#01:少年は地獄を見た
喧嘩をした回数は数え切れない。
原因は諸種様々。自分の分のパンを食べただの、どっちが背が高いだの、トランプで負けただの、飼っていた鳥が死んだ責任はどちらにあるのかだの。
大半が些末でくだらない原因であり、それでも互いが「自分が正しい」と信じて疑わなかった二人の少年は、喧嘩をする度に取っ組み合いの騒ぎを起こした。
その後は少女が仲裁に入ろうとして、それで解決しなければ彼らの師による鉄拳制裁が加えられる。頭を抱えながら謝るが、それは師に対してであり、喧嘩の相手ではない。だから、反省が足りないと怒られて、二人揃ってしばらく家の外に立たされる。
こうなったのはお前のせいだと呟いて。
いいや、絶対に兄さんが悪いと言い返されて。
あとは同じ事の繰り返し。
それは、他愛のない日常。
そして、失われた日常。
【#01:少年は地獄を見た】
「いててて……」
目覚めと共に全身に走る痛みを知覚し、ロット・ラインは苦悶を漏らした。
双子の弟、アーサーと喧嘩をした時の記憶が脳裏をよぎる。取っ組み合いの喧嘩になった日の翌朝は身体のあちこちが痛くなっており、その度に、どうしてあんなくだらない事で争っていたのかという後悔の念に駆られる。
どうして。
些細な出来事の記憶は、別の記憶を線で結ぶ。痛みに歪む表情は力を失い、陰鬱な翳りに塗り潰される。
ため息をひとつ吐こうとして開かれたロットの口は、しかし眼前に現れた大型の犬によって驚きの声を上げさせられる羽目になる。
「ちょっ……やめろって。くすぐったいから! こらっ」
引き締まった筋肉と、茶黒の毛並みが特徴的な大型犬のボクサー。
積み上げられている木箱に背後と左右を塞がれてしまっていては、番犬と呼ぶに相応しい強面と肉体を有するその犬から逃れるのは困難を極め、容赦なく顔を舐めらるのを受け入れるしかなかった。
「ボウズ、目が覚めたか」
嗄れた声が背後の木箱越しに聞こえてくる。
どうにかこうにか犬を引き離して、ロットは膝立ちで背後を振り返る。積まれてある木箱から頭ひとつ出すと、ゆったりと歩を進める二頭の馬と、それを手繰る老人が前方に窺える。
「はい……なんだかすいません、お話している途中で寝てしまっていたみたいで――っとお!」
再び飛びかかってきたボクサーが、ロットを荷台に押し倒す。自身の視界から姿を消した赤髪の少年を見、老人は皺だらけの顔を更にしわくちゃにした。
「マックスがそんなに懐いているのは初めて見たぞ。わし以外の人間には指一本触れるどころか近寄る事すら許されんというのに」
「な、懐いているんですか? 本当に……!」
老人は笑い声をあげるが、顔を舐められているロットにとっては微塵も面白くない。
自分の村で猟犬を飼っていたという背景があるからだろうか。犬種こそ違うが、マックスという名の犬は初めて対面した今朝からこの調子だった。
農家を通り掛かった際に犬を見掛けたロットは、何となしに戯れようとして今と同じ様な状況に陥り、そうこうしている間に騒ぎを聞きつけた老人によって無事救出された。
聞けば、老人はここで育てている作物を隣の街へ売りに行く準備をしていたそうだ。その手伝いをする見返りとして、隣街までの道中を案内してほしいと頼み込んでから今に至る。
エシャロットやトウモロコシ、レタス等が詰められた木箱と共に荷馬車に揺られ。
居眠りをしている間に、あちこちをぶつけてしまったらしい。
「ところでお爺さん。隣の街に着くのはいつごろになるんですか」
「それなら、ほら。もう目と鼻の先だぞ」
マックスの猛攻を掻い潜り、荷馬車の進行方向――老人が指で指し示す先に目を凝らした。見渡す限りの田園風景の中に浮かび上がる街並みは、果たしてこの旅の終着点に成り得るのだろうか。
それを見据える少年の赤い瞳は暗い。
「ありがとうございました。すいません、通りすがりの子供が無理を言ってしまって」
「気にすることはねえよ。ワシこそ大して力添えできなかったんだ。あんたの弟だっけ、見付かるといいな」
街の入り口で、ロットは老人と別れを告げる。
犬というのは中々人の感情に敏感なもので、マックスはロットから離れてくれようとしなかった。最終的に老人が引き離してくれなければ、そのまま飼い犬になっていたかもしれない。今日はこの街で商売をするというのだから、縁があれば街中で再び会う事もあるだろう。
荷馬車が人通りの中へ消えていくのを見届けてから、ロットは嘆息をひとつ漏らす。
決して楽な旅路ではなく、頼りにできるには己のみであるというのは、村を出立する時から覚悟していた事ではある。だからこうして人と関わってしまうと、別れた後にどうしようもなく孤独感に苛まれる。
どうしたって、寂しくなる。
しかし、そんな問題は小事。時間が経過すれば解決する問題である――そう訴え掛けてくるのは、自身の腹で飼われている姿なき虫だった。一時の感情とは違い、空腹感は時間が経過すればする程に深刻な問題と化していく。
人探しも大切だが、まずは腹拵えをしなければ。
どこでもいいし、なんでもいい。とりあえず腹を満たせるものが欲しい。そう決断するよりも早く、彼の足はメーンストレートの方へ進む。
およそ人間のものとは思えない赤い髪と瞳の少年。
首から提げている大きめのゴーグル然り、水筒を括り付けてある背嚢然り、腰のホルスターに差さっている回転式拳銃然り、その風体はどう贔屓目に見ても地元の者には見えず、異邦の旅人であるという印象を見る者に与えてくれる。
それでも、決して少なくない通りを行くロットの姿に注目する人は殆どいない。ときたま好奇の目を向けてくる者はいるが、それ以上の騒ぎになった試しはない。
これまでにいくつかの街を訪れたロットだが、自分が全く知らない文化がどうでもよく思えてしまう程度には、その反応は驚きだった。
自分のような人間は、さして珍しくない――いくつかの街を訪れていく中で、反応がないという反応から彼が学んだ事である。自分と同じように放浪している者を見掛ける機会は多く、その者たちの大半は、やはり現地の人々とは髪や目、肌の色が異なった。様々な人種が行き交う人に集団という森の中に於いて、ロット・ラインという存在はただの一本の木に過ぎない。
最初こそ周囲の目を気にして警戒心を剥き出しにしていたロットだが――その警戒心を完全に払拭するまでには届かないものの、屋台で商売をしている店主に対して気さくに声を掛けられる程度の振る舞いはできるようになっていた。
「それ、何ですか?」
店主の前に置かれている大きな円形の鉄板上で熱されている棒状の塊を指差す。鼻孔を突いて空腹感を容赦なく煽ってくるのは肉の匂いだが、親指の倍以上の長さを誇るそれが何の料理なのか、ロットは全く知らない。
「おや、見掛けない顔だ、旅のモンかい? だったら話は早い。ウチのソーセージはここいらじゃ一番の味だよ。食っていけば一生の思い出、食っていかなかったら一生の後悔。だったらあんたはどうするべきか! 考えなくても分かるだろう?」
うまいこと乗せられている気がすると思いながらも、ソーセージという食べ物が放つ芳ばしい匂いによる誘惑には勝てず。ロットは一食分の硬貨を店主に手渡した。
「毎度あり! 景気よくかぶりついてみてくれよ」
焼き上げられたソーセージが切れ目の入れられたロールパンに挟まれる。そうしてから更に赤と黄色のソースが肉に掛けられると、外観の珍妙さが更に増してくれる。
店主に言われるまま頬張ってみたロットは無言で頷いた。なるほど、店主が大口を叩くだけの事はある。
ソーセージという名のこの肉、何か薄い皮のようなものに香辛料を練りこんだ挽肉を詰めて作っているのだろうと推測できるが。
「ちなみにこれって……何の肉なんですか」
興味本位で訪ねてみると、店主は不意に笑みを浮かべた。
「そいつは知らない方が幸せってもんだ」
そのような事を言われてしまうと何となく不安に思えてしまうのだが、知らない方が良いのなら、それ以上の詮索はやめた方がいいのだろう。
外の世界は未知に満ち溢れているが、好奇心に身を任せて暴走してはいけない。
「そうだ……ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」
言いながら、ロットは上着の胸ポケットから一枚の紙片を取り出す。
それを差し出された店主が微かに怪訝そうな表情を浮かべるのも無理はなかった。少年が持っている紙片は火に炙られたのか、端々が黒く焼け焦げており、元は四角かったであろう原型をまるで留めていない。
「この二人を捜しているんです。最近、この街で見掛けたという話を聞いて来たんですけど。何か知りませんか?」
この二人。
歪な紙片には、二人の人物が映し出されている。何かの記念に撮影したものなのか、他にも数人の人物が写っているようにも見受けられるが、その真相は火に飲まれて消えてしまっている。
カメラに微笑みかける、インバネスを羽織った者と。
カメラを仇のように睨んでいる少年。
全く以って対象的な二人を映す白黒の写真を見、店主は腕を組みながら暫し難しい顔をしていたが、やがて首を横に振った。
「……いや。悪いけど、知らないな。というか、こっちの小さいのはお前さんじゃないのかい?」
不機嫌そうな少年を指差し、それから店主はロットの顔を見遣る。髪型や見に着けている物といった細部を除けば、言葉の通り瓜二つだった。
「よく言われます。双子の弟なんですけどね。こうも毎回訊かれてしまうと、やはり尋ねる意味はなさそうだ」
「なんだ、家出でもしちまったのかい」
原型を留めていない写真を元の胸ポケットに収めながら、少年は首肯した。
「……まあ、そんな所です。全く、人騒がせな弟でしてね。こうして僕が捜さないといけなくなってしまったんですから。困ったものですよ」
店主に礼を告げてから、屋台を後にする。
どこへ消えたのかも分からない尋ね人。
今日はこれをあと何回繰り返せばいいのか――そう思うだけで気が滅入ってきそうになるが、それは何もしない理由にはならない。行き交う人々の中を伏し目がちに行くロットは嘆息をひとつ吐き出してから面を上げ、背嚢を背負い直した。
「とりあえずは、今日の宿を探さない事には――」
「だっ……誰か!」
悲鳴にも近しい男の音声がロットの独り言ちを掻き消す。
何事かと思って声が聞こえてきた後方を振り返ろうとして、傍を駆け抜けていく人影の肩が鼻先を掠めた。
あと一歩間違えれば事故になっていたというのに。自分の存在をまるで意に介さなかった相手に対して憤りを覚えたロットだが、
「誰か、あいつを捕まえておくれ! 鞄……金を盗られた……!」
瞬く間に距離が離れていく人物を指差すのは、先刻も声を上げた初老の男。その表情は見るからに青ざめており、自身では対処できないと言外に訴え掛けてくれる。
この世の終わりとでも言わんばかりの悲痛に満ちた視線を受けて、一瞬の逡巡の後にロットは盗人の後を追うべくして地を蹴った。自分には関係のない事であると――割り切ってしまえればいいものの、先生の教えがそれを許しれくれなかった。
しかし、どうすればいい。
帽子を目深に被る盗人がちらとこちらを見遣り、追ってくるロットに気が付いて逃げ足を速くする。荷物らしい荷物といえば初老の男から強奪したと思われる鞄くらいの盗人に対し、ロットは紐で括り付けた水筒を提げた背嚢を背負っている。およそ走るのに適した格好ではなく、このままでは見失うのが関の山だ。
腰のホルスター――そこに納まっている回転式拳銃に伸ばし掛けた手を引っ込める。
銃の腕には自信がある。それを使いさえすれば盗人の足を止める事くらい造作もない。しかし、ここが人通りの多い市街地である以上、無闇に火器を使用するのはどうしたって憚られる。
こういう時に限って、頼みの綱である警察の姿はどこにも見当たらないのだから、ロットは堪らず舌打ちする。通行人は決して少なくないというのに、追跡劇を傍観しているだけで誰も協力しようとしてくれないとなれば、表情は険しくなる一方だった。
――こんな局面で魔法を使いたくはなかったのだが。
背に腹は変えられまい。
駆けながら背嚢のベルトを片方の肩だけ外し、片腕で担ぎ直すようにする。盗人が何かの拍子に転倒でもしてくれない限り追い付ける見込みは皆無であり、ならば自分で足止めする他にない。
相手との距離は約65フィート。
掲げている背嚢を前方へ投げようとしているロットの姿は、側から見ればやけを起こしたようにしか見受けられなかった。どんな怪力の持ち主だったとして、走りながらその距離を埋めるのは困難を極める。
渾身の力を込め用として歪む表情に、躊躇いが入り込む余地はない。
手元から離れた背嚢が、すぐさま落下の軌道を描こうとする。直後、不自然な加速度を得たそれは僅かに軌道を変え、銃身から放たれた弾丸さながら中空に線を引いた。
自身の勝利を信じて疑わなかった盗人にとって、後頭部に直撃を受けた荷物は青天の霹靂である。微かな呻き声を上げると足取りが急激に覚束なくなり、ついには転倒した。しかし、相手もここで捕まる訳にはいかないと思っているのだろう、意地でも置き上がろうとすべく両の手を地に着けたが、
「動くな……大人しくしなければ、動きたくても動けなくなるぞ」
追い付いたロットに突き付けられた銃口を見、帽子の下から僅かに覗く相貌を険しくした。
嘆息をひとつ漏らし、ロットは周囲を見回す。
捕まえたはいいが、このまま銃を向け続けている訳にもいかない。然るべき機関に引き渡したいのだが、誰か通報してはくれないものか――そのような思考を巡らせていた際、モスグリーンの制服を身に纏う二人組の姿を視界の隅に捉える。こちらに駆け寄ってくる彼らは警察と見て間違いなく、手間が省けたと思う反面、もっと早く来てほしかったものだと不満を抱いた。
なんにせよ、後は警察がどうにかしてくれるだろう。
「そこのお前、銃を地面に置け」
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れ出る。安堵感が心を占めていた所に掛けられた警察の声が、自身に向けられているものだと気付くまでに一拍の間を要した。
倒れている者は丸腰であり、そのような相手に対して銃口を向けているこの状況。引鉄を引くつもりは毛頭ないとはいえ、事情を把握していない第三者が見れば、ロットに疑いの目が向けられるのも無理はない、という事か。
「……すいませんが、ちょっと勘違いをしているようです。僕は」
「口答えを許した覚えはない。さっさと銃を下ろすがよい」
まるで聞く耳を持とうとしない。
これを好機と見た盗人は、飛び起きるようにして立ち上がると一目散に逃げていってしまった。
理不尽にも命の危機に立たされた善良な市民であると、信じて疑わない警察が追おうとする訳もなく。
声を上げたい衝動に駆られたが、足元にはロットが放り投げた荷物と並んで、初老の男が奪われた鞄が転がっていた。逃げ出す機会を得たというのに成果物を忘れていくとは何とも詰めが甘い輩だが、そのお陰で目的の半分は達成できた。
後は、誰かが弁明してくれればいいのだが。
「警察の方、ちょっとお待ち頂きたい……!」
悲痛にも似た声が発せられた方を振り向いてみると、先の悪漢に鞄を奪われた初老が息急き切って駆けつけてくる姿が目に飛び込んできた。その者にとって、ここまでの距離を走るのは相当に負担が大きかったらしい、警察の「なんですか貴方は」という問い掛けに対して、しばし荒い呼気を返すのみだった。
「この少年は、私の鞄を奪った輩を捕まえようとしてくれていただけなのですよ」
言いながら、初老の男は地面に転がっている自分の鞄を拾い上げる。
「奴め、私が毎週この時間に金を引き出すのを知っていたんでしょう。銀行から出てきた瞬間に狙われてしまいましてね……この少年がいなければ、今頃私は途方に暮れていたに違いない」
「という事は、さっき走っていった男が」
ロットは頷いて、銃を腰のホルスターに収める。ここまで話して誤解が解けないようであれば、後はとことん付き合ってやるしかない。
「あなた方が捕まえてくれればよかったのですが。消息が掴めなくなる前に、追い掛けた方がいいと思います。乗り掛かった船ですし、僕も協力しましょう」
その申し出は、警察にとっては想定外である――面食らったような表情がそれを裏付けている。銃口を下ろした二人は暫し耳打ちすると、何かを同意したように頷いてからロットに向き直った。
「先の無礼については許していただきたい。後は我々に任せるように。ただし、誤解を招く用は行動は今後気を付けたまえ」
「……気を付けましょう 」
ロットが言い終わるよりも早く、警察は悪漢が逃走していった方へ向かっていく。協力の申し出を受け入れるのは、彼らのプライドが許さなかったらしい。
この街を訪れて早々、面倒な事に巻き込まれたものだ。
「これは、君の荷物だね」
嘆息をひとつ吐いた所に、初老の男から背嚢を差し出される。
「ああ、すいません。ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらの方だよ。本当に、ありがとう」
初老の男が頭を下げると、否応にも周囲の視線が集中する。何か悪い事をした訳でもない――寧ろ善行であるが、注目されたくて行動を起こしたつもりはない。ふつふつと湧いてくる羞恥心が、急激な運動を経て落ち着いてきたロットの身体を再び沸騰させる。
「いえいえ……僕はただ、あの時ああするしかなかっただけの事なので。礼には及びませんから、気にしないでください」
頭を上げた初老の男は、ロットが抱えている背嚢に視線を移す。それはどこにでもあえうような普通の荷物入れだが、まるで奇怪な物でも見るかのような目だった。
「しかし、先の盗人を倒した時はすごかった。君が投げたそれ、とんでもなく長い距離を飛んだように見えたのだが……今しがた持ち上げてみた時も、特段軽いという訳でもなかった」
「ああ……いえ、偶然でしょう。火事馬力というやつですよ。実際、僕も驚いたものです。よもや当たるとは」
ロットが浮かべる笑みに多少のぎこちなさが含まれている事に、男は気付かない。
無闇やたらに魔法の存在を吹聴してはならない。村を立つ前に先生と交わした約束は――約束だから守っているだけではない。自分がその身に有しているのは、周囲が誰一人として有していない未知の現象なのだ。
最悪の場合、何の関係もない市民を混乱に陥れるだけではなく、自身の身を危険に晒しかねない。
しかし、流石に全く勘付かれずに事を済ませるには少々の無理があったようだ。だからロットはもっともらしい嘘を並べる他にない。
「ふむ……まあ、そういう事もあるのだろう」
疑問を完全に払拭できたとは言い難いが、背嚢に仕込みがない以上、男は納得せざるを得なかった。
「ところで君、そのような成りをしているのだから、この街の者ではないのだろう。大方、旅をしているといった所か」
「ええ、まあ」
「良かったら、私の店に寄っていかないか。どこにでもある平々凡々な飯屋だが、出来うる限りのお礼をさせてほしいのだ」
「……わかりました。そこまで仰るのであれば、お言葉に甘えさせていただきます」
正直な所を言えば、ホットドッグを食べたばかりなので腹は空いていなかった。
それでも、他人の厚意は無下にするものではないだろう。どの道、双子の弟を探す為の情報収集をしなければならないのだから、話を聞きやすい環境に招いてくれるのであれば苦労はない。
「それで……おじさんのお店というのは、どこに」
「ここだよ」
初老の男が指を差したのは、二人の目の前にある小さな店だった。「陽気なうさぎ」という店名が刻まれている木彫りの看板は雨風に晒され続けてくたびれており、歴史の長さを物語っている。
何とも都合の良い展開ではないか。口の端に浮かびそうになった笑みを消し、ロットは初老の男に先導されて、準備中の札がぶら下がっている門を潜る。薄暗いためか、少し肌寒いくらいの店内は外界の喧騒から遮断され、奥の厨房で下ごしらえをしている料理人の作業音がよく聞き取れた。
十人も入れば満員を迎えてしまう小さな店で働いている者は少ない。料理人ともうひとり――白いエプロンが目を引く給仕の少女が、こちらに気付いてテーブルの拭き掃除の手を止めた。
「おかえりなさいませ。あの、外が少し騒がしかったみたいですが?」
ブロンドの髪の少女は、ロットとそう歳が変わらないように見受けられる。営業時間外に店内を訪れた赤髪の少年の事を不審に思いつつも、それに対して言及はしてこなかった。
「いやあ、ついさっき私の鞄が強奪されてしまってね」
「それは大事じゃあないですか。すぐに警察へ通報しないと、笑っている場合じゃないですよ旦那!」
笑い話でもするかのように笑みを浮かべる初老の男に対して、厨房の料理人は作業そっちのけで声を荒げた。
「まあ落ち着いてくれ。奪われたしたけどね、すぐ取り返しれたんだ。それが彼……そう言えば、君の名前をまだ聞いていなかった」
「ロット・ラインです。よろしくお願いします」
こんな少年が?
言葉にこそ出さなかったが、料理人と給仕の表情にはそのような疑問の色が浮かんでいた。
そう思われても仕方がないだろうという自覚はある。銃の使用が許されなかった以上、魔法という特殊な力を用いなければ逃げられていたに違いないのだから。
「せめてものお礼という事で、うちの料理を振舞って差し上げようと思ってね。そういう訳だから、カルロス君。ここはひとつ、腕を振るってもらえるかな」
疑問を抱いたとして、現場を見ていない二人に真偽の程は分からない。男の鞄が無事に戻ってきているのであれば何も問題はなく、カルロスという名の料理人はその頼みを快諾した。
「お安い御用ですよ。して、少年……ロット君は、何か食べたいものがあるかな」
「僕としては何でも……強いて言わせてもらえば、このお店で一番人気があるものを」
任せときな――威勢のいいカルロスの応答が店内に響き渡る。
適当に掛けてくれたまえと男に促されるままに手近な椅子に腰を下ろしたロットだが、他に誰も客がいない店内である。いかんせん居住まいの悪さを感じてしまい、落ち着かない。男が店の奥に引っ込んでしまったとなると、尚更だった。
「どうぞ……お水です」
しばらく遠目に厨房を眺めていると、給仕がトレーに乗せたグラスを差し出してきた。
「ああ、ありがとう――」
受け取ろうとして差し伸べた手は、グラスを掴まずに中空で止まる。
先程は気付かなかったが、この給仕……。
両の手に白いグローブを装着している。これまでの旅路で料理店へ足を運ぶ事は少なくなかったが、グローブを装着している給仕は初めて見る光景だった。
それだけに留まらず。彼女の左腕、グローブの先から伸びる腕には、白い包帯が巻かれている。何か大きな傷跡でも残っているのだろうか、それは完全に腕を隠してしまっており、素肌を窺い知る事はできない。
「……あの、何か」
怪訝そうに首を傾げる給仕に対し、ロットは腕から目を逸らしてグラスを受け取る。
「いや……何でもない。失礼した」
このような時に、ロットは自分が如何に世間知らずであるかを思い知らされる。
特に女性関係に関しては、扱いに困る事が多々あった。村で暮らしていた頃に接していた女性といえばヴィヴィアンくらいであり、その上ロットよりも格段に幼いのだから大して参考にならない。
しかし、やはり彼女のあれは否応なしに気になってしまうだろう。
「やあロット君、長らく一人にしてしまってすまない」給仕がロットの席から離れるのと入れ替わるようにして、引っ込んでいた初老の男が姿を現わす。「前、よろしいかね」との問いに対する返答を待たずして、彼は丸テーブルを挟んでロットの向かいに腰を下ろした。
「おじさんは、このお店のオーナー……で、いいんですよね」
「その通り、元は父が始めた店でね。足腰が弱って仕事ができなくなってからは、私が後を継いでいるのだよ」
給仕から受け取ったグラスの水をひと口含む。体力と魔力を消費した身体に、冷えた水が心地よい。
「あなた方三人で、お店を?」
「何せ、この通り、小さな店だからね。ただ、リアちゃんは特別さ……さっきの、給仕の娘ね」
リア。どうやら、それが彼女の名らしい。
「実は、あの娘も君と同じで旅をしているそうでね。なんでも、生き別れの母親を捜しているというのだから、泣けるだろう? 当面の旅費を稼ぐ為に働かせてほしいと頼まれて、数日の間だけここで手伝いをお願いしているのだよ」
事情はさておき、会いたいが為に人を捜している彼女は、ロットとはまるで正反対だろう。もう二度と顔を合わせたくもない弟を捜し出さなければならない――同じ孤独な旅であっても、終着点へ向ける感情のベクトルは全く異なる。
「だからね、ロット君とこうして知り合えたのは、何かの縁他ならないと思っているのだよ。若い旅人との縁だ」
「そう……かもしれませんね」
縁だと言われても反応に困る。
返事の歯切れが悪くなるのも致し方ない。
「して、君はどのような目的があって、この街を訪れたのかな。差し支えなければ、是非とも伺いたいものだが……」
それはロットとしても望む所であるから、首肯するまでに要した時間は皆無だった。
「僕は……僕も、家族を捜しているんです。尤も、生き別れたなんてものではなくて、他人に唆されて家出した弟なんですけどね。その愚かな弟がこの街がある方面へ向かったという情報を数日前に手て、こうしてここまで来たのですが……」
胸ポケットから取り出した歪な紙片を見、主人は微かに訝しげな表情を浮かべる。それが焼けた写真であると理解できなければ、大抵の場合はその様な反応になってしまうだろう。
「旅人とご縁があるというおじさんなら、もしかしたら見掛けているのではないのでしょうか」主人の前に写真を差し出す。「僕の双子の弟――アーサー・ラインと、共に行動している筈の、ランスロット・ラガーフェルド……」
陶器が砕けたような甲高い音が店内を蹂躙する。
二人の名を口にした言葉の先を遮られたロットがぎょっとして厨房の方を見遣ると、呆然と立ち尽くしているリアの姿がそこにあった。その足元には割れた皿の破片が散乱しているが、彼女がそれを気に留める様子は微塵も見受けられず、見開かれた碧い瞳はテーブルの上に置かれてある焼けた写真を一点に見据えたまま離さない。
果たして、それは何も知らない者が取る行動なのか。
「おい、大丈夫か? リア」
背後からカルロスに声を掛けられて、リアは肩を震わせる。そうするまで自分がやった事に気付かなかったらしい、足元の惨状を目の当たりにして、慌てた様子で後ずさった。
「ご、ごめんさない。ごめんなさい……手を滑らせてしまって……ごめんなさい。すぐに片付けますので……!」
謝罪の言葉を反芻しながら、床に散らばる陶器の破片を拾い集めていく。動揺しているのは明らかであり、グローブを装着しているとはいえ手付きはかなり危うい。
不安を募らせた主人が「私も手伝うよ」と立ち上がろうとしたが、彼女は「大丈夫です。私が片付けます」の一点張りで、助力を受け入れようとしなかった。
「ふむ……リアちゃんがあんなミスをするとは、珍しいこともあるものだね」
掻き集めた陶器の破片を捨てに厨房の奥へ向かっていったリアの背を見送りながら、主人は眉根を寄せる。
手を滑らせた。
その言葉を鵜呑みにする程、ロットは純粋な人間ではない。先の不可解な反応がある以上、彼女は何かを知っている――そして、悟られまいとしている。
それは、見掛けた事があるという程度では済まされない情報かもしれない。何かしらの形で関わり合いがあるとすれば、アーサーとランスロットへ繋がる足掛かりになる可能性は充分に有り得る。
「ううむ……申し訳ないけれど、ロット君の力にはなれないようだ」
早々にリアから興味を失ったらしい主人は暫し写真を眺めていたが、やがて首を横に振った。
「そうですか……ありがとうございました」
端から期待などしていなかったロットの思考は既に次の段階へ移行しており、感謝に言葉ももそこそこに、差し戻された写真を元の胸ポケットに納める。
もう一度、この店を訪れる必要があるようだ。
闇を濁す微かな霧は夜の街並みに静寂をもたらし、見る者に太陽の日差しを恋しくさせる。
口から漏れ出る白い呼気を見つめながら、ロットは両腕で自身の身を抱き締めるようにした。
顔を上げた先にあるのは、昼間に訪れた店。
窓から漏れ出る明かりが消えるまでに、そう時間は要さない筈だと、ロットは目を細めながら考える。それまではこの肌寒さを堪え、路地から店の様子を窺い続けなければならない。
側から見れば充分に不審者である。警察の目に止まれば厄介ごとは避けられず、寒気も相俟って刻一刻と焦燥感が募っていく。
そこまでのリスクを負ってでも、リアという少女から情報を聞き出さなければならない。
食事の席で彼女に問い詰めるべきかとも逡巡したが、結局は何もできなかった。店の主人がロットとの会話を求めていたというのもあったが、何よりもリアが接触を避けようとしていた。
アーサーとランスロットの名を口にしてから。
ロットとリアの間に隔たりが生じた。
なんとしてでも話を訊き出したいが、無闇に事を荒げようものなら、その先には恐らく望まない展開が待ち構えている。カムラ族の汚点にならない為にも、少年は自制を強いられる。
店主から伺った閉店時間から間もなくて、店の灯りが消えるのを確認した。暫し昼間のリアの反応を思い返していたロットは、間もなくして店から姿を現した三人を見、身を潜めながら息を飲む。
手筈は脳内で何度も思い描いている。気付かれないように彼らを尾行し、リアが一人になった所で声を掛ける。彼女は恐らく驚くだろうが、説得すれば理解を示してくれる筈である。
いや、理解させなければならない――。
「あの店に何か用かな?」
背後から不意に聞こえてきたのは、女性の声。
こちらへ向かってくる一向をやり過ごす為に、身を隠そうとした瞬間に飛んできたそれに対し、ロットは身を動かす事が出来なかった。
自身の首に伝わる冷たい感触が、刃物であると実感させられる。それがどのような形状をしているのか――視線を下に下げてみるも、そこにあるのは闇よりも深い黒のみであり、まるで正体が分からない。
「それとも、あの子に何か用が……あるのかな?」
神経を張り詰めていた筈だというのに、全く気配を感じ取れなかった。
全く予期していなかった場所から迫られた「死」という危機に直面し、寒気の中で背中に汗が浮かぶ感覚を実感する。相手は何物なのか、その正体を確かめたいと思うものの、少しでも妙な動きをすれば瞬間に自分の喉元が切り裂かれるのは避けられまい。
せめて相手が視認できる範囲にさえいれば、魔法で焼き払えるというのに。
許されるのはただひとつ。
顔も名前も知らない相手の質問に答える事。
あの子、と言ったか……。
「僕は……人を捜しているだけです。アーサー・ラインと、ランスロット・ラガーフェルド……もしかしたら、あなたは知っているのではないのですか?」
ただの当てずっぽうではない。
正体は不明だが、少なくともリアと何かしら関係がある。
そう思ったのは、相手が敢えて「あの子」という言葉を用いたに他ならない。それが正しければ、この状況は却って好都合なのかもしれない。
今日というたった一日だけで、尋ね人を知る人物と二人も遭遇したのだから。
問い掛けに対する問い掛けは、互いの間に沈黙を生み出す。その沈黙は、少なくともロットの言葉の意味を理解している――知っているからこそ生じた沈黙か。
「ランスロットを捜しているというのなら」
憶測が確信に変わる言葉は、しかしそこで途絶えたまま続かなかった。
ロットの前方を一人の女性が横切っていく。助けを求めるべく叫びたい衝動に駆られたが、口を開いた瞬間に助からないかもしれないと思うと、黙するしかない。
それ以前に、嫌な予感する――。
肩まで伸びる黒い髪を揺らしながら、女性は一直線にリア達の方へ向かっていく。肩に纏う短い外套の下、腰に提げている刀剣には見覚えがあった。類似している物を見た覚えがあった。
ありふれている刀剣の、ありふれていない漆黒に染まる鞘。
向かってくる女性の姿に気付いたリアが、ふと足を止める。並んで歩いていた主人とカルロスが異変を察して立ち止まるまでに、一拍の間を要した。
徐々に険しくなっていく少女の表情は、ロットの予感を確信めいたものにしてくれる。
「……ケイ? ケイ、なの」
「久ぶりだな、リア」
ケイと呼ばれた女性の口から発せられた声に、再会を懐かしむような色は微塵もない。吊り気味の鋭い双眸に見据えられて、リアはひたすらに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい。一歩だけ後ろに引いたリアの右足が、心情を語ってくれる。
「なんだ、リアの知り合いか……?」
何事かと思って息を飲んだカルロスが浮かべた笑顔は、しかし双方の間に立ち込める空気に飲まれて消えていく。
そこに他人が干渉する余地は微塵も残されていない。彼の問い掛けに対するリアとケイの無言に現実を思い知らされれば、笑顔も凍り付く。
「あたしがここに来たという事は、分かっているんだろう」
言いながらケイが一歩踏み出すと、対照的にリアは一歩退こうする。
「そう言われて素直に帰るような覚悟で出ていったんじゃないって、ケイも分かっているでしょ」
ロットが聞いた事のない低い声音が、リアの口から発せられる。
「ああ……そうだよ。だから、こうしてあたしが連れて帰ろうとしているんだ」
腰に提げてある鞘へ伸びていく手が、ロットの警鐘を打つ。
いったい、あの女はどうやって、どこに、連れて帰ろうとしているのか。
「おい……!」背後から刃物を突き付けてくれる女性に向かって、ロットは声を荒げる。「あいつは何者なんだ。リアと何か関係があるのか……あるんだろう? お前はどっちなんだ。リアの味方なのか、敵なのか……!」
返ってくるのは無言のみ。
否定でも肯定でもなく。
否定でもあり肯定でもある。
「まあまあ、二人とも。事情はよく分からないが、久し振りの再会というのなら、まずはゆっくり話でもしたらいいじゃないか」
我が子をあやすために浮かべるような笑みを湛えた店主が、ケイの前へ歩み出る。
「そうだ、今からお店に戻ってもいい。お茶を出して――」
漆黒に染まる鞘から抜き放たれるのは、漆黒に染まる舶刀。
店主の上体を切り上げた湾曲する刃が、中空に赤い線を引く。
「旦那……!?」
膝から崩れ落ちる主人を目の前にして、最初に行動を起こしたのはカルロスだった。
驚愕に歪む表情は瞬く間に怒りの感情へ支配されていき、血走った目はケイに復讐を果たすという以外の全ての思考を拒絶していく。
ほんの少しでも彼に理性が残されていれば。
刀剣を有している相手に素手で殴り掛るなどという蛮行には至らなかっただろう。
「貴様……! よくも旦那を――」
怒気を孕む彼の言葉が終わるよりも早く、言葉と共に振り上げた拳が叩き付けるよりも早く、刀剣を持たないケイの左の手がカルロスの顔面を鷲掴みにする。
直後に襲い掛かる痛みは、掴まれた、という程度では済まされなかった。万力で締め付けられているかのような怪力が女の五指にあるとは到底思えず、しかしそれを成し遂げてみせているのは間違いなく女であるという現実がカルロスを混乱に陥れ、言葉にならない呻き声が上がる。
「お前は……お前は一体――」
指の隙間から覗く目が驚愕に見開かれ、その後に続くはずだった言葉は失われる。
お前は一体何者なのか。
次に彼がケイが見た時、そこに先までの彼女の姿はなかった。
色素を失っていく黒色の髪が白に染まり。
ざわめき立つ四肢の肌から白い体毛が生え上がっていき。
マントの下から白い羽根が連なる翼が姿を覗かせ。
橙色に変化していく強膜は、さながら猛禽類のそれであり。
「喚くな」
ケイが呟いた直後、何かが爆発したような音が通りを蹂躙する。
ややくぐもった爆発音――カルロスの身体からそれが発せられると同時に迸る閃光が全身を焼き焦がし、白煙を立ち昇らせる。肉が焼ける異臭を放つ肉体に意思は残されておらず、ケイに投げ捨てられて動かなくなった。
今のは何だ。
それ以前に、あれは何だ。
ロットの脳裏に、先の閃光が焼き付いて離れようとしない。次元を超越している現象を目の当たりにして思考の繰り返しが延々と続き、現実から逃避させようとする。
あれは魔法ではない。無から有を生み出したようにみえた閃光は魔法に近しいものと言えなくもないが、あのような現象は起こせなないという事は、長年に渡って勉強と鍛錬を繰り返してきたロットだから分かる。
それ以前に、奴はカムラ族ではない。
そもそも、あれは人間なのか。
背中から翼が生えている――ヒトと猛禽類が混ざったような姿を有する人型の生物を、果たして人間と呼んでいいのか。
「……ランスロットを捜しているというのなら」
背後からロットを長らく拘束していた女性が、久しく口を開く。
思考の渦に囚われていたロットは現実に意識を引き戻されて、微かに肩を震わせた。
「悪い事は言わないわ、やめておきなさい。……いえ、やめなさい。どんな事情があるのか知らないけれど、それが貴方のためよ」
そう言うと、首に当てがわれていた刃の感覚がなくなった。同時に、相手の正体を確かめるべく振り向いたロットは――しかし、棒状の何かに頭部を殴打され、視界を黒に塗り潰される。
意識を失い倒れ掛けた少年の背に手を回し、女性はその場にそっと寝かせた。
「誰も幸せになれないわよ……私や、あの子のように」
少年の寝顔に向かって届く事のない言葉を呟いてから立ち上がると、腰まで届く長い黒髪がふわりと舞う。
白い肌と胸元を惜しみなく曝け出すオフショルダーのトップスに、地を掠めそうなオーバースカート。
御伽噺に登場しそうな魔女を再現したような黒ずくめの女は、一切の光を拒絶する闇黒を纏う巨大な大鎌を両手に構えた。
「……腕の一本程度であれば、斬り落としてくれて構わないと言われている。これは忠告だぞ、リア。あたしとて、お前に手荒な真似はしたくないんだ」
ケイが歩を進める度に、彼女の周囲に稲光りのような鋭角的な白い線が引かれては消えていく。
言葉とは裏腹に、猛禽類のような橙色の双眸から剥き出しになっている感情は穏やかなものではなく、有無を言わせまいとしている。
「本当に私の為を思っているのなら、ケイに私を連れて帰る事はできない。だから帰って……お願いだから」
先の惨状を目の当たりにしても、およそ人間とは思えない化け物へと変貌した彼女を目の当たりにしても、リアは眉間に縦皺を刻むのみで動じる様子がない。
そうなる事が分かっていたとなれば、二人が殺されるのは当然だとでも言わんばかりに。
「お前の為などとは微塵も思っちゃいない。それがあたしのやるべき事だからだ」
徐々に募る苛立ちを声音に乗せるケイが歩み寄れば、リアは踵を後退させながらかぶりを振った。
「……ランスロットに、言われたから?」
握り締める舶刀の刃に電光が走る。
「どうやら黙らせる必要がありそうだな。口先だけの腰抜けが――!」
説得を早々に放棄して駆け出そうとしたケイの視線が背後に送られた。
振り翳した舶刀の刃が、振り向いた鼻先に迫る大鎌と交錯する。
血走る橙色の瞳に映る魔女は、紅いルージュが引かれている唇の端を不敵に釣り上げた。
「お久し振りね、ケイ。それとも、カトラスと呼んであげた方がいいのかしら」
「裏切り者がよくものこのこと……あたしの前に顔を出せたものだな! サイズ!」
怒号と共に大鎌を払い除けたケイの舶刀が再び振り下ろされると、切っ先が相手の腕を掠める。
「やめて……やめてよ、マーリン。ケイも」
ケイにサイズと呼ばれ、リアにマーリンと呼ばれた魔女のような女は、自身が受けた傷を見ても顔色ひとつ変える気配がない。終始挑発するような笑みを浮かべている彼女の耳に、表情を歪めるリアの言葉は届いていない。
「裏切り者はお互い様ではなくって? まさか忘れた訳じゃないでしょう。それとも、身も心も脳味噌も鳥になってしまったカトラスちゃんは覚えていないのかしら」
誰の目にも明らかな挑発の言葉は、元より険しいケイの表情を更に険しくする。鬼のような形相、そう形容するに相応しい化け物が振るう舶刀が描く幾重もの剣筋が、マーリンの鼻先を掠めては消えていく。
「減らず口を……」
喉元を目掛けて繰り出された突きの一撃が振り翳された大鎌に阻まれられた瞬間、マーリンが湛えていた笑みが消える。
刹那の閃光と炸裂音に包まれた上体が仰け反り、自由の利かなくなった魔女の手から大鎌が離れる。完全に無防備となった相手との距離を詰めるのは造作もなく、鳥のような骨張った手がマーリンの顔面を鷲掴みにした。
「ケイ、やめ――」「――叩いている暇があるのなら、自分の身を案じるんだな!」
リアの懇願は、ケイの怒号と、その後に続いた爆発音に掻き消された。
先の悪夢の再現。
霹靂にも似た光に閉じた瞼を上げたリアは、変わり果てたマーリンの姿を目の当たりにしてしかめ面を浮かべる。露出する肌が黒く焼け焦げ、異臭と白煙を立ち昇らせる肉塊と化したそれが自らの意思で動く事はなく、後はケイに手を離されてその場に倒れるのみだった。
そうしてから、再びリアとケイの二人は対峙する。
「ケイ、逃げて。今ならまだ……間に合うから」
肩で呼吸を繰り返しながら、ケイは苛立ちの感情を眉間の皺に寄せる。
「なんだそれは、脅しのつもりか。お前も戦うつもりだというのなら、もはや命の保証はないぞ。こいつらと、同じ末路を辿りたいか」
かぶりを振るリア。
「そうじゃない。マーリンは……」
声音に混じる微かな衣擦れの音を聞いたケイが肩を強張らせたのも一瞬。
想定していない事態に対応すべく背後を振り向いた化け物は、大鎌の巨大な刃に切断された自身の左腕が宙を舞っている光景を橙色の瞳に焼き付けた。
「あ――?」だらしなく開かれた口から呟きが漏れる。
何故。
どうして。
だって、おかしいだろう。そうだ、サイズは、今しがたあたしが殺したというのに。
ケイが殺したと確信して疑わなかったそのマーリンは、大鎌を振り下ろしながら笑みを浮かべる。
全身を焦がした火傷の痕跡が跡形もなく消えている肌は蒼白く、地面に転がり落ちていく腕を見遣る双眸は空洞のような黒に染まっている。
ケイと比較すればその変化は微細だが、再び対峙するマーリンの姿は明らかに人間のそれから逸脱していた。
「――――」
言葉にならない悲痛な叫びを上げるケイは、二の腕から先のない腕を残された片腕で庇うようにしながら俯いてしまう。一撃にして戦意ごと刈り取られた彼女の頭上に振り上げられる大鎌には、微塵の慈悲もなく。
「さようなら、カトラス」
「マーリン! やめて!」
笑顔とは裏腹に無機質で無感情な声と共に振り下ろされる刃が、リアの叫びによって止められる。
制止など全くの想定外だったマーリンは、驚愕に歪む表情をリアに向ける。怒りを孕む少女の目はさらなる困惑を招き、大鎌を振るう理由を失った。
これを好機と見たケイは、面を上げると同時にマントに下の翼を大きく広げる。反射的に振り下ろされた鎌の一閃を背後に跳躍して躱し、激しく羽ばたく翼が負傷した身体を上空へ運んでいく。
制御が思うようにできないのか、通りに並ぶ建物の壁に身体を強か打ち付けながら飛び立ったケイは、リアの頭上を通り抜けて霧の彼方へ消えていってしまった。
再び静寂を取り戻した夜の通りで、マーリンは微かな溜め息を漏らす。そこに混ざっている感情は決して穏やかではないと知っているリアは、意図的に彼女と目を合わせようとしなかった。
「どうして私を止めたの」
「おかしいよ。ケイは友達だったのに。友達同士で殺しあうなんて、そんなの絶対に……おかしい」
マーリンは首を横に振る。
「あいつは、もう……あなたの知っているケイ・クラウンじゃないのよ。ここで見逃せば、奴はまた追ってくる。あいつだけじゃない。他の連中だって、あなたを連れ戻す為に追ってくるかもしれない。そうしたら……」
「だったら、その度にあなたが追い返せばいい」
それ以上の言葉は聞きたくない。言外に込められた拒絶の意思が、リアの語気を僅かに強くする。しかしそれも一瞬で、サイズと目を合わせた途端に勢いは失われていく。
「私はただ、お母さんを捜したいだけだから」
伏し目がちに呟き、リアはサイズに背を向ける。
「そんなの、ただの我儘よ……」
「お互い様でしょう、マーリン」
肩越しに返ってくる平坦な声は、マーリンに彼女の意図を汲み取らせる。
これ以上、交わす言葉は持ち合わせていない、と。
ケイが逃走していった方へ歩みを進めるリアを追う事は許されず、夜の闇に消えていくのを傍観しているしかなく。
彼女の腰に提がる湾刀の黒いシルエットを見つめながら、マーリンは閉ざした口を強く結んだ。