#06:少女は地獄に何を見る
昼時の大衆食堂は多くの人で賑わっていた。
その大半は男性客である。午前の労働を終えた集団が鋭気を養う為に、談笑を交わしながら各々好きな料理を胃袋に詰め込む。時折店内を蹂躙するオーダーの声に対して、年端もいかない少女が快活な声で応じてテーブルの間を縫うように掛けていく。この店の店主の子だろうか。
「よぉ兄ちゃん、面白い得物を持ってるねえ」
両手に皿を乗せて走る少女の姿をなんとなしに横目で追っていたブルーノ・ブライトナーは、視界を遮るようにして目の前に現れた中年の男に、不快な感情を隠そうともしなかった。 話し掛けてくれるなと言外に伝えようとして思い切り睨み付けてやったが、男はお構いなしに隣のカウンター席に腰を下ろしたものだから、ブルーノの機嫌はいよいよもって悪くなる。
――飯が不味くなる。
男の値踏みするような目は、ブルーノが隣に立て掛けている得物に向けられていた。
「兄ちゃん、あれか。魔物のハンターだろ? 俺は色んな所を回ってる行商屋だからよぉ、わかるぜ。兄ちゃん、只者じゃないだろ。その得物も普通の薙刀じゃあねぇ」
目の前の皿から、利いてもいないのにべらべらと喋り続ける男にちらと視線を向ける。
服のサイズが小さいのか、男の恰幅がよすぎるのか――薄汚れたインナーと腰巻きの間から、汚らしい贅肉がはみ出ている。
見なければよかったと後悔して、ブルーノはすぐに視線を戻した。
「なぁ、ちょっとでいいからさ、見せてくんないかなぁ? その薙刀! ちょっとだけでいいからさぁ!」
「断る」
両の掌を合わせて拝むような姿勢を取る男を一言で一蹴する。
それで諦めてくれれば良かったものの、そうは問屋が卸さないらしい。眉を八の字に歪めた男は、「いやいや」と両手を振ってみせる。
「疑っているんなら、それはとんだ見当違いだぞ兄ちゃん。別に奪おうとか、そういうつまらねぇ企みはねぇのよ。今までに見たことの無いものだから、それがどんな物なのか知りたいってだけでさぁ!」
ブルーノが男を邪険にしているのは、単に食事の邪魔をされたくないだけである。疑うもなにも、端から眼中に無い。
「なんなら、兄ちゃんの飯代を奢ってやってもいい――ほら」
懐から財布を取りだした男は、そこから抜き取った紙幣をカウンターの上に叩き付けた。
――そんなに興味のそそる物か、こいつは。
皺だらけの紙幣を見、それから隣に立て掛けている自分の得物を一瞥する。
闇の塊のような、全ての光を受け入れない黒い鉈――確かに、その外観だけで普通の武器では無いという事くらいは、素人目に見ても理解できるだろう。武器を扱っている人間なら、尚の事――という訳か。
露骨に苛立ちを表した嘆息をひとつ吐き出し、ブルーノは薙刀の柄を掴む。さっさとこの男の要求を満たせてしまった方が、うるさくなくて済むと判断した。
「ほらよ」
不機嫌な調子を隠す様子など皆無のブルーノは、乱暴に掴んだ薙刀を男に向かって放る。
「ちょ、ちょい……!」
刃の部分を布で覆っているため、誤って人体を傷付ける心配は無いとはいえ、ボールか何かを渡すような感覚で武器を投げられれば男が慌てるのも無理は無い。
半ば抱き付くような形で得物を受け取った男は、驚きに見開かれた目を更に大きくする。言葉にならない程の驚愕に思考が追いついていないらしい、男はその場で固まってしまったが――ブルーノは目もくれずにコップの水を空にした。
「……なんだこいつは」ようやっと男の口から出てきた呟きは、喧噪に紛れてすぐに消えた。ブルーノの得物を抱える両手は、何か畏れ多い物にでも触れているかのように震えており、手の平から滲み出る汗が柄を湿らせる。
「軽すぎる……。木の枝でも持っているんじゃねぇかってくらい軽い。およそ武器の重量とは思えんぞこれは……」
――まぁ、何も知らない人間がそれを持ったら、そういう反応を示すのは当たり前か。
皿の料理を平らげたブルーノは、まじまじと得物を眺めながらぶつぶつと呟いている男を横目で見遣りながら、心中で溜息を漏らす。
「鉄でもねぇし、銀でも銅でもねぇ……まさか紙ってこたぁねぇだろうし。なぁ兄ちゃん、これは一体何で出来てるんだ?」
「知らん」
得物を見つめたまま問うてきた男に対し、頬杖を付いたブルーノは明後日の方向を見ながら応じる。
答えるのが億劫だからではなく、本当に知らないから――尤も、知っていた所で、彼が正直に話していたかといえば怪しい。
「じゃあこれを作った奴は? 誰から買ったんだ。どこの国の物だ?」
「……知らん」
今度は嘘を吐いた。その虚言が返事を寄越すのに一拍の間を要する原因となったが、得物に魅入っている男がそれに気付く様子は無かった。
――作った奴は知っているが。
正直に話すのは億劫だし、見ず知らずの男に話す必要も義理も無い。何より、余計な深入りは後悔を招くだけだ。
「兄ちゃん。刃の部分を見せてもらってもいいか?」
刃の部分に巻き付けてある布を外しても良いかという確認に対して、ブルーノは「好きにしろ」と応じる。それで満足して、さっさと返してくれ。
「じゃあ遠慮なく――」男が柄の先端を下に向けた状態で
得物を床に立てようとした時、ブルーノの表情に焦りの色が浮かんだ。
ちょっと待て――という言葉は間に合わず、柄の先端が床に付いた瞬間に男の悲鳴が店内を蹂躙する。その大音声は大勢の客を沈黙させ、衆目に晒される中で男は転げるようにして椅子から落下した。
駄目押しするかのように倒れてきた得物の柄が男の顔を打つのを見、ブルーノは目を伏せて嘆息を漏らす。静まり返ったのはほんの一瞬で、すぐに興味を失った客たちの喧噪が徐々に蘇っていく。
「な、な、な……」尻餅を付いたまま驚愕に表情を歪める男は酷く混乱しているようで、ぱくぱくと動く口からはまともな言葉が出てこない。
「もう充分だろ、返せ」
男の様子などお構いなしに、ブルーノは男から得物を取り上げて元の位置に戻す。悲鳴を聞きつけて店の奥から飛び出してきた少女が、
「どうかしましたか?」と不安げな様子で訊いてきたが、ブルーノは適当に手を振りながら、「何でもない。この馬鹿が浮かれて騒いでただけだ。仕事の邪魔して悪かったな」と応じた。
「ならいいんですけど……」
尻餅を付いた男と、ブルーノを交互に見遣りながら、少女は店の奥に引っ込んでいく。その表情には最後まで不安が浮かんでいたものだから、少しばかり不憫に思った。
――馬鹿のせいで、余計な心配をさせた。
「な、なんだったんだ」その馬鹿が、自分が腰掛けていた椅子にしがみつくようにしながら立ち上がる。「よく分かんねぇが、酷く痺れたぞ」
「魔物を怯ませる仕掛けだ。柄の先端を叩きつければ、今のあんたみたいになる」
無論、それは本来の用途では無い。
万が一にでも――そう、このような時に――得物の仕掛けを訊かれた時のために、予め用意してある言い訳だ。大抵の人間なら、それで納得する。
この馬鹿とて例外では無い。「はあ」と気の抜けたような返事を寄越して、椅子に座り直す。
さっさと出ていってほしいのだが。
「おっかねぇなぁ、ハンター稼業ってのは。銃社会に移り変わろうっていう昨今で、兄ちゃんみたいに剣だの槍だので魔物と戦おうとするハンターは少なくねぇ。まぁ、お陰でこっちは食いっぱぐれしないからいいけどよ」
「……他の連中がどうかは知らんが、俺はこのやり方が性に合っているだけだ」
――何でこんな奴に付き合ってやらないといけないんだ。
眼下の皿に視線を落としていたブルーノは、はっとなって頬杖を付いていた顔を上げる。食事を終えた以上、いつまでもここに留まっている理由は無いのだ。男に立ち去る気が無いのなら、自分が立ち去ってしまえばいい。
「……なぁ」席を立つ前に、ふと思い立ったブルーノは男に声を掛け、胸のポケットから一枚の紙を取り出した。
角がすり減り、所々が折れ曲がってしまっているそれには、車椅子に乗るブロンドの少女と、その後ろに立つ黒髪の女医が写っている。
どちらもカメラに向けて愉しげな笑みを浮かべていた。
「この二人……どっちでもいいんだが、どこかで見た覚えはないか? 車椅子に乗っているのがリア・エーゼルシュタインで、後ろの医者はマーリン・マイヤーという名前だ」
あるいは、サイズという名を名乗っているかもしれない――と、言い掛けて、やめた。
「……いや、知らねぇなぁ」暫く難しい顔をしながら写真を睨んでいた男だったが、最後には首を横に振った。「兄ちゃんの恋人か何かか?」
行商なら、あるいはどこかですれ違っていてもおかしくはないと――僅かな可能性に賭けてみたのだが、所詮は僅かな可能性か。
男の質問を無視したブルーノは、立ち去るべく写真を元の位置に戻そうとして――、
「車椅子の人なら、さっき見ましたよ?」
いつからそこに居たのか。両手に料理が盛られた大きな皿を乗せた先の少女が、男の脇から写真を覗き込むようにしてそう言ったものだから、ブルーノは思わず目を見張った。
「本当か!?」
驚愕と共に立ち上がったブルーノは、自分でも信じられない程に声を荒げてしまっていた。凄みを帯びた彼の剣幕に怯む少女は皿を落としそうになったが、どうにか体勢を立て直してからぎこちなく頷いた。
「は、はい……さっき配達に行った時に――車椅子には乗っていませんでしたけど、その人――」
今すぐにでも店を飛び出したい衝動に駆られたブルーノは、足元に置いてあった麻袋を担ぎ上げる。無論、大事な商売道具である得物も忘れない。
「――アームレスリングをしていました」
どさりと、重い物が落下した音が喧噪の中に紛れる。
「……は?」
担いだ荷物を取り落としたブルーノは、間の抜けた声を上げてから、しかめ面を浮かべている行商の男と顔を見合わせた。
【#06:少女は地獄に何を見る】
店を出てたら左に直進し、2ブロック先の十字路を右に曲がった先。そこでアームレスリングの大会が開かれている――。
場所を聞くなり店を飛び出したブルーノは、多くの人々が行き交うメーンストリートを縫うようにして駆けていく。食事を取った直後に全速力で走れば脇腹の痛みが彼を襲ったが、それは足を止める理由には成り得なかった。
たかが僅かな可能性――されど僅かな可能性と考えるには些か都合のいい解釈かもしれないが、まさに僥倖と言う他に無い。ともすれば、砂漠に落ちた針を探すより困難を極めるであろう人捜しが、ここで終着点を迎えるとなれば。
脇腹の痛みなど気になる筈が無い。
アームレスリングの大会が開催されているであろう場所はすぐに分かった。情報の通りに進んだ先には、多くの人集りが見て取れたからだ。よほど熱狂しているようで、歓声と野次が入り交じっているのが遠巻きにも分かる。
――にしても、何でリアがアームレスリングなんかを。
今更のように――そして、至極当然の疑問がブルーノの脳裏を掠める。
自分と同じヒューマノイド・キメラではあっても、その真価が発揮されるのはキメラ体になっている時のみであり、そうでなければリアとて普通の女の子も同然である。物珍しさで参加したという可能性もあるが――果たして今の彼女に、そのような感情はあるのか。
「……しかし、えらい人集りだな」
目的地に到着したまではいいが、人垣が邪魔でその向こうの様子がまるで分からない。
「そりゃあそうだよ」ブルーノの呟きに対して、隣にいる青年が応えた。自分と同年代くらいかもしれない。「なんたって、飛び入り参加した女の子が前回の準優勝者を倒しちゃったんだぜ。その子がこれから決勝で現チャンプと戦うんだから、人も集まるってもんさ」
したり顔で語る青年を横目に、ブルーノは人垣の中を強引に進む。観客は圧倒的に男性が多く、興奮している輩に肘で脇を突かれ、足を踏まれたりする中で、一際大きな声が集団の中心から聞こえてきた。
「さぁ、お待ちかねの決勝戦だ! 無敗のチャンピオン――スクラップラーの異名を取るジークベルト・コハーに挑戦するのは……驚くことなかれ! この場に最も似つかわしくないと言っても過言ではない可憐な少女……」
もみくちゃにされながら人垣を越えたブルーノは、集団の中心で衆目を一斉に集めるブロンドの少女の姿を認める。
「その名も、リア・エーゼルシュタインだ!」
木箱に乗る司会役の男が大仰に声を上げてみせると、観客の声が一層大きくなる。ともすれば耳障りな大音声は、しかしブルーノの耳には一切入ってこなかった。
――本当に、リアが。
最後に見た時と変わらない少女は、この場の熱気とは打って変わって冷めた視線を眼前の酒樽に向けていた。その表情から読み取れる感情は皆無で――これから自分が何をしようとしているのか理解しているのかと不安になってしまう程だった。
戦いの場であろう酒樽を挟んで向かい側に立つのが、チャンピオンのジークベルトとやらだろう。スキンヘッドに加えて眉をも剃り上げており、両耳には趣味の悪さを窺える髑髏のピアス。タンクトップから伸びる両腕に蓄えられた筋肉は大木のようであり、それでいて熊のような巨体を誇っているのだから恐ろしい。ブルーノ自身、生身でこの男とのアームレスリングで競ったとして、勝利できる自信は無かった。
さて、チャンピオンの称号に相応しい筋骨隆々の男は、一見してごく普通の少女であるリアをさぞかし見下しているのだろう――というブルーノの予想は大きく外れており、彼のリアを見る目は真剣そのもの、勝負に挑む男の顔だった。
「リアといったな」ジークベルトが太い腕を組みながら口を開く。
圧倒的な身長差がリアを見上げさせる。その目は勝負に挑む者のそれでは無い。何気なく、ただ景色を見上げている人間の目――。
不意に、ブルーノはレオデグランス記念病院の病床に伏していた頃の自分を思い出す。窓ガラスに映る、精気を欠いた眼差し――それを見ているようだった。
「こうして決勝の場に立っている以上、俺はお前をただの女だとは思っちゃいねえ。俺の全力を以て、スクラップにしてやる――チャンピオンの名に賭けてな!」
ジークベルト・コハーの啖呵が観客の興奮を最高潮に導き、大気を震わせる。場の空気は圧倒的にチャンピオンの味方だった。
しかし――否、それでもリアが動じる様子は微塵も無く、立て掛けられた精巧なドールのように、静かに佇んでいる。
今の彼女は、見るまでもなく人間体だ。キメラ体のリアなら常人に勝ち目は無いと言っても過言では無いが、そうでなければ普通の少女だ。にも関わらず、こうして決勝の場にいる――そこに至るまでの勝負を勝ち抜いてきている。事実は揺るがないが、理由が全く分からなかった。
――リア。お前は、どうやって勝つつもりなんだ?
ゆらりと――リアの視線が動き、それはブルーノに焦点を結ぶ。心中で抱いた疑問に応じるような動作に驚きを禁じ得なかったブルーノだが、しかしリアは――確実に彼と目が合ったというのに、何の反応も見せなかった。
最初から、ブルーノがそこに居るのを知っていたかのようで。
「さて――心の準備はいいか!?」木箱で組まれた簡素なステージから降り立った司会者が声を張り上げると、リアはブルーノに向けていた視線をさっと正面に戻してしまう。これから戦う相手に集中するのは当然の事ではあるが、その挙動は無視されたようであまり良い気分とは言い難かった。「両者、勝利を掴み取るための手を決戦の場へ」
二人の間に立つ司会者が、大仰に両腕を広げてみせる。
ジークベルトが酒樽の上に肘を乗せただけで、槌で叩いたような大きく鈍い音が立った。リアが同じ動作をした所で、同じような現象は起きない。
二人が手を組み合わせると、改めてその――リアにとって――絶望的な体格差を認識させられる。腕の太さだけ見ても倍近くあるのだ、チャンピオンからしてみれば、棒切れを持っているような感覚にも等しかろう。
「レディ――」組み合わされた手の上に司会者が掌を重ねると、俄に辺りが静寂に包まれていく――この場の誰もが、行く末の分からない勝負に固唾を飲んだ。
観衆の中を吹き抜けた一陣の風が、リアの髪を撫でる。
「ファイッ!」
重ねられた掌が上がると同時に放たれた開戦の号令は、そのまま試合終了の宣告となった。 観衆が沸き立ったのも一瞬、気が付いた時にはジークベルトの手の甲が酒樽に叩き付けられるという光景は、先までチャンピオンが制圧していた場の空気を凍り付かせる。現象は単純明快で――リアが一瞬で相手を負かしたというだけで――しかし、誰もが目の前の現実を信じられずに、受け入れられずにいる。
ジークベルトも然り。
彼の言葉を信じるならば、間違いなく油断していなかったのだろう。だからこそ、リアに叩き付けられた自身の手を凝視したまま硬直する――否、静かに戦慄いるのだと、ブルーノは気が付いた。
「……ジャッジ」
ゆらりと面を上げるリアの口から発せられた静かな一声が、凍り付いた空気に亀裂を作る。彼女の視線を受けた司会者も観衆と同様に呆然と立ち竦んでいるだけだったが、やや置いてから「へ?」と上擦った声を上げた。
「私の勝ちでいいですよね」
審判を下してくれなければ勝負が終わらない。自ら手を放してしまえば、それは棄権を意味してしまう。故にリアは確認し――司会者は二度、三度と大きく頷いた後に左手を大きく掲げた。
「この勝敗を誰が予想したか! 勝者はリア・エーゼルシュタイン! 新たなチャンピオンの誕生に――」
司会者が言い終えるのを待たずにリアの手を振り払ったジークベルトが、大きく振り上げた拳を酒樽に叩き付ける。
その一撃は箍を歪め、樽板をへし折り、瞬く間に原型を失った「樽だった」物を辺りに飛散させる。自分の足下に転がってきた残骸から視線を上げたブルーノは、息を荒くして興奮した様子のジークベルトを見る目を細めた。
「ふざけるな! お前みたいな小娘に、どうして俺が負ける!」
醜態を晒すとはこの事だ。怒りの感情に囚われた彼の顔は瞬く間に紅潮していき、蛸のようになっている。リアを睨め付ける相貌は血走っており、唾と共に吐き出される怒号が空気を震わせた。
怒り狂う獣と化したジークベルトを相手に、司会者は宥める事すら出来ずにただただ狼狽している。観衆とて同じであり、中には怖ず怖ずと逃げ出す者すらいる。
それでもリアは――最も近くに居る彼女は、表情ひとつ変えようとしなかった。怯え竦んでいるのではなく、蔑み哀れんでいる訳でもなく、ただただ感情を欠いている。冷めた目を正面の獣に向け続ける。
――リアは怪物を内包しているのだ。獣など恐るるに足りない。
「イカサマだ」何を言い出したかと思うと、ジークベルトはリアが両腕に身に付けている白いグローブを指差す。「何か仕込んでいるんだろう! そのグローブの下に隠しているものを見せてみろ!」
ジークベルトがリアに掴み掛かろうとする――その動作は、ブルーノが突き付けた獲物の切っ先が止めた。
人を不本意に傷付けてしまうのを防止する為の布を刃に巻き付けているが故に、それを振るった所でどうにかなるものでは無いが。それでも鼻先に獲物を突き付けられた彼が微かに唸りながら怯んだのは、刃よりも鋭いブルーノの剣幕によるものか。
「ブルーノ……」
呟いたリアの表情に、微かに驚きの色が浮かんでいるのが見て取れた。
リアなら、あるいはジークベルトにそのまま掴み掛かれた所でどうとでもできていたに違いは無いだろう。それでもブルーノが二人の間に割って入ってしまったのは、所謂「頭にきた」からだった。
「見苦しいんだよ。素直に敗北を認めようとせず、あまつさえ不正を疑って手を上げようとする。それ以上の愚行を重ねるなら、お前は自身のプライドをスクラップにする事になるぞ」
――尤も、リアに大敗を喫し、大衆の面前で醜態を晒している時点で、こいつのプライドは地に落ちて粉々に砕け散ったようなものだが。
怒りと屈辱に表情を歪ませたジークベルトの血走った目と、沸き立つ憤りを心の奥底で燻らせるブルーノの目が互いを見据える。
無言による睨み合いの応酬が束の間繰り広げられた後、食い縛った歯の隙間から舌打ちをひとつ漏らすと、何歩か後退った後に背中を向けてすごすごとその場を去って行く。途中で彼の足元に転がっていた樽板が蹴り飛ばされ、それは観客の顔面を直撃した。悲痛な叫び声が上がる。
嘆息をひとつ吐いたブルーノは得物を降ろすと、意図的にリアの方を見ないようにしながら観衆の中に戻ろうとして――殺到する衆目に、少しばかり後悔の念に駆られる。
もう少し冷静でいられれば、こういう事態を招いてしまう事は想像できたものを。
先とは別の苛立ちを覚えたブルーノが周囲を睥睨すると、観衆はたちまちに目を反らす。当然ながら、声を掛けてくるような物好きな輩はいなかった。
「……え、えーと」静まり返った場で俄に間の抜けた声を上げたのは司会の男だった。最終的に腰を抜かしていたらしい彼は、ふらふらと立ち上がりながらも自身の役割を全うしようというのだから、大したものである。
「予想外のトラブルが起こってしまったが……改めて、優勝おめでとう。リア・エーゼルシュタイン」
祝福の言葉に応じる者はいない。先の怒気に当てられて、誰もがそういう気分でいられなくなっている――無理も無いだろう。
「チャンピオンとなった今の気分を、聞かせては貰えないだろうか」
司会者の質問に対して、リアは観衆の方に身体を向ける。
彼女もまた意図的にブルーノを見ようとせずに――奇異や畏怖、関心が入り交じった視線を向けてくる者たちに向かって、「私は」と静かに口を開く。
「生き別れになった母親を捜して旅をしています。名はクレシダ・エーゼルシュタインと言います。どんな些細な情報でも構いません、どなたか、ご存知ないでしょうか」
少女の問い掛けに、返ってくる言葉は無い。
少なくともそれは、今の心境を問われた者が口にするようなコメントでは無いのだから当たり前の事ではあるのだが――いや、そもそも尋ね人に関する情報を持っている者が皆無だからか。
いずれにせよ、欲する回答を得られなかったリアの表情には僅かに陰が差す。
「もし、どこかで私の母を見掛けるような事があれば、どうか伝えてください。リア・エーゼルシュタインはあなたを捜していると……そして、あなたに会いたがっていると」
一縷の望みを託した言葉を残して、波乱に満ちた小さな大会は幕を降ろした。
「おい……リア」
前方を行く少女の背に声を投げ掛けてみても、その歩みが止まる事は無かった。
件の大会には賞金が用意されていたらしく――それを受け取るや否や彼女はそそくさと立ち去ってしまったものだから、ブルーノは慌てて後を追う羽目になった。感動的な再会を求めていた訳では無いが、せめて何か一言くらいあっても良いだろうという不満が、追い掛ける歩幅を広くする。
隣に並んだブルーノを一瞥したリアは、立ち止まる訳でも逃げるのでもなく、そのまま歩き続ける。とりあえず、拒絶はされていないらしい。
「今のあなたは」少女の言葉は、ともすれば周囲の喧噪に紛れて消えてしまいそうな程に細々としていた。「ブルーノ・ブライトナーなの? それとも、グレイブ?」
回答次第によっては、今後の振る舞いは異なると――言外に匂わせるような問いであり、それはブルーノを得心させる。
「……あんな連中が勝手に付けた名前なんざ、とうに捨てた。今の俺はブルーノ以外の何者でもねぇよ」
「そう……」
表情こそ変わらなかったが、その言葉には微かな安堵が見て取れたような気がした。
「おおよそ一年振りか」彼方を流れていく雲の塊を見上げながらブルーノは呟き、隣の少女は首肯する。
「……お前の母親は、まだ見つかっていないんだな」
もう一度、首肯する。
先のリアの言葉を鑑みれば訊くまでも無い事実だったが、それが彼女を突き動かす全てであるのなら、訊かずにはいられなかった。
ブルーノ・ブライトナーとクレシダ・エーゼルシュタインの面識は無い。入院していた当時、リアやマーリンから聞いた――聞かされた限りでは、家族想いの良き母親であった事に違いは無い。物心ついた頃から親と呼べる存在がいなかったブルーノでも、それくらいは理解できた。
その母親、クレシダはある日を境に姿を消したという。リアに何も告げる事なく――唐突に、蒸発する。
俄には信じがたかったが、しかし誰よりも納得できていなかったのは、他でも無いリアだ。当然、彼女は父であるオセロに問い詰めた。お母さんはどうしたの? どこへ行ってしまったの? と。
お父さんたちはね、離婚したんだ――何度訊いても、オセロの返答に変わりは無かった。
それこそ信じがたい話だ。百歩譲って本当に離婚し、互いに別々の人生を歩む事になったとして、自分の娘に一言も告げずに家を出て行ってしまうなど有り得るのだろうか。だからリアは何度も問い詰めた。何度も何度も母の行方を尋ねた。本当の事を知りたかったのだ。例えそれが酷な現実だったとしても、だ。
しかし、ついにオセロが真実を話す日は訪れなかった。クレシダが蒸発した日を境にオセロは日に日に口数が減っていき、表情からは生気が欠けていき――父と娘の間には深い溝が生まれるようになった。
それから間もなくしてヒューマノイド・キメラとなったブルーノは半身の自由を取り戻し、リアも二本の足で歩けるようになった。
――ただし、その代償は決して安くない。
「……さっきのあれは、何だったんだ?」
「あれって?」リアはちらとブルーノを見上げる。頭ふたつ分ほどの身長差がある為、隣に並ぶと必然的にそうなってしまう。
「あの時のお前は、キメラ体だったのか?」
アームレスリングに於ける異常なまでの怪力――およそ生身の少女が有する力では無く、誰もが驚愕に目を見張る光景だったが、そのからくりを知っているブルーノにも不可解な疑問が残る。
「ヒューマノイド・キメラのブルーノなら、考えるまでも無いでしょう?」
こんな街中でキメラ体になったら、大騒ぎどころじゃ済まなくなるよ――と。
それは至極真っ当な回答ではあるが、しかしブルーノが求めている答えでは無い。
「だとしたら、あのチャンピオン――今は元チャンピオンか――に、どうして勝てたんだ。あんな熊みたいな大男とアームレスリングで勝負して勝つ自信なんて、俺には無いな」
無論、キメラ体なら話は別だが。
リアはすぐに答えようとはしなかった――どう答えようか迷っているように見受けられた。白いグローブを纏った左手の平を、歩きながらじっと見つめており――そうしている彼女に対して、ブルーノは掛ける言葉が見付からなかった。
「よく分からないけれど」見つめていた掌を握って、リアを正面を見据える。「人間体の状態でも、キメラ体に近い力を出せるようになってきていて。ブルーノは、そういう事は無いの?」
「いや……」
深く考えるまでも無く、思い当たる節は皆無だった。
尤も、ヒューマノイド・キメラが数える程度しか存在しない現状では、どのような人間にどのような魔物を組み合わせるのが最適解なのか解明されていない部分が多い。また、術後の身体に起こる変化は、予想の範疇を大きく逸脱する可能性がある――少なくとも、病院に居た頃にマーリンやオセロから訊いた限りでは、そう説明された――となれば、リアの身に起こっている現象は、彼女特有のそれと見て間違いないように思われた。
――飽くまでも、素人目に見た場合の話であり。
マーリンが見たら、全く別の見解を述べるかもしれないが。
「……まあ、とにかく。あの試合でお前が圧勝できた理由は分かった。しかしな、お前……中身はともかくとして、見てくれは完全に子供なんだぞ。あれは悪目立ちが過ぎる」
変な連中に目を付けられたらどうするつもりなのか。咎めるつもりで言ったのだが、
「あの場は、最初からそうするつもりだったの。ブルーノが言う所の、悪目立ちを」
ブルーノの眉間に縦皺が刻まれた。何を言い出すのかと訝しむのは必然だろう。
「最初は色んな街で、色んな人にお母さんの行方を尋ねていたんだけれど、それだといくら時間があっても足りないと思って。だから――逆に私が目立つようになれば、お母さんが私の存在に気付くかもしれないって」
稚拙な発想だと否定するのは簡単だったが、その為の言葉は出てこなかった。
現にこうして、ブルーノとリアは一年振りの再会を果たしているのだから。
「ブルーノは」暫しの間を置いてから、リアは僅かにブルーノに視線を向ける。
正確には、ブルーノが背負っている黒い得物に向けられているような、そんな気がした。「今もハンターをやっているんだね」
「そういう生き方しか知らないからな。まあ……お陰で、食っていくだけなら困らない」
キメラの力を手に入れてからは――当人が望む望まないに関わらず――界隈でもそれなりに名の知れた存在になっていた。
「病院に居るという選択肢も、あった筈だけど」
「……奴の言いなりになるのは、真っ平御免だ」
名前を口にするもの忌々しいと言わんばかりに「奴」と吐き捨てた者――ランスロット・ラガーフェルドの慈愛に満ちた嫋やかな笑みが脳裏に浮かぶが、それはブルーノの表情を険しくするだけだった。
ランスロットがいつから病院に身を置いていたのかは判然としない。ブルーノが知っているのは、奴が医師では無いという事と、オセロの研究――即ち、ヒューマノイド・キメラと何らかの形で関わっているという事。
そして、それを利用して何かを企てているという事。
「人々が最も幸せに、そして平等な法の下で人生を送れる理想の国を創る」――というランスロットの題目に、ブルーノは賛同できなかった。有り体に言えば胡散臭いと思った訳だが。それよりも何よりも、ランスロットと顔を合わせる度に、胃の底から込み上げてくる不快感のような、言い知れぬ感情が警鐘を鳴らすのだ。
ここに居てはいけない。
こいつと関わってはいけない、と。
「だから、病院を出たの?」
「それもあるが……」言葉尻で僅かに口籠もったブルーノは、やや間を置いてから、
「お前を捜していたというか。まあ、心配していなかったと言えば嘘になるからな。何も言わずにひとりで飛び出して行っちまったんだからよ」
「本当に捜したいのは、マーリンでしょう」
こういう時、昔のリアであれば、からかうような笑みを表情に湛えていたに違いないだろうが。
ぎょっとして彼女の方を見遣ったブルーノだったが、相も変わらず感情の抑揚を欠いた目がこちらを見上げているだけで――反って、それが大きく狼狽する結果を招いてしまった。
視線が泳いでしまうのを、どうしたって抑えられなかった。
「……やっぱり、ブルーノはマーリンが好きなんだね」
「どうしてそうなる」
せめて声色だけでも平静を装ってみたつもりだったが、果たしてリアの耳にはどのように伝わったのか。
「ブルーノが病院に運ばれたあの日……」
マーリンから聞いたんだけど――と、リアは前置きしてから続ける。
「倒れていたブルーノを助けようとしたマーリンを、『エルマ』と呼んだのでしょう」
――余計な事を喋ってくれたな。
渋面を浮かべるブルーノは、内心で毒突いた。
「マーリンに、エルマという人を重ねて見ていたんだと、私は思っていた。その人がどんな人なのか知らないけれど、きっとブルーノにとって大切な人で――違う?」
ブルーノの脳裏に過去の光景がフラッシュバックし、それはリアの問いに答えようとした口を閉ざしてしまう。
「……分からん」
辛うじてその一言だけ返して、自身の足から伸びる影に視線を落とす。
リアはそれ以上の言及をしようとせず、ブルーノも閉口してしまったとなれば、後に残るのは重苦しい沈黙のみだった。周囲の喧噪が耳に付くようになり、それが余計に互いの間にある見えない距離感を意識させてしまう。
分からないという言葉に嘘は無かった。ブルーノにとって、マーリン・マイヤーとはどのような存在なのか。
「エルマは――俺の幼馴染みみたいなものだ」
独白めいた呟きに、リアは微かに頷いたような気がした。
「ガキの頃からスラムで暮らしていた仲間の一人で。何をするにしても、あいつはいつも俺と一緒だった。魔物を狩れば金になるという話を聞いて、スラムを出ようとした時にもな」
二人なら、どんな獲物でも仕留められるという自信があった。
「今にしてみれば、それは自惚れ以外の何物でもなかったが――事実、俺とエルマは二人で多くの魔物を狩った。狩って狩って、狩り続けた。そうすれば大金が舞い込んでくる。貧困極まる生活を強いられていた俺たちにとって、金は禁断の果実のようなものだった」
ブルーノでも、エルマでもいい。無意識的に肥大化していく矜恃に気付く事が出来れば、あるいは別の人生を歩めていたのかもしれない。
それが出来なかったのは、金の魔力に魅了されたから。
「エルマは白い竜に噛み殺された、俺の目の前でな。そもそも、あれは二人でどうこう出来る相手じゃあなかったんだ。後は、お前の知っての通りだ」
「白い……竜」
リアの反芻に驚きの色が浮かんでいるのを感じ取ったブルーノは、誰に向けるともなく自嘲めいた笑みを浮かべた。
「皮肉なもんだ。仲間の仇が、巡り巡って俺の身体の一部になっているんだからな」
エルマの命を奪ったのが白い竜であれば。
ブルーノの命を救ったのも白い竜である。
「尤も、それが同じ個体なのかどうかまでは分からなかった。俺が全てを知ったのは、キメラになった後だからな」
それでも、その巡り合わせに因果めいたものを感ぜずにはいられなかった。
ブルーノと白い竜の命を結び付けたのが、エルマに似通った顔立ちのマーリンとなれば、尚の事。
「……マーリンにエルマの姿を重ねているのかと、お前は訊いたな」
ややあって、リアは首肯する。
「今の話を聞いたお前の目に、ブルーノ・ブライトナーという人間はどう映る。見えない筈の女の背中を追い続けている、哀れな男に見えるか?」
リアを責め立てているつもりは無いし、そうする理由も無い。それでも詰問口調になってしまったのは、ブルーノが切に答えを求めているからだった。自身の行動に対する、明確な理由付けが欲しい――。
「……分からないよ」
ぽつりと――弱々しい言葉がリアの口から漏れ出たのは、二人がメーンストリートを抜けて閑散とする道に差し掛かってからだった。付近を流れる川の潺に紛れて、水車が回る音が聞こえてくる。
「そうだな。俺も分からん」笑みを浮かべたつもりが、嘆息を漏らしてしまった。
だから、もう一度マーリンに会ってみたいと思った。
「お前が家出して――それからすぐにマーリンも居なくなって。俺の心には穴が開いたようになっちまった」自分の胸に手を当ててみても、当然ながら物理的に穴が開いている訳でも無く。「何が抜け落ちてしまったのか。あいつと顔を合わせれば、何か答えが見付かるかもしれない」
無論、得るものは何も無いかもしれない。どころか、更に別の何かを失うかもしれない。
――だとしても、ブルーノもレオデグランス記念病院から去るのは時間の問題だったに違いなかった。生きる為の術を身に付けたブルーノが、ランスロットの掲げる主義に従うつもりなど毛頭無い以上、そこに留まっている理由も義理も無かったのだから。
「……でもね。ブルーノ」
リアの呟きに紛れて吹き抜けた一陣の風が、肩まで届く彼女の後ろ髪をふわりと巻き上げる。
「うん?」
「マーリンが今どこに居るのかは、私にも分からない。少なくとも、近くには居ない――感じなくなったから」
「感じなくなった?」
リアの物の言い方が気に掛かり、ブルーノは反芻する。
「気配というか、感情というのかな――よく分からないけれど、マーリンが近くに居れば、なんとなく分かったの。今までずっと私の近くに居たって……。ブルーノも、そう。懐かしい感覚が側に居るって、感じたの」
アームレスリングの場でリアがブルーノの方を見遣ったあの時、特段驚く素振りを見せなかった理由については理解できた。
理解できないのは、リアが言う所の「気配」や「感情」と言った曖昧な概念だ。敵が発する「殺気」のようなものであればブルーノにも幾ばくか経験はあるが、特定の人間の存在を感じ取れるといった類いの経験は無いし、話にも聞いた事が無い。
「でも、マーリンは感じなくなった。病院を出てからずっと側に居たのに、いつの間にか――」リアは何かを思い出したように強くかぶりを振る。「ううん、ライオネスに襲われてから、感じなくなった」
「ライオネス……?」
リアの不可解な感覚に思考を巡らせていたブルーノは、その名に眉を顰める。
「ライオネスって、あの兄妹の片割れか? ライオネス・ラウシェンバッハ……」
首肯するリアの反応は、眉の間に刻まれる皺を更に深くする。
「何だってあいつが、お前を――」
血のように赤い髪と瞳を持つ少年の姿が脳裏を過ぎり、それはブルーノの言葉を消し去っていった。
代わりに、違う質問が口を突いて出る。
「……お前、ケイにも襲われただろう」
知っている筈の無い事実は、流石のリアも驚きを禁じ得なかったらしい。ブルーノを見上げながら発せられた「えっ」という彼女の驚嘆は、再会を果たしてから今までに交わした言葉の中で、最も大きな声だった。
それでも、記憶の中のリア・エーゼルシュタインは、もっと活気に充ち満ちていたが――。
「何で。ブルーノがそれを知っているの」
驚きに見開かれた目を向けたまま、リアは問う。そこに僅かに怪訝な色が浮かんでいるのは、俄にブルーノを疑いだしている――彼もまた、自分にとっての「敵」であると思い始めているのか。
それは、あまり気分の良いものでは無い。本当の事を話すべきか迷ったのは、ほんの一瞬だった。
――そもそも、もう二度と会う事の無い奴なのだから。迷う必要など端から無いだろう。
「お前と同じくらいの……男から話を聞いた。ケイが何者かに殺されたという話もな」
「同じくらいの餓鬼」と言い掛けて、言葉を選び直した。それを口にしてしまえば、リアも餓鬼だと言っているように受け取られるかもしれない。
「ランスロットを捜していると言っていたから、よく覚えている」記憶に残っている理由は、それだけでは無いが。「随分と珍しい髪色だったしな。瞳の色も、そう――」
「ロット・ライン」「――何だと?」
言葉を遮るように呟かれたその名が、今度はブルーノを驚嘆させる。
それは、リアの口から出てくる事を全く想定していなかった名前だからだ。何故――という当然の疑問が後に続くが、その答えは少し考えれば分かるものだった。
共に死線を潜ったあの廃屋敷で、自分に向かって問い質してきていたではないか。リアは何者か――と。
少なくとも、ロット・ラインはリアの名については知っていた――よもや、面識まであるとは思いもしなかったが。
「……そう。ブルーノも会ったんだ、彼に」
その反応を見れば充分とでも言いたげに、リアはゆっくりと頷いた。ブルーノには目もくれずに。
偶然の一言で片付けるには、あまりにも出来過ぎている。
「奇縁とでも言えばいいのか……。気味が悪いとすら思えてくるな」
或いは。
ロット・ラインが胸の内に秘めている、執念にも似た決意が運命を手繰り寄せているのかもしれない。
「セント・オーバンズに向かっていると思う……無事で居るのなら」
「……どういう意味だ?」
「兄弟揃って、ランスロットに目を付けられたの」
アーサーとランスロットの居所という情報を餌にしたライオットに、リアを拘束してほしいと依頼され。その依頼を撥ね除けたロットは、リアを守る為にライオネスと交戦するに至った挙げ句に深手を負い。彼女と正面を切って戦うにはあまりにも分が悪いという現実を理解できていたが故に、リアはロットを抱えて逃走するのを躊躇わなかった――。
淡々と語り続けるリアの言葉に、ブルーノは黙して耳を傾けていた。
目的の為に、無駄に自分を犠牲にしようとするお人好し振りは変わっていない。それが非常に下らなく、呆れて物も言えなくなったというべきか。
「お父さんの古い知り合いがやっている診療所にロットを預けて――私はすぐに立ち去ったから、それからどうなったかは分からない。彼の存在は口外しないでとお願いはしたけれど、警察に身柄を拘束されていてもおかしくはないと思う」
尤も、それも生きていればの話――という事か。
「……なぁ」リアが一通り語り終えた所で、ブルーノは漸く口を開いた。
「どうしてお前なんだ?」
質問の意図が伝わらなかったらしく、リアはブルーノを見上げて小首を傾げる。
「……どうして、お前だけ『柱』の連中に付け狙われているんだ?」
リアはかぶりを振る。「分からない」
今日何度目の「分からない」だろうか。それを責め立てるつもりも権利も毛頭無いが、疑問が尽きないのは気分がいいものでは無い。
「出来損ないのヒューマノイド・キメラと評し、お前に真名を与えなかったランスロットが、今更になってセント・オーバンズに連れて帰させようとしてくる……」
その意図は何だ?
口にした所で、同じ答えが返ってくるだけである。その疑問は胸の内に留めておくだけにして、ブルーノは違う言葉を選ぶ。
「それでもお前は、母親を捜し続けるんだろう」
言葉こそ無かったが、リアの首肯は力強かった。
「なら、俺も暫く同行しよう」
「……そう」細めた目を遠くに向けながら、リアは呟く。
我が身の事だというのに、まるで他人事のような生返事を、ブルーノは想定していなかった。先刻のアームレスリングの場でブルーノの存在に気付いていながら、一言も語り掛ける事無く立ち去ろうとしていたのは、関わり合いになる必要が無いと思っていたからではないのか。
それとも、この後に反対の意思を示してくるのか。
果たして、彼女は閉口したまま何も言おうとしない。今し方の反応をどう捉えていいものか判断に困ったブルーノは、拒否された場合に備えて考えておいた言葉を口にする。
「連中の狙いが何なのかはっきりさせておかないと、虫の居所が悪くて仕方がない。お前だって、そんな状況でまともに母親捜しが出来ると思っちゃいないだろうよ」
加えて――ハンターの界隈に限った話だが――ブルーノはそれなりに顔が利く。人捜しにおいて、自分の人脈は少なからず役立てるだろうという確信があった。
「ブルーノ」
立ち止まり、ちらと見遣ってきたリアの口角は――それは目を凝らさなければ分からない程に――僅かではあるが吊り上がっていた。
かつてのそれとは比較に値しないが、久々に見る彼女の笑顔。しかし八の字に歪んでいる眉が、一筋縄ではいかない複雑な心境を物語っている。
「私と一緒に居れば、いつかマーリンに逢えるかもしれない……って。あなたにとって、最も大事な理由を言っていない」
「…………」
何か言わなければならないという焦燥感が募るのみで、開き掛けた口から出てくる言葉は無かった。
こいつは人の心でも読めるのか――いや。
感付かれて当然だろう。リアを捜していたのはマーリンに逢うという目的のためであると知られてしまっているのだから。しかしそれを正面切って言えるほど、ブルーノは自分の感情に対して素直になれない。
「でもね」ブルーノにくるりと背を向けたリアは腰の後ろで両手を組み合わせる。その所作は少女らしいものではあったが、今の彼女には何となく不似合いなように見えた。
「マーリンの事を差し置いても、ブルーノの言葉に嘘は無いっていうのは分かるよ」
「俺の感情がそう語るのか?」
リアは小さくかぶりを振った。「ただの勘――いえ、根拠を示すのなら、それはあなたがグレイヴでは無く、ただのブルーノ・ブライトナーだから。真名を捨てたブルーノと、なり損ないのヒューマノイド・キメラの私は、同じ穴の狢――でしょう?
たから別に、私は反対しない。ブルーノがそうしたいというのなら、そうすればいい。……この先、ひとりで『柱』の人たちを相手にしていたら、いずれ限界を迎えるのは分かっているよ。ブルーノに言われるまでも無く、ね」
今の二人を結び付けているものは、共に『柱』の裏切り者であるという共通点のみ。
――本当に、そう言えるのか。
病院に居た頃のリアは、車椅子を転がしながら足繁く――足は使っていないが――ブルーノに会いに来ていた。半身が不随となった患者を励まそうとする彼女を邪険に扱う時も少なくなかったが、交わしていく言葉の中で次第に互いを理解していったのは違い無い。
しかし、今のリア・エーゼルシュタインは、ブルーノの記憶に残る明るい少女とは一致しない。彼女が身に宿すマンイーターが、あらゆる感情を喰らい尽くしてしまった――という推論は、突飛な想像の域を脱していないのは十二分に理解しているつもりだが、単純な損得勘定のみで動くリアを目の当たりにしていると、どうしたってそう思えてくる。
オセロ・エーゼルシュタインはかつての父親では無くなってしまったと言うが、それはリアも同じだ。果たして、お前にその自覚はあるのかと――問う勇気は無かった。ならばせめて、側に居てやるくらいの事はしてやるべきだとブルーノは考える。ランスロットにどんな事情があるにせよ、彼女が『柱』に捉えられてしまえば、それはマーリンにとっても良くない結果になるのは違い無いのだから。
「……なら、決まりだな」
「でも、ひとつ条件」
リアが人差し指を立てる。
「当面の旅費はブルーノが持つこと。稼いでいるのなら、それくらい訳ないでしょう?」
どんな無理難題を強いてくるのかと身構えてしまった自分が、急激に馬鹿馬鹿しく思えた。お前とて今しがた大金を手に入れたばかりではないかという指摘は、野暮というものだろう。
「仰せの通りに。で、これからどうするつもりなんだ」
この街で引き続き母親の情報を集めるのか。それとも別の街を目指すのか。あてが無いというのなら、魔物を狩猟する仕事を紹介してくれるブローカーの詰め所に向かうという選択肢もある。多かれ少なかれそこには同業者がいるだろうから、話も聞きやすいというものだ。
小首を傾げながら腕を組んだリアは、微かに唸りながら考え込むようにする。その様子だと、具体的な計画は立てていない――行き当たりばったりなその日暮らしを送っているのかもしれない。尤も、連中から追われている身である、計画を立てた所でその通りに事が運ぶ方が難しいか。
「……とりあえず」言って、リアは来た道の方を見遣る。その視線を追ったブルーノの目には、赤煉瓦の屋根が連なる街並みが映り込んだ。二人で歩きながら話している内に、随分と郊外に出てきてしまっていたらしい。
「お腹が空いたかな。そういえば、まだお昼を食べていなかったから」
昔のリアであれば、照れ笑いを浮かべながら舌を覗かせるのだろう。
そう思えば思う程に、ブルーノは心の奥底が少しばかり痛むのを知覚した。
リアの母親、クレシダ・エーゼルシュタインが蒸発した理由は何か。
考えられる理由は諸説あるが、彼女に何も告げずに居なくなったという点を最重要視すべきだろう。如何なる理由であれ、愛する子供の元を離れるというのであれば、別れ際に交わす言葉があって然るべきである。それすら無かったという事は、つまりクレシダの身に「そうする事が出来ない状況下に置かれる」何かが起こったと推測するべきかもしれない。
否、「何か」という言葉で濁した所で意味は無い。
何かしらの事件に巻き込まれたのでは無いか――というのがブルーノの行き着く結論だったが、当時のリアとマーリンはそれを否定した。本当に事件に巻き込まれたとして、どうして夫であるオセロが平然としていられるのか。他ならぬオセロ自身が、クレシダの安否を知っているからではないのか、と。
若しくは――考え得る最悪のケースは、クレシダはオセロの手に掛けられて、亡き者にされている場合。
それならば、妻が蒸発した後のオセロが徐々に別人のように変貌していった理由にもなり得る。そうするに至った原因はともかくとして――。
だが、リアは母親が今もどこかで生きていると信じている。そうでなければ、過酷とも言える旅路をひとりで歩み続ける事など到底できまい。まだ子供の幼さを残す少女にとって、世界はあまりにも広大であり、優しくは無い。
レオデグランス記念病院を経った当時のブルーノは、リアの足跡を追うためにも彼女の実家――には誰も居ないので、その近所を訪れたのだが、捜索はそこで早々に座礁に乗り上げてしまった。
何の手掛かりも無しに自分の母親を捜そうと思った場合、まず最初にどこに行くのか。その点に於いて、ブルーノの推測は外れては居なかった。ブルーノが訪れる以前にもリアが同じように訪ねて来たという話を近隣の住民から聞けたまでは良いが、それ以上の成果は得られなかった。
クレシダが蒸発する前の動向を知る者も、リアの行方を知る者も居ない。ここには居ないという確かな事実だけは残るが、それはブルーノを励ます材料としては非情に心許なかった。
ただひとつ。少なくとも、この街――セント・オーバンズに居ないのは間違いないだろうという確信だけはあった。病院を抜け出したという事は、連中の――ランスロット率いる『柱』の裏切りを意味し、ともすれば追跡者による制裁を受ける可能性がある。当然それをよしとしないリアなら、一刻も早く遠くへ行きたいと思うのが筋というものだ。それはブルーノも同じであり――差しの勝負なら連中に負ける気はしなかったが、そもそも面倒事に巻き込まれるのは望むところでは無い。
かつての生業だったハンター稼業を再開し、リアとマーリンを捜しながら各地を転々とする日々に充実感は皆無だった。身体の自由を失う前とやっている事は同じだというのに、どれだけ大金が舞い込んできても、それらは今日の寝食を都合するための紙切れ以上の物にしか見えなかった。
旅路の中で一度だけ、ブルーノは幼馴染みのエルマと死別した場所を訪れた事がある。白い竜が生息するという噂を耳にして息を切らしながら登ったかつての山岳を、自身が白い竜となって滑るように飛んでいった。そこに彼女が生きていた証は微塵も残っていなかったが、それでも立てた墓標に黙祷を捧げた。
そうしたところで、ブルーノの心は依然として満たされなかった。エルマが浮かばれたのかも分からず、自己満足にすらならない。常日頃から連れ立っていた存在が欠けた穴がこんなにも大きいものだとは思わず、それを今更になって実感するようになったのは、マーリンの存在があったからだと認めざるを得ない。
入院していた頃のブルーノが、毎日のように病室を訪れるマーリンを疎ましく思う時も少なからずあった。今になって思い返せば、それはエルマと容姿があまりにも似通っており――どう接するのが双方にとって最適解なのか分からなかったのだと理解できる。
マーリンに、エルマという人を重ねて見ていたんだと、私は思っていた――。
リアのその言葉に「分からない」と答えた――それは本心だが、恐らく正解なのだろう。
リアはあれで人の気持ちに敏感な所がある。病院が家も同然の彼女にとって、多くの入院患者は家族の延長線上に存在する。大家族という訳だ。しかも全員が例外なく、大小様々な問題を抱えて生きているというのだから、相手がどういう人物なのかを見極めなければ付き合っていけない。幼少の頃から多くの患者を見てきた彼女がブルーノをそう評するというのであれば、間違ってはいない気がするのだった。
だが、マーリンにもう一度逢わない事には、正解が分からない。エルマを失った所に出来た大きな穴を、マーリンで埋めようとしているのか。相対した上で、それから言葉を交わさなければ、本当の答えは見付からない。
だからこそ、リアとの再会は、ブルーノにとっては大きな前進だった。マーリンがどこに居るのか分からないという事実に落胆こそすれども、望みは未だ絶たれてはいない。多少の我が儘なら、付き合うのも吝かでは無かった――が。
「……ここがどんな所か知っての上で、お前は先に進むつもりだったのか」
緑色の巨大な壁と形容すべきか。
行く手に並び立つ樹木の群生は見る者を圧倒させ、来る者を拒もうとする意思すら感じられるように思えてくる。どこが果てかも判然としないその森林の奥に潜む暗闇を見据えながら、ブルーノは嘆息を漏らした。
「迂回するのも手間だし、そうしている間にお母さんがもっと遠くに行ってしまうかもしれないから」
この森を越えた先に母親が居る保証はどこにもあるまいという指摘は、この際口に出さないでおく事にした。
ブルーノよりも先立ってレオデグランス念病院を発ったリアは、行く先々で旅費を工面しつつ南を目指していたらしい。その理由を問うてみれば、確たる根拠は何も無く――どこか遠い所へ行くのであれば、寒い土地よりも暖かい土地を選ぶだろうと思っただけだという。セント・オーバンズの気候は年間を通して気温が低く、冬を迎えれば昼間でも氷点下というのが常であり――入院中に身を以てその土地の厳しさを思い知ったブルーノも、敢えて北上しようとは思わなかったが。
して、南下するリアの進路上に、この森林がある。
「シャーウッドの森と呼ばれているらしい。俺も話に聞いた事があるだけで、実際に来るのは初めてだが――なるほど、つつけば何か出てきそうな雰囲気はある」
「魔物とか?」
「……お前、少しは地理の勉強をしたらどうなんだ」
二度目の嘆息をどうにか堪えたブルーノは、「まぁ、その通りだが」と続ける。
「この森の中は別世界と言ってもいい。立ち入った者は誰ひとりとして帰ってこれないというのだから、文字通りの別世界だ。あるいは地獄か。果たしてどれ程の種類の魔物が生息しているのか――それすら調べられないこの場所には、ハンターも近寄らない」
今の話で、シャーウッドの森が如何に危険な場所であるのか理解できない訳ではあるまい。それでもリアは「そっか」と呟くだけで、その言霊にあらゆる感情が差し挟む余地は皆無だった。
「でも、ブルーノなら平気でしょう」
「魔物と相対しても無事でいられるという意味なら、それは違いないが……。だけどな、それはキメラ体である事が前提だぞ。俺が竜の姿で居られるのは大凡三十分――人間体に戻ってから再びキメラ体になれるまでのインターバルが三時間くらいだ。どれくらいの魔物が居るのか分からない環境で、長時間に亘って生身を晒し続けるのは些か無謀ってものだ」
ヒューマノイド・キメラが魔物の姿――所謂「キメラ体」で居られる時間には限度があり、そこに例外は無い。それは自分の意思でコントールできるものでは無く、一度キメラ体になってしまうと、時間の経過以外で人の姿に戻る術が無い。逆もまた然りで、人間の姿に戻ってから再びキメラ体になるにはある程度の時間が必要となり、前者、後者共に個人差がある。
キマイラ細胞の性質の問題だとマーリンが話していたが、さして興味も無かったブルーノは、その詳細については知らない。そうなる事だけ分かっていれば充分だと思ったからだ。
「何も、森の中をわざわざ歩いて行こうだなんて考える必要は無いと思うけど」
それはその通りだが――リアは今し方の自分の発言を忘れてしまったのだろうか。あまつさえ咎めるような口調となれば、ブルーノの眉間に縦皺が刻まれるのも致し方なかった。
「進むと言い出したのはお前だろう?」
リアは頷いて、ブルーノを指差す――正確には、ブルーノが背負っている得物を指し示す。
「翼があるのなら、森を越えるくらい訳ないという事」
「あぁ……」
――そういう事か。
漸く彼女の意図を汲み取れたというべきか、それとも自身が思慮に欠けていたというべきか。いずれにせよ、随分と持って回った言い方をしてくれる。
「しかしお前。俺がこうして一緒に居るからいいものの、一人で旅を続けていたらどうするつもりだったんだ」
ブルーノが同行を願い出るのを織り込み済みだったという訳では無いだろうと――流石にそう思いたい。
「正面切って進んでいただけだと思う」
「…………」
それはそれで如何なものかと――短慮に過ぎるのではないかと思わずにはいられないのだが、リアの不敵な言葉は単なる虚勢では無いというのは、先般のアームレスリングで大衆に見せつけたあの光景を鑑みれば分かる。たとえキメラ体でなくとも、彼女なら生身で魔物と渡り合えても何ら不自然では無い。
それにしたって、限度はあるだろうに。
返す言葉が見付からなかったブルーノは代わりに嘆息をひとつ漏らし、背中に担ぐ得物に手を伸ばす。リアが半歩退いたのを確認してから柄の先端を地面に叩き付け――直後にそれから発せられた稲光が、激痛を伴いながら全身を駆け巡っていく。この感覚だけは一向に慣れる気配が無く、針で刺されるような痛みに僅かばかり表情を歪めた。
刹那の痛みに続いて、身体が内側から急激に熱を帯びていくのを知覚する。全身の血液が沸騰しているのではないかと――最初にキメラ体となった時にはそのような錯覚に恐怖したものだが、これには慣れる事が出来た。寧ろ、戦いを挑むにあたって自身を鼓舞する、カンフル剤のような役割を果たしてくれる。
そうして瞬く間に白い竜の姿となったブルーノは、熱気を帯びた呼気を吐き出しながら、首をぐるりと回す。その存在を確かめるように背中の翼を一度だけ羽ばたかせると、巻き起こった風がリアの髪を舞い上げた。
「さて、ぐずぐずしている暇は無い。さっさと行くぞ」
得物を腰に提げたブルーノは、返事を待たずしてリアの背中と足に手を添えて横抱きにする。飛んでいる最中に時間切れを迎え、あまつさえ森に落下してしまったら本末転倒だ、急ぐに越したことは無い。
「熱い……」
あからさまにリアが不服そうな表情を浮かべて呟く。正確な数値までは把握していないが、竜の体温は人間よりも遙かに高いらしい。キメラ体になってしまえば、自身がそれを意識する事は皆無だが――今の彼女が感情を露わにするという事は、我慢できない事は無いが、それなりの熱量を伴っているのだと分かる。
「直に触れるのが嫌なら、俺の薙刀にぶら下がっていくか?」
リアはかぶりを振る「それは面倒」
――「出来ない」ではなく、「嫌だ」でもなく、「面倒」か。
随分と余裕のある発言である。「そうかよ」と短く応じたブルーノはその場で両翼を二度、三度と羽ばたかせ、大きく跳躍してから一気に上空へ飛び立つ。先まで見上げていた木々の背を瞬く間に越えると、見渡す限りの青々とした空が二人の視界を埋め尽くした。
ちらと地上の方を見遣ったリアが、ブルーノの服を掴む手に僅かばかり力を込める。
「流石のお前でも怖じ気付くか」
余裕を見せていただけに、彼女の正直な反応は面白かった。ブルーノにとっては見慣れた光景だが、生身の人間が大空に身を晒して恐怖するのは当然の道理だろう。今、リアの生殺与奪の権を握っているのはブルーノなのだから――そんなつもりは毛頭無いとしても、だ。
「確かに怖い」平静を装って否定するのかと思いきや、リアの反応は素直なものだった。
「……でも、綺麗」
呟くと、服を掴む力が更に強くなる――彼女の中で、恐怖と興奮が混在している。大空に身を晒して、初めて見る事が叶う景観は、少女の口角を少しばかり上げてくれるのに一役買ってくれたらしい。
「そうだな」
「ブルーノが少し羨ましく思える。どこまでも自由に飛べる翼が、私にもあれば良かったのに……」
ヒューマノイド・キメラでいる以上、完全に自由とは言えないがな――と、ブルーノが返そうとするよりも早く、リアが「あれ」と声を上げた。先刻とは明らかに調子が異なる、何かに対する気付きの言葉。
「どうした?」
問い掛けると、リアは掴んでいた服から離した手を地上の方へ向けて何かを指し示す。大方、森の中に巨大な魔物でも見付けたのかと――そう踏んでいただけに、彼女の視線を追った先に見たものが何なのか、最初は見当が付かなかった。
――それは、そうだろう。何だって、こんな所に。
緑で埋め尽くされている筈の地上に、地表が姿を覗かせている箇所がある。それだけなら深く考えはしなかっただろうが、木々を刳り抜いて作られたようなその空間には、明らかに人工物と思われるものが散見出来た。遠目では全容が不詳だが、建物らしきものと見て間違いは無さそうではある。
だからこそ、ブルーノは疑った。
「何であんな所に集落があるんだろう……」
ブルーノが抱いた疑問を、リアが代弁する。
幾多もの魔物が跳梁跋扈する広大な森は、言うまでも無く人が生活出来るような環境では無い。魔物が文明を持っているとすれば話は変わってくるが、果たして突飛な発想にも等しいその可能性は、この森に人間の集落が存在する可能性と比較して、どちらが高いのだろうか。
「ねえ、ブルーノ」顔を上げるリアが次に何を言い出すのか。余り考えたくは無かった。
「あそこに行きたいなんて抜かしたら、ここでお前をほっぽり出してやってもいいぞ」
「そんな事をしたら、マーリンが許すかな」
リアに悟られないように奥歯を噛み絞める。
――都合の良い時だけ、マーリンを盾にしてくれやがる。
「……そこに人が居るとして、生活している奴らが居るとしてだ。お前の母親が居る可能性は限りなく無いに等しいだろうが。本来の目的を見失うなよ」
「でも……」再び地上に視線を落としたリアは、細めた目を集落に向ける。「私はあそこに行かないといけない気がする」
「それは、お前の『感覚』がそう言うのか?」
「……よく、分からない」
リアに分からなければ、ブルーノに分かる筈も無い。いっその事はっきりと否定してくれれば強引に押し切れたものを、曖昧にされてしまうと反論しづらくなる。そこに母親はいないとしても、リアに関わる者が居る可能性があれば――。
結局、従う以外の選択肢は残されていない。嘆息をひとつ漏らしたブルーノは進路を集落の方へ転向しつつ、徐々に高度を落としていく。
「少し離れた場所に降りるぞ」
竜の姿を模した人間か、人間の姿を模した竜か――捉え方は見る者によって異なるだろうが、何れにせよ一切の事情を知らぬ者が今のブルーノを見れば、まず普通の人間だと認識はしない。集落のど真ん中に着地しようものなら、多かれ少なかれ混乱は必至である――尤も、本当にそこに人が住んでいればの話だが。
目的地まである程度の距離を置いた所を着地点に定めたブルーノは、リアが枝葉に引っ掛からないよう細心の注意を払いつつ――木々の隙間を縫うようにして地面に降り立った。翼を広げれば自身が木に引っ掛かり兼ねない為、半ば落下するような形での着地となったが、キメラ体であれば多少の高度から落下したくらいでは軽傷すら負えない。
ブルーノの腕から降り立ったリアは、頭や肩に幾分か付着した木の葉を払いながら周囲を見回す。ひとたび森の中に戻ってしまえば、いくら距離が近くとも先の集落は見る影も無かった。際限なく立ち並ぶ緑の壁に、鬱蒼と生い茂る植物――それらが巨大な天然の迷路を構成し、二人の視界を遮ってくれる。
「さて。人間体に戻るまで、暫く待っていなきゃならん訳だが……」
リアと同様に、ブルーノも辺りに視線を巡らせる。警戒するのは、当然の事ながら魔物の存在だ。ただでさえ何が居るのか分かったものでは無いというのに、あまつさえ奥地に飛び込んでしまったのだ。幸いにもそれらしい影は見当たらないが、場合によっては無理矢理にでもリアを連れて離脱しなければなるまい。
腰に提げていたの得物を両手に携え、どこから何が出てきても対処出来るように身構える――そんなブルーノに対し、リアは首を横に振った。
「多分、大丈夫だと思う。魔物の気配はあるけれど、そこに敵意は無いから」
「多分という言葉は信用ならん」
リアの感覚を完全に理解するのは難しい――何より、彼女自身が把握しきれていないのだ、ブルーノに分かる筈も無い。自分が感じ取れない気配の存在を、果たして信じていいものか――彼女と再会を果たした時とはだいぶ状況が異なるこの場では、大丈夫と言われてもやすやすと警戒は解けない。
「いざという時は、私がブルーノを守るから」
「……そいつはどうも」
それでは立場が逆転してしまっているではないか。
尤も、人間体に戻ってしまえば、暫くはリアに頼らざるを得ないというのもまた事実ではある。
「逆転と言やぁ――」頭上を飛んでいく鳥の群れを見上げながら、ブルーノは呟いた。
「何か言った?」
「……何でも無い」
リアの問い掛けに対して素っ気ない言葉を返し、ブルーノは薙刀の切っ先を集落があった方角に向ける。
「ここで立ち往生していても時間の無駄だ。移動しながら人間体に戻るのを待つ」
腰に提げているくたびれた麻袋から方位磁針と取り出し、揺れる針に視線を落とす。上空から見た集落の位置と針が指し示す方角から、これから行く獣道が正しい進路で間違いない事を確認した上で、ブルーノが先陣を切る。
魔物が襲ってくる心配は不要である――リアの言葉を信じるとしても、周囲への警戒は怠らない。驚異たりえるのは魔物に限った話ではなく、人間の生命を脅かす――例えば、非常に強力な毒を持った虫や小動物が生息している可能性は十二分にある。キメラ体であるブルーノであれば、それらに襲われた所で何て事は無い、が。
果たして、リアはどうなのか。
人間体の状態でも、キメラ体に近い力を出せるようになってきている――リアからその話を聞いた時は、彼女特有の現象だろうと結論付けただけに終わり、大して気にも止めなかったが。
詰まる所、それは人と魔物の境界線があやふやになっているのではないのか。
リアに限った話では無い。ヒューマノイド・キメラである者は、キメラ化する回数に応じて、魔物の姿に於ける活動時間が長くなっていく。今でこそ長時間の飛行を可能としているが、最初の頃は五分と保たなかったものだから、迂闊に飛ぶ事は出来なかった。
キメラ体での活動時間が伸びるのは、魔物を相手取る仕事をしているブルーノとしては好都合としか考えていなかったが――これを繰り返している内に、もしかすれば人間体で居られる時間の方が短くなってしまうのではないのだろうか。
魔物から人間に、戻れなくなってしまうのではないのだろうか。
――そこまでいくと、流石に想像が飛躍し過ぎか。
「ブルーノ、これ」
物思いに更けていたブルーノが、背後からの呼び掛けに気付くまでに一拍の間を要した。再び名前を呼ばれてから足を止めて後ろを振り返ると、一本の木を繁々と観察しているリアの姿がそこにあった。
正確には、木の付近に無造作に転がっている縄を。元は小動物を捕らえるための跳ね上げ式の罠が、何かの拍子に外れたのか――とにかく。
それが意味する所は、言うまでも無い。
「やっぱり人が住んでいるんだよ。この森に」
こんな森にわざわざ狩りに行くような物好きか、あるいはただの命知らずの馬鹿でも居ない限り、このような物証を突き付けられてしまえば認めざるを得ない。向かう先には、集落があり、そこで生活を営んでいる人間が居る――と。
だが少なくとも、ただの人間が住んでいるとは思わない方が良いだろう。話が通じるとも限らない。この森に生息する魔物と共存できるという事は、それなりの力が――攻めるにせよ、守るにせよ――必須になるだろう。この先に居る人間が、古くからこの地に住まう原住民――文明と縁の無い生活を送っている者たちだとしたら、それは魔物と同等に驚異となる可能性すらある。
迂闊に足を踏み入れた途端に囚われの身になる――そのような展開も有り得るという事だ。今のブルーノならそうなる心配は無いとしても、人間体に戻ったらどう転ぶか分からない。些か不本意ではあるが、有事の際はリアに一任する他は無いか。
いや――そもそも、そこに行かないといけない気がすると言い出したのはリアなのだ。それくらいの働きはしてもらわないと困る。当然、危惧しているような事態に陥らないのが一番ではあるが――。
幾多もの不安を抱えながら歩みを進めていたブルーノは、全身の筋肉が収縮する感覚を覚えてその場に立ち止まる。
「……時間切れだ」
そう呟く間に、白い竜の身体は徐々に本来の姿を取り戻していく。体表を覆う鱗は地肌に溶け込むように消え、こめかみの位置から突出する双角も沈むように姿を潜め、竜の象徴たる背中の翼も上着の下に姿を消す。
そうした後に残るのは、ただのブルーノ・ブライトナーだ。こうなった以上、もはや後戻りは許されない。
「ついでに、目的地も見えてきたな」
背中の影から顔を覗かせるようにするリアは、正面を見据えるブルーノの視線を追い掛ける。木立に紛れるそれは一見しただけは気付き難いが、自然物とは明らかに異を成す物があると分かる。それが果たして何なのかは、もう少し近付いてみない事には分からない。
――さて、鬼が出るか蛇が出るか。
人の姿に戻ってしまったブルーノは、先刻よりも更に神経を研ぎ澄ませて前進する。得物の柄を握る両手には無意識の内に力が籠もっており、微かに荒くなる呼気がキメラ体になれない不安を如実に物語っている。
そんなブルーノが再び歩みを止めたのは、先刻に見た物が次第に認識できるようになってからだった。もしかすると、そこには誰も居ないのではないか――そのような思考が脳内を巡る。
「ブルーノ?」
不審に思ったリアが隣に並び立とうとした所で、ブルーノは再び歩み出す。「何なのさ」という問い掛けも無視されたとなれば、黙って後を付いていくしかなかったが――集落に到着する直前には、目の前の光景を認めたリアがブルーノを追い越して駆け出す始末だった。
「なに、ここ……」
元は魔物の侵入を拒む物であっただろう柵の残骸に視線を落としたリアが、ぽつりと呟く。
そこにあるのは集落――だったものなのである事に違いは無い。ただし、見るからに焼け落ちた瓦礫の山がそこかしこに点在するこの場所を今も集落と称するのは、いくばくか無理がある。
「人は住んでいたんだろうな」
リアに追い着いたブルーノが、残骸の群れに目を細める。ここで何が起こったのかは知る由も無いが、焼け跡から立ち上る煙が無い所を見るに、事が起こったのはだいぶ前の出来事であると推測は出来る。そのような環境の中で、生活している人間が居るとは俄に考え難い。ここが魔物の蔓延るシャーウッドの森なら、尚の事だ。
しかし、リアはまだ諦めてはいないらしい。
「誰も居ないと決まった訳じゃ無い。捜してみる」
気乗りはしなかったが、反対する理由も無かった。何をするにせよ、再びキメラ体になるまでの時間は必要になるのだ。気休め程度にしかならないと分かっていても、下手に森の中を彷徨うよりかはマシと言える。
いくつかの家屋に、馬小屋や田畑、そして井戸。決して広いとは言い難い空間には、確かに人が生活していた痕跡が見受けられる。しかし、それらの大半は無残にも焼け跡と化しており、集落としての体裁を成していない。完全な廃墟であるにも関わらず、リアはこの場所から一体全体何を感じ取ったというのか。
「ブルーノ、あれ……」
リアが指差した方を見遣ると、いくつかの木の板が地面に突き刺さっている場所があった。そこへ向かっていく彼女の後に付いていくブルーノは、次第に輪郭が鮮明になっていくそれらが何であるかを悟り――微かに眉を顰める。
形も長さも幅もまちまちだだで――文字すら記されていないが、側に備えられている献花を見るに、それらは墓標と見て間違いなさそうであった。そして、火に晒されていないという状態が、ここが廃墟と化した後に立てられたものであると推察出来る。火災で死んだ者たちが、そこで眠っているのだろう。
「生き残っている人が居なければ、ここにお墓は建たないよね」
墓標の前で足を止めたリアはその場に片膝を付き、足元の献花に問い掛けるような調子で言う。
「……まぁ、そういう事になるか」
彼女の言葉を否定したい訳では無い。問題なのは、もし生き残っている者が居るとして、それがどういう人物なのかだ。そもそも、生活出来る環境に無いこの集落に留まっているのかすら怪しい。
さて、もう少し辺りを見て回ってみるか――そう思った矢先、ブルーノの耳が土を踏む音を捉える。
リアのものでも、自分のものでも無い――後方から聞こえてきた第三者の足音。リアもそれに気付いたようで、ほぼ同時に背後を振り向いた二人は、目の前に飛び込んできた光景に目を見張る事になる。
――子供じゃねえか。
思わず、ブルーノは構えていた得物を取り落としそうになった。
そう、そこに居たのは紛れもなく子供――女の子だった。リアよりも一回りも二回りも小さい少女が、散歩感覚でこの森に立ち入られる訳が無い以上、集落の生き残りである事に違い無いだろう。その身なりはここで起こった火事の名残を残しており、元は白かったであろうワンピースが煤けて黒く濁っており、所々に穴が空いてしまっている。
しかし、それよりも何よりも目を引いたのは――引かざるを得ない最大の特徴に、ブルーノは見覚えがあった。
「ロットみたい……」
ブルーノの心中を、リアが代弁する。
思う所は同じか。
滾る炎のような朱を湛える瞳と頭髪は、過去に二人が出会った少年のそれと合致する。様々な土地を渡り歩いてきたブルーノでも、ロット・ラインと同様の特徴を有する人間を見るのはこれが初めてであり――ここで遭遇したのは単なる偶然の産物と思えず、何らかの関連性を疑わずにはいられなかった。
「ロット――」同じ名を口にした少女は、赤い眼を見開かせる。驚愕を示すその反応に、二人もまた驚かずにはいられなかった。
「ロット・ラインを、ご存知なのですか」
恐らく満足に物も食べられていないのだろう、痩せ細っている少女の身体は見るに堪えないが、その口から出てきた言葉は凜としており、力強かった。それはこちらも訊きたい所ではあるのだが――ブルーノは立ち上がったリアと目を合わせて、それから揃って少女に頷き返した。
「まぁ、少しだけ世話になった程度の間柄だが……」
世話を焼かされたと言うべきか。
「よかったら、その話を聞かせてくれないか」
聞き覚えの無い男の声。
その主が、少女の後方にある廃墟の陰から姿を現すと、ブルーノは更なる驚きと共にひとつ確信する。リアがここに何かを感じ取ったのも、またそれが余りにも曖昧だったのも、偏に接点が少なかったからだと理解できる。
欠損している右足の代わりに松葉杖を付いている壮年の男もまた、赤い瞳と頭髪となれば。 ここが、ロット・ラインの縁の地である事に疑いの余地は無かった。
「これくらいのものしか出せませんが……」
トレーを両手に抱える少女は、そこに乗せられた二つのカップをブルーノとリアの前に差し出す。テーブルも無ければ椅子も無く、故に二人とも床に座らざるを得ないし、カップも床に置くしか無い。
白い容器に注がれた淡いオレンジ色の水面を見たブルーノは、このような廃墟でも嗜好品はあるのかと、少しばかり驚かされた。そこから沸き立つ甘い香りは悪くないと思えるが、紅茶に明るくないために、これが何の種類なのか判然としない。
「ディンブラですね」
カップを手に取ったリアは聞き慣れない名前を呟いてから、いただきますと続けてそれを口に含む。ブルーノも同じようにしてみせたが、妙に甘ったるい紅茶はやはり苦手だと再認識するだけに終わった。
「紅茶は得意では無かったかな」
顔に出したつもりはなかったが、正面に座る――というよりは、壁に凭れている――壮年の男に察せられてしまったらしい。男の隣に腰掛けた少女が折角淹れてくれたものに対して否定的なコメントを寄越すのも憚られるが故に「そんな事は……」と返したが、微笑を浮かべる彼の目線を真っ向から受ける事は出来なかった。
二人に案内されたこの家は、他と比較すればまだ家屋としての体裁を保てている所だった。焼け落ちた箇所を木材でやら石材やらで修繕し、どうにか雨風だけは防いでいる――そんな感じである。
ガラハド・ガリアードと、その娘のヴィヴィアン――ここに来る道すがらにそう名乗った二人を前にして、さてどう切り出したものか。考えあぐねていたブルーノは、ガラハドの気怠げな目が自身の背後に向けられている事に気付く。
「……やはり、気になりますか」
壁に立て掛けておいてある黒い得物を見遣り、ブルーノは問う。
ロット・ラインは自分の双子の弟だけでは無く、ランスロットの行方も追っていた。柱の連中が『真名』と呼称する、この黒い得物についても知っていた。ガラハドとヴィヴィアンにとっても、浅からぬ因縁があるに違い無い。何しろ、ロットの弟はここで乱心したのだから。
「いい思い出が無いのは確かだ」痩せこけた顔に浮かぶガラハドの自嘲気味な微笑に活気は無かった。単に、顔を歪めただけかもしれない。「君たちは、ランスロットの同志なのか」
かぶりを振るリアに続いて、ブルーノも「いえ」と答えた。
「一緒に居た時期はありましたが……俺もリアも、奴の主義には賛同しかねた」
「そうか」
「……疑わないんですね」あまりにも反応が素っ気ないため、反って気に掛かった。どうでもいいとでも言いたげで、いっそ自棄に陥っているようにすら見える。
「俺たちが、奴の刺客だという可能性だってあるでしょうに」
「ふむ……」その発想は無かったと言わんばかりに口を窄めたガラハドは、親指で顎をなぞるようにする。そこに生えている無精髭も、当然のように赤い。
「我々がその気になれば、君たちを今すぐにでも消し炭に出来る――おっと、物騒な物言いで申し訳無い。そうする気は毛頭無いから、安心してほしい」
尤も、手出しするようであればその限りでは無い――穏やかな物腰が言外にそう感じさせるのは、果たして気のせいかと思ったブルーノは息を飲んだ。
「魔法……ですか」
「ひとつ間違えれば、悲劇を招きかねない危険極まる力だ」リアの言葉に対して首肯したガラハドは、家屋の中に視線を巡らせながら続ける。「この村の惨状を見ただろう。カムラ族の人間であれば、例外無くそういう事が出来てしまう。ロットが無理をしていないか――私はそれが気掛かりで仕方が無い」
ヴィヴィアンが小さく頷いた。
二人の心境を、ブルーノは何となく察せられる。ロット・ラインと関わっていた時間はごく僅かではあるが、そのごく僅かな時間の中でも、人間性をある程度は読み取れた――言い換えれば、極端だった――。
「アーサーを追えと最終的に命じたのは私だが……ロットは取り分け正義感の強い人間だった。人を傷付けるために魔法を行使したとなれば、例えそれが血の繋がった弟であろうと、決して許してはならない。何も言わずとも、村を発っていただろう。
カムラ族の歴史に再び泥を塗るのは、私たちの総意では無い……アーサーは許されてはならないと考えているのは、私もヴィヴィアンも同じだ――どのような事情であれ、だ。それだけに、ロットが行く先々で無茶を働いていないか……送り出した身としては何とも身勝手な話だが、なまじ力を持っているだけに、不安も拭いきれない」
いきすぎた正義感が、暴走を招いてはいないか。
「そこへロットを知る君たちが来てくれたのは、何かの巡り合わせではないかと感ぜざるを得なかった」もたれ掛かっていた壁から背中を離したガラハドは、僅かに身を乗り出すようにする。「差し支え無ければ、君たちが見てきたロット・ラインの話を聞かせてはくれないだろうか」
この通りだ――と、ガラハドが頭を下げるものだから、リアとブルーノは驚いて顔を見合わせる。そうまでして得る価値があるとは思えないロットの情報には、何か重要な意味を持つのだろうか。
ふと、魔物屋敷と化していた廃墟でアーサーとランスロットの行方を訪ねられた時の光景を思い出す。今にして思えば――気が立っていたとはいえ――ロットに向かって随分と辛辣な態度を取ったものである。情報を寄越せと執拗に要求する一方で、それに対する見返りを提示しようともしない――なんて。
眼前で頭を垂れている壮年の男に対して同様の言葉を向けてしまうのは、悪人のやる事だ。
加えて、リアが頷いたとなれば断る理由が無かった――いや、そうなった以上、理由があったとしても拒否権は無い。
「……聞いていて面白い話では無いでしょうが、茶の礼だと思って話しましょう」
言って、殆ど口を付けていない紅茶を口に含むが――やはり、甘ったるい以上の感想は浮かばなかった。
時系列で言えば、ロットと最初に会ったのはリアである。当面の旅費を工面する為に働いていた食事処に客として訪れた――それだけで終わっていれば二人の間に因縁は生まれなかったかもしれないが、彼はアーサーとランスロットの行方を知らないか尋ねてきたものだから、当時のリアは酷く動揺してしまった。尤も、次に二人が再会を果たすのは、暫く先の話になるのだが。
その後、ムドニア外郭機動部隊という大仰な名前を掲げた自警団の駐屯地にて、ブルーノはロットと遭遇する。ブルーノがそこを訪れたのは言うまでもなく仕事を探す為だったが、ロットも元は同じ目的だったのかもしれないと――魔法という奇異な能力の存在を知る今なら推測できる。己がヒューマノイド・キメラである――黒い得物について知っているが故に、コッカトリスの群れが住まう魔物屋敷まで追ってきた少年が、頼んでもいないのに協力を申し出てくる――それは、迷惑以外の何物でも無かった。事実、ブルーノはロットを庇って危うく命を落とし掛けたのだ――その命を救ったのも、またロットではあるのだが。
ランスロットがアーサー・ラインを連れ立ったというのであれば、二人の最終的な目的地は、リアやブルーノが衣食を共にしていた時期のあるセント・オーバンズになる。それをそのまま伝えず、敢えて「北を目指せ」と曖昧にしたのは、ロットが招いてくれた無駄なトラブルによる所が大きい――有り体に言えば、機嫌が悪かった。しかし、その結果としてリアは再び彼と再会するのだから、何がどう作用するのか分からないものである。
――否、遅かれ早かれ、そうなる事は決まっていただろう。リアを連れ戻す為に、『柱』の一人であるカタール――ライオネス・ラウシェンバッハがロットに接触を計り、アーサーとランスロットの居所を餌に煽動しようとしたのだから。そこに、運命などというロマンティシズムが介入する余地は皆無だ。
ライオネスの誤算は――ガラハドの言葉を借りれば、ロットが正義感の強い人間であるという事を知らなかった――あるいは、知っていたとして、その度合いを見誤ったか。何れにせよ、自身の手を汚さずに目的を達成させるという計画は、簡単に破綻してしまう。
尤も、ライオネスの妹――フレイルの真名を持つライオットが言うには、同じヒューマノイド・キメラであるリアを相手取るのが至極面倒だというのと、マーリンの介入を警戒していただけであり。結果として、ロットは致命傷を負う事態に見舞われる。
それからは、リアがブルーノと会った際に話した内容と変わらない。今、彼はどこで何をしているのか。そもそも、無事で居るのかどうか。それを知る術は、今の二人には無い。
「……そうか」
少しばかり要領を得ない部分はあったものの、ガラハドはリアとブルーノの話を最後まで静聴していた。そうしてから呟かれた彼の言葉は、紅茶がすっかり冷めてしまう程の長話の感想としては、些か短すぎる。
ただそれは、胸の内で考える事が多すぎる故だと察せられる。床の一点を見据えたまま身じろぎひとつしないガラハドの表情は、苦虫を噛み潰したように険しい。ただ、最初からそのような状態だった訳では無い。ブルーノの記憶が正しければ、魔物屋敷のくだりを話はじめた辺りからだ――徐々に様子がおかしくなっていったのは。
「ブルーノ君、リアちゃん」
どのような言葉を掛けたものか考え倦ねていると、不意にガラハドが二人の名を呼ぶ。思い詰めたような表情は変わらないままであり、それだけに返事が出来なかった。
「……もし、どこかでまだロットと会うような事があれば、ひとつ伝言を頼まれてくれないか」
二度と魔法を使ってはならない――と。
言葉の真意を測りかねる。ちらとリアの方を見遣ったブルーノは、彼女もまた要領を得ていない様子であった。考えている事は同じだろう。これまでの話の中で、ロットに魔法を使わせてはならない理由がどこかにあったのだろうか、と。
「――すまない。言葉が足りなかったようだ」
押し黙ったままでいる二人の心中を察したらしいガラハドが、居住まいを正す。依然として険しい表情のまま背筋を伸ばした彼は、「魔法というのは――」と続ける。
「決して万能な能力では無い。それを使うためには、多かれ少なかれ代償を必要とする」
「代償」反芻するリアに、ガラハドは頷く。
「自身の生命力――即ちそれは、命と言い換えて差し支えない」
つまりロットは、今まで自分の命を犠牲にして戦っていたという事になる――見ず知らずの人間を助けるために。
「例えるなら風船だ。そこに入っている空気が自分の命であり、魔法を使うためのエネルギーだとすれば、使う魔法の威力に応じて風船の口から空気を抜いていく。カムラ族の子供には、まずそのコントロールが確実に出来るよう教えてやらねばならない――ヴィヴィアンも、そうしてきた」
隣の少女は短く首肯する。
「……や、ガラハドさん。だとすれば、ロットは充分に魔法をコントロール出来ているんじゃないのか。それを使うなと言うのは、アーサーを追う上ではだいぶ不利になりそうなものに思えるのだが」
同じ剣を持つ者同士が戦い、一方が剣を捨てたとしたら。勝敗は見えているもの同然である。ことに魔法という強大な力であれば、その差は剣の比どころでは無くなる。
「ブルーノ君の疑問はごもっともだ。魔法のコントロールに関して言えば、ロットは類い希なる才能を持っている」
しかし完全では無い……と、ガラハドはかぶりを振る。
「完全では無いが故に、時としてコントロールを失い――それは、そのまま当人の死に直結しかねない。連続して強力な魔法を放ち続ける行為や、咄嗟の防御の為に加減の制御を放棄した魔法は、針の先端を風船で突く行為に等しい」
風船が破裂すれば、それが元に戻る事は無い。
「君たちの話から察するに、ロットはとうに限界を迎えている。苦痛が容赦無く身体を襲うのだから、本人も自覚はしているだろう。だが先にも言った通り、あいつは正義感が服を着て歩いているようなものだ。このままでは関係の無い事に次から次へと首を突っ込んでいって――仕舞いには、アーサーを始末するという目的を果たす前に命を落としかねない」
――だから、二度と魔法を使ってはならない。
ガラハドが俯きがちにそう言った瞬間、リアが飛ぶように立ち上がる。拍子に彼女の足元に置かれていた空のティーカップが蹴飛ばされ、床を転がっていく。
余りにも勢いがよかったものだから、他の三人は揃って――驚愕に歪むリアの表情を見上げた。飛び上がる程に驚く内容の話をしていた訳でも無く――寧ろ、彼女のその反応こそ驚きに値する。
一体、何に反応したというのか。
「……リア」
否、何を感じ取ったというのか。
一抹の不安を覚えるブルーノは、明後日の方向に目を向けるリアの名を呼ばずにはいられなかった。どう転んでも、吉報には成り得ない――だからこそ彼も徐に立ち上がり、立て掛けていた得物の柄に手を伸ばす。
「――エレック」
呟くや否や戸を開けて外へ飛び出していったリアに続いて、ブルーノも後を追う。背後からガラハドが何事か声を上げたが、そんなものに構っていられる事態では無くなってしまった。
――エレック、か。
その名を耳にしたのは久方振りであり、記憶を辿る限りでは、少なくとも良い印象は欠片も存在してはいない。その感情は、同じく久方振りに顔を合わせてみても変わる事は無かった。
ブルーノの舌打ちは、歩み寄ってくる者が瓦礫を蹴飛ばした音に紛れて消える。
大股で歩を進める想定外の来客は、並び立つ二人の姿を認めると笑みを浮かべた――そうすると、目元に刻まれている皺が数を増す。所々抜け落ちている歯は濁った色に染まっているが、炭のように黒い地肌と比較すれば充分に白く、目立つものだった。
「なんだ。久し振りだというのに、なんと険しい顔をしておる」
引き笑いと共に放たれる嗄れた大音声が、廃村の空気を振るわせる。そんなに大声を出さなくとも充分に伝わる――ただただ喧しいだけだ。
古風掛かった口調を裏切らない程度には老いているその者――エレックという男の正確な年齢については知らないが、少なく見積もってもリアの四倍か、それ以上かもしれない。或いは、数百の時を生きている化け物か。そう思わせるだけの風体が、老人には備わっている。
薄汚れた袴の上にぼろ布のような羽織を身に纏った――ともすれば破戒僧に見えなくもないエレックがブルーノよりも巨漢である事は、遠目に見てもはっきりと見て取れた。陽光を反射して光を放つ禿頭をつるりと撫でる老人の背から三日月斧が姿を覗かせており――それは、一切の光を受け付けない黒に染まっている。
「まあいい……儂から逃げようなどというつまらん事は、考えてくれるなよ?」
三日月斧の柄を握ったエレックは、それを見せつけるように一度振るってみせてから肩に担ぎ直した。首を二つ並べてもまだ足りない程の極端な大きさを誇る三日月状の刃は、およそ老体とは思えない図体と相俟って、見る者を威圧してくれる。
「遠路遙々訪ねてきてやったんじゃ。折角だ、儂が作り上げた真名の切れ味を見せてみるがよい、小童共よ」
――訪ねてきてくれと頼んだ覚えは無いんだがな、気狂いの糞じじいが。
心中の毒突きと共にしかめ面を浮かべたブルーノの額から滴る一筋の汗が、頬を伝う――。