無事でいたことに私は何よりも安心したのです。なにしろテレビで繰り返し映されるあの状況です。現地にいたら助かるほうが難しいようにさえ思えました。ましてや、そう、彼は泳げないのですから。

 強い揺れに見舞われたのは遠野を過ぎたあたりということでした。車が急に揺れ出し、故障と思い路肩に停めてもまだ揺れ続けていたので地震、しかもかなり大きな地震とわかったそうです。内陸の遠野から沿岸の釜石へと国道が通じていて、その途中には『遠野物語』にも出てくる有名な険しい峠があり、最近になって新しいルートが開通したそうですが、その途中には高さ百メートルを超える吊橋があって、そのときの揺れから彼は咄嗟にそのまま沿岸に向かうのは危険だと判断したようです。もちろん、それが正解だったのです。もし東進を続けていたら、まさに大津波が到達する時間に、その頃合を見計らったかのように、彼は沿岸に着いていたことになります。

 彼は路肩に車を停めたまま、矢部さんというその社員の法要が行われる予定だった寺に電話を入れたそうですが、呼び出し音は鳴ったものの誰も出なかった。葬儀に訪れた際に、寺じたい比較的高台にあり、裏手が山になっているのも見ていて、すでに皆そちらへ避難したのかもしれないと彼は思ったそうです。けれども後からわかることですが、その寺は津波が押し寄せた後に出火し、避難していた住民ら三十人が行方不明になりました。つまり、彼が電話した後に近隣の住民が続々と寺に集まってきたということになるのでしょう。彼が泊まるはずだったホテルもまた、高さ十五メートルの波に洗われ、宿泊客は全員山に登って無事だったものの、残された客がいないか館内を血眼で駆け回りすみずみまで確認していた社長と若女将が行方不明になりました。ほんとうに、もしあと少し早く沿岸に辿り着いていたら彼は間違いなく大津波に襲われていたでしょう。

 そのときの彼にはまだそうした沿岸の追って至る事態がわかるはずもありませんから、社名で赴くはずだった社員の法要に、道半ばでUターンすることへの一抹の後ろめたさがあったとのことです。けれども、この先に行ってはいけない、彼は直感的にそう思った。そして、おそるおそる来た道を戻り始めたところで東京の本社から電話が入ったそうです。震度7の大地震です。その数字を耳にしただけで縮み上がってしまいます。元部下の法要へ行くのを断念したことを誰も責めはしない、そう確信し彼は車のスピードを上げました。

 途中まではよかったそうです。けれども、中心地へ入ってくるとそこかしこで渋滞が起きていた。停電で信号が消えていたのです。そのときにはようやくラジオが受信できるようになっていて、県内では至るところで同じような状況であることを彼は知りました。盛岡までは六十キロ以上の道のりです。さきざき交通量の多いところに入れば危険きわまりなくなってくる。かといって、どうすればよいものか。前に行ったものやら、この場で止まったものやら、どちらにしても前途多難で文字通りがんじがらめの状況です。とそのとき、彼の目に入ったのが道路わきの旅館の看板でした。この先5キロと書かれている。こうした事態で営業できるかどうかもわからず、また彼同様に行き場がなくなった旅行者が殺到しているかもしれないが、とりあえずそこまで行ってみようと彼は思ったそうです。彼には一縷の望みがあった。それは、その宿が会社の取引先でもあったということでした。

 宿につくと、全体的には暗い印象でしたが、一部の電灯は点っていて自家発電が行われているようでした。それほど大きな宿ではありませんが、想像していた通りロビーには人が溢れていたそうです。彼が中に入っていくと支配人が彼の姿を認め軽く会釈をしましたが、他の客の応対に追われ、それどころではないという様子が見た目にも明らかでした。彼はソファーに腰を降ろし、フロント前に据えられたテレビの画面を見つめていました。沿岸の町を津波がつぎつぎに襲っていました。そのときになってようやく、彼は自分の判断が正しかったことに合点できた。と同時に、元部下の家族や、そして遺骨は無事だったのだろうかと急に心配になってきたそうです。そうは言ってもいまはただただ、茫然とテレビ画面を見つめる他はありません。三十分、四十分経ったころに、支配人が額に汗を浮かべながら彼のところへやってきました。

「どうしてこちらへ?」

「矢部君の法要に行く途中でした」

 支配人は「ああ」と声を漏らし、思案気な顔を彼に近づけました。矢部さんは亡くなる直前までその宿の営業担当だったそうです。

「ご予約の皆さんには今日のご宿泊はお断り差し上げているんですが、この状況ではそうもいかなくて。平日で部屋に余裕はなくはないのですが、いつもお世話になっておきながら」と支配人が言うので、てっきり滞在はできないと彼は思ったらしいのです。「で、ほんとうの小部屋でしたら、なんとか。布団部屋も同然ですがすぐに片づけさせます」

 支配人のその言葉に一瞬彼は、亡くなった矢部さんの前に営業担当をしていたとき、いちどだけ支払い期限を延ばす配慮をしたことがあったのを思い出したそうです。

「それは助かります。こんなときにほんとうにすみません。ありがとうございます。もちろん宿泊代はお支払いしますし、何なら布団はそのままでも結構です」

「はあ。ただし、お食事をお出しできません。お泊りだけということで」

 むろんその条件に異を唱える理由など彼にあるはずもありませんでした。部屋の準備ができるのを待つあいだ、彼は町に出て食事ができそうなところを探したそうですが、結局どの店も営業ができなくなっていて、停電しながらも店を開けていた商店で辛うじて残っていたパンを買って宿に戻ったそうです。その間に何度か携帯でこちらに電話したもののつながらなかったようで、部屋の固定電話から連絡が入ったのは、夜の九時を過ぎてからでした。地震の発生から七時間近くが経過していましたが、そこでようやく人心地がついたのです。思えば、あの日は日本じゅう至るところでそうしたやきもきする状況が続いていたのかもしれません。けれども、なにはともあれ、彼は無事だったのです。この国の通信インフラの脆弱さをあげつらうのは簡単ですが、それこそ犠牲になった多くの方々を思えば、そんな行為は憚られて当然でしょう。

 もちろんそのときは、あとから彼の無事を呪うようになろうとは思いもしませんでした。あれだけ真に胸を撫で下ろしたのに、その胸を逆撫でされるようなことになろうとは。いま思えば、あの日彼は、その宿は天然温泉が出るので停電していても暖はとれると言っていたのです。東京の人間にしてみたら、東北地方ならどこでも温泉が出るように思っているところがあります。でも、ネットで検索すればすぐにわかることです、東北全域でくまなく温泉が出るはずもありません。そして、あの日彼が滞留すると言っていた遠野の町には、日帰り温泉こそありますが、天然温泉が引かれた宿泊施設は一軒もないのです。


 翌日になってもテレビのニュースでは盛岡市内の停電が続いていることが伝えられ、私たちは宿でもう一泊することにした。むろん私たちばかりでなく、交通網やライフラインや麻痺する中、何組かの宿泊客が午前中に宿から旅立つのが窓越しに窺えたが、多くは宿に居留まることとなった。宿のほうはといえば、週末に予定されていた新たな宿泊客が皆キャンセルとなり、であれば今いる客で少しでも実入りを確保しようと考えを切り替えたのか、代わり映えのしない料理が朝、昼、晩と続くことになるが、という条件つきで、おおむね好意的に延泊を認めていた。ただしあと二日ばかりで、もし供給先が営業を再開しなければ買い置きの食材が尽き食事の提供ができなくなるということだった。

 私も真奈美も、布団を頭からかぶり、携行してきた単行本を読みながら日中を過ごした。食事の前後だけロビーでテレビを眺めたが、福島原発をはじめ、被害の状況がひとつまたひとつと詳らかになるにつれ事態はますます深刻さを増し、そのうえさらに、その頃にはもう普段のテレビCMが一斉に自粛され、惨状の合間に流れるのはけっしてトーンの明るくはない公共広告ばかりで、気分は塞ぐいっぽうだった。そして二日目の朝になると温泉の湯はだいぶ冷め、髪を洗ってもドライヤーは使えず、風呂からあがってそうもしないうちに身体全体が冷え冷えとしてきたが、そんな穴倉に取り残され、生気の失せた目で光源を探しているともいないとも見分けがつかない濡れ鼠のようなさまでも不平など言っていられるはずもなかった。この週末の旅行を予定していなければ、いまごろは盛岡のマンションで暖もとれないまま、食料や水すらないまま途方に暮れていただろうし、もちろん沿岸では多くの人々が津波にさらわれ、助かったとしても私たちよりももっともっと身体が凍てつく思いをしているのだ。

 その日の夕方になってようやく盛岡市中心部の電気が復旧し始めたことが伝えられた。矢も楯もたまらずマンションの管理室に電話を入れると、前日には鳴らなかった呼び出し音が耳に響いた。ややあって電話に出た管理人によれば、建物じたいには大きな被害もなく、一部の部屋で水道管が破損して階下に水が漏れている程度、ということだった。管理人が言うその程度(・・)とは、平生に起こっていればあるいは大事(おおごと)なのかもしれなかった。水漏れの量が多ければ、天井や床が破損し家財が被害を受けているとも限らない。眼前に突きつけられているものがあまりに巨大すぎたので、そうした普段であれば深刻なトラブルをもってしても、取るに足りないこととしてやり過ごされてしまっているのに違いなかった。

「電気が戻ったようだし、明日朝に立つことにするよ。とりあえず、月曜日には出社したほうがよさそうだし」とまだ受話器に手をかけたまま私は真奈美に言った。

「皆は無事かしら」

 真奈美が同僚の安否を気づかい、それを口にしたのはこのときが最初だった気がする。支店長代理という立場上、私は絶えず支店従業員やその家族のことが気がかりになっていた。なにより前週末に法要に訪れた際に丁寧に応対してくれた矢部君の家族の安否は、場所が場所だけに、かたときも頭の片隅から離れることはなかった。他にも沿岸に実家がある社員はいなっかったか。私は頭から布団をかぶりながら、温泉のぬるい湯に浸かりながら、何度か思いを巡らせていた。いっぽう真奈美は、本社からの出向社員と地域限定社員が二人ずつ、現地雇用契約社員六人というけっして大所帯とは言えない支店の中で、とくに親しくしている同僚もいなかったのだった。彼女はもともと仙台支社で地域限定社員として採用され、盛岡に来る以前は宮城北支店に勤務していた。ところが二年前に支店は閉鎖され、本来なら実家から通勤ができる仙台支社勤務ができればよかったのだが、あいにく職能上の空きがなく、結果的に欠員が出ていた盛岡支店への転勤になった。いまの盛岡支店長が以前仙台支社長代理時代に真奈美の仕事ぶりを――「力量」というよりも、仕事の「仕方」が彼好みに過ぎなかったのだが――気に入っていて、いわば棚牡丹式にかつての部下が再び自分の部下に戻ってきたのだが、あたかも自分が彼女を呼び寄せたかのように支店内で聞こえよがしに言っていることが、真奈美が他の支店社員と距離を置く――置かざるをえない一因にもなっていた。

 夕食の席では、その日もまた青物横丁の夫婦と隣席になった。私が、翌朝立つことにしたことを伝えると、二人が口を揃えて「どうか、お気をつけて」と心底心配そうに言ってくれた。あちこちに岩や石が転がっているような道程を思い浮かべていたのかもしれなかった。夫は目を細めた。

「私らはまだ目途が立ちません。食料がなくなると言っているし早晩ここは引き払わなければならないでしょう。けど、出されたところで、その後はどうしたらよいものやら」

 私が考えたような移動手段は当然もう何度も検討し、実際に交通機関にも当たっていたのに違いなかった。それでもまだ、東京までのルートは確保できていない。与り知らない顔もできず、私は懐手をして俯いた。そして、ふと我に返ったのだった。こちらから東京へ行けないとすれば、当然ながら、東京からこちらにも来られないのではないか。そう、金曜日に年次休暇をとり、週末いっぱい東京に帰ってくると伝えてあったのだ。年度末が近づいていて、どうにも営業成績が目標値ぎりぎりだったので何かと数字合わせのためのやりくりをしなければならない時期だったが、息子の検査入院がありどうしても、と見え透いてはいまいかと案じながら支店長に嘘をつき、こうして県境を越えた温泉に真奈美とともにやってきたのだ。むろん真奈美にしても数字合わせのためのデスクワークが、大袈裟でなく、悲鳴を上げるほどあったが、この旅行はもう半年も前から予定してあったのだった。三月十一日は、真奈美の三十四回目の誕生日だった。

 そう、一夜明けこの温泉ホテルから盛岡に戻ったとしても、週明けに出社するのは不自然になる。と言って、東京から戻れないという新たな嘘をこしらえ支店に伝えようものなら、東京本社へ出勤し、東北各所の支社や支店との連絡係を命じられるのは目に見えていた。事情が変わり、あるいは体調を崩して東京行きはキャンセルしたことにしようとも思ったが、すぐにそれも不能であることに思い至った。東京もだいぶ揺れた(・・・・・・・・・)。地震の直後に、支店へそう書いたメールを送ってしまったではないか。前日とまったく同じ食材を使った膳に箸をさまよわせながら、私は額に脂汗が伝うのを感じた。いっそうのこと行方不明にでもなるか。ほんの一瞬、そんな途方もないことさえ思い浮かんだりもしたのだった。

 そのことへの結論も出ないまま、翌朝九時前に私たちは、ようやく電気の供給が戻ったホテルを立った。青物横丁の夫婦がいましばらくここにいられることを願った。と同時に、通電さえすれば陸路にしても空路にしても交通機関が機能する可能性も出てくるように思えた。マンションに戻ったらすぐに検索をしてみよう。そう私が言うと真奈美がくすりと笑った。この三日間で初めて彼女の相好が崩れた気もする。その笑顔から逆に、それこそ誕生日旅行どころではなくなってしまったこの週末を振り返らざるをえなくなった。

「なにが可笑しいんだ?」

「立ち上げる、って言ったでしょ?」

「立ち上げる?」

「そう、パソコンを立ち上げる、って言った。むかしはよく言った、立ち上げるって」

「いまはもう言わない? 死語か?」

 そう私が訊くと真奈美は小さく頷き、そしてまた微かにほほ笑んだ。

 高速道路が塞がっているので下の国道を東進することにしたが、ところどころで拳大の石が転がっているくらいで、懸念していたようなまとまった落石や落盤はなかった。これなら、と私は思った。あの宿から西もきっと大丈夫に違いない、と。しかしスムースだった道程も、八幡平の町中に入るとにわかに前方に車が詰まり出した。信号は点いていて、このあたりは営業で何度か通っていたが渋滞に出くわしたような記憶はなかった。ハンドルに顎をのせ前方を見ていると、一台また一台と、隊列から対向車線へ飛び出していく車があった。ガソリンスタンドに違いなかった。この先の左手にたしかガソリンスタンドがあったはずだ。いまのうちに給油しようと長い列ができているのだ。諦めた車は列を抜け出していく。私の車のガソリンは満タンのラインを少し切ったばかりだったが、この後のことを考えれば、たとえわずかでもそれをこうした渋滞で無駄づかいしたくはなかった。

「もう少し行くと右に抜け道がある」と真奈美が道路地図を見ながら言った。

 道は左に緩やかにカーブを切っていた。私は窓から身を乗り出して前方を確かめた。真奈美が言う通り、この先に右手から合流する道があり、そこからこちらの道へと入ってくる車があった。視界が極端に悪いというわけではなかったが、二百メートルほどは対向車線を走ることになりそうだった。用心しなければならない。二三分待ってみたものの、その後は堪りかねて隊列を飛び出す車もなく、一センチたりとも前進できなかった。私は真奈美に目で合図を送り、ハンドルを右に切った。――そこからはすべてが一瞬のうちに起こった。まず、センターラインを跨いだ瞬間、二台前の車がウィンカーを出さずに急発進して、前方に飛び出してきた。ブレーキランプ瞬いたが、こちらがブレーキを強く踏むと、そのシルバーの車はこちらを振り返る素振りもなく対向車線を駆け出していった。私は悄然とした思いであらためてアクセルを踏み直し、車を立て直した。すると今度は、右手のホームセンターの駐車場から白い車が道路に入ってきた。急停止すると、互いの鼻づらがすぐそこまで迫っていた。相手のフロントガラスをみやったが、逆光で運転席の様子をはっきりと見てとることはできなかった。ハンドルを握っていたのも助手席にいたのも女性、それくらいしかわからなかった。幸いすんでのところで衝突は避けられ、私が軽くクラクションを鳴らすと先方もクラクションを鳴らし返して私の車の右脇をすり抜けていった。私の横で真奈美が、ゆっくり走り去ろうとする車を肩越しに振り返った。サイドミラーに車が点灯させたハザードランプの光が映った。それを見て私もハザードランプのスウィッチに手を伸ばした。そして、ランプを点灯させたまま、反対車線を脇道へと進んでいったのだった。

 その先は道が混雑することもなく、ただし沿道のガソリンスタンドは軒並み店仕舞いしていてこれからの日常生活が思いやられたが、午前中には真奈美のアパートに到着することができた。正午開店にしたのだろうか、アパートの通り向かいにあるスーパーマーケットには長蛇の列ができていた。スーパーが営業できるなら、そう思って真奈美はアパートの部屋の鍵を開けたが、スウィッチを入れても電灯が点く気配はなかった。

「冷蔵庫は?」と私は真奈美に訊いた。

「だいじょうぶと思う」と言いながら真奈美は冷蔵庫の扉を開けた。「うん。たまたま、生ものはそんなに入れてなかったし、真夏というわけじゃないから」

 その冷蔵庫をはじめ真奈美が部屋の整理をし身支度をする間、私はスーパーに足を伸ばした。正午を少し過ぎたところだったが、薄暗い店内には、外で列をなしていた客が雨あられとなだれ込み、停電で処分された食料品も多くあっただろうが、棚はすでにすかすかになっていた。とりわけレトルト食品のコーナーは文字通りもぬけの殻で、缶詰コーナーも残っているものと言えばカニ缶のような高価なものばかりだった。この非常時にカニ缶をつつく自分を想像すると滑稽にさえ思え、私は麺売り場に辛うじて残っていた冷麺のパックを三つ買い物かごに入れ、いずれなくなるだろうとトイレットペーパーとティッシュペーパーを抱え込んだ。

 真奈美を連れマンションに二日ぶりで戻ると、書棚からごっそり本が落ち、年じゅう出しっぱなしのタワー型扇風機が床に転がっていた。冬場の物干しに使っていて取り付けてからこのかた一度も落ちたことのない窓際の突っ張り棒が傾いていた。クロウゼットに張ったそれより短めの突っ張り棒も壁から外れ、衣類がことごとく落下していた。が、幸いにもその程度だった。水回りを点検してみたが、どこにも水漏れはないようだった。壁に亀裂が入った様子もない。天井には上階から漏水しているような跡もなかった。支店が買い上げ本社からの単身赴任者用に割安で貸与しているマンションだったが、維持管理はそのときどきの住人に委ねられていた。万一事故があれば、自分が損害保険や修理の手配をしなければならなかった。私は一安心し、真奈美にも手伝ってもらって散乱した本や衣類を片づけると、早速パソコンを立ち上げた(・・・・・)。まだ当分は、と重量感のある古い携帯電話を使い続けてきたが、この二日間の、旅館のテレビから一方的に流される情報しか入手できないもどかしさを思えば、いまこそスマートフォンへの替え時かもしれなかった。

 地元の花巻空港はターミナルビルの天井が落ち閉鎖されていたが、もともと東京に直結する定期便は運航されていなかった。近間を調べると、秋田県内の二空港、青森県内二空港とも、北東北の岩手県以外の空港はどれも閉鎖されているという情報はなかった。これならなんとか取り繕うことができる。私はそう思った。四つの空港の中でもっとも近いのは秋田の大館能代空港だった。いましがたまで滞在していたホテルが、空港とこことのちょうど中間地点だった。青物横丁の夫婦も、その空港が開いていることは確認していただろう。けれども、いかんせんタクシーにしても、運転免許を持っているかどうかは訊ねなかったが、レンタカーにしても、そこまでの陸路が確保できないことを憂えていたのに違いなかった。あるいは、「どうか、お気をつけて」と目を細めて言われたあのとき、空港までの足をどこかで私たちに期待していたのだろうか。いまさらながらそんなことに思い至ったが、たとえそのことに気がついていたとしても、車のガソリンを節制することにとり紛れ、相手に親身になろうとする自分を――そんな良心がわずかでもあればの話だが、唇を噛みしめて厳封していたことだろう。

 検索を続けていると、秋田県でも青森県でも、確かにこうした非常事態でタクシーやレンタカーの供給が極端に少なくなっているらしいことがわかり、どちらにしても長距離を走る客はそのうえさらに敬遠されていることが容易に予測できたが、とにかく東京から北東北までのアクセスがどんな形ででも機能してさえいれば、あとは何とでも説明がつくだろうと私は高をくくった。そんな私一個人の行動に他人が疑わし気に首を突こみ詮索するような状況でもないはずだ、と自分に言い聞かせて。そして真奈美にもそのことを伝え、むろんこの週末の私たちの行動はべつべつで、互いに相手の情報をまったく持ち合わせていないことをあらためて示し合わせたのだった。

 そのようにして私は、翌月曜の朝、ほうほうの体で東京から戻ってきた風を装いつつも、朝早く支店に出社した。出勤途中にまだ電気が復旧していない真奈美のアパートに寄り、彼女をそこで降ろした。もちろん、彼女が彼女自身の車で私よりも後から出勤するために。私が事務所に入ったときには支店長はすでにデスクにいた。週末から支店社員の安否確認や本社との連絡に追われていたのか、この男にしては珍しくネクタイを緩め、殺伐とした空気を身にまとっていた。が、私の姿を見るなり一瞬にしてその空気が緩んだのだった。

「よく戻って来れたな」そう言って立ち上がり、両手を差し出して私の手を握った。

「はい、大館経由で。大館からはタクシーで」

「そうかそうか。それはご苦労だった」

 私は「少々高くつきましたが」とつけ足そうとしていたのだが、支店長のその言葉は「大館からは」あたりからすでに私の言葉に覆い被されていたのだった。

「みなさん、どうでしたか」

「田代君と山崎君以外は無事を確認できた」

 後者の「山崎君」とは真奈美のことだった。

「田代君は野田だったよな。週末にそっちのほうへ帰るとか聞いてなかったか?」

「いいえ。野田だとすると、本人がこちらにいたとしても、ご家族は気になりますね」

「うむ。山崎君は名取だったかな」

「いえ。仙台市内だったと思います」

「荒浜とかじゃなかったよな」

 もちろんその地名は真奈美から妹夫婦の家が流された場所として聞いていたわけだが、私は耳慣れない地名とばかりに首を捻った。

「テレビに映ってただろ。海沿いだよ。かなりひどくやらてれる。始業時間までに出てこなかったら連絡を頼めるか? それと、本社のほうがなんやかんややかましくてな。家族の被害状況の報告とか、送ってもらいたい緊急物資リストの作成とか」

「そのために戻ってきましたから」

 私は殊勝さを言葉に籠めたが、わざとらしく聞こえはしなかったかとすぐに後悔した。けれども支店長は意に介するどころか、威勢よく私の肩を叩いた。彼がロサンゼルス支社勤務だった時期に、ほんの一年ほどだったが、私のサンフランシスコ支店勤務の時期が重なっていたことがあり、当時は頻繁に行き来があったのだが、その間も含めても、私より八歳年長のこの支店長がこれだけ忙しそうにしているのを見るのは初めてだった。支社長の許可もえずに社の産地未承認だったオクラホマ産の安い小麦をブローカーを通じて大量に買いつけてしまい、買い切り契約にしていたために返品もままならず、国内の営業担当が買い取り先を探すのに奔走する羽目になった騒動は彼のビジネス観を端的に物語っていた。ようするにコツコツと実績を積み重ねるタイプではなかった。いまこうして一地方支店とは言え支店長のポストに就き大手を振っていられるのは、数撃った鉄砲のうちの一つが――オクラホマの小麦事件とやったことに大差はなかったが――たまたま社に多大な利益をもたらし、社長賞表彰を受けたことがあるからにほかならなかった。しかし、そもそもそれもバブル時代の話で、いまとなってはもはやそうした個人プレーが許されるはずもなかったし、過去にキズ(・・)がある人間には業務審査部が目を光らせていた。毎年、前年の営業実績を、大儲けなどしなくても、クリアしさえすればよい。それがかつてのワークスタイルを奪われた支店長の、第一次定年を間近に控えた、堅雪を踏みしだくような生きざまだった。年度末の半月ほどを残して今年度の営業成績は前年比クリアが微妙なところにあっただけに、この震災を支店長は言い訳にするかもしれなかった。となれば、いまは本社の指示を卒なくこなしていくこと。それがかつてオクラホマから大量の小麦を買いつけた男が最終的に身につけた処世術だった。

 支店長のメモ書きを受け取りデスクにつくと、私はパソコンを立ち上げ(・・・・)リストをつくり始めた。社のホームページには、「震災で亡くなられて皆さまのご冥福をお祈りします」というメッセージが掲載されていたが、早過ぎた。安否不明者の数が増大する中、それはかえって被災地の人間の心を逆撫でしてしまっていた。画面を切り替えあらためて社員データを一覧すると、連絡不通になっている二人以外にも、三人の社員の実家が沿岸地域にあった。家族に万一のことがあれば休みをとらせなければならないだろう。それを公休とするか年休消化とするかも、本社の人事にかけ合わなければならなかった。見舞金の手配も必要になるかもしれなかった。ここの倍以上の社員を抱える仙台支社では、そうした処理だけでも相当な労力を割くことになるだろう。

 二十分ほどして、徐々に社員が出社し始めた。顔を合わせるなり、互いの無事を確認し合うと、すぐに食料やガソリンの話題になった。インターネットサイトではもう、開いているスーパーマーケットやガソリンスタンドの目撃情報が書き込まれていたが、そうしたところには人や車が集中し、情報掲載後ほどなくして完売閉店になる店舗が続出していた。地震から四日目にしてそうした状況だった。輪をかけるように、社員が口々に「爆発」と言うのでテレビをつけると、市内の中心部にある中三(なかさん)デパートの地下食料品売場でガス爆発事故が起こっていた。地震以降、営業再開の準備をしていたさなかのようだった。余震も続いていた。身体が休むことなく揺れ続けているような感覚に見舞われた。いま揺れているか? 口に出して人に訊かないと、揺れているのかいないのかわかんないな。一人の社員がそう言うと、皆がそれに頷いた。

 始業時間まであと五分ほどというところで真奈美が出社してきた。事前に打ち合わせをしていたとはいえ、私と彼女の間には束の間微妙におさまりの悪い空気が漂ったように感じた。それを誰かに悟られてはしまいかと社員の顔をさっと見回したが、支店長をはじめ誰もがいまはそんなことに到底気が及ぶような状況ではなかった、ないはずだった。ただ一人、ベテランの域に入る内勤嘱託の松山茂子だけが私と真奈美の顔を交互に見て含み笑いをしたように見えたが、支店長がそれを掻き消すように真奈美のもとへつかつかと歩み寄ってきた。

「連絡がつかなくて心配していたんだ。ご実家のほうはどうなの?」

「高台なので建物への直接的な被害はなかったんですが、ちょっと土台の地盤が弛んでいるようで。それと、水道もガスもまだ復旧していないらしくて」

 その情報は初耳だった。さきほどアパートで彼女を降ろした後に、あらためて仙台と連絡をとりあったのに違いなかった。三人の子は皆家を出、数年前に大手地銀の部長職にあった父親が心筋梗塞で急死してからは、母親一人でその家に住んでいると聞かされていた。幸い健康で、地域交流の仕事に精を出しているようだったが、そうした事態ではさすがに心細くしているだろう。

「妹夫婦の家も流されてしまって。怪我はなかったんですが」と真奈美が支店長に付け足すように言うと、支店内が一瞬静まり返った。

「そうなのか。すぐにでも帰ってあげたほうがいいんじゃないか。とは言え、足がないか」

「バスが動き始めたら。よろしいでしょうか」

「もちろんだよ」と支店長は言ってから、一呼吸置き気合を入れるかのように、「なっ!」とがなって、私に向け腕を肩口から振り下ろしたのだった。

 真奈美が社員の誰にともなく深々と頭を下げた。この支店では最古参になるパート社員の渡部玲子だけが胸をポンと叩いてそれに応えた。真奈美が渡部にいくらかの笑みを浮かべると、気のせいかもしれないが、松山茂子が真奈美と私の顔とを交互に見たようだった。

 私は本社に報告する書類の作成を続けた。米、パン、水。社員から出された送付希望物資は至極当たり前のものばかりだったが、支店の災害用備蓄にも限りがあったし、市内のスーパーの様子を見ていると、どれもこの数日で在庫が尽きることが確実だった。

一時間ほどすると、安否がわからなかった田代雄二からようやく電話が入った。田代は四年前に仙台支社付けで採用された、真奈美と同じ地域限定型の社員だった。受話器を手にする支店長の声のトーンから、状況がけっして穏やかではないことは伝わってきていた。

「金曜日のうちに向こうに駆けつけたらしい」と支店長は受話器を置き、目の前に立っていた私に小声で言った。「実家が流され、ご両親とご祖母の行方がわからないそうだ」

「本人は無事だったんですね。とりあえず本社にご連絡ください。至急報告書を完成させますので」と私も小声で支店長に返した。

 結局、支店社員の中で肉親に何らかの被害があったのは、田代と真奈美だけだった。沿岸に実家がある残りの三人のうち二人は海沿いの市域でも家は比較的内陸だった。もう一人は、海に面していながら奇跡的に津波を免れ、無傷だった久慈市街地の出身だった。


 週明けの月曜日。盛岡中心部のデパートで爆発事故があったというニュースが東京でも流れました。たしか、その中三というデパートには、彼はよく買い物に行っていたはずです。朝早い時間だったので、デパートにいたなどということはよもやありえないでしょうが、離れていると肌の感覚がとくにこうした状況ではまるで働きませんから、想像は悪い方へと勢い向かっていきます。けれども、余計な心配をして仕事の邪魔になってしまうのも憚られますから、一日、彼から連絡があるのを待ちました。でも、夕方の六時になっても音沙汰がありません。爆発という言葉が頭の中でどんどん膨れ上がっていきます。そして、堪りかねて携帯電話を鳴らしてみたものの留守録です。その後三十分、彼からのコールバックはありません。そうなるともう、あとは会社に電話を入れるほかなかった。

 落ち着いた声のトーンの女性|(あとからわかることですが、それが松山茂子さんという方でした)が私の電話をとりついでくれました。彼が電話口に出るまで数分かかりましたが、「さん」をつけない苗字を告げて電話が保留された時点で彼がそこにいることはほぼ確実になったわけですから、ひとまずは胸を撫で下ろしました。

 慌ただしくわさわさする空気が回線を通じてこちらにも伝わってくるようにして電話口に出た彼は、私が会社に電話をしたことに、やはり迷惑そうでした。普段から会社には電話をしないよう言われていましたし。だいじょうぶ、何ごともない、何かあれば連絡する、そっちも気をつけろ。矢継ぎ早にそう言って電話は切れました。東京にいるこちらは、気をつけるにもつけないにも、被災地からそう言われることに思い当たる節はなかったのですが、それはつまり彼の気持ちとして理解しました。そして、電話を切ると爆発の音(・・・・)が脳裡から徐々に去り始め、しばらくしてようやく、心臓の鼓動が収まったのです。


 翌週明けになって、私は出社して本社からの電子メールを確認した後、営業車で真奈美のアパートに向かった。最初はてっきり支店長自ら真奈美をバスターミナルまで送るものと思っていたが、所詮そんなまめ(・・)な男ではなかった。その日の朝に、そういえば君、といった程度の気軽さで、私が指名されたのだった。久しぶりにキーを回すと営業車のガソリン残量は半分を切ったあたりだった。社員の出退勤に営業車を充てるべきか、そのこともそろそろ本社に打診したほうがよさそうだった。というのも、ガソリン事情はいよいよ逼迫していた。ほとんどのガソリンスタンドが入口にロープを張って閉鎖されていた。インターネットの開店ガソリンスタンド目撃情報にもガセ(・・)が目立ち始めていた。社員の中には自宅から十五キロほどの道のりを自転車で通う者もあった。三台ある営業車のうち二台を使えば支店全社員の送り迎えができる。自家用車のガソリンを節約できるぶん、社員は親類の援助や遠出の買い物など日常生活で車を有効に使える。嘱託社員の高木恒子が、息子が四月から東京の大学に進学するのに、この震災で新生活の準備がままならなくなったと言っていたが、そうしたことにもいくらかは手助けになるかもしれなかった。

 真奈美は大型のスーツケースに荷物を詰め込んで私の到着を待っていた。男の私でさえ、それを容易に持ち上げることができなかった。

「何が入っているんだ?」

「缶詰とか、だいたいは食料品」

 これだけの重量になるほど缶詰を買いこんでいたのか、と私はあらためて、過去にも巨大地震を経験した土地の人間の、万一の備えに感心したのだった。

「バスに載せて仙台に行くまではいいけど、その後はどうするんだ?」

「母親か妹が迎えにきてくれると思うから」

「そうか。くれぐれも気をつけて。高速バスは普段の倍くらいの時間がかかるらしいな」

「ちっとも高速じゃない」と真奈美は頷いた。

「――川崎のほうはどうなの?」

真奈美の微かな笑みを見つめながら、私はこの十日間訊こうとして結局訊かずじまいだったその問いを口にしたのだった。

「すごく心配してるみたいだけど。こっちに戻ってくるのも難しいし。とりあえずいまのところはなんとかなってるって言ってある」

 私が頷くと、真奈美は営業車に乗り込み、私も運転席についた。

「助手なんて乗らないのに助手席」と真奈美がポツリと言った。

「いつもそこで道路地図を開いて道案内の手助けをしてくれるじゃないか」

「そうか。ナビがあるのにね」

「ナビだと現在地を俯瞰できないだろ。ヴェニスから南イタリアのカプリを目指していたスウェーデン人のカップルが、ずいぶん早く着いたと思ったらヴェニスと同じ北イタリアのカルピだったっていう実話がある」

「入力ミス?」

「CAPRIをCARPIってね」

「音声入力ができない古いやつね」

「こいつだってできない」と私は営業車のナビを指差した。「本社の営業車なんて、有明あたりにくると海の上を走ってる」

 そんなたわいもない話をできたのも、大きな揺れから十日が経ち、被害の甚大さは目を覆うばかりで、パン一切れすら容易には入手できない日常生活にも不自由さが募るいっぽうだったが、気持ちのほうはだいぶ落ち着きを取り戻してきたからかもしれなかった。ありがとウサギ、こんばんワニ、さよなライオン。あれだけ苛立たしく思っていたTVCMの歌を気がつくと口ずさんでいる自分に驚くこともあった。

 バスターミナルで真奈美ひとりの力では微動だにしないスーツケースをバスのトランクに積み、平日にもかかわらずほぼ満席になったバスを見送ると、私は指定券の払い戻しをするためにそのまま営業車で盛岡駅に向かった。震災がなければ、勤続年休暇の使用期限が切れる前の月末に、彼女と(・・・)二人で伊豆高原へ一泊二日の旅行をするはずだった。二月末に東京に帰った折に彼女とその打ち合わせをし、伊豆急行線へのJR直通特急の指定券を買ってあったのだった。最初彼女は、三月十一日がいいと主張したが、それは真奈美との約束の日だったので、私は矢部君の法要話を持ち出し、彼女の予定とも折り合いをつけて、それより二週間後に決めたのだった。


 伊豆高原への旅行は永遠に叶わなくなってしまった、のかもしれません。あの地震では多くの人々の人生が変わってしまった。それはいまさら私が言うまでもないでしょう。多くの方々が亡くなり、あるいは行方不明になっていて、そのことを考えると恥ずかしくさえなりますが、彼もまた、むろん直接的な被害者というわけではありませんが、地震で人生が変わってしまったうちの一人ということになります。そして、そのことについては私も、けっして小さくはない責任を感じています。

 一人暮らしで淋しかったのでしょうか。五十歳が目前になり、もう結婚もできないだろうと諦めていたのでしょうか。私から言わせれば、彼は同年代の男性よりも四、五歳は若く見えますし、営業という仕事柄もあり酒量はいっこうに減りませんが、ジムにも通っていて、いわゆる中年太りとは無縁です。身長も百八十センチ近くあります。――一回り以上も年下の真奈美さんが好意を抱いたとしたら、少なくともそれは、彼に対して父性を感じたからではないはずです。そう、重いスーツケースを一人抱えて仙台に帰った真奈美さんは、いまどうしているでしょうか。どこにいて何をしていても、きっと苦しんでいるはずです。彼が殺人犯になってしまったことに。

 県警の刑事が支店に現れたのは、本来なら私たちが伊豆高原へと向かうはずだったその日の朝でした。地震からちょうど二週間ということになります。地震の後に流れ続けていた空気とは明らかに異なる空気が二人の刑事が支店のドアを開けた瞬間に流れ込んできたので、誰もが咄嗟にただならない事態であることを察知したようです。とは言え、二人の外見じたいは鋭利などころか、どこか間の抜けた風情で、ところがその間の抜け方には肌にまとわりつくようなべっとりとした凄みがあり異様な重厚感を帯びていたので、刑事、あるいはもしかしたら裏社会の人間であることが直感的にわかったそうです。それが、双方が黙って見つめ合う緊張した間をこしらえ、直後におっとり刀で応対に出た女性職員に、刑事は身分証を提示し、彼を名指ししました。女性職員が支店長代理席を示すと、刑事たちは彼女に軽く頭を下げ、靴音をリアルにつかつか(・・・・)と響かせ、その席へと歩を進めたそうです。

 彼が席から立ち上がると、一人の刑事が小声で何かを彼に伝え、ややあって彼はそれに頷きました。その場では、テレビドラマでよく見かけるような紙切れらしきものは示されず、また手錠もかけられませんでした。任意同行、ということだったようです。彼はロッカーから上着とカバンを出し、まず支店長に、そしてつぎには支店社員に会釈をして、二人の刑事に従って支店を出ていきました。これは後から支店長に聞いたことですが、三人の姿が消えた後も、支店内はしばらく沈黙が続いたそうです。彼の容疑についてそれぞれに思いを巡らせていたのかもしれません。そして、この時点ではまだ、誰もが松山茂子さんが亡くなったことに気づいていなかった。なぜなら彼が松山さんからの電話を受け、地震のショックで体調がすぐれないのでしばらく休ませてほしいという彼女の希望を、彼の口から支店長はじめ支店職員が聞かされていたからです。

 前日の夜、市内にあるダム近くの林で松山茂子さんは死体で発見されました。首筋には圧迫痕があり顔面は鬱血していた。コートの内ポケットに県立病院の診察券が入っていて、身元はすぐに判明しました。それからわずか何時間かで刑事は彼のもとを訪れたわけです。深夜に遺体の確認に来た茂子さんと同居中の妹さんが、その二日前、姉が一昼夜帰らず、携帯電話も通じないので支店に電話を入れたそうです。夜の八時を過ぎていましたが、彼は一人、地震関係の資料づくりでデスクに残っていて、その電話を受けた。もう一日待って連絡がなければ、こちらから警察に相談してみましょう。彼はそう言ったそうです。四十代半ばで離婚歴がある茂子さんですが、それまでも数回、友人とカラオケで一夜を明かしたりして家に戻らないことがあったようです。しかし、いまは到底カラオケで呑気に歌っていられる状況ではなかった。妹さんは合点がいかなかったが、彼の言った通り、もう一晩寝ずに姉の帰りを待った。しかし翌朝になっても茂子さんは戻らず、連絡もなかった。

 そこでもういちど支店に電話をすると彼は外出中で、代わりに電話に出た支店長が、地震後の事務処理で体調を崩してしまったので休暇をとらせていただきたいという連絡を昨日受けていることを彼女に伝えたそうです。妹さんは、誰がその電話を受けたかを聞いただけで、それ以上のこと話しませんでした。支店長は支店長で、姉妹は離れて住んでいて、地震の混乱のさなか、互いに連絡がうまくとれなくなっている、その程度にしか思っていなかったようです。彼が帰社した後も、その電話のことを彼にあらためて確認するのを失念していたほどです。いっぽう、妹さんのほうは電話を切った後すぐに警察に電話を入れたのは言うまでもないでしょう。そして、たまたまその日のうちに遺体が発見された。ですから、もし遺体発見がなかったとしても彼は、細かなことはよくはわかりませんが、そもそも重要参考人かなにかで聴取されることになっていたはずです。警察の遺体発見の発表は意図的に遅延させられたのだと思います。もちろん、彼の身柄を確実に拘束するために。けれども、たとえ事前に遺体発見の情報が流れていたとしても、彼は逃げることなどしなかったのではないか、私にはそのように思えます。

 彼が茂子さんを殺害したのはその週の月曜日でした。つまり、仙台に帰る山崎真奈美さんを彼がバスターミナルまで見送ったのと同じ日です。地震から十日を経て、前週ほどの事務処理量はもうなかったそうですが、それでも彼は七時過ぎまで支店に残っていた。そして茂子さんも他の支店社員が皆引き上げ彼と二人きりになるのを、残業を装いながら待っていた。五時を過ぎると暖房が切られて冷気が立ち込め、さらにその頃は東京の鉄道さえ車内の電灯を間引いていたほどですから、支店内は灯りも乏しく、さぞ寒々としていたのではないかと察せられます。

 最初、茂子さんのほうから彼のデスクに歩み寄り、水筒からスチロールのカップに、まだじゅうぶんに湯気が立つコーヒーを注ぎ入れたそうです。彼が上目づかいに茂子さんを見て礼を言うと、彼女はいくらか微笑んだ、と彼はその時のことを回顧しています。それはどこか自然ではない微笑みだったと彼は言っていますが、そのときにはけっしてそうした見え方をしていなくて、それどころか彼には彼女の笑み、あるいは他の誰であれ、人の表情への関心は震災後の多忙な状況のなか微塵もなくて、しかし、それ以降に起こったことが後づけ的に彼女の笑みを不自然なものへと、彼の記憶を書き換えた――もしくは記憶を捏造したのかもしれません。

「松山さんは八幡平でしたよね。どうか無理なさらず、早めにご帰宅ください」

 彼はそう言って、クリームも砂糖も入れないコーヒーを啜った。彼を見下ろすようにしてデスクの前に立ち続けていた茂子さんは、いつも通り髪を後ろで結わえ、いくらか弛みが目立ちはじめた身体を丸めて、彼の顔を正面から見据えました。

「私たちは一時解雇とか、そこまでいかなくても自宅待機とかになるのでしょうか?」

 営業車の通勤使用を考えつつ、実は彼は茂子さんがたったいま口にしたことが気になっていたのです。地震で営業活動もままならず、得意先の動向にも先が見えてこない。そんな折に本社に営業車の通勤共用を打診しようものなら、そもそも全社員を出勤させるほどの現状業務があるのか、そう言われかねない。自分たちが流通させている物資が営業圏域で決定的に不足しているのは支店社員皆の目に明らかでした。供給ルートさえ確保できれば、相応の需要どころか、特需さえ見込めた。けれども、高速道路にしても通行規制が続き、路線バスさえ燃料不足で大幅な運行本数の削減をしているような状況で、目の前にある商機を、指をくわえて眺めているほかはなかった。

「いまはまだ何とも言えませんが、今後のことを見据えて準備をしておくことが必要だと本社には伝えたいと思っています」と彼は茂子さんに答えました。

「どうか」と言って、茂子さんはさらに身を屈めたといいます。「万一、支店社員に出勤抑制がかかるとしても、私は免除いただけないでしょうか」

 幼い頃の自転車事故で足に障害が残る妹さんと二人暮らしをしている茂子さんの生活がけっして楽ではないことは彼にもうすうすわかってはいました。真夏を除く一年を通して、五着の上着を、毎週曜日を違えて着てきていることは女性社員の間では知れ渡っていましたし、膝丈のスカートから、糸のほつれたシュミーズの裾が覗いていることもしばしばあったそうです。昼食は手弁当でしたが、タッパーに頻繁に詰められていたのは三袋百円のインスタント粉末でつくったチャーハンという噂でした。残業時間は、業務が多忙であるなしにかかわらず毎月上限目いっぱいまで計上していたといいます。そんな彼女の数少ない楽しみの一つが、時間を忘れてのカラオケだったのかもしれません。

「お見かけしたんです」

 彼女のその言葉の意味を、彼は最初理解できませんでした。誰を、どこで、いつ。そしてそのことが何か。

「地震の翌々日の日曜日、八幡平ですれ違いました」

 彼の記憶にその日のことが少しずつ、蘇ってきました。その話は彼だけでなく、私をも茫然自失にしたのは言うまでもありません。私はあらためてネットで地図を検索しました。遠野にいたはずの彼が八幡平で目撃されていた。ありえないはずです。なぜなら、遠野から八幡平に行くには盛岡を通り過ぎなければならないから。そして、その日曜日に遠野から盛岡へ戻ったと私は彼から聞かされていた。嘘だったのです。

「たしか、大館空港からタクシーを使われたと伺っていましたが。山崎さんの車でしたら、まだ合点がいったかもしれません。空港まで彼女が支店長代理を迎えにいったのだと思えば。けれどもあれは、支店長代理のお車でした。東京に行かれていたのではなく、山崎さんもあの日(・・・)には年次休暇をとっていましたし、お二人でどこかに行かれていたと考えたほうが自然、みたいです」

 その時になって彼はようやく思い当たったようです。あの日、宿から盛岡へと戻るその途中、八幡平の中心街であやうく衝突しそうになった車のことを。ハンドルを握っていたのも助手席にいたのも女性だったが、それは松山茂子さんと妹さんだったのだと。そしていま、茂子さんはそのことをねた(・・)に彼に対して自分の雇用保証を求めているのだと。ある意味それは脅迫ではないのかと。それらが一線上につながると、彼には茂子さんが空恐ろしい女性に思えてきたのです。それまでの勤務内容から、どこか何を考えているのかわからないところがあるにはあった。出張費の精算を頼むと、細かに出張工程をチェックして出金までに三日もかかることがあるかと思えば、時には上機嫌で、旅費伝票の受領とともに出金をすることもあった。けれどもそれは、たまたまその時の気分がそうさせるだけのことで、彼女の性格に本質的な不気味さがあるとまでは思っていなかったそうです。

 驚き、言葉を失っている彼を見て、茂子さんは笑みをつくった――正確には、それまでの薄っすらとした笑みの上にもうひとつ新たな薄っすらとした笑みを上乗せしたそうです。

「支店長代理も風上に置けないですね。山崎さん一人ならいざしらず」

 彼は茂子さんのその言葉に不審気な顔を浮かべました。

「先日の若い女性からのお電話」と言って茂子さんは彼を見つめ、一呼吸置きました。「支店長代理を苗字で名指しされたのでてっきり最初はご家族かと思いましたが」

 その電話はもちろん、中三デパートで爆発事故が起こった日の夕刻に私がかけたものですが、彼にはつぎに茂子さんが何を言うかたやすく想像できました。つまり、何なら別の若い女性と付き合いがあることを真奈美さんに伝えてもいい、狡猾な笑みを浮かべる茂子さんはそう言うに違いなかったのです。彼は、なぜ私が彼の恋人かと思ったかを茂子さんに問い質すことはしませんでした。いえ、問い質す前にもう、彼は発作的に茂子さんの首に腕を回していたのです。震災後の事務処理で疲労が溜まっていたのかもしれません。先が見えないなか、どうやったら全社員の雇用を保証していけるのか。そのことは彼の頭の中にも四六時中あったのです。あるいは、彼女のそうした自己中心的な言動にこそ彼の身体が鋭く反応してしまったのかもしれません。私利私欲を表に出すのをじっと我慢し、自分より困っている他人があれば歯を食いしばってでも身を引き、その人に先を譲る。そうやって、誰もがあの未曾有の災害を懸命に乗り越えようとしていたのです。ご家族が被害に遭われた田代雄二さんが一週間ぶりに出社した際、気丈に、つとめて明るい声で報告をしているのに、顔は笑っているのに、目からは涙がとめどもなく流れていた、そう聞きました。皆がそうやって真正面から生きようとしているときに、いったいこの人は。茂子さんへのそんな思いが、身を持ち崩している自分自身をよそに、瞬時に彼の身体の芯を突き抜けたのかもしれません。

 彼が冷静さを取り戻したのは、茂子さんが動かなくなってからでした。けれども、冷静という感覚そのものを大地震以降、彼だけでなく誰もが失っていた。彼は茂子さんの死体を遺棄しながら、埋めたり、傍にダムがあるのに水中に沈めたりはしなかった。身元が明るみになる所持品を注意深く調べて破棄することもしなかった。そうしたちぐはぐさはその端的な顕れとも言えます。彼はそのことについて、たとえ死体であろうと、ただひたすら身近に茂子さんにいて欲しくなかったから、と淡々と供述しているようです。それこそが冷静さを欠く不得要領の言い訳です。

 真奈美さんとの旅行が地震で中途で断たれ、十日後、その恋人を乗せたのと同じ車で、地震で生活の先行きを危惧した女性の死体を彼は運ぶことになった。彼のその姿を思うと、善意の暴走という言葉が私を締めつけます。誰しもがこの大災害を助け合いながら必死に生きようとしているのに。その強い思いが茂子さんの首に彼の手をかけさせた。彼自身にしてみれば正義のつもりでも、平生では働きえない格段の力が、その正義を暴走させてしまった。正義さえまっとうされれば欲求は充たされ、遺体処理にはさして執着もなかったのではないか。私にはそう思えてなりません。

 ホームページに「ご冥福をお祈りします」というメッセージを地震直後に掲載したのは彼の会社以外にもたくさんありましたが、それも善意の暴走です。この間、彼が犯した事件を伝え、論じ、そして批判してきたマスコミやインターネットサイトにも同じようなことが言えます。多くの人々が大災害でもがき苦しむ中、情事に溺れ、結果的に殺人事件を引き起こしてしまった男女。なんて型どおりで、臆面もない善の暴走でしょうか。

 なぜ暴走(・・)なのか。ほかなりません、どれも独りよがりの正義や善意で、それらから発せられる独善的なエネルギーが差し向けられる相手のことを何ひとつ思いやっていないからです。鬼の首をとったように彼に絡み自身の保身を迫った松山茂子さんは、私からすれば、キモチワルイ。その場にいたとすれば、私だってそんな女は殺したくなる。でも、当たり前のことですが、殺したくなることと殺してしまうことのあいだには越えてはならない一線がある。けれどもどうして、私だって殺したくなるとは言えないのでしょう、そう言える人がいないのでしょう。集団的な善意の暴走は、いったんスウィッチが入ってしまえば、それに立ち向かうおうとすることがそもそも禁忌とされる、そんなキモチワルイ(・・・・・・)時代を私たちはすでに生きてしまっています。

 最後に日本人らしく「父」という言葉を使います。――私はほんとうに父と伊豆に旅行に行きたかった。私たちの学校のことを考え盛岡に一人で行ってからというもの、彼、いえ、父との接点が希薄になってしまった。そのブランクを取り戻すための旅行になるはずだったのです。なんとか一緒についてこられないものかと父がずっと気にかけていた反抗期の弟も、私たちと旅行に行くことをようやく受け入れていました。その矢先の地震だったのです。アメリカで暮らしていたころは、母がまだ元気だったころは、毎週のように家族でドライブをしていました。北カリフォルニアからネバダの州境にかけて、行かなかったところはないくらいです。父は母の健康状態を知ったうえで彼女と結婚したのだと思います。二つ年下の弟が三歳になってすぐ彼女の癌が再発しました。その日がいつか来るのではないか、父はずっとそのことを恐れていたし、そのぶんある程度は覚悟もできていた。家族旅行もなくなり、父は母につきっきりになった。その間、本社からは日本への帰任令が出ましたが、父は無理を言って母や私たち姉弟が生まれた国に留まりました。母が亡くなったのは八か月後のことでした。

 父は三六歳で九年ぶりに日本に帰任しました。父とともに日本に来たとき、私は七歳で弟は五歳でした。いまでは二人ともすっかり日常生活では日本語を使ってます。就学前でそのまま日本の小学校に上がった弟はもう英語を忘れてしまってますが、インターナショナル・スクールに通った私はいわゆるバイリンガルです。だから、父であれ誰であれ、男性の呼称は、英語同様日本語でも「彼」なんです。いま思い起こせば、デパートで爆発事故があったあの日、父の会社に電話した私は思わず、()は無事なんでしょうか、と電話口に出た松山茂子さんに訊ねてしまったのです――。

 あの地震さえなければ。たとえ父と真奈美さんの関係が続いていたとしても、少なくとも私たち家族は……。

 いえ、そんな考えはもう虚しい。

 そう。弟も伊豆の旅行にいくはずだった、そのことすら私はまだ獄中の父に伝えていないのです。【了】


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