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BLOOD ROAD  作者: 桔梗たつや
6/8

#05:嗚呼美しき上弦の月よ

 振るえばたちまちに万物を両断できそうな大鎌の禍々しいシルエットは、夜を照らす白い月と重なった時に鮮明に浮かび上がった。

 そうしなければ闇に紛れて消えてしまいそうなそれは他の光源を微塵も寄せ付けずに、持ち主の背中で必要とされる時を黙して待ち続ける。

 それは得物の持ち主も同様であり――礼拝堂の屋上で彫像さながら直立するのその者は、眼下にある宿場を見据えたまま微動だにしなかった。

 ――願わくば、今夜も彼女にとって穏やかな夜であってほしい。

 白い肌と胸元を惜しみなく曝け出すオフショルダーのトップスに、裾が地を掠めそうなオーバースカート。

 御伽噺に登場しそうな魔女を再現したような黒ずくめの女――ロットに大鎌の刃を向け、ケイの腕を断ち切ったその女、マーリンは、つと視線を上げた先に浮かぶ上弦の月に願いを込めてから、徐に背後を振り返った。

「何の用かしら、カタール」

 いつからそこに居たのか。

 身を覆い隠すような黒いローブを身に纏う人影は、目元を覆い隠すフードの下で微かな笑みを浮かべる。

「何の用とはご挨拶だね。せっかく久し振りの再会を果たしたというのに。昔のあなたはそんな無感情な人ではなかった筈だ――サイズ」

 その男の声音から再会を喜ぶような感情は微塵も読み取れず、寧ろ嘲るような調子が含まれている。

 無感情――その言葉が示す通り、精巧で美しい人形を彷彿させるマーリンの表情は、挑発的な言葉を受けても変化は見受けられなかった。

「……それとも、人である事をやめると同時に感情を捨ててしまったか?」

 緩慢な動きで挙げられる手がフードを掴む。そうしてから晒された男の肌と髪は、衣装とは対照的に真っ白であり――マーリンを映す眼は血の様に紅い。

 果たして、彼女がカタールと呼んだ人物は、ロット・ラインに対して情報屋を自称した男――ライオット・ラウシェンバッハだった。

 

【#05:嗚呼美しき上弦の月よ】


「私の質問に答えなさい。何の用かと訊いたのが、聞こえなかったのかしら」

 背負っている大鎌の柄を握り締めると、空を斬るようにしてそれを振るう。

 自身に干渉するのであれば容赦はないという威嚇行為だが、しかしライオットは相変わらず飄々としていており、臆する様子など皆無である。

「自分は散々僕らの邪魔をしておいて、何の用――か。そういう身勝手な所はいつまで経っても変わらないみたいだ。しかし……まあ、そう急かさなくても、ちゃんと用件くらい話すさ」

 よいしょ――と、老人の様な言葉を口にしたかと思うと、ライオットはその場で胡坐をかいてしまった。およそ敵意を向けられている相手を前にして取るような行動ではなく、マーリンは眉間に微かな縦皺を刻む。

「何のつもりだ、って言いたそうな顔をしているけどね、それはこちらの台詞だ。言っておくが、僕はあなたと争う為に来た訳じゃあない。無益な戦いは避けて然るべき……分かってくれないかな、サイズ」

 その場に腰を下ろしたのは、戦意が無い事の証明だが。

 得物を構えたまま、相も変わらず睨め付ける視線を向け続けるマーリンが、果たして言外に含まれる彼の意思を汲んでいるのかは定かではない。

「私はマーリン・マイヤーよ」

「なら、マーリン。マーリン・マイヤーとしてのあなたに問おう。サイズとして……もう一度、僕らの元に戻ってこないか。『柱』として、理想郷を築く為の礎になってほしい」

 目を閉じたマーリンは、嘆息を漏らしながらかぶりを振る。呆れて物も言えないという様子に対して、ライオットの表情に笑顔はない。

「そんな話の為に、わざわざ遠方から足を運びにきたの」

「僕たちにとって――いや、この世界にとって大事な話だからこそ、ここまで足を運んだんだ。大義の成就の為には、あなたの存在が必要不可欠であると、僕は……否、僕達は思っている」

「大義……」彼の言葉を反芻するマーリンは、口の橋を微かに吊り上げる。

 嘲笑するような笑みが浮かぶと、今度はライオットの表情に陰りが差した。

「滑稽ね。ランスロットの操り人形の分際で、そんな大層な言葉を掲げるべきではないわ。子供の描く夢絵空事の方が、よほど現実味があって可愛いと思わない?」

 返ってくる言葉は無く、僅かに俯いたライオットは細めた目で何も無い虚空を視界に収める。

「あなたは……」呟きにも等しいそれが彼の口から出てきたのは、数拍の沈黙を挟んだ後だった。

「あなたは、誰よりも他人の痛みや苦しみを理解できる人だと思っている。あなたは冷酷に振る舞うよう装っているだけで、根底は何も変わっていない筈なんだ。だからこそ残念でならないし、理解に苦しむ……」

「それはただの思い込み――願望の押し付けにも程がある。私は何も変わっていないわ。昔も……今も」

 自身に向けて覚めた眼差しを向けてくるブロンドの少女の姿が、マーリンの脳裏を掠める。

 ――だけど、リアは変わってしまった。

 ――否、自分が変えてしまった。

 不意に湧いてきた負の感傷に流されそうになる思考を留める為に唇を強く結んでから、マーリンは続ける。

「これ以上の押し問答が無意味だと分かったら、さっさとここから立ち去りなさい。無益な戦いは避けて然るべき……そう言ったのはあなたよ」

 さもなくば、大鎌の刃を向けるのも厭わない。

 しかし、ライオットが立ち去る気配は一向に見受けられず、その場で項垂れたまま沈黙し続ける。反論する訳でもなければ立ち上がりもせず、ただただ無為に時間だけが経過していく。

 俄に湧いてくる苛立ちから得物の柄を握り締めたマーリンは、そこでふと違和感を覚える。

「……ところで、あなたの妹――フレイルはどうしたの。四六時中一緒に居たというのに、あなたひとりで行動しているのは珍しいわね」

 この場に彼の妹が居たとすれば、沈黙がここまで続く事もなかっただろう。その違和感を覚えるまでに時間を要したのは、再会を果たしたのが久方振りという背景や、そもそもライオットに対して興味が皆無だったという理由がある。

 その質問を受けて漸く立ち上がったライオットの表情は浮かなく、口からは肩が大きく揺れる程の溜め息が漏れ出る。

「無益な戦いは避けて然るべき……その通りだけど、その戦いを招いてしまったのはマーリン、あなたに原因がある」

「……だとしたら、どうするというのかしら」

 ローブの懐へ徐に入れられたライオットの手は、得物を携えて月明かりの下に晒される。

 それは刃渡りが10インチにも満たない小型の刀剣――それだけならば大鎌に対抗するには余りにも心許ないが、その全容が黒に染まっているとなれば、話は違った。

 大鎌の柄を握るマーリンの手に力が入る。

「あなたが僕たちの元に戻ってきてくれるというのであれば、それだけで話は済んでいたんだ」

 逆手に持つ短剣を前方に構えたライオットは、空いている方の掌に柄の底を叩き付けた。

 同時に大鎌の柄の尖端が足場へ突き刺すように叩き付けられると、双方の得物から発せられた微かな稲光が夜暗に白い線を引いていき――それらが両者の身体を駆け巡った直後に、肉体は俄に人間から別の何かに変貌していく。

 それが「黒い武器」を有する者に於ける通例だが、しかし。

 血色の良い艶やかな肌が瞬く間に蒼白となり、相貌が空洞のように黒く染まっていくマーリンに対し、ライオットには彼女の変化が終わっても尚、微塵も変化が無い――ように見受けられた。

「申し訳ないけれど、リアを隔離するまでの時間を稼がせてもらうよ」

「……そういう事」

 得心したように頷いたマーリンは、口の大きく釣り上げる。

 剥き出しになった彼女の犬歯は、研がれた刃のように鋭い。

「私に戻ってこいと言っておきながら、腹の内ではリアを拉致する事しか考えていなかったという訳」

「いや……どちらも僕の本心だよ。あなたには戻ってきてほしいという気持ちに嘘偽りはない――ある訳がないだろう。だって、そう、僕にとってあなたは……」

 短刀を持たない手を懐に入れると、そこから更に小さいナイフを取り出す。

 黒に染まっていない刃が振り上げられると、それは月明かりを反射して鈍い光を放った。

「命の恩人にも等しいのだから!」

 踏み出すと同時に放られたナイフは縦回転しながら直線を描いていき――マーリンの胸元に到達するよりも先に大鎌の刃に弾かれる。勢いを失って重力に引かれてく得物に目もくれず、至近距離に詰め寄ったライオットは本命である黒い短刀を振り上げた。

「あなたが私に勝とうだなんて――」

 身を翻すと共に振るわれた大鎌の一閃が、短刀を握るライオットの腕と――首を切断する。

 慣性に従って倒れていくだけの物体となった胴体を置き去りにして宙空を舞う首はマーリンの足元を転がっていき、終には屋根から落下していく。

 それが視界から消える直前の――ほんの一瞬。

 大きく見開かれたライオットの目がマーリンを見上げるように動いたのを、彼女の黒い瞳は見逃さなかった。

 気色の悪い……。

 そう思いながら首の行方を追うべく屋根の淵に立ったマーリンは、空を仰ぐ状態で転がり落ち――目が合った瞬間に不敵な笑みを浮かべてきたそれを確認し、眉をひそめる。

 斬首刑に処された者が、首を斬られても即死せずに数秒間の意識を有しているという話は今日になって珍しいものではなくなったが。しかしライオットの様子は、それとは一線を画していた。

 首を斬られていながら平然としている――何より、切断面から一滴の血も滴っておらず、それはライオットが「普通の人間ではない」事の充分な証明となっている。

「あなたを倒すって……?」

 ライオットの首がそう呟くと、切断面から赤土色の粘液のような物が溢れ出していく。

「違うな……言った筈だ。リアを隔離するまでの時間を稼がせてもらうと。殺しても殺しても決して死なないあなたに勝てると思っている程、僕は自惚れてはいない」

 首だけのライオットが言葉を発する間にも止め処なく溢れ出る粘液は、次第に人の姿を模りながら、凝固しながら、白く変色していく。

 凡そ人間的とは思えない再生を遂げた彼は徐に立ち上がると、再生した部分を確かめるように首をぐるりと回した。身に纏っていた衣服までは元に戻らないが故に裸体が晒されるが、その色白の肉体が直前まで粘液状のものだったとは俄に考え難い。

「あなたもね……こうなると分かっていれば、キメラにしなかったというのに――」

 呟きながら、マーリンは宿場の方に視線を向ける。

 リアがそこに身を置いているのは知っている。恐らくはライオットもそうであり――間違いなく妹のフレイルが接触を図ろうとしているか、若しくは既に接触している可能性がある。

 いざとなれば、リアは自分で自分の身を守る程度の力を持ってはいるが。しかしフレイルの能力は強大――純粋な戦闘力のみを比較すれば、兄を遥かに凌駕する。一刻も早く彼女の元に向かわなければ、手遅れになりかねない――。

「リアの身を案ずるのは結構。だが、その前に僕の存在を忘れてもらっては困る」

 宿場から眼下のライオットを見遣り、マーリンは目を細める。

「……キメラ体に於けるあなたのスペックは確かに脅威――だけどね、その再生能力は近接戦に持ち込まなければ、無いにも等しいのよ。それは、あなた自身が一番よく分かっているでしょう」

 近付かれれば、再び斬り捨てるのみであり。

 大鎌の間合いに入る事は出来たとしても、それ以上の行動は許されない。

「確かに。今の僕は丸腰で丸出しだからね。こんな状態じゃあ、足止めどころか近付く事すらすらままならない……今の僕の身体なら、ね」

 不敵な笑みを湛える口から出てくる含んだような言い方は、マーリンの眉間に微かな縦皺を刻ませる。

 何の算段も無しに、出任せやはったりを口にするような男ではないのだ。この状況を覆す何かしらの策があると見て警戒しなければならない――。

 そう思って一歩下がったマーリンの足裏に、妙な感触が伝わる。

 何か、柔らかいものを踏んだような――。

 はっとなって振り返った彼女の視界を、赤土色の壁が埋め尽くす。

 それが屋根に転がっていたライオットの「もうひとつの身体」だと察した時には既に手遅れであり、巨大な手のように大きく膨張するスライムは、マーリンの全身を覆うように飛び掛かった。

「う――」

 全身に纏わり付いた粘液は直後に黒煙を巻き上げながら蒸発して消えていくが、歪む表情はそのまま変わらず、口から漏れ出る苦鳴が身に起こっている異変を如実に示している。

 しかし、一見して彼女に外傷のようなものは見受けられない。

 それでもなお表情の晴れないマーリンの頬に冷や汗が滴り、次第に荒くなっていく呼気が肩を大きく上下させる。終に足元が覚束なくなった彼女は一歩、また一歩と震える足で後退していき――踏む足場がなくなった身体は成す術なく落下していった。

 頭から落下した所で、今のマーリンにとっては怪我の内にすら入らない。出血しようが骨が折れようが忽ちに回復する再生能力の前には、生半可な攻撃は意味を成さない。

 では――地面に横たわったまま起き上がる気配を見せず、あまつさえ全身が痙攣を起こしているのは何故か。

「あなたはどうだか知らないが……僕はこれまでキメラ体での鍛錬を欠かさなかった。一日たりともだ」

 眼振を起こしているマーリンの顔を覗き込みながら、ライオットは言う。

「あなたが把握している僕のスペックは全て過去のものだ。キメラ体での活動時間は13分から49分に増えたし、残された僕の残骸はスライムとして活動するようになった――尤も、近場の人間を無差別に襲うだけだし、すぐに蒸発してしまうが……まあ、じきにそれもコントロール出来るようになるだろう」

 震えるマーリンの口から出てくる言葉は無い。

「……普通の人間なら、スライムの神経毒にあてられれば数秒ともたない。キメラ体で――ヴァンパイアを内包するあなたなら、どうなるだろうか。僕の毒が勝るか、その再生能力が勝るか……フレイルの仕事が終わるまで、観察させてもらうおう」

 その場で胡坐をかいたライオットは、頬杖を突きながら嘆息を漏らした。

 ――リア。

 口から発せられないマーリンの言葉は、胸中で呟きとなって反芻される。

 ――リアを、助けないと。

 焦点の定まらない瞳が、厚い曇に覆われてゆく空を映す。

 明瞭な意識と痙攣する肉体は完全に切り離されてしまっており、指の一本すら自由に動かす事が出来ない。自身がキメラ体を保てる時間は約180分――それだけの時間があれば神経毒の抗体は生成されるだろうが、その時には事が全て終わっているかもしれない。

 ――リアは私が、守ってあげないと。

 脳裏に浮かぶブロンドの少女が浮かべている屈託の無い笑みは、自分が奪い去ってしまったのだから。


 一年前に――


 淀んだ灰色が埋め尽くす曇天の空から、小さな氷の結晶がひらひらと舞い降りる。

 それを追うようにして地面を目指す次の結晶は次第に数を増していき、雪となって街を白く染めていく。

 窓から雪景色を臨む女性の目は虚ろであり――ベッドに横たわる細い身体は腑抜けたように活力が無い。

 ベッドと化粧台だけが置かれているこじんまりとした部屋の扉がノックされると、女性の応答を待たずして、それはゆっくりと開かれた。

「ケイ――どう? 調子は」

 医療白衣を身に纏った女医が、ベッドの女性に声を掛ける。

「……調子」

 視線を窓から女医に向けた彼女――ケイと呼ばれたその女性は、だらしなく開かれた口から女医の言葉を反芻すると、再び窓の方を見遣った。

「そう」後ろで三つ編みになっている長い黒髪を揺らしながら、女医はベッドに腰掛けた。抱えていた紙の束を膝の上に置いてから、掛けている黒縁の眼鏡を掛け直す。

「……部屋は狭いし、飯は不味いし、医者はどいつもこいつも口うるさい」

 気だるげな調子を帯びた言葉には容赦がなく、苦笑を湛える女医が乾いた笑い声をあげる。

「でも……ここに来る前よりかは楽になった。ずっと」

「……そう」

 頷いて、女医も窓の方に視線を向ける。

「だけど――どうだろうな。やっぱり、夕方になってくると調子が悪くなってくる気がする。……あたしの病気、何という名前だったか」

「重症筋無力症」

「……長ったらしくて、覚える気にならない」

 言葉の端々に棘が見受けられるのは、これまでに身を置いてきた環境が劣悪だったからであり、決して悪気がある訳では無いと――女医がケイと出会ってからその事実に気付くまでに掛かった時間は、さほど長くなかった。

 ケイの身体を蝕む病は、物が二重に見えてしまう状態――複視をはじめとし、全身の筋力の低下や呼吸困難といった症状を引き起こす。彼女からまるで生気が感じられないのは、偏にこの病が原因である。

「……本当に、治るのか?」

「それは……」

「可能性はあるって、オセロは言っていたが……ここに来て、どれくらいが経つ。出された薬を飲んではいるが、良くなりそうな気配は……まるでない」

「…………」

 開きかけた女医の口から出てくる言葉はなく、窓に向けていた視線は思考と共にさまよい続ける。

 本当の事を言うべきか、否か――その葛藤を察したか、ケイは微かな溜め息を漏らした。

「気休めの言葉は嫌いだ。判っているのなら、はっきり言ってくれ」

 眼鏡の奥の瞳を閉じた女医は、嘆息を漏らした後に口を真っすぐ結ぶ。

 束の間の沈黙を挟んでからケイの方を見――微塵も変わっていない意思をその目から汲み取った女医は、渋々といった様子で小さく頷いた。

「……現代の医学では、根本的な治療方法は存在しない。ケイに処方している薬は飽くまでも症状を緩和するだけのものであって……それだけで完治する見込みは、無いと思うわ」

「……まぁ、そうだろうな」

 得心したような様子でゆっくりと頷いたケイだが、気だるそうな表情に変化は見受けられない。

「だけど、悲観するような事じゃない」置物の様に動く気配の無いケイの手に、女医は自身の両手を被せる。

「オセロ先生は――いえ、ここに居る先生方が、治療法の確立されていない病の研究に明け暮れている……生涯を捧げていると言ってもいい。ケイの病気を治す方法は、必ず見つかる」

「だと……いいけどな」

 ケイの手に重ねた両手に僅かに力を込めた女医は、力強く頷いてから立ち上がる。

「じゃあ私……仕事が溜まっているから、行かないと」

「だったら、最初からあたしの所になんか来るな……」

 そうね――と、苦笑を浮かべながら言い置いて、女医はケイの病室を後にする。

 廊下に一歩踏み出せば、身が縮こまる程の冷たい空気が張り詰めていた。日が暮れれば更に冷え込むのは、先の雪模様が保証してくれている。

「マーリン!」

 凛とした少女の声が、静まり返った廊下に響き渡る。

 それを背中に受けた女医――マーリンと呼ばれた女医は後ろを振り返ると、こちらに向かってくる車椅子に向かって「リア」と呟いた。

 肩まで伸びるブロンドを揺らしながら、ハンドリムを回すその少女――リアが身に纏っている病衣と車椅子からして患者である事は明瞭であるが、その言動と輝くような青い瞳には、病人のそれを感じさせない程の生気に満ち満ちている。

 先のケイと比較すれば、尚の事。

「今日も散歩? 精が出るわね」

 リアの登場によって仕事を完全に忘れたか、マーリンは弾んだ足取りで彼女に歩み寄っていく。

「そうしたかったんだけど、ルーカスさんに捕まっちゃって」

「またチェスに付き合わされた?」

 頷いたリアに紙の束を手渡したマーリンは、少女の背後に回って車椅子のハンドグリップを握る。二人が顔を合わせれば、何も言わずとも必然的にこうなる――そう言える程の自然な動きだった。

「全戦全勝したけど、ちっとも嬉しくない。負けたら悔しがって、もう一回とか言い出すからね。断っても無理矢理付き合わそうとしてくるんだから、もう最悪」

 腕を組んだリアは如何にも機嫌が悪そうに頬を膨らませるが、本心から怒っている訳ではない事を知っているマーリンは、車椅子を押しながら破顔する。

「ケイの所に行ってたの?」

 今しがたマーリンが閉めた扉の方を見、リアは呟く。

「ええ。ここに来て日も浅いし、あまり自由に動き回れる身じゃないから、心細く思っているかもしれないと思って」

「仲良くなれた?」

「どうだろう」首を傾げるマーリンの脳裏に、先の病室の光景が浮かぶ。

 彼女の病状を差し置いても、友好的とは言い難いのではなかろうか。

「……もちろんリアは、もう仲良くなれたのでしょう? 毎日お話しているのだもの」

 車椅子を押すマーリンが、微かな陰りを落としたリアの表情の変化に気付く事はない。

「ケイの病気は、本当に治るの?」

 それは、先刻にケイ本人の口からも出てきた問い掛けであり――よもやもう一度同じ質問をされると思わなかったマーリンは、思わず歩みを止めそうになった。

「ううん、ごめんね。意地の悪い事を訊いちゃって……」

 マーリンが何か応えるよりも早く、リアは被りを振る。

「……自由になりたい、って。いつも言ってる」

 マーリンから預かった膝上の資料に視線を落とし、少女は透き通った青い瞳を細めて呟いた。

「ここに居る限り、奴隷だった頃と何も変わりはしない。束縛する相手が人から病に変わっただけで、何も変わりはしない、って」

 自分はどこで生まれたのか。

 親は誰なのか。

 物心ついた頃には、既に路上で物乞いをする奴隷となっていたケイは自分のルーツを知らない――知りたくとも、今となってはそれも叶わない。

 ケイ・クラウンの生い立ちについては、本人の口から直接聞かされている。物乞いの時期を経た後に性的暴行を受けるようになったという話を耳にした時点で、聞くに堪えなくなったマーリンは話を遮ったため、彼女が如何にして奴隷から解放され、この病院を訪れたのかは分からない。

 分からないが、想像に難くない――否、そのような一言で済ませられる程に、マーリンの想像力は豊かではない。並大抵の道程ではなかっただろう、という推測しか出来なかった。

「私には話してくれなかったな、そんなこと。初耳よ?」

 今まで知り得なかったケイの心情を自分より早く知っているものだから、少しばかり妬けてくる。リアならもう仲良くなれたでしょうとは言ったが、実際にその現実を突き付けられると――羨ましく思える。

「話した所で、医者は気休めの言葉しか言わないってさ」

 それは偏にケイの偏見に過ぎないだろうが――しかし、先の彼女との会話を思い返してみれば、あれを気休めと言われても否定しきれなかった。

 ケイと積極的に接しようとしている自分自身が、そのような偏見を生み出してしまっているのだとしたら、

「嫌われているのかな……」苦笑もするし、溜め息交じりの言葉も漏れ出る。

「そんな事ないよ」

「それは気休め?」

「本心です」

 自虐めいた皮肉に対し、リアは口を尖らせながら拗ねたように言い――僅かな沈黙の後に、揃って破顔した。

 自分らの居る場所がこんな所でなければ、いつまでもこの時間を共有していたいものだと――揺れるブロンドの後ろ髪を見、マーリンは思う。

 今日の医学の発展に貢献する優秀な医師が数多く存在するこの病院は、往年の医伯の名を冠して「レオデグランス記念病院」の名称を持つ。長い歴史の中で数多の命を救ってきたその名聞は国内のみに留まらず、治療の為に遠方から訪れる患者が後を絶たないのは必然と言えた。

 病を抱える者にとっては勿論の事、医師を志す者にとっても聖地であるレオデグランス記念病院の門扉をマーリンが叩いたのは五年前。

 隣国の小さな町医者の娘として生まれた彼女は、親の後を継ぐという将来の目標の為に、医学を学ぶべくひとり故郷を発った――成人として認められるようになった、十五の誕生日を迎えた翌朝に。

 リアと出会ったのは、病院を訪れた最初の日だった。

 自分よりも三つ年下という事実を知ったのはもう少し後の事だが、当時から車椅子に乗っていたその姿は、実年齢よりもだいぶ幼く――弱々しく見えた。

 生まれつき、歩く事が出来ないという。

 それが何かの病によるものなのか、それとも精神的なものに起因するものなのか――優れた医術を以てしても原因が解明できていないという。加えて、身体の弱いリアは病気がちな日が多く、人生の大半を病院の中で過ごしてきた。

 ――私にとって、ここが家みたいなものだよ。

 辛くはないのか――と問う前に、屈託の無い笑顔を浮かべたリアはそう言った。

 それが強がりによる虚構ではないというのは、彼女の日常を見ればすぐに分かった。誰とでもすぐに打ち解けられるリアにとって、病院に居る全ての患者は友達であり――家族も同然なのだ。辛い筈がない。

 そして何より彼女の支えになっているのは、一日たりとも欠かさず見舞いに訪れる母親と、一人の医師としてここに従事している父親の存在だろう。

 特に、名医として名を馳せており――マーリンが父に次いで尊敬しているオセロ・エーゼルシュタインがリアの実父であると知った時には、驚きを禁じ得なかった。

 優れた医師でありながら、治す事の出来ない病を抱えた娘を持つ。

 これ以上に皮肉で、残酷な運命があろうか。

 いつの日か必ず、リアを二本の足で立てるようにしてみせる。自分の足で、自分の人生を歩めるようにしてみせる――オセロの元で従事し、車椅子に乗る少女と言葉を交わし、命を救うための勉学に奮励し続ける日々の中で、いつしかマーリンはそのような目標を掲げるようになっていた。

「あ、お母さん」

 嬉々としたリアの声が、物思いに更けていたマーリンを現実に引き戻す。

 面をつと上げてみれば、荷物がしこたま詰め込まれて膨れ上がっている大きな手持ち鞄を掛けた女性と目が合った。

 リアが「お母さん」と呼んだその人――クレシダ・エーゼルシュタインがこちらへ向かって歩を進める度に、後ろで纏めている栗色の長い髪が揺れる。マーリンが纏う白衣とは対照的な黒のコートを着込んでおり、降り出した雪が肩の辺りに微かながら付着していた。

「こんにちわ。今日も寒いですね」

 マーリンの言葉に苦笑を浮かべたクレシダの目尻に皺が浮かぶ。自分の親とそう変わらない歳のクレシダは、青い瞳という共通点を除けば、娘に似ているとは言い難かった――否、娘が母親に似ていないというべきか。

 血の繋がりが無い――という訳ではなく、単にリアは父親に似ているのだ。しかし人当たりの良さは娘とよく似ており、「家を出た途端に降り出すんだもの。滅入っちゃうわよねぇ」と、快活な調子の声を廊下に響かせた。

「そんな事よりリアは、またマーリンの仕事の邪魔をして!」

 笑っていたと思ったら、目尻の皺が眉間に寄る。今度はマーリンが苦笑を浮かべる番だった。

「邪魔だなんて、そんな」

 手を振りながら否定すると、それに便乗してリアは頷く。

「そうそう、マーリンの方から絡んできたんだから」

 はて、そうだったかしら――と、先刻の記憶を思い返そうとしたが、その矢先に背後から飛んできた「マイヤー先生!」という女性の声がそれを阻止した。

 振り返ってみれば、慌ただしく掛けてくる看護師の姿が視界に飛び込んでくる。最近入ってきたばかりである彼女の名は果たして何だったか――思い出すよりも先に「午後の診療の時間ですよ! 患者さん、待っているんですから!」と言われ、マーリンは慌てて手首に巻いてある腕時計を見遣る。

「うそ、もうこんな時間――」「マーリン、これ!」

 談笑を交わしながら散歩している場合ではなかったと――後悔もそこそこに診療室へ向かおうとしてリアに呼び止められる。人が急ごうとしている時にこれもそれもないでしょう、等と若干の苛立ちを覚えたマーリンは心中で毒づいたが、リアが掲げている紙の束が前言を撤回させる。

 車椅子を押すために、自らリアへ預けていた物だ。どうして彼女を非難できようか。

「ごめん、ありがとう」

 謝罪と感謝の言葉もそこそこに、両手でしっかりとそれを受け取ったマーリンは、看護師に再度急かされて踵を返す。

 頑張ってね――背後から聞こえてきたリアの声援で肩越しに振り向いたマーリンは、俄に歪んだ笑顔でそれに応えた。

 

 その日、最後に訪れた老婦の患者を受付まで見送ってから診察室に戻ったマーリンは、カーテンの隙間から外の景色を窺う。幸いにも雪は降り止んでいるようで、とうに陽が暮れている雪の街は、しんと静まり返っているように見えた。

「マイヤー先生」

 路上で橙色に煌々と光っているガス灯の明かりをぼんやりと眺めていると、横合いから名前を呼ばれる。カーテンを閉めながら声が聞こえた方を見遣れば、昼間にマーリンを呼びに来た例の看護師が、隣の処置室からひょっこりと顔を覗かせていた。

「夜勤者への引継ぎも終わったので、他に何もなければお先に失礼したいのですが……」

 壁掛け時計をちらと見遣り――とうに終業時刻を過ぎているのは把握しているが、癖のようなものだ――そうしてから頷く。

「ええ、構わないわよ。私の班でまだ残っている人がいたら、退勤するよう伝えておいてもらえると助かるんだけど……」

「分かりました。では、お疲れ様です――また明日」

「これから用事?」

 一礼した彼女に対して何となしにそのような問うたのは、声を掛けてきてから常に落ち着きがないように見受けられたからだ。

 どことなく、急いでいるようで――しかし、プライベートを知ってどうしようというのだという後悔がすぐさま脳内を渦巻き、興味本位で口を開いてしまった先刻の自分を責め立てたい衝動に駆られた。

 そんなマーリンの心中など知る由もない彼女は、少しばかり気恥ずかしそうにはにかんで、「ええ」と頷く。

「これからその……彼と食事に行くので」

「そう……それなら、遅刻は出来ないわね。でも足元が悪いから、途中で転ばないよう気をつけてね」

 業務の疲労を微塵も感じさせない彼女がもう一度「お疲れ様です」と言い置いて去って行ったのを見送ってから、マーリンは嘆息を漏らした。

 ――若い子は元気でよろしいこと。

 などと、老いた人間のような事を思ってから、それを打ち消すようにかぶりを振った。自分とそう歳が変わらない相手に対して抱くような感情ではない――断じて。

 ついぞ名前は思い出せなかったが。

 思い返してみれば、マーリンにはこれまで異性に対して恋愛感情というものを抱いた事は殆どなかった。相手からそれとなく好意を示された事はあるが、それよりも何よりも、彼女にとっては勉学が第一だった。

 それは誰から強要された訳ではなく――子供の頃から家の本棚にあった医学書を絵本代わりにして育ってきたマーリンが好きでやってきた事であり、その結果が今日の立場に結び付いている。

「……そんな余裕は、まだ、無いかな」

 独り言ちて、銀縁の眼鏡を外したマーリンは親指と中指で両の目頭を指圧する。

 笑顔で退勤していった先刻の彼女に対して、羨ましいという感情が全く無いといえば、それは嘘になる――が、色恋に現を抜かしている余裕も無ければ切っ掛けも無いというのが現状であり、マーリンはそれを十二分に認識していた。

 齢十九という若過ぎる医師の存在を快く思わない者は――ここを訪れる患者や、他の医師らを問わず少なくない。彼女がここに居るのは偏に血の滲むような努力の結果によるものだが――だからこそ、秀才ぶりは時として枷になり、邪な感情を抱く者が現れる。

 マーリンに突き付けられた現実は――まだ少女の幼さを残す身にとっては酷なものであり、下宿先で枕を濡らす事も多々あった。

 それでも、彼女が今日まで医師として従事できたのは、リアと――その両親の存在が大きかった。実の肉親のように親しく接してくれるその優しさと愛情は、親元を離れ一人となったマーリンの骨身に染み渡り、孤独感で崩れ行く心の隙間を埋めてくれた。

 オセロの期待に応えられる優秀な医師となり、リアを歩ける身体にする――それが彼女にとっての使命であり、恩返しである。

 なればこそ――その使命を全うするまでは、誰かに恋焦がれて盲目的に道を見失うような、浮ついた真似は出来ない。

 ――片付けを済ませて、私もそろそろ帰ろう。

 嘆息をひとつ漏らしたマーリンがそんな事を思った時、診察室の扉がノックされる。何か応じるよりも早く聞こえてきた「マーリン君、ちょっといいかい」という男の声に、彼女は微かに破顔した。

「ええ、どうぞ」

 開かれた扉の先の白い人影は輪郭がぼやけているが、声だけ聞けば相手が誰なのか――彼に限っていえば特に――考えるまでもない事であり。

 眼鏡を掛け直した視界に映る壮年の男は、マーリンが身に付けているそれと類似した銀縁の眼鏡を掛けている。レンズの奥の瞳には、業務の疲労を湛えた色が少しばかり浮かんでいるのが観て取れたが、浮かべている笑みは穏やかなそれだった。

「お疲れ様です。オセロ先生」

 診察室へ足を踏み入れたその男――リアの実父であり、彼女が自分の父に次いで尊敬する医師であるオセロ・エーゼルシュタインの名を呼ぶマーリンの声音は、俄に弾む。

 ブロンドの髪は後ろで刈り上げており、短い前髪の毛先に微かなパーマが掛かっている彼は、壮年と称される男性の中では幾分か若く見受けられる。疲労を帯びていてもなお柔和な顔立ちは、リアと同様に親しみを持ちやすい雰囲気を醸し出していた。

「お疲れ様。これから帰る所かい?」

 机の方をちらと見遣ってから、マーリンはオセロの問いに対して頷いた。

「ええ、片付けてからそうしようかと思っている所で」

「そうか」と呟いて、オセロは伏し目がちになる。

 何か言いたげなのは、開き掛けたままの口を見れば明白で――しかし、その様子から察するに、切り出しにくい話なのかもしれない。

 オセロがそのような様子を見るのは滅多になく――何か妙な胸騒ぎを覚えたマーリンはこちらから声を掛けるべきかと思ったが、その逡巡は彼の口から漸く出てきた言葉に掻き消された。

「時間があればでいいんだけど……。少しばかり付き合ってくれないかい?」

 面を上げたオセロとまともに視線がかち合った――瞬間、心の臓が大きく跳ね上がったが、マーリンは内心で「何を勘違いしているの」と強く否定する。

 どうやら、先の看護師の話は、本人が自覚している以上に尾を引いていた――らしい。オセロの言葉はマーリンが勘違いした逢引の類いではないのは、少し考えれば分かる事だった。彼は無闇やたらに女性を誘うような軟派な人ではないし、何より妻子という大きな存在がある。

 きっと――そうだ、仕事上での相談か何かだろう。仮に――万が一にでもオセロに下心があっての誘いだとするのであれば――それは決して悪い気はしないのだが、それでも丁重に断らねばならないだろう。

 そうしなければ、リアと――その母親、クレシダに合わせる顔が無い。

「構いませんよ。すぐ支度しますので――」

 少し待っていてください、と続くはずだった言葉は、徐に片手を挙げるオセロによって遮られる。

「そのままで結構だよ。ちょっと、見てほしいものがあるだけだからね……」

 彼が浮かべる自嘲気味な笑みに、マーリンは小首を傾げた。


 診療時間を終えて静まり返った院内の廊下は、いくらか消灯されている事も相俟って薄暗くなっており、それは実際の室温よりも低い体感温度を実感させてくれる。

 ――見てほしいとは、何を?

 至極最もな質問に対して、オセロは明確な回答を寄越してはくれなかった。それをこの場で話すのは憚られる――そう言われてしまうとそれ以上の言及も出来ず、診察室を後にしたマーリンは先を進む背中をじっと見つめていた。

 ――お父さんは、本当はとてもだらしのない人なんだって。お母さんが言ってた。

 歩を進める度に揺れるオセロの皺ひとつない白衣を見、マーリンはかつて交わしたリアの言葉を思い出す。

 薄暗い状況下に於いても白く輝いているように見える彼の白衣が、自分が身に纏っているものよりも質が良く思えてくるのは、憧憬――などという感情的な要素は皆無で、実際はただ単に手入れが滞りなく行き届いているだけなのだと、マーリンは知っている。

 オセロは自身の事に関しては酷く不精な性分で、放っておけば寝食をも忘れてただひたすらに研究に打ち込んでしまうらしい。それを阻止しているのが妻である所のクレシダで、毎日この病院を訪れている彼女は、リアの見舞いのついでに夫の身の回りの世話も焼いている。

 その献身によって、勤務中にオセロの醜態を見掛けた事は無く、マーリンの中で彼はいつまでも「整った」人で居てくれている――それは、リアも同じだ。

 生後間もなくして「普通の子」では無いと判明した彼女に、本来自分が生まれ育つべき家で過ごした日の記憶は無い。だからこそ、この病院が彼女にとっての家であり――この病院に居る限り、彼女は医師としてのオセロ・エーゼルシュタインしか見る事が出来ない。

 それは、辛くはないのか――。

 何度かリアに訊こうとしたが、ついにその疑問がマーリンの口から出る事は無かった。

 訊いた所で、彼女は笑顔で「辛くないよ」と答えるだろうと――安易に予想できるからこそ。

「今日は、リアとは会いましたか?」

 どうせ行き先を訪ねても答えてくれないのだ。リアの事を思い出したついで、マーリンは前を行く背中に問い掛ける。

「いや……今日は訪問診療で外に居る時間が殆どだったからね。帰る前に様子を見ようとは思っているけど」

 進行方向を見据えたまま答えるオセロは「でも」と続けた。

「マーリン君には感謝しているよ。君が毎日のようにリアと会ってくれているというだけで、少なからず安心できる……父親としては、失格かもしれないけどね」

 自嘲気味の言葉を口にするオセロの表情を伺い知る事は出来ない。

「いえ、感謝しているのは寧ろ私の方です。とても大事な友達と巡り会えたのですから」

「だからこそ、君はリアを救いたいと思っている」

「ええ」マーリンは力強く頷く。「いつか、必ず」

「そう。その志は僕も同じだ――だからこそ、君に見せたいと思っているものが、この先にある」

 そう言って、オセロは扉の前で立ち止まる。

 黒字で「資料室」と記された白いプレートが掲げられているその部屋は、文字通り医療に関する資料が多岐に亘って保管されている部屋であり――勉強目的で出入りする事の多かったマーリンにとっては馴染みの深い場所だった。

 見せたいものがこの部屋の中にある。

 それはつまり、リアの原因不明の病を直す術が記載されている資料がここに存在するというのだろうか――という考えは、その思考に至ったマーリン自身が即座に否定した。

 医学の勉強もそうだが、同時にリアが歩けない原因を調べる為にも、ここに存在するありとあらゆる書物に目を通したつもりだった。もしも解決策が載っているものがあるのだとすれば、それを見落としている筈が無いと――そう思う。

 ――それとも、ただ単に。本当に私が見落としただけ?

 にわかに沸き立つマーリンの困惑を余所に、オセロは扉の取っ手に手を掛ける。

 それが開かれた先の光景は、彼女にとっては見慣れたものである。入口付近に吊されているガス灯に照らされた薄暗い空間には、背丈を優に超える高さの書架が木立のように並んでおり、そこに一切の隙間も無く埋め尽くす本の壁が威圧感を与えてくる。

 初めてここへ足を踏み入れた時のマーリンは、その本の壁に息を飲みつつも期待に胸を躍らせたのだ。

 ここなら、リアを治す方法を必ず見つけられる――と。

「一時、君がここに入り浸っていた時期があっただろう」

 胸中を察したようなオセロの言葉に、マーリンの心臓は大きく脈動する――それよりも更に驚いたのは、彼が扉の鍵を内側から掛けてしまったことだ。

「勉強熱心なのは大いに結構だし、それがリアの為だったというのだから有り難い限りなんだけどね。正直な所、少し困っていたんだ」

 ガス灯の明かりに照らされるオセロの微かな苦笑に、悪意めいた感情などは見受けられない。見せたいものがあるというのは建前で、マーリンを閉じこめて何かしら企てているのではないかという疑念は、とっとと部屋の奥へ進んでいく姿に薄れていった。

「誰かに見られては困る物がある……とか、ですか?」

「察しがいいね」

 尤も、当てずっぽうではあるのだが――とは、言わないでおくことに決めた。

「まあ正確には――見られては困る物というのは、この部屋にはないんだ」入口から対角線上――最も離れた位置にある書架の前で立ち止まったオセロはそう言ったが、その言葉の意味する所は不明瞭極まった。

「この部屋の奥に、それはある」

「え?」随分と素っ頓狂な声を上げてしまったものだと、マーリンは思った。

 しかしそれは致し方ない事であり――この部屋の奥と言われても、資料室に存在するものは背丈を超える書架の群と本の山、高い場所の本を取る為に使用する踏み台がいくつかに、扉の付近にあるガス灯、そして申し訳程度に備え付けられている明かり窓に、オセロが鍵を掛けた扉。

 詰まる所、この部屋の奥と言われたら、それは今オセロが立っている所になる。その書架に何か隠している物があるとでもいうのか。

 オセロはスラックスのポケットをまさぐるような仕草を見せると、金属が軽くぶつかり合うような音を鳴らしながら、そこから何かを取り出した。薄暗いので判然としないシルエットは、鍵束のように見えた。

 そうしてから書架の本――分厚いものだった――を取り出した彼は、それを手近な踏み台の上に置いてから再びに書架に向き直る。今しがた抜いた本があった場所に鍵束を持つ手を突っ込んだかと思うと、じゃらじゃらという鍵が擦れる音に紛れて「カチャリ」という別種の音が部屋の中に響いた。

「よいしょ」

 棚板を両手で掴んだオセロが少しばかり気の抜けた声を上げると、重いものが引きずられるような音と共に書架が手前に引っ張られた。さながら重厚な扉のように開いていく光景に、さすがのマーリンも言葉を失う他にない。

 ――こんな隠し扉なんて、童話の世界じゃあるまいし。

 果たして、今し方まで書架が存在していた場所には何があるのか。逸る気持ちを抑えきれずにオセロの背後から背を伸ばして覗き込んだマーリンは――しかし、見慣れない物体に怪訝な表情を浮かべた。

 人が数人は入れるような狭い空間があり、資料室とそこを格子状の折りたたみ式ドアが隔てている。一見して、何の為の場所と物なのか謎は深まる一方で――困惑する様子のマーリンにちらと視線を向けたオセロはどこか楽しげであり、それが意地悪く見えてしまったので少しばかり癪に障った。

「昇降機だよ。これで地下に行く」

 格子状のドアを滑らせるように開いたオセロは、奥へ進むよう促す。

「地下……って。この病院に地下室があるなんて話、初耳ですが」

 どうにも辛気臭くなってきた――と思うには遅すぎるか。

 何より、こうまでして隠している地下という空間には何があるのか。そこでオセロは何を見せようとしているのか。怖いもの見たさにも似た好奇心が、マーリンの歩を進めさせた。

 とはいえ、昇降機という物に乗り込むのは初めての事で、構造も原理も知らない装置の中を見回す彼女の目には微かに不安の色が浮かぶ。

 正面には乗り込む時に通ってきたものと全く同じ格子状のドアがあるが、その奥にあるのは舗装されていない剥き出しの土壁だけであり、開けた所で先に進めそうな様子ではない。左手の壁には金属製らしきプレートが取り付けられており、そこから一本のレバーが水平に延びている。察するに、これが昇降するために使用する物か。

「この建物が建設された経緯については、知っているかい?」

「……五百年ほど前に起こった戦争時に拠点として建てられた宮殿で、戦後に何度も改築を繰り返して現在は病院になっている――という、まあ、これくらいの程度の話しか知りませんが」

 その回答に満足したのか、オセロは大きく頷いてから、

鍵束を持った手をレバーの方に近付ける。

「そう。その戦時中に、この建物の下に巨大な地下道を作ろうと画策していた将校がいたらしい。敵の拠点のすぐ近くに続く道を掘り、奇襲を仕掛けるためだとか――」

 薄暗い為に直前まで全く気付かなかったが、レバーのすぐ側には鍵穴が開いていた。束の中から対応する鍵を探しだしてから差し込むまでの動作は手慣れたもので、何度もここを行き来していたのだろと分かる。

「非現実的というか、短絡的というか、無謀というか――とにかく、そんな馬鹿げた計画が上手くいく筈もなく、地下道は未完のまま終戦を迎えてしまった」

 鍵穴に差し込まれた鍵が回される――その直後に頭上から注がれてきた目映い光に、マーリンは暗闇に慣れつつあった目を細めた。

 昇降機に火が入ったのか。

 彼女が連想するのは、何かが蠢めいているような、獣が呻いているような――機械が駆動する音はそのどちらとも似付かないが、昇降機がこれから動こうとしているのは考えるまでもなく分かった。

 手を庇のようにして天井を仰ぐと、ほのかに黄色い光を放つ丸い球があった。見慣れたガス灯の明かりとは違うそれが電気であると理解し、マーリンは驚きに見開いた目に爛々と発光する電気の球を映し続ける。

 ガス燃料に変わる新しい照明装置として白熱電球が発明されたのはごく最近の事で、一部の裕福な層などを覗けば殆ど普及されていないそれが、こんな所にあったというのだから――驚かない道理はない。

「……まぁ、確かな文献が残っている訳でもないから、本当の所はよく分からないんだけどね」

 オセロは何の話をしているのだと思ったマーリンは、すぐに地下室の件を思い出した。初めて間近で見た白熱電球に、完璧に心を掌握されてしまっていたらしい。

 隠し扉の書架の裏側には取っ手が付いているようで、それを引っ張ったオセロは昇降機の中から書架を元の位置に戻し、格子扉を閉めた。そうしなくとも資料室には鍵が掛かっているので、余程の事がなければここの存在は知られまいと思うが……念押しは大事という訳か。

 狭い箱と化した空間に二人きり――そう意識すると、にわかに息苦しくなったような気がした。

「とにかく、ここがレオデグランス記念病院となる前から存在していたこの空間は、常に存在を秘匿されていたんだ。宝物庫、監禁部屋、生体実験……用途はいくらでもある。隠したい何かがある者にとって、これ以上に都合のいいものはないからね」

「では、先生は、どういった経緯でこの場所の存在を知ったのですか?」

 その質問に応じる前に、オセロは昇降機のレバーを下に下げる。同時に起こった微かな振動と共に降下し始めた箱の中で、マーリンは身体が浮き上がるような――奇妙な感覚を覚えた。

「僕に医学の全てを教えてくれた師が教えてくれた――託されたというべきかな」鍵束を握るオセロの手から、金属がぶつかり合う音が聞こえる。「この鍵と、地下室と……人類を救う研究をね」

「人類を救う……?」

 人を救うのは医者の本文だが、人類を救うと言われると大仰に――正直に言ってしまえば、どこか胡散臭く聞こえる。どんな病でも治してしまう薬でも作っているのかと思ったマーリンだが、それは直ちに否定した。

 そんなものは、夢のまた夢というもので。

 では一体何だというのか。問い掛けようとした矢先にオセロは掴んだままだったレバーを上げ、水平の位置に戻す。

 降下し続けていた箱が停止した際に起こった振動は微細なものだったが、注意力が散漫としていたマーリンは少しばかり足をよろめかせてしまった。

「おっと、ごめんよ。大丈夫かい」倒れ掛けた先のオセロに支えられ――不本意にも密着する形となってしまったマーリンは「大丈夫です――失礼しました」と即答し、素早く身体を引き離す。

 ――動揺を隠しきれていない上に、顔が熱い。もしかしたら頬が、紅潮してしまっているのかもしれない。

 悟られまいとしてオセロに背を向けたマーリンは、

「あ……」

 昇降機に乗り込んできた時とは逆の方――格子扉があるだけで行き止まりの筈だった場所に現れていた長い通路を見た瞬間に、顔の熱が一気に冷めていくのを実感した。

 地下に存在する通路。

 雰囲気そのものは自分らが従事している病院のそれと大差はないが、しかし何よりも目を引いたのは、天井から広域を照らしている白熱電球の存在だった。

 間違いなく、地下空間の設備は上よりも整っている。

 その確信に、マーリンは息を飲む。

「驚くのはまだ早いな、さあ」

 呆気に取られているマーリンの肩を軽く叩いたオセロは、格子扉を開けて通路の奥へ歩を進める。

 言われるがままに後を追いながらも、マーリンは周囲に目線を配らせる。とはいえ、等間隔に吊り下げられている白熱電球の物は何もなく――ともすれば塵のひとつすら見当たらなさそうな空間に、奥へ進めば進むほどに閉塞感を覚えていく。

「先生」たまらず口を突いて出た言葉は、二人の足音しか聞こえない通路によく響いた。

「人類を救う研究と……そう先程は仰っていましたが、具体的にどのような方法で、どう救うというのですか?」

「やっぱり、怪しいと思うかい?」

 こちらに顔を向けないが、オセロの顔には苦笑が浮かんでいるような気がした。そして仕草が伝わらないというのを承知で、マーリンはかぶりを振る。

「……答えを訊いてみない事には分かりません――ですが、このような場所に隠れて研究を行うという事は、少なからず後ろめたい何かが……倫理に反するような何かが見え隠れしているようでならないのです」

 隠したい何かがある者にとって、これ以上に都合のいいものはない――オセロがそう言ったのは、まさに彼自身がそのような事を行っているからではないのか。

「それを判断するには、僕の言葉だけでは足らないだろう」言って、歩みを止めたオセロの前には両開きの重厚な扉があった。白熱電球に照らされて鈍い光を放つ黒い扉の取っ手を掴むと、肩越しにマーリンを見遣る。

「だから君自身の目で以て判断してほしいと、僕はそう思っている」

 思いのほか勢いよく手前に開かれた扉が起こす微風が、マーリンの艶やかな黒い髪を撫でる。乱れた前髪に手を添えた彼女の目に飛び込んできた光景は――果たして、想像していたものとは全く異なる世界だった。

 これは病院というよりは、寧ろ――。

 実験台の上に乱雑に並ぶメスシリンダーやビーカーにフラスコ、何かを観察している途中と思わしき顕微鏡に、片方だけに何かが乗せてある秤があると思えば、何も取り付けられておらずに棒立ち状態となっているロート台。

 そして、それらをぐるりと取り囲むのは、大量の薬品と、分厚いファイルが納められている棚、棚、棚――。

 実験室のようだ――というのが、率直な感想だった。

「僕の師は、かつてこの病院に従事していた医師だった。他界してから随分と経つが、未だに師が遺した最期の言葉は鮮明に思い起こせる」

「……何と言ったのですか?」

 実験台に歩み寄りながら訥々と言葉を吐き出していくオセロの背中に問う。

「どうして人間は、こうも脆いのか――と」

 それは師の口癖でもあったと、オセロは言う。

「死因は肺炎だった。当時の師は齢八十を越えていて――衰弱しきっていた身には、まさに致命的でしかなかった。僕はそんな師を救えずに、ただただ頭を下げる事しかできなかったんだ」

「……病名が分かっていても、治療法が確立されていても、それでも、どうにもならない時はあります」

 あなたが背負う責任は無い――というつもりで口にした言葉は「そうではないさ」と否定された。

「師から引き継がれた研究を完成させられさえすれば、必ず救う事ができた。己の力のなさを、悔いても悔やみきれなかったのさ。

 正直、自惚れてさえいた。僕なら必ずできると――周囲から優秀だの天才だの何だのともてはやされて積み上げられていった自信は、実際には砂でできた塔も同然で、吹けば崩壊する脆いものだったんだ」

 マーリンの方を振り向いたオセロの表情には、今までに見たことのない色が浮かんでいた。

 あるいは悲壮か、あるいは怒りか。分かるのはそれら複数の感情が綯い交ぜになって、膿のようにどろどろと溢れている事だけだった。

 無意識に視線を外した彼女は、オセロが抱えている一冊のファイルに目を留める。随分と年季の入っている物だと気づけたのは、挟んである分厚い資料の束が目に見えて日焼けしていたからだ。

「君は、君自身をどう評価している?」

 質問の意図が分からなかった。

 分からなかったが――その質問に対する回答は、深く考えずとも出てくるものであり、マーリンが口を開くのにそう時間は掛からなかった。

「……何もかもが足りていない、半端で未熟な人間です。知識も、経験も――掲げる志ばかり高いというだけで、友達の一人すら救えないのが、マーリン・マイヤーという人間です」

 謙遜ではない。オセロ・エーゼルシュタインという絶対的な名医を前にして――否、たとえ誰に訊かれた所で、自分自身を高く評価する事など到底できない。

「過小評価というものだよ、それは。君はこの病院にいる数多くの医師の中でも、最も優れた医師と言ってもいい――や、そこまで言うと、さすがに過大評価になってしまうか」

 そう言ってオセロは苦笑を浮かべたが、対するマーリンの表情に揺らぎはなかった。

「少なくとも、僕はマーリン君を高く評価している。何より、娘のリアを我が妹のように想ってくれている事が、僕にとっては何よりも嬉しく――だからこそ、君にこれを見てほしいと決意を固めた」

 差し出されたファイルを両手で受け取ったマーリンは、表紙に記されている題名に眉を顰める。

 ――ヒューマノイド・キメラに関する研究レポート。

 ヒューマノイド・キメラ。

 それが何を意味をする言葉なのか判然としないまま表紙を開くと、殴り書きにも近しい歪な文字の羅列が古紙の一面を埋め尽くしていた。これがレポートの体裁を成しているとは、正直言い難いものがある。

「あらゆる病を克服できる人間を生み出す――」

 レポートを斜め読みしていたマーリンは、ふと目に留まったその一文を読み上げた。

 全ての病気を治す薬のような話であれば、幼少の事に何度も夢に描いた事はある。だがしかし――レポートに記されている文章は、彼女の常識の範疇を遙かに凌駕していた。

「それは僕の師――前任の院長が遺した、数十年にも亘る記録の……ほんの一部に過ぎない」

 実験台に凭れ掛かるようにするオセロは、部屋の中をぐるりと見回す。その記録に釘付けとなってしまっているマーリンが、彼の仕草に気づく事は無かったが。

「師はいつも嘆き、悩み、苦しんでいた。なぜ人は病に冒されるのか。なぜ病に冒される者と、そうでない者がいるのか。なぜ根本治療できない病が存在するのか……」

 それは、マーリンが視線を走らせている記録の冒頭部分にも書かれてあった。

「そうして悩みに悩み抜いた師が導き出した答えが、人間を『次の段階』へ進化させるというものだった」

「次の……段階?」

 そうさ、とオセロは応じる。

「病を治療するのでもなく、予防するのでもない。根本から病に掛からない――受け付けない肉体にする事が出来れば、それは即ち病の根絶に繋がる」

「それがヒューマノイド・キメラで……人類を救う研究、なのですか」

 視線をファイルから上げたマーリンに、オセロはゆっくりと頷いた。

「師は多くの同胞に協力を仰いだ――だけど、その考えに賛同してくれる者は誰ひとりとしていなかったんだ。そんなものが実現出来る訳がないと嘲笑されたし、何よりそれが実現してしまえば、病院が――ひいては医者が無用の長物と化す。食い扶持がなくなるということだ。医者は決して、慈善事業でやっている訳ではないからね」

 お金を得る手段として、医者は医者としての本文を果たしている。

 無論、多くの医者は――マーリンも含めて――人の命を救う為にその道を志したのだろうが、それで何の対価も得られなかったとしたら、果たして同じ考え方でいられるだろうか。

「賛同してくれる者は皆無だったが、師がそれで諦めた訳ではなかった。諦めた訳ではなかったが……研究は早々に座礁しかけたんだ。何せ、目指しているものが究極の生命体にも等しいのだから、何をどうすれば答えにたどり着けるのかまるで検討がつかない。医学の範疇を越えていた」

 そんなある時、師はある存在に着目した。

「魔物さ」

「魔物?」オセロの言葉を、些か間の抜けた調子で反芻する。

「古来よりこの世界に君臨する、人知を越えた存在――魔物の定義は未だ曖昧だが、そう呼ばれている多くの生物は、驚異的な生命力を有している。うん百年も生き続けている固体だって、そう珍しくもない。

 とどのつまり……人間が魔物と同等か、それ以上の生命力を得られれば、人類は次の段階へ進めるのではないかと、師は考えた」

「そうして、ここ」オセロは室内をぐるりと見回す。「この地下研究室を密かに設けて、研究は秘密裏に、ひとりで、黙々と研究を始めた」

 それが、二十年近くも前の話だという。

 逆を言えば、二十年近くもの歳月を費やしても、その研究は終わっていないという事になる。

「研究に時間が掛かるのは、ある意味では必然だった。魔物を利用するという前提である以上、研究材料としての魔物が必要不可欠になる。しかも殺してはいけない――生け捕りという条件が加わると、もはや素人の手には負えない。だから師は魔物の狩猟を専門とするハンターに依頼をしていたのだけれど、金銭面での負担は避けられなかった。秘密裏で進めているのだから、尚の事だ」

「……という事は、じゃあ、この地下には魔物がいるとでも言うのですか?」

 背筋に微かな悪寒が走るのを感じたマーリンは、二人以外には誰もいない室内を見回す。無論、微かな恐怖を湛える瞳に、人外の姿が移る事はないのだが――そうしなければ、落ち着きを取り戻せなかった。

「さらに下の階には、魔物を収容する牢獄を設けてある。当然、安全面には徹底して配慮されているから、脱走されるような危険性は――ゼロではないが、少なくとも、この研究室が作られてからは一度も起こっていない」

 そのような事件が起これば、たちまちにこの場所の存在は公に晒されるだろうから、オセロの言葉に嘘は無いと見て間違いは無さそうではあるが――やはり、近くに魔物がいるというのは、マーリンからしてみれば居心地のいいものではなかった。

「……魔物を利用するというのは分かりました。その為にには莫大な時間やコストや労力を要するという事も理解できました。先生がその研究を引き継いでいるという事も」

 オセロは頷く。

「ですが、未だにその研究は続いている――そもそも、論理レベルで実現が可能な問題なのですか? ここまで話を聞いている限りでは……私には、机上の空論としか思えないのですが」

 例えば、魔物の生き血を啜る。

 例えば、魔物の肉を、内蔵を喰らう。

 例えば、魔物と人間を交配させる。

 すぐさま思い浮かんだそれらの手段は、もはや医学というよりは呪術の領域に近しい。そして、それらが現実的とは到底考え難く、どうしてオセロはこんな話をマーリンに打ち明けてきたのかという疑念が膨らんでいく一方だった。

「様々な研究を重ねた上で師が最終的にたどり着いた方法は、魔物の細胞を人間に移植するというやり方だった」

「それは……」

 思い浮かばなかった方法ではあるが、最も現実的では無い――。

 マーリンの考えを察したか、オセロは深く頷いた。

「無論、単純に移植しようものなら拒絶反応を起こすだけだ。師は最初にその方法を考えて……すぐに却下したのだけれど、それ以外の方法は全て失敗に終わった。つまり、選択の余地が無かった」

「ですが、細胞移植を成功させる方法なんて」

「無いと思うだろう?」

 オセロは口の端を僅かにだが吊り上げる。自嘲めいた笑みを見、マーリンはまさかと思う。

「それを成功させる可能性を秘めた魔物が存在したんだ」

 その魔物の名を尋ねるよりも早く、オセロは続けた。

「キマイラだ」

「キマイラ」

 反芻し、マーリンは手元の資料に目を落とす。ファイルを持つ手には、いつの間にか汗ばんでいた。

 ヒューマノイド・キメラ――その言葉が持つ意味を、研究の内容を、漠然とではあるが理解できたような気がした。

「キマイラは決まった姿形を持たない。獅子の口から咆哮を放ち、山羊の胴体で地を掛け、鷹の翼で空を舞い、毒蛇の尾をしならせる。ありとあらゆる生物を己の肉体に取り込んでしまう……それはそういう魔物だ」

「その理屈で言うと、人間も取り込めると」

「ああ。数年前の話だが、あるハンターから興味深い話を聞いた。まあ、聞いたのは僕ではなくて、僕の師だけど……」

 ――俺がある日遭遇したキマイラには、女の上半身が背中に生えていた。あれは俺を見ても、助けを乞うどころか表情ひとつ変えなかった。とうに自我を失っているんだろうな。可哀想に……いや、それはある意味では救いだったんだろうか。

「……そのキマイラは、どうなったんですか?」

 光景を想像しただけで起こりそうな身震いを堪えながら問い掛けたが、オセロは首を横に振った。

「そのキマイラには手出ししなかったという――できなかったというべきか。あの魔物の驚異度は他の魔物とは一線を画している。下手に手を出して自分まで取り込まれてしまったら、本末転倒もいい所だろう」

「でも……それでも先生のお師匠さまは、キマイラに手を出したのですよね?」

 今度は首を縦に振る。

「取り込まれるのではなく、取り込む。キマイラの特性を利用できれば、魔物の細胞を移植しても拒絶反応を抑えられるのではないかと――それは夢物語かもしれないし、机上の空論に終わるかもしれなかったが、残された可能性に全て賭けた」

 そして、オセロは師から全てを託された。

「キマイラの研究に着手する時期が遅かった。その頃には師はとうに老いていて――諦めたつもりではなかったが、万が一の保険として、僕に――僕だけにこの場所と、そしてここで行われてきた事を打ち明けてきた」

 こうして今、オセロがマーリンにしているように。

「……僕が君にこの話を打ち明けたのは、協力を仰ぎたかったからだ。マウスによる非臨床試験も順調に進んでいる。このままなら僕ひとりでも、研究は完遂できるだろう――だけど……」

 言い淀んだオセロは細めた目を床に向ける。そうしてから噛みしめられる唇に、マーリンは不吉めいた予感を覚えずにはいられなかった。

「……時間が無い」

「まさか、先生も」

 師と同じ道を辿ろうとしているのだろうか。予感を言葉に発しようとして、オセロは「僕ではない」とかぶりを振る。

 じゃあ、誰が。

「――リアだ」

 室内に何かが落下した音が反響する。

 それは自分がファイルを取り落としたからだとマーリンが気付くまでに、数拍か――あるいは、それ以上の長い時間が経過していたかもしれない。

 有り得ない。

 その言葉だけが、延々と彼女の脳内に渦巻いていた。そんなことは有り得ない。絶対に有り得ない、あってはならない。否定しなければ。理解してはいけない――許されない。

 故に、マーリンは笑みを浮かべる。強引に表情筋を歪めた、笑みとも呼べない笑みを。

「……いくら先生でも、そういう冗談は面白くないですよ。あの子は今日も元気でしたよ? 昨日だって一昨日だって、散歩だと言って院内を車椅子で動き回って、いろんな人と言葉を交わして……。自分の足で歩けないというだけで、他の人よりほんの少し身体が弱いというだけで、あの子は元気なんですよ。

 だって先生。リアの身体のことを最も良くご存知なのは、他ならぬ先生ご自身じゃないですか。一番、良く知って……」

 最も良く知っているからこそ――ではないか。

 自身の言葉に気付かされてしまったマーリンの口調は途端にか細くなり、弱々しくなり、静寂の中に飲まれて消えていく。

 震える程に強く握られた両の拳から力が抜けた。そのまま倒れ込んでもおかしくない程度には滅入っていたマーリンがどうにか二本の足で立ち続けられていたのは、眼下のファイルに目が留まったからだった。

 オセロの考えは理解できる。ヒューマノイド・キメラの研究が完成すれば、リアを救う事ができる――のだろう。

「……何でですか」

 俯いたまま、マーリンは呟く。

「時間がないとは、どういう意味なのですか」消え掛かっていた所に薪をくべられた小さな炎のように、彼女の言葉は徐々に熱を帯びていく。「先生はとても優秀な医師じゃないですか。これまでに何人もの患者の命を救ってきたじゃないですか」

 治療によって治せる病なら、わざわざヒューマノイド・キメラに――魔物を身体に取り込むような真似をする必要など、無いではないか。

「それと同じように、リアを救う事だって!」

 語気を荒げたマーリンが勢いに任せて面を上げると、再びに視界に映り込んできたオセロは伏し目がちにかぶりを振る。

 その言動は、今のマーリンには酷く癪に障った。

「どうして諦めるんですか!」「私は諦めてなどいない!」

 怒号を遙かに凌駕するオセロの大音声がマーリンの肩を大きく振るわせ、怒りの感情に歪めれる表情を凍り付かせた。

「……自分の娘なんだ。どうして諦められる」

 ――馬鹿だ。私は大馬鹿者だ。人の気も知らないで。

 大きく見開かれた彼女の瞳に映るオセロの握り拳が微かに震えている。その内に秘めている感情は、恐らく自分と同じで――その度合いは、マーリンのそれとは比にならないくらい大きいに違いない。

「岩病だった」

 病名を告げるオセロの言葉は弱々しく、先刻の勢いは完全に失われていた。

「X線撮影機でリアの身体を撮った――それは単に念の為であって、あわよくばリアが歩けない原因を探るきっかけになってくれればと思っていたんだけどね。肺に写る白い影は、これまでに岩病で亡くなった患者のそれと酷似していた」

 子細を説明されずとも、病名だけでマーリンは全てを察した。

 現代の医学では、それを治す術は無い。患ったら最後、じわじわと全身を蝕まれ、無限に際限なく苦しみ続け、苦痛に悶えながら死んでいくだけの、不治の病。

「……リアは、それを知っているのですか」

 リアの態度は今日も普段通りだった事を鑑みれば、恐らくは言っていないのだろう。そう思っていても、尋ねずにはいられなかった。

 あるいは、リアなら。

 生まれながらにして抱えている歩けないという別の病を歯牙にも掛けていない彼女なら、不治の病を患っていると知っていたとしても、悟られまいと気丈に振る舞うのかもしれない。

「……自分の娘に、お前はもうすぐ死ぬだなどと――残酷な言葉を向けられる親にはなれなかった。医者としては失格だ」

 マーリンはかぶりを振る。

 子供を持つ――母親になるという経験の無い彼女でも、オセロが抱える心情は理解できる。責める事など出来なかった。

「自覚症状が殆ど無いケースは極めて稀だが――それは寧ろ、不幸中の幸いと言えるかもしれない。死と隣り合わせの日々に怯えるよりかは、ずっと……」

 ――そして、最悪の結末を迎える前に、必ず研究を完成させる。

 その呟きは力強かった。マーリンに向けた言葉ではなく、自信を鼓舞するために発せられた決意の言葉。

「だからマーリン君。君にも協力してもらいたい。リアの為に――ひいては全人類の為に、命を救う新たな医療法の確立を……」

 真っ直ぐにマーリンを見据えるオセロの相貌の奥底に、燃え盛る炎を見たような気がした。


 曇天の夜空の下を行く足取りは重い。

 外灯に照らされるマーリンの表情は寒気で紅潮してはいても精気に欠け、白い呼気を口から吐き出しながら進んでいく様は、燃料を切らし欠けている蒸気機関車のようだった。

 ――いきなりの申し出に、即答できると思ってはいないよ。今日はもう帰って、それからよく考えてみてほしい。

 ただし、残された時間が少ないという事だけは、念頭に置いてほしい。

 オセロよりそのように念を押されて地下から戻ってきたマーリンは、言われるがままに身支度を整え、下宿先への帰路に就いた。

 非日常の世界から日常に戻ってきた彼女だが、意識は地下に引っ張られたまま――非日常の中に置き去りにしてしまっている。考えなければならない事は多く、それらは安易に答えを出す事ができない。

 ヒューマノイド・キメラという概念は、実現さえすれば確かに多くの患者を救う事が出来る、究極の医療になり得るかもしれない。しかし、魔物を取り込んだ者を、人は人として認める事が出来るのだろうか。病気と倫理を秤に掛けた場合、勝るのはどちらなのだろうか。

 そもそも、ヒューマノイド・キメラの研究が完成したとして、それでリアの病が治るという保証はどこにも無い。

 それ以前に、リアは治療を受ける事を承諾してくれるのだろうか。自分が彼女と同じ立場だったら、どうする。逃れられない死に直面した者は、人ならざる者になってでも生き延びたいと思うのだろうか。

 リアは、何て答えるのだろうか――。

 道すがら、手を取り合って歩いている親子連れとすれ違う。母と楽しげに話す幼い女の子の姿を目に留めたマーリンは、少し間を置いてから歩みを止めた。

 ――そういえば、帰り際にリアの病室を訪ねるのを忘れていた。

 振り返れば――母と子が行く道の先には、先刻まで自分が勤めていたレオデグランス記念病院の屋根が見える。城郭として建設された当初から殆ど変化の無い外観は街に軒を連ねるどの建物よりも目立つ存在であり、初めてこの地を訪れた際には、その堂々たる佇まいに感動すら覚えたものだった。

 リアに会いに行くべきだろうかと逡巡したのも束の間、マーリンはかぶりを振って、前に向き直る。

 今の自分では、彼女に何を言ってしまうのか分からなかった。それでなくても、察しのいいリアの事だから、顔を合わせた瞬間に何か悟られてしまうかもしれない。

 今は何も余計な事を考えない。早く家に帰ろう――そう思った途端に、マーリンは身体の芯が冷えていくのを実感する。暖かいものが恋しく思えてくる。

「先生!」

 凍えから凌ぐために擦り合わせようとした手が止まる。

 それは「先生」と呼ばれたからではなく、前方から聞こえてきた男の声が、言葉にならない悲鳴か何かかと誤解したからで――それほどまでに聞き取りにくいものだったから、警戒心が働いてしまった。

「マイヤー先生!」

 今度こそはっきりと自身の名を呼ばれた彼女は、夜闇の中から急ききって駆け寄ってくる中年男性の姿を認めた。名前こそ思い出せなかったが、生え際が後退しかけてきている彼は近隣の住民であるという認識はあった。

 その男が、雪よりも顔色を蒼白にしているとなれば、胸騒ぎを避けられなかった。

「ああ良かった。ちょうど病院に向かおうとして――でも診療時間は終わっているだろうから大丈夫かと思っていたんだけど、だからマーリン先生の家に行った方が良いのか少し迷って……」

「落ち着いてください」肩を激しく上下させながら、身振り手振りで何かを訴えている男性は錯綜気味である。マーリンは落ち着かせるために彼の両肩に手を置き、瞳をのぞき込むようにした。「何があったんですか?」

 病院に行こうとしていたという事は、何か病気や怪我でもしたのか。しかし一見して、相手は顔色がよくないというだけで目立った外傷もなく――ものすごい勢いで駆けてきたのだから健康状態に問題は無さそうに見える。

 なら、彼以外の誰かの身に、何か起こったのか。

「人が倒れてるんだ。どこかから川に流されてきたらしくて、全身が血だらけで――」

 そこまで聞けば充分で、マーリンは彼の手を取って走り出す。

「案内してください!」

 怪我人が倒れているという場所は、案内されずとも――本来の帰路を道なりに進んでいった先に見えた人だかりを見れば、否応なしにそれだと分かった。

 そこに群がる野次馬のひとりがマーリンの姿に気付いて声を上げると、他の者たちも彼女の方を見ては「マーリン先生」だと口々に名前を口にする。

 分かっているのなら早く道を開けてくれないかという微かな苛立ちを噛み殺しながら、「失礼します」と人垣をかき分けて進んだマーリンは、その先に待ち受けていた光景に目を見開き――今し方まで抱いていた感情は霧散して、夜の闇の中へ消え去った。

 自分と同じくらいか、もしくは年上と見受けられる男性が、投げ出されるようにして仰向けに倒れている。身に纏っている服は泥と血にまみれ、所々がぼろ布のように裂けており――そこから覗かせる無数の裂傷と擦過傷は、眉間に縦皺を刻むマーリンの口を手で塞がせた。

 これは、人に襲われて出来るような怪我ではない。魔物に襲われて、そのまま川に流されてきたのか――いや。

 経緯など、今はどうでもいい。今は、目の前の怪我人の命を救わなければならない――足を止め掛けた自身を鼓舞したマーリンは男性の傍らで身を屈め、人差し指と中指を動脈に当てる。

 弱々しいが、脈はまだある。

 胸が微かに上下しているので呼吸もしている。雪よりも青白くなっている肌が、既に失血死を招いているかもしれないという絶望感を覚えずにはいられなかったが、まだ間に合う――まだ救える。

 生命の灯火は、まだ消えてはいない。

 しかし、川上から流されている間に相当量の出血を伴っている事は明白で、時間に余裕は無い事に違いはない。加えて、この場所と、今のマーリンでは、必要最低限の処置すら施せない。

 ――とにかく病院に、一刻も早く病院に搬送しなければ。

「どなたか、病院に連絡を」

 周囲を取り囲む野次馬に向かって声を上げるも、マーリンの言葉を受け取った側は、それぞれ互いに顔を見合わせるばかりで、行動を起こそうとする者は誰もいない。

 事がどれだけ重大なのか理解できていない。それは自分に向けて言っているのかもしれないと思いつつ、しかし他の誰かが代わりにやってくれるだろうと、無駄な牽制をし合っている。

「誰でもいいから! 早く!」

 もはや苛立ちを隠せなくなったマーリンの口から怒号が放たれる。

 心優しい医者で通っている者が豹変すれば驚くのも無理は無く、野次馬の集団は狼狽えながら散り散りになっていく。その様子を見送りつつ、何か止血する物を持ってはいなかったかと鞄の中をまさぐっていたマーリンの耳に、

「エルマ――」

 ともすれば川のせせらぎに紛れて消え入りそうな掠れた囁き声が、男性の口から発せられた。

 驚きと共に見遣ると、微かに開いている男の瞳がマーリンを見上げていた。

「お前を救えなくて……悪かったな。俺も……もうすぐ……」

 男と面識が無い以上、マーリンを別の人物と認識していると見て違いなかった。いや、もしかしたら目が開いているだけで、視力が殆ど失われているのかもしれない。

「それ以上喋らないで」

 誰と勘違いしていようと構わない。マーリンは両手で男の左手を握る。

「何も心配はいらないわ。あなたは私が絶対に助ける――助けられる。なぜなら私は、私が尊敬する先生から、優秀な医師と認められているから……」

 ゆっくりと瞼を閉じていく男の手を、マーリンは強く握る。

 体温を失って氷の様に冷たく、血色を失って雪のように青白くなっている彼の手が、彼女の手を握り返してくる事はなかった。


 病室の扉の前に向き合うマーリン・マイヤーは、カルテを抱きかかえながら床にため息をひとつ落とした。

 ノックして、声を掛けて、部屋に入る。そして、患者と向き合う――成すべき事はそれだけだが、たったそれだけの事が出来ずに、かれこれ十数分は立ち往生してしまっている。

 数拍の間を置いてから、再び溜め息を漏らす。

 彼女の顔は酷くやつれている。ともすれば病人に見間違われそうな程に顔色が悪いのは、積もりに積もった疲労――肉体的にも、精神的にも――が最たる原因であり、身に纏っている白衣のみが、彼女を医者たらしめていた。

「マイヤー先生。どうかしましたか?」

 声を掛けられて、マーリンはつと面を上げる。声の主は、二本の松葉杖を突きながら歩み寄ってくる男性患者で、訝しげな表情を浮かべている。

「……なんだか、酷くお疲れのようですね」

「いえ、そんな事は」

 相手の言葉を否定するために、マーリンは無理矢理にでも笑みを浮かべてみせる。明らかに歪んでいるそれは返って不信を煽るだけだったが、

「あまり無茶はしないでくださいね。先生が倒れてしまったら、みんな困ってしまいますから」と言われただけで、それ以上の言及は無かった。

「ええ、ありがとう」

 通り過ぎていく患者の背を見送りながら、マーリンは平手で自身の頬を軽く打った。

 ――患者に心配されるなんて、とんでもない。

 掲げた拳に力を込めて、眼前の扉をノックする。

 暫しのあいだ待ってみたが返事は無く、ならばまだ眠っているのだろうと思ったマーリンは、それでも「失礼します」と言ってから静かに扉を開けた。

 直に陽が降り始める夕刻の薄暗い病室に足を踏み入れ――直後に、ベッドに横たわっている男と視線がかち合ったマーリンは、思わず息を飲む。

 頭から足の指先に至るまで彼の体を覆っている包帯が、怪我の程度を改めて認識させてくれる。

 下宿先の近辺に位置する川の岸で倒れていたその男は、しかし入ってきたマーリンには何も応じる事なく、感情を欠いた瞳を窓の外に向けた。

「ブルーノ・ブライトナーさん」

 その名を口にすると、男は視線をマーリンに戻す。表情こそ変わらなかったが、瞳には微かに驚きの色が浮かんでいた。

「……ごめんなさい。あなたの持ち物を調べさせてもらったの。身分証――血でだいぶ汚れてしまっていたけれど、名前は確認できたから」

 男の――ブルーノの名を知った経緯を説明した所で、反応に大した反応も無く。視線はやはり、窓の外に戻っていく。

 ――これは、ケイよりも厄介な相手かもしれない。

 嘆息を漏らしたくなる衝動を堪えながら、マーリンはベッドの側に置かれている丸椅子に腰掛ける。

「……俺は、死んだものだと思っていた」

 さて、何から話したものかと思案していると、ブルーノが先に口を開いた。これは大きな――しかし嬉しい誤算である。

「でも、こうして生きているわ。あなたの命が、生きる事を諦めなかったから。私たちが助ける事ができたの」

 ブルーノの手術は、半日以上にも及ぶ長い戦いだった。

 彼の命を救えたのはマーリンとオセロという優秀な医師が居たのも理由のひとつだが、その最たる要因は、驚異的な生命力にあった。

 いっそ、人知を凌駕し――化け物じみていると言っても過言ではなく。

 術後も、暫くは予断を許さない状況が続いた。いつ容態が急変してもおかしくは無いという緊迫した状況から解放されたのは、手術を終えてから更に数時間が経過した頃の事で、下宿先に戻る為の体力も気力も尽きていたマーリンは、半ば倒れるようにして院内で眠りこけてしまった。

 一日以上も意識を失っている間に、ブルーノが意識を取り戻した――と。

 病院のベッドの上で目覚めたマーリンは、看護師から驚くべき事実を二つ突きつけられ、慌てふためきながらこの病室を訪れて――、

「俺の身体が、そうまでして生きたがっている理由は何だ?」

 ブルーノに投げ掛けられた質問に、すぐには答える事が出来ずにいる。

 身体が動かないんだ――と、彼は呟く。

「左の腕と足が動かないだ。感覚すら無いっていうんだから、おかしな話だな。ものはちゃんとここにあるっていううのに……」

 皮肉を込めた言葉を吐き出しながら、ブルーノは包帯を巻かれた右手で左の腕を掴む。忌まわしいものでも見ているかのような目が、動かない身体の一部に向けられていた。

「脊椎……背骨に何らかの大きな負担が掛かって、そこを通る脊髄という神経が傷を受けてしまっていたの。そうなると、脳から送られる命令が、本来届くべき場所に届かなくなってしまう」

 間違いなく何らかの後遺症は残ってしまうだろうと、マーリンもオセロも予測していた。ブルーノの場合は、それが左半身に現れたという事だ。

「それは治るのか」

「……完治は難しいと思う」でも――と、彼女は僅かに前のめりになって続ける。「でも、根気強くリハビリを続けていけば、動けるようになる見込みはある」

 リアと違って、原因は分かっているから。

「それはつまり、元の身体には戻れないという事だ」

 生き地獄だな、とブルーノは呟く。

「諦めるにはまだ早いわ。こうしてあなたは助かった――それだけでも奇跡に近かったのだから、動けるようになる日だって、そう遠くはない」

 決して、根拠の無い励ましの言葉などでは無い。死の淵から這い上がる事を可能とした彼の生命力を以てすれば、それは不可能ではないという確信があった。だからこそ、マーリンの言葉には熱が伴っていた。

「ツケが回ったんだよ」

「え……?」

 外界の冷たい空気のようなブルーノの言葉が、マーリンの熱を急激に冷やす。

 動かない左腕から離した右手を布団の上に放り出してから、彼は天井に向かって嘆息をひとつ吐き出した。

「どこで生まれたのかすら知らない。名前すら分からない。気が付けばスラム街に放り出されていた俺が生きるためには、人から金や食い物を盗み、奪い取るだけ――そんな生活が、あんたに想像できるか?」

 天井を仰いだまま、ブルーノは問う。

 答えられなかった。

「……そのままで良いとは思わなかった。魔物の狩猟が大層な稼ぎになると知ってからは、悪行から足を洗って――ついでに根城にしていたスラム街からも出ていって、ハンターとして食ってきたんだ。腕っ節には自信があったし、実際、それでどうにかやってこれていたんだがな」

「じゃあ、この怪我は」

 ブルーノは首肯する。ベッドに寝ているので、その動作は微細だったが。

「腕っ節に自信があっても、己の力量を見誤っていたからこのザマよ。だから、ツケが回ったと言ったんだ。さんざっぱら悪行を重ねてきた報いを、こんな形で受けた」

 故に、ブルーノは訊いたのかと――彼女は理解する。

 俺の身体が、そうまでして生きたがっている理由は何だ、と。

 人が――人に限らず、全ての生命が生きようとするのは本能だからだ。本能的に、死という概念を恐れているからだ。

 だが、彼が求めているのはそのような答えでは無い。半身を失うという事は――それは彼にとっては、死と同義なのだ。生きる術を失ったから、自棄になって独白し続けている。

「……私は心理学者でもなければ聖職者でもないから、あなたの心を救ってあげられるような言葉を投げ掛ける事は出来ない」

 マーリン・マイヤーは医者であるが故に。

「でも、あなたの身体を治す事は出来る」

 ブルーノの口角が、ほんの僅かだが、上がった様な気がした。瞬きする間に消えてしまった。嘲笑だ。

「それだって、結局は慰めの言葉に過ぎないだろうが。俺に医学の知識なんざ欠片も無いが、自分の身体がもうどうしようも無い事くらい、説明されなくても――」

「治せる!」

 自分でも驚いてしまうような声量が、直後に「ごめんなさい」と謝罪の言葉を吐き出させた。そうしてもなお、ブルーノの目には驚愕の色が浮かんでいた。

「……詳細はあまり言えないけれど」何より、自身が多くを知らない。そう前置いてから、マーリンは口にするべき事を頭の中で整理する。

「あなたのように……身体が不自由になってしまった人を治すための方法について、研究をしているの」

 ブルーノに向けたその言葉は、決意を表明するための言葉でもあった。

 オセロから話を訊いた直後であれば、彼女は「研究をしている先生がいる」と説明していた――自身は関与していないと、正直に話していたかもしれない。

 そうしなかったのは、同じような境遇に立たされている少女の存在が大きい。

 半身と共に希望を失い、生きながらにして死んでいるブルーノ・ブライトナーと。

 半身を失っていても賢明に生きる事を許されなくなったリア・エーゼルシュタインを。

 このままでは、二人とも見殺しにしてしまう。マーリンが研究に協力しなかった結果として二人が死んだとしても、それは彼女の罪にはならないとしても――だ。

 救える方法を知っておきながら、見て見ぬ振りをする。そうすれば――それこそ、死んでしまいたくなる程の後悔の念を背負い続けて、この先の人生を歩み続けなければならない。

 リアの父親は一度「それ」を経験している。マーリンが今まで見えていなかっただけで、尊敬する者の背には、一人では到底手に負えない巨大な負の塊が乗せられている。

 そのような状態で娘までも失ってしまったら――潰れてしまうだろう。間違いなく。

 私は同じ道を辿ってはならない。

 何よりも、大事な人を失いたくない。

「だから絶対に、あなたの身体は治るわ――治してみせる」

 なぜなら私は。

 私が尊敬する先生から、優秀な医師と認められているから――。


 静寂を突き破らんばかりの轟音が、記憶に囚われていくマーリンの意識を明瞭にさせた。

 果たして、どれ程の時間が経過していただろうか。相変わらず身体の自由が利かない――神経毒が未だ作用している状態に変化は無く、かつ彼女が絶命しないでいられるという事は、まだキメラ体で居るという事になる。

 それはつまり、少なくとも、自身のキメラ体に於ける活動時間のリミット――約180分をオーバーしてはいない。

 気懸かりなのは、先のけたたましい音だ。

 そう遠くない場所で聞こえてきたそれの残滓とも呼べる音――瓦礫か何かが崩落していく音が今も耳に伝わってくる。建造物が破壊されたという推測は容易に出来るが、身体が動かない以上は、どうしたって推測の域を出ない。

「参ったね」

 そう遠くないどこからか、ライオットの声が聞こえた。眼振こそ治まっているものの、神経毒のお陰で方向感覚まで狂っているらしい。

 再びマーリンの顔を覗き込むようにしてきたライオット・ラウシェンバッハは、言葉とは裏腹に愉しげな表情を浮かべている。一体、何が参ったというのか。舌が回らない彼女にそれを問う事は出来ない。

 いつの間にか服を着ている――と、代わりに心底どうでも良い感想を抱いた。

「マーリン。あなたに良い報せと、悪い報せがある」

 言って、ライオットはリアが泊まっている宿の――瓦解した屋根から突き出ている、巨大な氷の柱を見上げる。

 人ひとり分程度の太さを有し、宿の倍近くの長さを誇る「それ」こそが轟音の原因である事を、マーリンは確認出来ない。

「こういう時はどちらから話すか相手に選んでもらうのがセオリーだが、生憎と今のあなたは話す事が出来ない。勝手で申し訳ないけれど、良い報せから話してあげよう」

 マーリンにとっての良い報せは、裏を返せばライオットにとっての悪い報せになり得るのか。

 何れにせよ、自身の状況が好転するとは考え難かった。

「リアは逃げたよ。フレイルが逃がしたというべきか――まあ、言い方が違うだけで結果は同じだ。どうにも僕らは、リアの能力を見誤っていたらしい。とんだ誤算だ」

 心底残念そうに首を振ってみせるが、表情が緩んでいる彼がそうしてみせても、それは単なるポーズに過ぎない。寧ろ、この状況を楽しんでいるようにすら見受けられる。

 ならば、マーリンにとっての悪い報せは――ライオットにとっての良い報せとは、一体何か。

「そして、あなたがリアと会う時は――もう二度と訪れない」

 マーリンの視界に、黒で塗り潰された大鎌の刃が映り込む。

 彼女の得物であるそれは今、ライオットの肩に担がれている――それが何を意味するのか。神経毒で身体が動かなくとも、心の奥底はざわめいた。

「柱ではないあなたに、サイズの真名は必要ない」

 ――やめろ。

 マーリンの叫びは言葉にならない。

「ヒューマノイド・キメラになれなければ、マーリン、あなたはただの人間だ。でも僕はね、感謝してほしいと思っているくらいさ。リアという不毛な執着を全て捨てて、全うに生きる道を歩む機会を与えてあげたのだから。

 無論、これまでの行いを詫びて柱に戻るというのであれば、事情が変わるかもしれない――先生だって歓迎するだろう。しかし残念ながらその気が無いのは分かりきっているし、そもそも今のあなたとでは話にならない」

 一方的なお喋りにそろそろ飽きたよ。

 そう言うと、ライオットの姿が視界から消えた。

 曇天の夜空だけを残して。

「さようならだ、マーリン・マイヤー」足音と共に、ライオットの声が徐々に遠退いていく。待てという心の叫びを無視して、どこかへ去っていく。

 やがて彼の足音すら消えると、入れ替わりに人々のざわめきが遠巻きに聞こえるようになってきた。先の轟音が騒ぎの元凶であるのは間違いないだろうが、未だに状況は不鮮明のままである。

 気が付くと、視界がぼやけていた。頬を伝う水滴の感触が、涙を流しているのだと認識させた。

 この涙の理由は――そうさせる感情は何だ。

 リアと会えなくなった悲しみか、自身の不甲斐なさに対する憤りか、ライオットに敗北を喫した屈辱か。

 どれでも無い。

 過去に働いた愚考に対する後悔だ。リアを人ならざるものにしてしまった行いに対する償いを、まだ何も出来てやしない。

 ならば、どうしてここで諦められようか。

 雲の切れ目から上弦の月が姿を覗かせる。

 溢れゆく涙で不鮮明になっていたとしても、それは相も変わらず美しい輝きを放っていた。何年も、何百年も、何千年も前から、その輝きは普遍である。

 それが照らしている空の下のどこかには、リアが必ず居る。世界には執着点など存在せず、どこまでも続いているのだから。いつか必ず会えるだろう。彼女が生き分かれた母親を捜し続けているように。諦めなければ、いつか必ず――。

 僅かに動くようになった指を動かし、拳を握りしめる。

 震えるそれは余りにも弱々しかったが、彼女が胸に抱いた新たな決意は堅く、決して揺るぎの無いものであった。

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