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BLOOD ROAD  作者: 桔梗たつや
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#03:白竜が空を駆ける

 財布の中に存在する硬貨と紙幣の枚数を確認し、ロットは嘆息を漏らした。

 ――このままでは、あと二、三日もすれば資金が底を突いてしまう。

 元々の蓄えが大してなかったので、いつかは直面する問題である事は分かっていた――否、どうにかしなければならないと常々思ってはいたが、様々な理由を立てては先送りにしていた。

 それがいよいよ、誤魔化しが効かない段階になった。

 財布に落としていた視線を上げ、自分がいる街を見回す。

 自身の背丈とそう変わらない長さのブラシを担ぐ煙突清掃員。荷車にミルクの入った瓶を載せて運ぶ配達員。黒い制服を身に纏い、紋章の付いたヘルメットを被り街中を巡回する警察――就いている職は違えど、各々がその日の食事にありつくために働いている。

 村で畑を耕し、森で獣を狩っていた時とは事情が違う。未だ居所の掴めないアーサーとランスロットを一日でも早く捜し出したいが、このままでは身動きが取れなくなるのも時間の問題だろう。かと言って、当面の資金を工面するためにどこかで働こうとすれば、自分で自分の足止めをしてしまう羽目になってしまう。

 ふと、飲食店の店先で掃き掃除をしている女性の姿が目に留まる。

 何一つとして面影はないか、ロットはそこに包帯を巻いた少女の姿を重ねた。

 多くの謎と共にその行方を眩ました、リアという名の少女。

 母親を捜す旅路が急いでいない事はないだろう。叶うのであれば、一日でも、一秒でも早く再開を果たしたいに違いないだろう。それでも彼女があそこで働いていたのは、そうしなければ母親を捜す旅に支障をきたし――ひいては明日の生活が保障されないからだ。

 いつ終わりを迎えるか分からない旅の目的と、終わりの見えている財布の中身。

 両者を天秤に掛ければ、どちらが勝るのかは考えるまでもない。

「しかしなぁ……」

 結論に至るまでの時間はごく僅か。しかし問題はこの後であり、意図的にそのような言葉を口にしなければ気が滅入ってしまいそうになる程の重しが、ロットの頭に圧し掛かってくれる。

 人生のほぼ全てを自分の村で育ってきた少年にとって、見知らぬ地で働くという行為は未知の領域。仕事を得る為にはどうすればいいのか、自分にはどのような仕事が向いているのか、そもそも自分のような人間に務まる仕事などあるのか――考えずとも尽きぬ不安は募っていき、そしてそれらの重しを取り除く術は、行動を起こす他にない。

 自分とそう歳の変わらないであろうリアだって働いていたのだ。自分に出来ない筈がないだろう。

 目的地は分からない。それでも進まなければ何も変わらない。自身を鼓舞する為に両の手で頬を叩き、前進の為の一歩を踏み出す――

「うっ」

 突風に煽られて飛来してきた紙切れが顔面に張り付き、微かな呻きと共に歩みを阻まれる。

 なんともまあ、幸先の悪い……。

 張り付いて離れてくれないそれを引き剥がしたロットは、心中で毒づいて紙を放り捨てようして、ふとその紙面に視線を走らせる。そうしてから、当初は捨てようとしていた紙を丁寧に折りたたみ、ズボンのポケットに押し込んだ。


【#03:白竜が空を駆ける】


 魔物と呼ばれる存在。

 ヒトとは異なる存在。

 では、魔物とそれ以外の動物にはどのような違いが、差が存在するのか。その明確な定義をロットは知らない。ただ、魔物は古来より人々の生活を脅かす危険な存在である――そう教わってきただけだった。脅かされるからこそ、自分が住まう森に巣食う多くの魔物の命を奪ってきた。

 脅威ではあれど、戦えない相手ではない。

 自分の生まれ育った環境と、生まれ持った魔法という力が少年の自信に結びついている。

 だからこそ、ロットはそれらの狩猟を目的とする仕事をしてみようと思い立った。

「ムドニア外郭機動部隊駐屯地は……ここで合っているよな」

 開放されている狭い門の奥に見える赤レンガ造りの建物と、手に持っている紙――先刻に顔面目掛けて飛来してきたそれに載っている地図を見比べて独りごちる。

 見知らぬ土地の地図を見て全く迷わずに目的地へ行ける自信など毛頭なかったので、大半は他人に道を尋ねてきたのだが。いざ着いた場所は、この街の名を頭に据えた外郭機動部隊駐屯地という物々しい名前とは裏腹に、こじんまりとした建物だった。

 本当にここで間違いないのかという猜疑心は、疑問を口にしただけでは払拭できない。

 大した規模のない組織だからこそ、人手が足りていないのだろうか――ここに来る道中で何度も目にした紙面上の文章に視線を落とし、ロットは思う。

 主な仕事内容……ムドニア郊外に生息する魔物の狩猟。

 たった一文の、非常にシンプルな仕事だ。魔物を狩るだけで金が貰えるというのだから、これ以上に自分の能力に見合った仕事はないと確信できる。

 淡い期待を胸に訪れたこの場所だったが――そのまま敷地内へ足を踏み入れるには、如何せん勇気が足りなかった。せめて出入りする者が一人でも居てくれれば入りやすいのだが、それすらないのだ。果たして眼前の建造物には人が居るのかと、疑わしくなってくる。

「おい」

 呼び掛ける男の声は、背後から聞こえてきた。

 それはロットの背後に立っている者が発した言葉だが、その矛先である少年は溜め息をひとつ漏らすのみで気付く様子がない。尤も、名前を呼ばれた訳でもないのだ、気付かなかったとして、この場合ロットに非は無い。

 背後の人物が、次に言葉を発する前に舌打ちしたとしても、だ。

「おい、赤い髪の……お前」

 赤い髪。他にない身体的特徴が、それを有する赤髪の少年の意識を強制的に背後へ押しやる。そうして肩越しに振り返ったロットは漸く背後に立つ男の存在を認識し――その姿にぎょっと目を見開いた。

 自分よりも頭二つ、逆立った青黒い髪を加えれば二つどころでは足りないくらいの身長差を誇る男は、見上げなければその表情を窺い知る事ができなかった。見る者を邪険に扱っているような冷たい視線を放つ切れ長の目を直視できず、彼が身に纏う折り襟の白い上着に目線を逸らす。

「な……なんでしょうか」

「なんでしょうかじゃねえよ。そこに突っ立っていられると邪魔なんだ。どいてくれないか」

 僅かに気怠そうな調子を帯びた言葉は、ロットに自身が置かれている立場を認識させる。決して広くない門の前に突っ立っていれば、そこを出入りする者の邪魔になるのは明らかだった。

 慌てて道を譲るロットに何を言うでもなく、目を向けるでもなく、男は白い服とは対照的な黒い脚絆を履いた足を駐屯所へ向かわせる。

「あの……すいません」

 人の出入りがあるのか怪しい場所に立ち入る男。

 ある意味では、自分が最も望んでいた人ではないか――そう思った瞬間に口を突いて出た言葉は、傍らを通り過ぎようとしていた男の足を止めた。

「……なんだよ」

「ムドニア外郭警備隊の本部というのは、ここで合ってます、よね」

 自分よりも遥かに背の高い相手の視線を受けるだけで委縮しそうになる。

 ――しかし、この人は決して悪い人ではなさそうだし、話の通じない相手ではない筈だ。

 それは大いに希望が入り込んだ推測に過ぎないが、邪険に扱うつもりがないというのは、彼の言動を見れば察せられる。現にこうして、ロットの問い掛けに対して足を止めてくれたのだから。

 あまりいい気ではなさそうであるという点は、さて置くとして。

「ああ。お前みたいな子供が来るような場所ではないな」

 子供、って。

 外見からして、男は二十代の前半か、半ばか――とにかくロットよりも年上である事に疑いはなく、彼からしてみれば子供のように見えてしまうのも無理はない。とはいえ、言われた側としてはあまりいい気分ではないというのもまた確かである。これで話は終わりだと言わんばかりに再び歩を進めようとする男の背に向かって口を開いたが、しかしそこから出てくる言葉は何もなかった。

「…………」

 その後ろ姿を確認するまで気が付かなったが、男は自身の背丈にも並ぶ大きな獲物を背負っている。長い柄と、先端に反りがある刀身が特徴的なそれは、薙刀と呼ばれる刀剣である。

 尤も、それ自体は特に問題はない。この場所に用があるというのであれば、寧ろ武器の類を所有しているのは当然といえよう。

 その刀剣が、凝固した闇のような黒に染まってさえいなければ。

 ロットは何の躊躇いもなく声を掛けていただろう。

 黒よりも黒い刀剣を所有していた女――ケイ・クラウンの亡骸が脳裏をよぎり、それは少年の口を閉ざしてしまう。

 雨を凌ぐために訪れた洞窟で、高熱にうなされるケイと遭遇したあの日。

 数日前の惨劇が網膜に焼き付いてから久しく、目を閉じれば鮮血にまみれた彼女の姿が容易に浮かんでくれる。

 ロットが水と食料を求めて外に出ていた時間は長くなく、それだけに、後悔の念は尽きない。自分がもう少しあの場所に留まっていれば、あるいは彼女を助けられていたかもしれないというのに。

 しかし、同時に安堵したのもまた事実だった。手負いとはいえ、化け物よりも化け物然とした彼女を殺害した相手は、それと同等か――それ以上の実力者である可能性がある。もしもあの場で遭遇していたら、果たして自分は勝つ事が出来たのか。

 確固たる自信はなかった。

 ケイを殺害した人物は何者なのか。

 ロットを襲った女か、それとも偶然にも通り掛かった野盗か。迷い込んできた魔物なのか。何ひとつとして手掛かりのない状況では、何を考えた所で推測の域を出ない。いずれにせよ、アーサーとランスロットに繋がるかもしれない貴重な参考人を失ってしまったのだ、喪失感は大きい。

 しかし、ランスロットとケイを結び付けていた黒の武器を持つ人間が、ここにいる。

 それを「単なる偶然」の一言で片付けてしまうという方に無理があるというものだ。

「……どこに、行った」

 過去に引き込まれていった意識を現在に戻したロットは、男が姿を消していた事に気付く。頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまったが、相手の目的地など考えるまでもなかった。

 無意識の内に握り締めて皺だらけになった紙をしまい、駐屯所の敷地内へ足を踏み出す。元より向かおうとしていた場所と決まっていれば、更なる目的が増えた今のロットに躊躇う余地は残されていなかった。


 なまじ小さな村で過ごす時間が多かっただけに、勝手の分からない場所となるとどうしたって言動に不自然さが表れる。

 悪目立ちするのを良しとしないロットは努めて平常に振る舞っていたが、目が泳いでしまっている事に本人は気付かなった。

 ――それにしても……いや、案の定と言うべきか。人の姿が皆無だな。

 エントランスで受付係から案内された部屋へ向かう道すがら、静まり返った廊下に反響する自身の足音を耳にしながら、ロットは思う。外から見た際の印象を裏切らない程度にはひと気がなく、先ほどの男の姿を捜すために視線を巡らせる必要すらない。

 誰とも遭遇しないだろうという思い込みが、大きな隙を生じてしまう――そこに気付けなかったロットは、案内された部屋に入る直前で出くわした相手に対して過剰な反応を示してしまった。

 黒い薙刀を背負う男との再会――と呼ぶには、あまりにも期間が短すぎるが。

 声を上げはしなかったものの、大きく見開かれた口と赤い瞳はこれ以上ないくらいに驚きを体現してくれていた。

 尤も、ロットがどのような態度を取った所で、男の反応は先刻と相も変わらず。不機嫌そうな切れ長の目が、眼下の少年を睨む。

「……またお前か」

 抑揚を欠いた声音で一言だけ言い置き、男は傍らを通り過ぎていく。しばしその背中を眺めているだけだったが、自分の目的を思い出したロットは慌てて口を開いた。

「……あの、ちょっと待ってください」

 そう言った所で待ってはくれないと思って後を追おうとしたが、意に反して男はすぐに立ち止まってくれた。

「僕はロット・ラインと言います。人を捜しているんです。ランスロット・ラガーフェルド……この名前に、聞き覚えはありませんか」

 沈黙。

「あなたの黒い武器……それと類似したものを、僕は何度か見ています。ランスロットが提げていた黒い剣――その薙刀と、何も関係がないとは思えませんが」

 沈黙。

「捜しているんです。知っている事があれば、何でもいいです。教えてくれませんか」

 沈黙。

 問い掛けに対する反応は何もない。虚空に向かって言葉を投げ掛けているような、そんな感覚すら覚える。生じる焦りに、微かな怒りの感情が混じる。

 僕は質問しているというのに、どうしてだんまりを決め込むのか――口にするにのは憚れる感情を押し殺し、詰め寄る為への一歩を踏み出した。

「悪いが、お前の期待には応えられそうにない」

 望んでいなかった回答が、ロットに二歩目を踏み出させない。

「どうして――」

 どうして答えてくれないのか。

 限界を超えてしまった感情の切れ端が口から漏れ出た時に、青黒い髪が揺れる。肩越しに振り返る男の瞳に映ったロットの表情は、有無を言わさない威圧感に押し潰されて引き攣っていた。

「俺は忙しいんだ。関わってくれるな」

 靴底が床を打つと共に、男の後ろ姿が小さくなっていく。

 完全な拒絶だった。ロットの事情など微塵も介入する余地のない拒絶が、阻む物が存在しない両者の間に越えられない壁を生み出してくれる。ロットがこれ以上何を言った所で――例え男にしがみついたとしても、何も答えてはくれない、その現実が、少年をその場に留まらせる。

 本当に、それでいいのか?

 自問する。

 自分は何の為に故郷を発った。一族を裏切った双子の弟と、それを誑かした異邦人と決着を付けるためではないのか。そこに結びつくかもしれない唯一の手掛かりが目の前にあるというのに、みすみす見逃していいのか。

 考えるまでもなかった。

 ここで大人しく引く訳にはいかない。

「あなたは……もしかして、ガウェインさんでは」

 自分のものではない名前を呼ぶ男の声が、背後から聞こえた。

 今しがたの決意に則るのであれば、赤の他人の言葉に耳を貸す必要はない。この機を逃せば二度と会えなくなるかもしれない人を追わなければならないのだから。

 それでも背後を振り向いてしまったのは――声の主が赤の他人であったとしても、聞こえてきた名前は知っている人物のものであったからだ。

 眼鏡の奥に窺える小さめの目と、やや後退した生際が印象的な壮年の男は――ロットからしてみれば分かり切っている事ではあったが――相手が想定していない人物であった為に微かに表情を曇らせた。しかしそれも一瞬の事であり、男はすぐに照れ臭そうな笑みを浮かべながら頭を掻いた。

「ああ……すいません。どうやら人違いのようでした。君のような赤い髪を持つ人は、そうそう見掛けないものですから」

「ガウェインというのは……ガウェイン・ラインの事でしょうか?」

 ロットの返答は、全く予想だにしていなかったものであっただろう事は想像に難くない。瞬く間に大きくなった男の目は、分かりやすく驚きの感情を表していた。

「これは驚いた。もしかして君は、ガウェインさんのお知り合いか何かで?」

「知り合いというか……」

 知り合い以上の存在。

「ガウェイン・ラインは、僕の父です」


 最後に父の姿を見たのは、三年ほど前だったと記憶している。

 外界を知る、唯一のカムラ族の人間だった――乱心したアーサーが村を出、ロットが後を追うようになるまでは。

 常人であればとうてい太刀打ちできないであろう数々の凶猛な魔物を魔法の力を以ってして狩猟し、その報酬として得た高額の報酬を村へ持ち帰る。村に住まう者の生活の大部分を支えている彼が村にいる時間は短く、束の間の休息を経てから再び外界へと旅立っていく。

 次に帰ってくるのはいつなのか、それは誰にも――父親自身にも分からない事だった。一週間後か、一月後か、それとも一年後か、それ以上なのか。

 今も昔も、ロットは自分の父親がこの世で最も強い人間であると信じて疑わない。交わした言葉も、共に過ごした時間も多いとは言えなかったが、少年にとって父――ガウェイン・ラインは羨望の象徴だった。

 いつしか、自分も父親のようになりたい。

 世界を自分の目で見、肌で感じたい。魔法という力は忌避の対象ではなく、人々の役に立てるものだと証明し、やがてはカムラ族と世界中の人々を隔てる垣根を取り除きたい、と。

 出来るのだろうか。

 目的も知らぬアーサーが、ともすれば人類へ反旗を翻しかねない今。

 果たして、自分に。

「ロット君……だったかね」

「……はい」

 差し出されたコーヒーの淀んだ水面から視線を上げると、テーブルを挟んで向かいに座る男が不安げな表情を浮かべていた。

 ロットに対してモーセルと名乗った男は。

 立ち話も難であるという事で、客間らしき部屋に案内されてから今に至る。

「もしかして、コーヒーが口に合わなかったかな。すまないね、うちにはあまり余裕がないかから、いいものが中々入ってこなくて」

「そんな事はない……です、けど」

 味の良し悪しが分からないのは、自分がまだ子供である証拠なのだろうか。昔からコーヒーに関しては苦手で、何を口にしても苦い飲み物であるという以上の感想を抱けない。尤も、殆ど口を付けられなかったのは、不意に脳裏を掠めたアーサーに原因があるのだが。それをここで話しても詮無い事であろう。

「父さんは今どこにいるのかなと思いまして……。あの、どういう知り合いなんですか?」

 口から出たでまかせ、という訳でもない。自分の知らない父親の姿の話といえば、自分の師――ガラハドから聞いたものが大半を占めている。カムラ族の歴史を知らない赤の他人の目には、赤い髪と瞳の人間がどう映っているのか、それを知りたいという気持ちに嘘偽りはない。

「知り合い……と、言える程の間柄かどうかは分かりませんが、ガウェインさんは何度かこの本部に足を運んでいたんだ。君と同じ赤い髪と……赤い瞳だったからね、とても印象的だった」

 魔物の狩猟を生業とする父も、ここを訪れていた。

 奇しくも、父と同じ行動を取っていたという事であり、ロットにはそれが嬉しい事に思えた。

「印象的なだけではなく、実力も本物だったんだ。本物――と言っても、実際にあの人がどのような手段を用いて魔物に対抗しているのかは誰も知らなかったし、本人も曖昧にしたまま教えてはくれなかったが……とにかく、あの人に倒せない魔物は存在しなかったといっても過言ではないと思う」

「ええ。過言ではないと思います。父さんは、強い人だ」

 案の定、とでも言うべきか。魔法の存在については秘匿にされていた。それで何年、何十年もの長い歳月を外界で過ごしているのだから、色々と気苦労は絶えないだろう。

「それで父さんは……今はどこに?」

 何となしに口にした疑問の言葉は、モーセルの表情に微かな影を落とした。

「最後にお目に掛かったのは……確か、三年くらい前だったか。各地を巡っているそうだから、そうそうお会いする機会はない……と、分かってはいても、一年に一度くらいは顔を見せていた人だからな。消息が気にならないといえば嘘になってしまう」

 消息の途絶えていたガウェインだと思って声を掛けた相手が、その息子だった。

 ぬか喜びで終わらせてしまったのかもしれないと思うと、ロットは少々申し訳なくなってくる。

「ロット君は、もしかしてガウェインさんを捜してここへ?」

「あぁ……いえ、父さんが帰ってこないのは、心配していないと言えば嘘になりますが、きっと元気にしていると思います。その内に、笑いながら戻ってきてくれるんじゃないかって……」

 果たして、帰るべき場所に行き着いた自分の父は、変わり果てた故郷を目の当たりにしても笑顔を浮かべられるのか。

 村を焼き払ったのが自分の息子であるという真実を知った時、どのような表情を浮かべるのだろうか。

「……僕が捜しているのは父さんではなくて、蒸発した双子の弟なんです。それで手持ちが少なくなってきてしまったので、当面の資金を工面しようと思い、ここに立ち寄って……」

 黒い薙刀を背負った男と遭遇し。

「……ああっ!」

 不意に上がったロットの声は、モーセルの瞳を大きく開かせる。

「どうかしたのかい?」

「すいません……。弟の行方を知っているかもしれない人とここで会ったので、話を聞こうと思っていたんですけど。すっかり忘れてしまっていて」

 話を訊く事ができなかった。

 あれだけ固い意志を持っていたというのに、父の名前に気を取られたばかりに、みすみす逃がしてしまった先の自分を責め立ててやりたい。現状で唯一の手掛かりを失った後悔は大きく、否応なしに大きな溜め息が漏れ出てしまった。

「ここで会ったというのであれば……恐らくはここに務めている者か、魔物猟師のどちらかの可能性が高いかもしれないね。どんな人だったか、覚えているかい?」

「黒い薙刀を背負っている、長身の男でした」

 滅多に見掛ける事のない珍しい武器である。その情報だけで充分だろうというロットの考えに間違いはなかったようであり、モーセルは「もしかしたら」と、顎に手を当てて考えるような仕草を取った。

「ブルーノ君の事かもしれない……いや、黒い薙刀を所有している者といえば、それはブルーノ君に違いないだろう」

 ブルーノ。

 それが、あの人の名前。

 モーセルが口にしたその名を、ロットは心中で反芻する。

「その人がどこにいるのか、分かりますか? どうしても会わないといけないんです。何か知っている事があれば、なんでもいいので教えて頂きたいのですが……」

「そうだな……彼が向かった先は、大体察しが付く」

「本当ですか?」

 頷いて、モーセルは手元に置いてあった厚手の封筒から一枚の紙を取り出し、それをロットに見えるようにテーブルの上へ置いた。

 ターゲットは郊外の屋敷に巣食う正体不明の魔物。今までに見たことのない桁数の報酬額。そして、汚い字ではあるが、辛うじて読むことができる「ブルーノ・ブライトナー」という名前。

 文面の端々にざっと目を通しただけでも、差し出されたその書類が何なのかは大体の察しがつく。

「これは、先ほど彼がサインしていった依頼受注確認書……の、写しだ。駐屯地に寄せられるいくつかの依頼――まあ、大半が、魔物が居て困っているからどうにかしてほしいという内容だ。それらの中から、彼は報酬額が最も高い依頼を選んでいった。内容もろくに見ずに、ね。まあ、それだけ自分の腕に自信があるのだろうし、事実、彼が今までに失敗した依頼はひとつもない」

 ブルーノにここで出くわさなければ、ロットも同じように依頼を受けていただろう。

「郊外に巣食う魔物……ですか。それは一体?」

「我々にもその正体は分かりかねる……というのが正直な所でね。ムドニアの郊外には年期の入った屋敷があるのだが、そこはいつの間にか魔物の巣窟になってしまっていたそうで、その事に最初に気付いたのは、依頼主が諸事情で屋敷を取り壊す為に解体業者を呼んだ時らしい。

 その屋敷に入った者は二度と出てこない――恐らく中に魔物が住み着いてしまっているから……だろうと推測されている」

「推測、ですか」

「何せ、屋敷の調査に立ち入った者も帰ってこないからね。確かめようがないという訳さ」

 並大抵の者では太刀打ちできない凶悪な魔物が潜んでいるのか。屋敷を訪れる者を襲う何者かが住み着いているのか。

 法外な報酬の額が物語るのは犠牲の数か。それを承知の上で、ブルーノはこの依頼を引き受けたのか。

「……モーセルさん。この屋敷の、詳細な場所を教えて頂けませんか」

「しかし――」「分かってます」

 否定しようとするモーセルの言葉を、強く遮る。

「ともすれば命を落としかねないという危険な場所であるという事は、重々承知しています。だから、屋敷には立ち入りません。用があるのは、あくまでもブルーノという人ですから」

「……しかしだね。万が一にでも、君の身に何かあったらだ。私はガウェインさんに顔向けできない」

「このまま弟を野放しにしていたら、僕だって父さんに合わせる顔がないですよ……」

「え?」テーブルに向かって吐き出される消え入りそうな呟きに対してモーセルは眉根を寄せたが、ロットの口から紡がれる言葉はなかった。

 少年の沈黙は暫しの無言を双方にもたらし、室内は水を打ったような静けさに支配される。

 モーセルの溜め息が静寂を引き裂いたのは、それから数拍の間を要した。

「仕方がないね……分かったよ。君の言葉を信じよう」

 つと視線を上げたロットの目に、気乗りしていなさそうな渋い表情を浮かべているモーセルの顔が映り込む。

「ここで反対したとしても、君の事だ、他の誰かに同じような事を尋ねられるだろう。その屋敷が危険な場所であるという認識は、この辺りに住む者なら誰でも持っているから、遅かれ早かれ場所は特定されるだろう。だったら――君の事情は分からないが、一刻も早くブルーノ君に追い付きたいというのであれば、屋敷に立ち入られる前の方がいい」

 笑顔が浮かび掛けたロットが口を開くよりも早く、モーセルは「ただし」と付け加えた。

「屋敷には立ち入らない。これだけは約束してほしい」

「ご心配には及びませんよ。僕だって、そんな所で命を落としたくはありませんから」

 不安にさせてはいけない。

 そう思えば自ずと笑顔で応じたロットだが、モーセルの表情が晴れる事はなかった。


 自分の言葉に嘘はない。

 無駄に落としていい命ではないという自覚は十二分にあった。だからこそ、件の屋敷に到着する前にブルーノ・ブライトナーに追い付きたかった。

 万が一にでも屋敷に潜入しなければならなくなった際に、生きて帰れる自信がない訳ではない。自分の力に絶対の自信があるというのも、また揺るぎない事実としてロットの根底に根付いている。

 ただし、ブルーノはその限りではないかもしれない。

 屋敷へ向かったまま消息を絶つ――考えうる最悪のパターンだけは、何としてでも避けなければならないだろう。

 尤も、彼とてそうそう簡単に死ぬような者ではないのも確かだ。モーセルから聞いた話の端々でもそれは分かるが、何よりもロットはあの「黒い刀剣」を知っている。それを有する者たちが皆、魔物よりも魔物然としている事を知っている。

 しかし同時に、その「黒い刀剣」について知らなすぎるのだ。

 ブルーノはケイやランスロット――そして、ロットを襲った顔も名も知らない女とは違う。黒い刀剣という共通項はあれど、彼は魔物の狩猟を生業としている。それは結果的に人の為になる行為であって、平然と人を殺めるような他の者とは一線を画すと、ロットはそう思っている。

 話の通じない相手ではないのだ。味方になってくれとまでとは言わないが、せめて、情報だけでもと。

 アーサーとランスロットへ繋がる情報だけでもと、思っている。

「あんた、あれか。魔物専門の猟師ってやつか?」

 ゆっくりと流れる景色に視線を投じていたロットは、馬の足音と車輪が地を踏み鳴らす音に紛れて聞こえてきた声を受け、前方で手綱を取る男に目を向けた。

「……そうですね。まあ、そんな所です」

「そうか。やっぱりそうなんだろうなと思っていたんだよ。目つきからして、これからやる気満々って感じだからな」

 そう言っておいた方が楽だから、という理由で吐いた嘘は馬車の持ち主を得心させる。

 ――しかし、男が言う程に自分の目は殺気立っていたのだろうか。

 頬に手を触れてみても、真偽の程は分からない。

 郊外へ向かうとなれば足が必要になるという事で、モーセルの厚意により手配された馬車に揺られて小一時間が経過しようとしている。向かうついでに露店で購入した昼食も取り終えて、後は目的地へ到着するのを待つのみとなるが、睡魔が付け入る隙が微塵もないのは、緊張感によるものだろうか。

 本当であれば、自分の馬車代くらい自分で都合したいと思うロットだったが、財布の事情を鑑みれば意地を張る事は許されなかった。

 尤も、金欠という状況に陥り、旅費を稼ぐ目的でムドニア外郭機動部隊駐屯地に訪れていなければ、こうしてアーサーとランスロットへ繋がるかもしれない手掛かりに巡り合う事もなかっただろう。

「郊外の屋敷について、何か知っている事はありますか?」

 大した返答は期待していない。

 何となしに口にした質問にたいし、男は前を向いたまま首を傾げる。

「さあね……噂に聞いている程度の話しか知らないな。そういうのは寧ろ、あんたの方が詳しいんじゃないのか?」

「そうですね……そうかもしれません」

 期待していなかった返答は、あるいは期待通りの返答ともいえるべきか。

 皮肉が少年の顔を苦笑で歪ませる。

「なんだ。今になって怖気づいたのか?」

「いえ、そんな事はないですよ。ただ……いつ頃着くのかな、と」

「ああ、それならほら」言いながら、男は前方を指で指し示した。「もう目と鼻の先だ」

 田園風景に浮かぶ雑木林に目を凝らしたロットは、木々の間に白い建築物を確認する。

「あれが……」

 呟き、息を飲む。

 魔物の巣窟と呼ぶには余りにも相応しくない人工物の塊は、その全貌を覗かせる程に見る者の恐怖心を増幅してくれた。草木が生い茂る庭は酷く荒れ果て、水の枯れた噴水はその機能を失い、雨風に晒され続けた屋敷に、かつてあったであろう美しさは微塵も存在しない。

 たとえそこに魔物が住み着いていなかったとしても、万人に近寄り難いと思わせる屋敷の前に到着した馬車は、乗客を降ろして去っていった。

 念のために周囲を見回してみたが、ブルーノの姿は見当たらない。尤も、それで見つかるのであれば苦労はないというのものだ。あくまでも念のため――というよりは、言い訳に近しい。

 ここに立ち入らないための口実という、言い訳。

 外に居ないとなれば残る選択肢はひとつとなるが、しかし確証を得られるまでは迂闊に動けない。

 果たして、ブルーノ・ブライトナーはこの中にいるのか。

 ここまでの道程で会えなかったのだから、順当に考えれば既に屋敷の中に立ち入っているのだろう。

 ただし、それは「ロットと別れた後にすぐ向かった場合」という条件が必須となる。

 屋敷に向かう前に準備をしていたが為に、ロットよりも出発が遅れていたとしたら。そもそも、この屋敷へ向かうのが今日ではなかったとしたら。全てが水の泡に終わってしまう。辺鄙な所にひとり取り残されて、途方に暮れる画が安易に浮かんでくる。

 無論、そのような事態を全く想定していなかった訳ではない。考えうる最悪の事態を何度も何度も繰り返し想定はするが、結論は覆らなかった。

 ロットには情報と時間が圧倒的に足りない。

 だからこそ、少ない選択肢をひとつずつ潰していくようなやり方しかできない。

「だったら、ここで立ち往生している意味はないだろう」

 ――モーセルさんには申し訳がないが。

 自身を鼓舞する為の言葉を吐き出し、そしてモーセルに対する謝罪の言葉を心中で呟き、ロットは屋敷の内外を隔てる扉へ歩を進める。

  ブルーノが中に居るのであればそれでいい。どうしてこんな場所に居るのかと怒られるだろうが、それは些末な問題だ。まだ来ていないのであれば、屋敷に巣食う魔物を先に殲滅させる。そうすれば、恩を着せられるに違いない。情報を得るための貴重なカードになり得る。

 想定できる限りの事態を挙げていくロットの思考が鈍ったのは、屋敷の玄関に聳え立つ扉に手を伸ばそうとした時だった。

 見るからに重々しそうな黒い扉が僅かに開いている。

 錆びついた取っ手の部分に掛かる埃には払われた痕跡が残っており、それは、そう遠くない時間帯に何者かがここに出入りしようとした事を意味する。

 それがブルーノであれば良いのだが――淡い期待を胸に抱きながら開けた扉は、意に反して軽かった。

 後ろ手に扉を閉めると、水を打ったような静寂に身を包まれる。それは今日で二回目となる無音の空間だが、ムドニアに居た時とは空気の質がまるで異なるのを肌身をもって感じる。

 どこまでも淀んでおり、気味が悪い。

 そう思わせるのは、ここが薄暗い空間だからなのか。

 窓から差し込む僅かな明かりに照らされるエントランスは、人が住んでいた頃と然程景観が変わらないと想像できる程度には、綺麗に整っているように見受けられた。薄暗い為に埃や汚れが目に止まらないというだけというのもあるかもしれないが、少なくとも、荒らされたような痕跡は見当たらない。

 しかし、その光景は返ってロットの緊張感を高める。

 このような場所に、果たして魔物がいるのか――と。

 立ち入った途端に襲い掛かってきてくれたほうが、まだしも余裕を持てそうな気がしてならなかった。

 ――ブルーノが居るとしたら、屋敷の奥だろうか。

 声を張り上げる為に大きく吸い込んだ空気は、そのまま深い深呼吸へ変わる。そんな事をして、ブルーノと一緒に魔物を呼び出してしまったら、面倒は必須だろうと思い直した。

 入り口から見える範囲だけでも、行けそうな場所は多く存在する。

 せめて当たりだけでも付けたいと思って澄ませてみた耳に伝わってくる音は何もなく、深い溜め息がエントランスに響いて消えた。

 ――手掛かりがないとなれば、手掛かりを掴めるまで行動するしかあるまい。

 腰のホルスターに収めてある回転式拳銃を引き抜き、弾倉に装填されている弾薬が最大数の六個である事を確認してから、近場の扉に向かって歩を進める。

 総当たりは望むところではない。せいぜい徒労に終わってくれない事を祈りながら取っ手に手を掛け、一呼吸置いてから静かに扉を僅かに押す。固くないそれの感触を確かめたロットは両手に銃を構えてから扉を蹴ったが、果たして、続いた視界の中に銃口を向ける対象となるものは存在しなかった。

 それでもロットの緊張感を高め、眉間に皺を寄せさせたのは、それまで一切感じる事のなかった微かな異臭が、鼻腔を突いたからだった。

 淀んだ空気に混じるこの臭いは何か。何かが腐敗しているような、不快感を抱かずにはいられない異臭――それが教えてくれるのは、ここがただの無人の屋敷ではないという事だろう。

「魔物は換気を気にしてくれないだろうしな……」

 大して面白くもない冗談を口にして、更に深くなる闇の中を進む。

 ロットが歩く通路は、途中で進路が二手に――左へ曲がるか、直進するか――分岐しているように見受けられた。

 その情報に確信を持てないのは、偏に視界が悪いからである。この状況が続くようであれば、蝋燭を取り出した方がいいだろうか――考えあぐねながら慎重に直進するロットは、不意に何かが爪先を刺激して、びくりと肩を震わせた。

 立ち止まってから足元に目を凝らしてみると、何か黒っぽい塊に足が当たったらしい。

 見ようによっては、人の形を模しているように見えなくもない塊――。

 背筋に走る悪寒は、脳裏に嫌な予感をよぎらせてくれる。

 直面したくはない。それでもロットが背囊から燭台と蝋燭を取り出したのは、目の前にある現実を受け止めなければならなかったからだ。ここで何が起こったのかを確かめなければ、自分の身をみすみす危機に晒す事になりかねないからだ。

「何だよ……これは」

 理解できない――とでも言いたげに、表情を引き攣らせたロットは首を横に振る。

 果たして、それは「人」だったのか。

 蝋燭の灯りに照らされて浮かび上がるその姿は、人の服を身に纏った岩――そう表現するに相応しい外観だった。

 先刻のロットは、壁に凭れて座り込んでいる形をした「それ」の足の部分にあたる部分に当たったらしい。それは泥人形のように脆く、触れた部分はボロボロと崩れ掛けていた。

 そして、それが外観通りの岩ではないという事も、同時に察する。

 まず間違いなく、魔物の仕業とみて間違いないだろう。

 相手を石のような姿に変えてしまう――ロットが暮らしていた森に、そのような性質を持つ魔物は存在しなかった。それだけに、モーセルから話を聞いた時には不可解でならなかったが、こうして目の前の現実を直面すると合点がいく。

 恐らくは、同様に無残な姿と化した者たちが、この屋敷のどこかに多数存在しているのだろう。

 ひとつ息を吐きだしたロットは屋敷の奥を目指すべく面を上げたが、しかし先刻まで聞こえなかった音が身を強張らせる。

 自分以外の存在を意味する小さな足音。それが聞こえてくる前方を注視した末に捉えた二つの相貌は青い眼光を伴い、こちらに歩み寄ってくる。銃口を向けたまま身じろぎひとつしないロットは、正体の分からない相手に対して神経を集中させる。いつでも魔法を放てるように。

「鶏……?」

 間もなくしてその全容を現したその相手は、ロットの口から気の抜けた声を上げさせる。

 頭頂部の赤い鶏冠が特徴的な、白い体毛を有する鳥。体格は記憶しているものよりも一回りも二回りも大きく、尾は蛇のような姿形をしており――、

「そんな鶏が……いてたまるかよ!」

 悲鳴めいた怒号に触発された鶏――の様相を呈した魔物が、羽を大きく広げながら跳躍する。

 直後に魔物の首が飛んだのは、ロットが照準を定めてトリガーを引こうとした矢先だった。

 分断されて床に転がる残骸を見、ロットは目を瞬かせる。

 首が飛んだ。

 否――断ち切られた。

 刃の一閃。ともすれば、暗闇に呑みこまれて消え入りそうな黒に染まっている刀剣の姿形を、ロットはレンズ越しの赤い瞳に捉えた。

 それは錯覚でもなければ幻でもないという確信を抱いたのは、黒い刀剣の持ち主が通路の曲がり角から姿を現したからだった。

 ブルーノ・ブライトナー。

 魔物の死骸から視線を上げた長身の男は、両手に燭台と銃を持つロットの方を見、眉間に縦皺を刻んだ。

 三度の再開を果たす両者の間に、それを喜ぶような雰囲気など皆無である。

「……コッカトリスは、嘴と爪に強烈な毒を持っている。見た目はいかにも貧弱そうな鶏の化け物だが、その外見で油断した連中が、ここで何人もくたばったという訳だ」

 自分の背丈ほどのある大きな薙刀を片手で軽々と振るい、その切っ先をロットの傍ら――石の様に変貌してしまった死体へ向ける。

「そいつを見ただろう。毒を受けたが最後、負傷個所を中心に皮膚が石のように腐敗していき、やがては内臓や血液までもを硬化させる。あっという間に天然石像の出来上がりという訳だ。現存する治療法があるとすれば抗毒血清くらいだが、こんなへんぴな場所じゃあ、どんなに急いだ所で間に合いはしないし、そもそもコッカトリスは発見例の少ない魔物だ。運良く病院に行けたとしても、血清がないというのが大半だろう」

「随分と……詳しいんですね。それはやはり、魔物の狩猟を生業としているからですか」

「……俺の知識じゃない。知り合いに、詳しい奴が居ただけだ」

 そんな事はどうでもいい。と、ブルーノは薙刀の切っ先を床に突き立てる。

「どうしてお前がこんな所に居る。まさか、俺を追い掛けて来たなんて言うつもりじゃないだろうな」

 返答次第では許さないと言わんばかりの怒気を孕んだ言葉は、鋭い剣幕と共にロットを威圧してくれる。

 しかし、それは退く理由にはならない。ここに来るために固めた意思は絶対に強固なものであると――心中の想いを再確認してから、少年は息をひとつ飲んでから口を開く。

「僕は――」「後ろだ!」

 言葉を遮断したブルーノの大音声が、ロットの肩をびくりと震わせる。

 ロットが背後を振り向いたのは、彼に言われたからではない。頭が言葉の意味を理解するよりも早く、直感めいたものが――ここで振り向かなければ死ぬという危機感が、無意識にそうさせた。

 跳躍するコッカトリスが眼前に迫り来る光景を視認したロットが大きく目を見開いた瞬間、白い体毛に覆われる身体は爆発にも似た巨大な炎に包まれた。

 火だるまと化したコッカトリスは耳を劈かんばかりの喧しい断末魔を上げながら、床を転がり回る。そうした末にそれが動かなくなるまでに、大した時間は掛からなかった。

 肉が焼け焦げる臭いが充満する中、足元で煙を燻らせるコッカトリス『だったもの』を見下ろしていたロットは、自分の呼気が荒くなっている事に気付く。胸の中心で大きく鼓動し続ける心臓が、今の今まで危機に瀕していたという事実を再認識させてくれる。

 コッカトリスを焼き払ったのは、間違いなく魔法である。

 しかし、そこにロットの意思は介在していない。自分の身を守らなければという防衛本能が反射的に成した攻撃であり、それは精度を欠いた出鱈目な威力を以て解き放たれてしまった。

 本来、魔法という力を発現させるには、その威力、規模、距離を精密にイメージした上で、発現するという明確な意思を持つ必要がある。そうしなければ――ただ使えればいいという力任せの魔法は暴発にも等しく、相応の代償として体力と精神力を著しく摩耗してしまう。

 魔法を使用する上での最低限の制約。それは物心ついた頃より幾度も教え込まれた事だが、いざ窮地に陥ってみると本能が勝ってしまう。

 己の未熟さを悔いると共に、脳を突き抜けるような鈍痛に襲われたロットは、束の間表情を歪ませた。

「お前は、人間か?」

 銃を持つ手で頭を押さえながら背後を振り返ると、こちらを見るブルーノの目に明らかな怪訝の色が浮かんでいるのが分かった。

 それもそうだろう、何もない所から炎が出てくる光景を目の当たりにすれば、誰しもが疑問に思う。

 これがもしも街中での出来事で――第三者に目撃されていたとなれば焦っていただろう。しかしロットは、頭痛と荒い呼気の中で歪む表情に微かな苦笑を湛えた。

「見ての通り、僕は人間ですよ。そういう貴方はどうなんです。本当に、人間なんですか?」

 ブルーノ・ブライトナーが、ケイと同様の――魔物のような外観に変貌する能力を有しているという確証はどこにもない。彼と彼女に共通しているのは、不気味なまでに黒い刀剣を所有しているという点。ただそれだけだ。

 だが、モーセルから聞いた彼の話から鑑みるに、その実力の裏には何かが――ケイのような、化け物然とした何かしらの能力があるのではないか。

 それは、決して不自然な推測ではない筈である。

「……お前が何を言いたいのか知らないが、俺もお前と同じ。見ての通り人間だ」

 言い置いて、ブルーノはは屋敷の奥へ向かおうとするため、ロットは「ちょ……ちょっと待ってくださいよ」と、慌ててその背中を追い掛けた。

「ケイという女性が殺されました」

 その名前を出せば、何かしら反応を示してくれるかもしれない――という目論見は外れなかった。

 ブルーノはだんまりを決め込んでいるつもりだったのだろうが、薙刀を持っていないほうの手が微かに震えたのを、ロットは見逃さなかった。

 見逃さなかったが――前を行く彼の口から出てくる言葉は何もない。このまましらを切るつもりでいるというのであれば、ロットは言葉を紡ぐしかない。

「彼女は、リアという女の子を連れて帰ると言っていました。次に会った時には、見るに堪えない大怪我を負っていました。僕は介抱しようと努めたかったのですが……少し目を離した隙に、亡き者にされていたのです」

 その時に抱いた怒りの感情を思い起こす度に、ロットは深い後悔に苛まれる。

 自身への不甲斐なさと、正体の知らぬ殺人犯に対する怒りの火は、未だ少年の心の奥底で燻っている。

「どうして、彼女は殺されなければならなかったのですか? どうして、彼女はリアを連れて帰らなければならなかったのですか? そもそも、リアという女の子は何者なのですか? 二人の延長線上に、ランスロット・ラガーフェルドはいないのですか? 貴方は……貴方も」

「何も聞いていないのに、ひとりでよくべらべらと喋ってくれるな」

 その延長線上に、ブルーノは存在するのか。

 投げ掛けたかった質問は、彼の言葉に遮られる。

 その声音にはやや苛立ったような感情が見え隠れしていたが、余裕のないロットはそれに気づけない。

「……何も答えてくれないから、こうして話すしかないんじゃないですか」

 通路の突き当り、大きな扉の前で、ブルーノは歩みを止める。

 そのまま扉を開けるかと思ったが、予想に反して彼はロットの方を振り返った。

「お前、人を捜していると言ったな。目的は何だ? こんな所にまでついてくるだけの理由が、その尋ね人にはあるのか?」

「弟を……蒸発した双子の弟が、一緒にいる筈なんです。僕はどうしても、弟に会わないといけないから」

 くだらない、とでも言いたげな嘆息がブルーノの口から漏れ出た。

「連れ戻す為にか? だとしたらやめておけ。蒸発したというのなら、お前の弟にはそれ相応の事情があったんだろう。今更説得して帰るくらいなら、そもそもそんな事はしない筈だ」

「殺す為にです」

「…………」

 強い語気を孕む言葉がロットの口から吐き出されるが、ブルーノは眉根ひとつ動かさない。

「一族を裏切った者を生かしてはいけない。貴方も見ましたよね、先の僕がやってのけた魔法が――その存在そのものが、脅威になり得るからです。だから、手遅れになる前に、殺さなければならない。それができるのは、僕だけなんです」

 アーサーが戻ってきてくれるという願望など、最初から持ち合わせていない。

 村を焼く炎の中にそのような幻を見る程、ロットは現実から目を逸らしてはいない。

「……兄弟で殺し合いとは、随分なこった」

 くだらないとでも言いたげにかぶりを振り、ブルーノは扉に向き直る。

「しかし残念だったな。ランスロットとか言ったか……俺の得物に似たような物を持っているそうだが、生憎と俺は黒いカタナを持っているような奴を知らない。とんだ無駄足に終わったな」

「……なぜ、それがカタナだと知っているんですか?」

 扉を開けようとした手が止まる。

「なに……?」

 肩越しに振り返るブルーノの眼が、ロットを睨み付ける。

 負けじと睨み返す少年の瞳は、燭台の明かりを反射して赤い光を放った。

「僕は黒い剣とは言いました。ですが、それがカタナだとは言ってません。なぜ、それがカタナだと知っているんですか?」

 それは、ランスロットという人物を知っているからではないのか。

「…………」

 確信に満ちたロットの問いに対する答えがないまま、扉は押し開けられる。

 隙間から差し込む淡い光を受けてブルーノは目を細めるが、背後のロットは別の理由で眉を顰めた。

 無言を肯定と受け止めた所で話が進む訳ではない。本題はその先であり、待っていれば話してくれる相手でもなければ状況でもないのだ。そうなれば、ロットが苛立ちを覚えるのも無理はなかった。

「ブルーノさん……!」

 部屋へ足を踏み入れるブルーノの背中に向かって掛けられた言葉は、その歩みを停止させる。

 しかし立ち止まったのは声を掛けられたからではなく、室内の様子を窺うためだったからだと――周囲を見回す彼を見、悟らされる。

「……情報というのはな」何を言えばいいのか。ロットが考えあぐねているいる最中、ブルーノが不意に口を開く。「時に、どんな兵器よりも強大な武器に成り得る貴重なものだ。お前が欲しているのは、そういう物だという自覚はあるのか」

「ありますよ」「ないな」

 ロットが即答なら、対するブルーノも即答だった。

 何を言った所で、元より答えは決まっていた――それが背中越しの言葉であっても、強い意志が表れているようであり、ロットは束の間言葉を失った。

「お前は俺に情報を寄越せと執拗に要求する一方で、それに対する見返りを提示しようともしない。そんな奴に対して、そう易々と自分の知っている情報を教えると思っているのか? 身勝手にも程があるという自覚はないのか?」

「…………」

 自覚がなかった。

 薙刀の切っ先よりも鋭利な言葉は、ロットの心の蔵を容赦なく抉ってくれる。

 余裕がないから、というのは言い訳に過ぎないだろう。

「じゃあ……貴方は何を見返りとして、僕に何を求めるんですか」

 それを訊くべきではないと、訊いた所で大した返答が得られないと――分かっていたとしても、ロットにはそれしか言う事ができなかった。

 かぶりを振るその仕草が、言葉よりも先に望みを絶ってくれる。

「何も求めちゃいない。はっきり言ってやろうか、お前に交渉の余地はないという事だ」

 無茶苦茶だ――という呟きが、ロットの口から漏れ出る。

「無茶苦茶ですよ! 見返りを提示しろと言っておいて、交渉の余地がないなんて」

「俺はただ、交渉をする上での心構えを教えただけだ。せいぜい、次からは参考にするんだな」

「でも――」「少し黙ってろ」

 微かな怒気を孕んだ一声が、意地でも食い下がろうとするロットを押し黙らせる。

 歩を進めるブルーノの背中を追って部屋の中へ立ち入ったロットは、そこに点在する無数の光点に戦慄を覚えた。

 薄暗い空間の中で、獲物の姿を認めたコッカトリスが青い相貌に光を湛えている。その姿は十体か、それ以上か。ざっと見回しただけでも、相当数の魔物が点在しているのが分かった。

 石のような姿に成り果てて床に伏している、人間の姿も。

「まだこんなにいやがったとはな。あらかた片付けたつもりでいたが……全く、どんだけ飼えば気が済むんだろうな、この屋敷の主人はよ」

 この数を、ブルーノは一人で相手にするつもりなのだから、ロットには俄かに信じ難かった。

 いくら何でも無謀が過ぎるのではないか。

「……どういう腹積もりかは知らないが、俺の手助けをした所で見返りは何もないぞ」

 火を消した燭台を床に置くと、それに気が付いたブルーノがロットの方をちらと見遣った。

「見返りなんて……別に、そんな事は考えちゃいませんよ」

 ――ただ。

「ただ僕は、目の前で人に死なれるのが嫌なだけです」

「勝手にしろ」言い置いてから、ブルーノが部屋の中心へ進むべく一歩踏み出すと、正面のコッカトリスが鶏に似た喧しい鳴き声を上げながら白い羽をばたつかせる。それが合図となったか、周囲に蔓延る他のコッカトリスも一斉に鳴き声を上げながらロットとブルーノに迫ってきた。

 体躯は鶏よりも僅かに大きい程度であり、空を飛べる訳でもない。迫ってくるとはいえ大した早さではなく、逃げるのであれば、そう苦労はしない。

 唯一警戒すべきは、嘴と爪に含まれる毒だ。しかしそれも近づかれなければ良いだけの問題であり、幸いにもロットが所有する拳銃も、内に秘める魔法も、中距離以上での戦闘で本領を発揮する。

 正面はブルーノに任せれば良いだろう。寧ろ、下手に援護しようとすれば誤射しかねない。

 狙うべきは、左右から接近する敵――。

 最も距離が近い対象に対して銃口を向けたロットが狙いを定めるまでに要する時間はごく僅かであり、瞬時に絞られる引き金がハンマーを落とした。

 耳を劈かんばかりの炸裂音が、周囲の魔物を騒然とさせる。

 銃口から放たれた弾丸は、コッカトリスの身体に黒い穴を穿ち、白い羽をまき散らすそれは喧しい鳴き声を一層甲高くさせるが、しかし断末魔にはならなかった。

 一撃では殺すどころか、無力化すらできない――瞬時にそう判断したロットは再び引き金を絞る。屋敷を蹂躙する炸裂音は先と同様に周囲の魔物を騒がしくさせ、間髪入れずに放たれた三発目でも、それは例外ではなかった。

「弾がいくつあっても……!」

 三発の銃弾を受けてようやく倒れ伏したコッカトリスを見、ロットは食い縛った歯の隙間から苦鳴を漏らす。

 一体を無力化するのに必要な銃弾は約三発。

 ロットが所有する回転式拳銃の装弾数は六発であり、二体目を相手にすれば確実に弾は尽きる。魔物が少数ならいざ知らず、具体的な数も分からない現状では装填する暇など微塵も与えてくれない。

 ――銃は使わない方がいい。

 そう判断したロットは、別の対象に銃口を向ける――その動作の直後に、射線上のコッカトリスは炎に包まれた。

 使用を制限した銃は、魔法を使用する際に、照準を定める道具として利用する。 

 威力と規模、そして距離。これらの要素を精密にイメージした上で念じた時に、魔法という能力は漸く自在に操る事ができる。しかしそれを瞬時に行うのは至難の業であり、事を急いては先ほどのように暴走しかねない。

 そのリスクを回避するために、ロットは銃を所有している。

 銃を構える行為を取れば、無意識的に対象との距離を測ろうとする。予め要素をひとつ省く事によって、素早く魔法を使用できるようにする。加えて、常に銃を構えてさえいれば、何かしらの問題が生じて魔法が使えなくなった際の保険にもなる。

 ――尤も、それは机上の空論であり、滅多な事では魔法を使おうとしないロットが実戦で想定通りの動きを出来た試しはない。

 治まり掛けた頭痛の感覚がにわかに蘇ってくるのを感じながら、ロットは炎上するコッカトリスから別の魔物へ視線を移し――火を放つ。対象を無力化させられる威力と規模を把握できれば、能力を再使用するまでの間隔を大幅に短縮できる。

 無数の火の玉から放たれる断末魔と肉が焼き焦げる臭いが辺りを蹂躙するまでに要する時間はごく僅かであり、見える範囲のコッカトリスを殲滅し終えたロットは、別の方向から迫る魔物を迎撃すべく背後を振り返った。

 銃口を向けた先に立つブルーノの背を見――それから周囲で切り伏せられているコッカトリスの群れを見、ロットは驚愕に目を見開く。

 ロットが数体の相手をしている間に、この男は他のコッカトリスを全て殲滅していた。

 それを薙刀という得物ひとつで――あまつさえロットがほんの少し目を離した隙にやってのけるのだから、驚愕に値するというものだろう。

 ――いや、こんな所にひとりで乗り込んでくるのだから、これくらいの芸当は出来て当然なのだろうか。

「……そのまま俺の頭を撃ち抜けば、お前が高額の報酬を横取り出来るな」

「別に……そんなつもりは、ないですよ」

 銃を構えたまま啞然と立ち尽くしていたロットは、肩越しに振り向いたブルーノに言われて漸く銃口を下げる。

「まあ、しかしだ。これで分かっただろう。お前に手伝ってもらう必要はない。こんな所に乗り込んでくるだけの実力があるのは認めるが、俺ひとりで充分だ」

 コッカトリスの残骸を避けながら歩き出したブルーノは、部屋の奥に見える扉を目指す。

「それに……魔法といったか。どういう原理かは知らないが、それを使うのには相当な体力を消耗するんじゃないのか? よもや、銃を三発撃っただけで、そこまで息が切れる程に貧弱ではあるまい」

「…………」

 肩で呼吸をするロットは、何も応えずに後を追う。

 何も応えられなかったというべきか。先の弁明で精一杯で、思考を巡らせる余裕があまりないというのが正直な所である。

 ブルーノの推測は概ね正しい。

 代償もなしに使い続けられる程の便利なものではなく、使えば使う程――その感覚が短ければ短い程――威力が高ければ高い程に、消耗する体力も比例して大きくなる。ひとりで魔物を殲滅するくらいの意気込みではあったが、ブルーノがあらかた片付けていなければ動けなくなっていたかもしれない、というのが正直な所だった。

「……さっき、言ってましたよね。どれだけ飼えば気が済むのか……とか。一体、どういう意味なんですか?」

 今のコンディションで魔法の説明をするのは気が引けたので、ロットは意図的に話題を逸らした。尤も、ブルーノ本人はそこまで興味がなかったようであり、質問に対して薙刀の矛先を部屋の奥に向けた。

 示された先に存在していた仰々しい鉄の檻を見、ロットを眉間に縦皺を刻む。

 何故、このような屋敷にあんな物が。

「言葉の通りだ。この屋敷の主人は魔物を飼っていたらしいな。あれと同じような檻が、他の部屋にもいくつかあるのを見た。大方、檻からコッカトリスが脱走したのがきっかけとなって、今の状況に至ったんだろうよ」

「飼うって……どうして」

「知らないな。金持ちの考える事など、俺には分からん。まあしかし、お陰でこうして食い扶持を稼ぐ事ができるんだから、悪趣味も人の役に立つ時があるというものだ」

 ――その言葉は、ここで死んでいった人達に対する侮辱になり得ないだろうか。

 口にするべきか迷った疑問は、扉を開けた直後に振るわれた薙刀に断ち切られる。

 何事かと思ってぎょっと見開いた目に、ブルーノの足元で転がるコッカトリスの残骸が映る。扉を開けたすぐ先に居たそれに対して、彼は舌打ちをひとつ鳴らして先に進む。

「油断も隙もないな」

「一体、どれくらい居るんですか? コッカトリスは……」

 首と胴体が分断された魔物を跨ぎながら、ロットは問い掛ける。

「さあな。少なくとも、十や二十では済まない数のコッカトリスが潜伏しているのは確かだろう。いい加減に全滅してくれてほしいものだが……」

 言葉半ばにして、ブルーノは不意に立ち止まる。

 先程よりひと回りもふた回りも広い部屋の中でブルーノと肩を並べたロットは、視線の先に言葉を失う理由を認めた。

「……まあ、しかしだ。あれが親玉だとすれば、そろそろ終わりが見えてきたというものだ」

「そう……ですね」

 ブルーノが親玉と揶揄するそれは、部屋の奥で赤く鈍い光を双眸に湛えるのみであり、身体を丸めたままじっと動かない。

 それは余裕か。

 はたまた油断か。

 これまでに目にした個体よりも数倍の体躯を誇る巨体なコッカトリスを前にして、ロットは背筋に悪寒が走るような、気味の悪い感覚に見舞われる。

 こんな化物を、果たして相手にするつもりなのかと――見上げてみたブルーノの表情は相も変わらず、寧ろ嬉しそうにすら見えた。

「とはいえ、この数を相手にするのは流石に骨が折れそうだな」

 巨大なコッカトリスに目を奪われていたロットは、ブルーノの言葉を受けて周囲を見回し――そうしてから息をひとつ飲んだ。

 こちらを取り囲むようにして点在している魔物の数は、先の比ではない。今はまだ青い目を向けているだけの集団だが、それらが一斉に襲い掛かってでもきたら。流石のブルーノでも太刀打ちできないのではなかろうか。

 しかし、彼は言った――骨が折れそうだと。

 相手にするつもりらしい。

「お前は今度こそ下がっていろ。どうせろくに戦える状態じゃないろうし、そもそも俺ひとりで充分だ。これ以上、足を引っ張ってくれるなよ」

「どうするつもりなんですか」

 さあな、と他人事のような呟きを発してから、ブルーノは続ける。

「それはお前が気にする所じゃない。まあ、どうとでもなるだろう」

 気にする必要がないからと言われて、大人しく引き下がれる程にロットは冷静はない。

 その言葉が虚勢ではないのは、実力を以て示してくれている。しかし、相手はたったの一撃で死に至らしめる毒を有する魔物だ。万が一にでも負傷するような事態に陥ってしまえば、確実に手遅れとなる。

 そうすれば、ロットは間違いなく後悔するだろう。

「……分かりました。下がりましょう。ただし、ブルーノさん。貴方も一緒にです」

「は――?」お前は何を言っているんだと、そう言いたげたなブルーノの目がロットに向けられた瞬間、低い唸り声のようなものが部屋を蹂躙した。それが巨大コッカトリスから発せられた鳴き声であると二人が察したのと、周囲のコッカトリスが一斉に甲高い鳴き声を上げたタイミングは同じだった。

 それが攻撃を意味する号令である事に疑いはない。

「早く!」「おい、離せ……!」

 一刻も早くここから離れなければならない。

 そう判断してからのロットの行動は早く、ブルーノの手首を掴むや否や、入ってきた扉に向かって一目散に駆け出した。そうすればブルーノが抵抗するのは必然だったが、視界の隅に映るコッカトリスの群れがこちらに向かってきているとなれば、抗議の言葉にいちいち耳を傾けている余裕はない。

「何のつもりだ……!」

 死骸が散乱する前の部屋に戻ってきた所で、ブルーノは手を振りほどいた。その声には少なからず怒りの感情が孕まれていたが、ロットは正面――これから魔物の大群が押し寄せてくるであろう入口を見据えたままであり、意に介そうとしなかった。

「無駄にリスクを冒す必要なんてないんです。やるならもっと確実に……一撃で、僕なら出来る筈です」

「お前……」

 呟いたきり、ブルーノは何も言わなかった。その後に微かな嘆息が続いたような気がしたが、真偽の程はロットには分からない。

 出来るのか? という疑問が脳裏を掠める。

 かぶりをひとつ振って、両手に構える銃を正面に向けた。

 ブルーノの面前で息まいておいて、やはり出来ない等という醜態を晒せる訳がない。出来ると言った以上は、やるしかないのだ。その後の事は、出来た後に考えれば良いだけの事だ。

 二人を追ってきたコッカトリスが扉の陰から姿を現すと、それを皮切りに大群が次から次へと殺到してくる。喧しい喧騒に顔を顰めたのも束の間、脳内に描く炎のイメージを具現化させる為に息をひとつ吐き出したロットは、大きく目を見開いた。

 魔物の群れに向かって迸る炎の奔流が、銃口から放出される――網膜に焼き付かんばかりの眩い赤色に目を細めたブルーノにはそれが魔法による現象だと理解しているが、何も知らぬ者がこれを見れば、ロットが構える銃が未知の兵器なのかと錯覚するかもしれなかった。

 多対一の状況に於いて、ロットの魔法は有効打になり得ないという事実は先の戦いで実証されている。ならば、多数という状況を強制的に一にする――一か所に集めた上で、圧倒的な高火力で以って一蹴すればいい。

 その目論見が外れていなかったのは、目前に列を成す焼死体の山という結果が証明してくれている。

「ぐっ……う――」

 むせ返るような熱気と立ち込める異臭の中で、ロットは頭を貫かれたような激しい痛みに襲われて苦悶する。

 策が思い通りに成功した安堵感に浸る余裕も、まだ去らぬ危機に身構える余裕も与えられず、急速に覚束なくなる足では立てなくなったロットは、その場に両膝と両手を突く。

 血の気の引いた顔から溢れ出る汗は顎を伝って床にぽつぽつと落ちていき、乱れる呼気の中でその様子をただただ見ている事しか出来ない目は、暫し焦点が定まらずにいた。

 その後の事は、出来た後に考えれば良い――自身を鼓舞する為に言い聞かせた言葉ではあったが、今は現状についても、今後についても嗜好を巡らせる余裕など微塵もなかった。

 それでもロットがつと視線を上げたのは、聞こえなくなった筈のコッカトリスの鳴き声が聞こえてきたからであり――焼死体の山を乗り越えてくる仕留めそこなった新手の姿を認めた少年の表情が、驚愕に歪む。

 考えるよりも早く身体が動こうとするが、手足は震える一方で言う事を利いてくれない。そうこうしている間にロットの前に歩み出たブルーノが得物を振るい、服に付着した埃を払うような感覚でコッカトリスを斬り伏せてしまった。

「何がリスクを冒す必要はない、だ。お前の魔法以上にリスクの高いものがあるか?」

「…………」

 ロットを見下ろすブルーノは、明らさまに呆れ果てたような表情を浮かべていたが、それに対する応答として、辛うじて苦笑するので精一杯だった。

「しかし……これで残るはあの親玉だけという訳だ。あれこそ魔法で焼き払ってくれた方が楽なんだが――まあ、あんなやつを仕留めるくらい訳ないさ。お前はもうここで休んでいろ」

 残る親玉を仕留めるべく先の部屋に向かおうとして歩を進めようとしたブルーノは、足に何か引っ掛かりを感じて立ち止まる。

 俯いたままズボンの裾を掴んでくるロットの姿は、情けないという以上の感想を抱かせなかった。

「すいません……でも、一人にさせておくのは心配なんです。どうしても……」

 他人の事を言える状態ではないのは誰の目にも明白だが、果たしてロットにその自覚があるのかは定かではない。

 苛立ちと呆れがない交ぜになった感情は、ブルーノの頭を掻き毟らせる。そうしてから嘆息をひとつ漏らして、彼はロットに手を差し伸べた。

「……分かったよ。もう好きにしろ。お前のような馬鹿にいちいち付き合ってられん」

「ありがとう……ござい――」

 面を上げたロットは差し出された手を取ろうとして――しかし、伸ばした手は宙に浮いたままで言葉と共に止まる。

 何かが軋むような、無機物から発せられたような微かな音が、ロットにそうさせる。

 気のせいというのなら、それに越したことはない。疲弊しているという状態を踏まえれば、自分の錯覚、幻聴だったという可能性は大いにあり得る。

 ――そんな可能性は、気休めにすらならないと分かっていても。

 事実を確認するまでは、抱いていたい状況だった。

「――ッ!」

 頭上を見上げたロットは、微かに揺れるシャンデリアから飛び降りてくる小さな影を見、驚愕に目を見開かせた。

 いつから? いつの間に?

 言葉にならない叫びを上げるよりも早く異変を察したブルーノは、差し伸べていた手でロットを突き飛ばす。そうしてから上方に向かって振るわれた薙刀の一閃は、しかし精度を欠いていたために空を斬るだけに終わり、落下してくるコッカトリスの爪が咄嗟に身構えた左腕の上腕部に食い込んだ。

 舌打ちをひとつ鳴らしたブルーノそれを振り払い、宙で無防備となった魔物を薙刀の縦振りにより両断する。

 何事もなければ、危なかったで済んだ話である。

 だが、最も恐れていた事態に陥ってしまった。

 最も望んでいなかった結末を迎えてしまった。

「あ……あ……」

 ロットの口から漏れ出る言葉は、押し寄せてくる感情に揺さぶられて震えていた。

 ――僕のせいだ。

 ――僕が余計な事を言ったから。

 ――僕にかまけていたばかりに。

 コッカトリスの爪に仕込まれた毒を受けた傷口を中心に、皮膚が徐々に腐敗していく。それは先刻に見た死体と同じであり、ブルーノの末路を決定的なものにする。

 ブルーノの情報は正しかった。

 正しかったが、実際に目の当たりにしてまで確かめたいものではなかった。

「おい」

 成す術がないと嘆くロットに対して短く声を掛けるブルーノは、恐ろしいまでに平然としているのだから不思議でならなかった。

 毒を受けて死に至ろうとしている張本人だというのに、表情ひとつ変えないのは何故なのか。

「嘆いている暇があるのなら、俺の腕を斬り落とせ」

 言いながら、ブルーノは薙刀を差し出す。

 斬り落とせと言われて、はい分かりましたと応じて受け取れる訳もなく、ロットは空間を切り抜いたような黒いシルエットを凝視したまま身動きできなくなってしまった。

「でも……」

「他に方法がないんだから早くしろ。ひとりじゃあ如何せんやりづらいからな。人の腕を斬る事に抵抗があるというのなら、これはお前が果たすべき責任だ」

「僕の――」

 会話に割って入ってきた足音――人ならざる物が発した大きなそれを耳にし、ロットとブルーノは揃って音が聞こえてきた方に目を向けた。

 屍の山を踏み越えてくるコッカトリスの親玉は、間近で見れば更に大きく見える。薄闇の中で青く光る魔物の相貌に睨まれるロットは、乱れる呼気の中で息をのみ込んだ。

「……さっさとしろ。ここで二人とも死ぬか、俺の腕を斬り落とすか――ああ、お前だけ逃げるという選択肢もあるな。とにかく、何でもいいから決断しろ」

 自分にかまけていたが故に引き起こしてしまった惨状。

 この状況を打破する為には、ブルーノを救わなければならない。

 自分には、そうしなければならない責任がある。

 人の腕を斬り落とす事に抵抗がない訳がない。

 しかし、そうしなければならないというのであれば。

 下すべき決断はただひとつ。

「ロット・ライン!」

 ブルーノの口から初めて放たれた怒号はロットの肩を震わせ、表情から全ての躊躇いを払拭させる。

 立ち上がりながら受け取った薙刀の軽さに驚く余裕もなく、大きく息を吐いてからそれを振り上げた。

 ――僕の名前を、憶えてくれていたのか。

 等と、場違いな事を思った直後に振るわれた薙刀の一閃は、負傷した腕を肩の付近から斬り落とした。

 まるで手ごたえを感じさせなかった切れ味に驚く間もなく、ロットはブルーノに得物を手渡した――否、手渡したというよりは、奪われたといった方が適切かもしれない。コッカトリスはもうすぐそこまで迫ってきていたのだから。余裕がないのだ。

 それでも――腕を斬り落とされてもなお、ブルーノは魔物に向かって舌打ちするのみであり、表情ひとつ変えようとしなかった。

「……遅いんだよ、全く」

 瞬く間に絨毯を黒くしていく腕の出血を歯牙にも掛けず。ひとりごちたブルーノは、柄の尖端を床に叩きつけるようにして薙刀を立てた。

 そうした瞬間に薙刀から迸った稲光を、ロットはそう遠くない過去にも目にした事がある。

 白く変色していくブルーノの肌に亀裂のような模様が走り、それは体表を覆いつくす鱗に変質していく。

 こめかみに位置する部分から角のような物が突き出し、背中から姿を現す大きな翼がジャケットを捲り上げると、人と掛け離れた――そして、魔物からも掛け離れた化け物の姿が、驚愕に見開かれるロットの網膜に焼き付いた。

 白い竜――。

 そう形容するに相応しい姿へ変貌したブルーノは、ロットに切断された腕を前方へ突き出し――そうした直後に切断面から血に染まる骨が伸びていき、追従するようにして再生していく肉が、腕の形を形成していく。

 ――そういうことが出来るのなら、もっと早く言ってくれれば。あるいは、こんなに躊躇う事もなかったろうに。

 ロットがそんな事を思っている間に大きく跳躍したブルーノは中空で身を捩りながら一回転し、コッカトリス目掛けて急降下する。

 薙刀の一閃が頭部を斬り飛ばすまで、魔物に反撃の隙はついに与えられなかった。


 薄闇が支配する屋敷を後にするロットの目を、西日が容赦なく刺激してくれる。

 深いため息をひとつ吐き出し、暗がりに順応してしまった目がそれに慣れてくれるまで手庇を作ったロットは、自分に続いて屋敷から出てくるブルーノを迎えた。

 彼が手にしている麻袋の中に、斬り落としたコッカトリスの親玉の首が入っているのを、ロットは知っている。

 白日の下に姿を現す彼は未だ竜と人間が混ざったような化け物然とした姿となっており、持ち歩いている物の存在も相俟って気味が悪く思える。

 魔物の首を持ち歩く理由について、ロットは屋敷を出る前に尋ねた。そうする理由としては、魔物を討伐したという物的証拠を得る為と、仮に殲滅できていなかったとしても、魔物の正体さえ分かっていれば他の人間でも対策を打てるから――らしい。

「……その姿は、元に戻れないんですか?」

 まだ魔物が潜んでいる危険性のある屋敷内であればまだしも、外に出てまでその姿でいる必要はないのではなかろうか。寧ろ、外にいる分、無関係な者に目撃されるリスクが高まるのではないか。

 そう思って口にした疑問に対し、ブルーノはかぶりを振る。

「自分の意思で戻れるならそうしているんだがな。生憎と、一度こうなったら暫くは元に戻れん」

「ランスロットも、そうなんですか? 貴方やケイ・クラウンのように……化け物のような姿になれるのですか?」

 その場に留まるロットの傍らを通り過ぎようとして、ブルーノは足を止める。

「……ランスロットの正体について、俺は何も知らん。奴について俺が教えられる事は何もない――残念だが、これだけは事実だ」

「そう……ですか」

 情報を得られないというのは残念ではあったが、情報を得られないという事実を知れただけでも良かったとロットは思う。ここでブルーノに会えていなければ、いつまで経っても気掛かりになっていたであろうから。

「何も教えてくれそうになかったら、貴方の正体を吹聴して回ります――って、脅そうかと思っていました」

「そんな脅迫をされたら、俺はお前の魔法とやらについて同じ事をしてやろうと思っていたがな」

 互いに、それは冗談ではないが、黙秘しているのであればその限りではない――という共通認識を経て、目を合わせた二人は微かな笑みを浮かべる。

 交わした言葉も、共に過ごした時間も僅かなものだが、二人の間に通ずるものは確かに――それは限りなく不確かなものだが、存在した。

「最後に……ひとつだけ教えてやる」

 麻袋の口を縛る紐をズボンのベルトに結び付けながら、ブルーノは口を開く。

「お前が本当にランスロットを……一緒にいるという弟を捜しているというのなら、北を目指すといい。そこからどうすかは、自分の足と頭で考えろ。俺に言えるのは、これだけだ」

「……それを聞けただけでも、貴方に会えてよかったと思います」

 向けられる背中に対して、ロットは頭を下げる。

 進むべき方向さえ分かれば、迷わずに済むから。

「だが……お前は運が良かっただけだ」肩越しに振り返るブルーノの剣幕に、先に見せた笑みはない。「本気で『俺たち』の問題に首を突っ込む気なら、この先同じような事はないと思っておけ」

 ロットが何か答える前に、ブルーノは大きく翼を広げて空へ飛び立つ。

 あるいは、何も言わせない為に出発を急いたのか。

 いずれにせよ、ロットが思考を占める要素に、彼の発言が立ち入る隙はない。

「帰りは……まぁ、歩くしかないんだろうな……」

 ブルーノに掴まらせてもらえれば楽だろうという考えが思い浮かんだ所で、彼はもうここにはいないのだから意味がない。

 白竜が舞う空を見上げながら独りごち、少年は大きな溜め息を漏らした。

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