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BLOOD ROAD  作者: 桔梗たつや
1/8

プロローグ:明けの明星に誓え

 足跡を刻む度に鳴るか弱い鈴の音が、絶えず響き渡る鳥の囀りに飲み込まれていく。

 木々の間を縫うようにして差し込んでくる陽光は赤みを帯びてきていた。間もなく訪れる深い闇に飲まれれば、森は静かな狩場へとその様相を変化させていく。飢えた獣が跋扈する地に人間が立ち入る場所は与えられず、獣道を行く人影の足取りには、自身の身が危険に晒されつつあるというような危機感は微塵も見受けられなかった。

 黒に染まるインバネスを身に纏うその者が。

 腰に提げている一振りの刀剣だけでは、夜の森を行くには少々心許ない。

 それでもなお深い森の中を突き進むのは、余程の自信に満ちているのか、はたまた何も考えていないのか。そもそもどうしてここにいるのか、果たしてどこへ向かうつもりなのか。荷物らしい荷物を殆ど所持していない身なりから読み取れる情報は皆無であり、端から見れば無謀と思えなくもない。

 足跡を刻む度に鳴る鈴の音が、不意に途切れる。 

 日没を待たずして活動を開始した獣にとって、一人で森の中を進む人間との邂逅は僥倖と言えよう。草木を掻き分けながら姿を現した黒い体躯、その大きさは犬や狼の比ではなく、鮮血のように赤い双眸が相手に予測させる未来は「死」のみとなる。

 怪物。そう形容するに相応しい黒い獣を眼前にしても、インバネスを羽織る者に変化は訪れない。表情は変わらない。

 徐に帯刀へ手を添える行為を攻撃の意思の表れと汲み取ったか、怪物は赤色を湛える瞳に光を宿らせる。空気を震わせる唸り声と共に後脚で地を蹴ると――、

 森の静けさを引き裂かんばかりの爆発音が耳朶を打った。

 それが銃声によるものだと分かったのは、同時に怪物が大きくよろめいたからであり、胴に穿たれた銃痕から吹き出す鮮血がその威力を物語っていた。

 全く想定していなかったであろう一撃を受けた獣は、狼の姿に似た怪物は、犬のような悲痛に満ちた声を上げながら逃げ去っていく。覚束ない足取りで森の奥へ姿を消していくのを見届け、危うく命を落とす所だったその者は軽い嘆息を漏らした。

 僅かに俯くと、鈴の音が静かに響く。

 ただし、刀に添えられた手はそこから動かない。

 銃声の主の標的が怪物だけなら、何の問題もないのだが。

「――兄さん、待ってよ! 待ってってば!」

 まだ幼さを残している少年の声。

 森の奥から聞こえてきたその声は、警戒しているのが馬鹿馬鹿しく思える程度には間が抜けていた。徐々に距離が近付いてくるその言葉を額面通りに受け取るのであれば、こちらに向かってきている人間は最低でも二人いる。

 果たして、草木を掻き分ながら姿を現したのは、十代の半ば頃と思われる少年だった。肩に担がれる猟銃を見るに、それが先の獣を退けた物か。狩猟の為にこの森を訪れたのだろうか。

 しかし、それよりも何よりも目を引くのは――、

「ああ、よかった、無事そうで。あの、怪我とかはありませんか?」

 赤い髪と赤い目を持つ人間。

 安堵して胸を撫で下ろす、その言動はどこまでも普通の少年だが、燃えるような赤に染まる髪と瞳はどこまでも異質だった。

 当人にとっては当たり前のものであったとしても、否応無しに注意を引いてしまうものを目の当たりしてしまっては、少年の問い掛けに対する答はすぐには出てこない。

「あの、どうかしまし――」「兄さん!」

 首を傾げる少年の声を遮ったもう一つの声。先程と同様に兄を呼ぶその声の主は恐らく弟なのだろう、声質は少年のものと非常に似通っている。

 声に続いて駆け寄ってきた人物は、弟と呼ぶにはあまりにも少年と瓜二つだった。兄が眼鏡を掛けていなければ、そして弟のうなじから下がっている短めの三つ編みがなければ、全く判別が付かないといっても過言ではないかもしれない。

「駄目だよ、兄さん。外の人に俺たちの姿を見られたら、何て思われるか……」

 小声で訴え掛ける弟の視線を、兄は意図的に逸らす。

「そうは言ってもだな……アーサー、魔物に襲われそうになっている人を見過ごすのは許されないだろう」

「でも……」三つ編みを揺らす弟、アーサーはインバネスを羽織る人物に目を向け、それから言葉を失った。

 ――綺麗な人だけど。

 アーサーの心中で呟かれた言葉の通り、そこにいたのは紛れもなく綺麗な人だった。

 夕陽を帯びて艶やかさを増すブロンドの長髪も、一点の汚れもない透き通るような白い肌も、綺麗と形容するに相応しいものであり。だからこそ、その美しさに目を奪われた彼は沈黙したのだが。

 だけど。

「いや……何でもない。助けて貰って感謝するよ」

 インバネスが身体のラインを覆い隠しているので正確な所は分からないが、体躯は決して華奢ではない。

 この人は果たして男性なのか。

 それとも女性なのか。

 漸く開いてくれた口から出てきた言葉を聞いてもなお判別する事は難しく、「綺麗な人」という言葉のみで完結できない理由がアーサーを黙らせる。

「この地を訪れるのは初めてなものだから、まさかあのような魔物が潜んでいようとは思わなかったよ。この森のは、ああいうのが他にもいるのかい」

「ええ、まあ……旅の方、ですか?」

 兄の問いに対し、得体の知れない人物は首肯する。

「恥ずかしながら、私は放浪の身でね。今宵の寝床を求めてどこか人が住んでいる場所はないだろうかと思っている内に、こんな場所に迷い込んでしまったという次第だ。しかしながら君たちは……ピクニックに来たという訳ではなさそうだけど。この近辺に街があるのかい?」

「宿を探しているのであれば、この近くに僕らの村があるので案内しましょう」

「兄さん……!」

 できることなら部外者との接触を避けたい。そう考えているらしいアーサーは、当然ながら兄の提案に難色を示す。発した言葉はたったの一言だが、表情に浮かんでいる不満の色は強い。

「アーサー……気持ちは分からないでもないが、直に陽が落ちる。置き去りにはできないだろう。お前だってこの森に潜む魔物の恐ろしさを知っているんだから。それとも、先生の教えに背くのか」

「……分かったよ。こんな所で押し問答を続けていたら、それこそ夜になってしまう」

 兄に耳打ちされてから数拍の沈黙を挟み、アーサーは溜め息をひとつ吐く。開いた口から諦めの言葉を言い捨てると、猟銃を担ぎ直しながら踵を返した。

「随分と歓迎されていないようだけど、大丈夫かい?」

 苦笑を浮かべている放浪者に対して苦笑で応じる兄は、なんて事ないとでも言いたげに両手を広げる。

「気を悪くしてしまっていたらすいません。僕らの村には滅多に人が訪れないので、警戒しているだけだと思います。双子なのに似ているのは見てくれだけで、性格はこの通り」

「双子……なるほど、道理で似ていると思った。つまり君は」

「ええ。双子の兄のロット・ラインと言います。あいつは……」「兄さん、早くしてよ!」

 アーサーの呼び声はロットの言葉を遮る。

「……弟のアーサーもああ言っていますし、行きましょうか……ええと」

「ランスロット・ラガーフェルドだ。世話になるよ」

 言葉を詰まらせるロット・ラインの意図する所を汲み取った放浪者――ランスロットは、己の名を口にする。そうしながら差し出した右手は友交の意思表示であり、赤い髪と瞳の少年は笑顔でそれに応じた。


【プロローグ:明けの明星に誓え】


 獣道を半刻ほど歩いた所に、彼らの村は存在した。

 その頃には既に日没を迎えており、見上げれば果てのない暗闇が空を塗りつぶしている。晴れていれば星がよく見えるのですが、とロットは言う。

 森の一画をくり抜いたような土地に立ち並んでいる家屋の数は少なく、村と呼ぶには余りにも規模が小さかった。家々の窓に明かりが灯っているから人が営んでいると認識できるが、それでもゴーストタウンのように見えてしまうのは、外を出歩いている者が一人もいないからだろうか。

 森の一画をくり抜くついでに、一切の音をも遮断したかのような静寂を破り。ランスロットを連れたロットは木造家屋の扉をノックする。

「ヴィヴィアン、僕だ」

 扉越しに声を掛けてから程なくして、鍵を解錠する音が聞こえてくる。ガス灯の明かりを背に姿を現した少女を見、ランスロットは表情に微かな驚きを浮かべた。

 ヴィヴィアンの名に応じて出てきた十歳前後と思わしき少女もまた、ロットやアーサーと同様に赤い髪と瞳を有している。およそ人間離れした鮮明な色に染まる人間がこの場に三人も居るとなれば、恐らくそれは血筋によるものか。

 ならば、先刻のアーサーが警戒した理由も何となく察せられる。

「おかえりなさいロット、アーサー。と……そちらは」

 ランスロットの姿を認めたヴィヴィアンもまた、驚きの表情を浮かべた。開けた扉を僅かに閉めようとしたのは、やはり警戒心の表れだろうか。アーサーに引き続き彼女にも同様の態度を取られた側のランスロットとしては、苦笑を浮かべるしかない。それはロットも同様だった。

「大丈夫だよ、ヴィヴィアン。ただのお客さんだから。全く、何でみんなしてそこまで警戒しないといけないんだか」

「客……客と言ったか?」

 ロットの言葉に応じる声が室内から伝わってくる。

 男性のもの、それも幼さとはかけ離れた成人の声の主がヴィヴィアンの背後にやってくると、二人の少年の背後にいる放浪者に物珍しそうな目を向けた。

「これはこれは、旅の方とは珍しい。しかも綺麗な人ときている。さあさあ、何も無いつまらん所ですが、どうぞ上がってください。ヴィヴィアンはお茶を出してやりなさい」

 赤髪の短髪と燃えるような赤い瞳。その男もまた、彼らと同様の特徴を持っている。顎の無精髭まで赤くなっており、それが染めているものだとすれば大したものなのだが、果たして。

 三度目ともなると、ランスロットの驚きも少ない。寧ろ予想通りと言った所で、「ではお言葉に甘えて、失礼させて頂きます」と笑顔で応えた。

 この様な辺境に居住を構えているのだ、必要最低限な物しか置かれていない質素で慎ましい暮らしをしているのだろう――というランスロットの推測は、敷居を跨いだ先の光景に裏切られる事となる。

 特に目を引いたのは、部屋の一面を占領している本棚に並ぶ諸種様々な本。それを差し引いたとしても、彼らの生活水準の高さは端々から窺える。ロットから座るように促された椅子にしたって、そうだ。年季が入っているとはいえ、それは即席で拵えた粗末な物ではない。

 彼らは一体何者なのか? ランスロットの胸中で芽生える好奇心は瞬く間に肥大化していく。

「見た所、この近くの人間ではなさそうですが、旅の方――」

 興味があるのはお互い様らしい。テーブルを挟んでランスロットの向かいに腰を下ろした壮年の男は、言い掛けてから「いや、失礼」とかぶりを振る。

「外界との接点が少ないと、つい礼儀を疎かにしてしまいそうになるから困る。私はガラハド・ガリアードと申します。こいつは……」

「アーサー・ライン君、ですよね」ガラハドと名乗った男が隣に座っているアーサーを指差した際、ランスロットが先んじて彼の名前を口にする。そうしてから、壁のガンホルダーに猟銃を掛けようとしているロットの方を見遣る。

「彼がロット君。二人には、私が魔物に襲われそうになった所を助けてもらいました。改めてお礼を申し上げます」

「お礼だなんて、そんな。僕はただ、ランスロットさんを見掛けた時にどうにかしなきゃいけないと思って、無我夢中なだけだったんです」

 両手を振っているのは、照れ隠しの為か。謙遜しているロットだが、緩んでいる表情から察するに、まんざらでもなさそうだった。

「こう言ってますが、ロットの奴は物凄く喜んでいますよ。普段は滅多に褒められませんからね」

「やめてくださいよ、先生」

 先生。

 最初に会った際にも、ロットは同様の言葉をアーサーに向けていたのをランスロットは記憶している。

「失礼ですが、あなた方は親子だと……私にはそう見えたのですが」

 側から見るだけなら、仲睦まじい父親と息子に見える。

 側から見るだけなら。

「まあ、そう思うのも無理はないかもしれません。何といったって、この様に奇抜な色をしていますからね。しかし、私とこの双子は性が違う通り、血縁関係にはありません。訳あって、預かっているのですよ」

 ただし、ヴィヴィアンは私の実娘ですが――と、台所でお茶の支度をしているヴィヴィアンの方を見、ガラハドは付け加える。

「勝手な推測ですが……あなた方のその髪と瞳の色……それが、この様な辺境に居住を構える理由でしょうか」

 微かに大きく開かれたガラハドの瞳は、驚きの色を帯びていた。

「これは恐れ入る。あなたはただ美しいだけではなく、聡明な方でいらっしゃるようだ」

「過大評価というものですよ。私にそのような言葉は不相応だと思います」

 台所の方から食器を並べる音が聞こえてくる。ストーブトップに乗っているケトルを挟んで、ロットとヴィヴィアンが何やら話している様子が窺えた。

「カムラ族という人種を、ご存知で?」

 ガラハドの問いに対し、ランスロットはかぶりを振る。

「そうでしょう。その存在をなるべく隠す為に、我々はこのような地に生活圏を築いたのです。自ら歴史の表舞台から降りなければ、生き残る事ができなかった……そんな集団です」

「珍しい人種、だからという事ですか? それだけの理由で見世物にされる話は、今でもそう珍しくはありませんからね」

 人種の隔たりは倫理を超越する。

 同じ人間という種でありながら、ほんの僅かな差異だけで人として見做さない、見識の狭い者はどこにでも少なからず存在する。他の歴史や文化を私物化し、食い物にしようとする欲に塗れた者はどこにでも少なからず存在する。

「それも少なからずありましたが……我々の外観に大した意味はありません。我々の血に潜在する『魔法』という力が、カムラ族と他の人種の間に越え難き垣根を築いてしまっているのです」

「マホウ……?」

 カムラ族に引き続き、聞いた事のない言葉をランスロットは反芻する。

「大気へ干渉を可能にする力とでも言いましょうか、我々は魔法と呼んでいます。それがどのような事象を引き起こすのかは、口で説明するよりも実際に見て頂いた方が分かりやすい。アーサー、キャンドルを持ってきてくれるか」

 しかし、アーサーは椅子から立ち上がろうとする素振りを見せない。テーブルの上で組んだ自分の手に向けられる視線の険しさは、ここに来た時から変わらなかった。

「……ですが先生。無闇に見せてしまうのはよくないのでは」

 微かな嘆息がガラハドの口から漏れる。

「アーサー。客人の目の前で客人を疑うような教育をした覚えはないぞ。滅多に外界の者とは接しないが、それでも人を見る目はあるつもりだ。魔法を見せた所で何も変わりはしないよ」

「先生、持ってきました」

 それでもなお動こうとしないアーサーの態度を見兼ねたか、ロットがキャンドルと燭台を両手に抱えてきた。

 似ているのは見てくれだけ。眼鏡を掛けている兄がそう言っていたように、二人の人間性には大きな違いがある。従順で人懐こいロットと、生真面目で人見知りをするアーサー。

「じゃあ、ロット。火を灯してみろ」

「はい」頷いて、彼はテーブルに置いた燭台にキャンドルを立てる。火を灯すとなると、普通ならマッチ等の道具を用いるであろうが、彼の手にその類の物はない。

 ロットは右手の人差し指を徐にキャンドルへ向ける。当然ながら、その動作だけで火を点ける事など不可能だが、魔法という力を以ってすれば可能にしてしまうのだろう。

 ランスロットが息を飲む――その一瞬の間に、蠟の塊から伸びる芯に火が灯った。

 何の前触れもなく、自然現象であるかのうように発生した事象は、しかし紛れもなく非現実的であり、自然を捻じ曲げている。

 超常現象。

「これが魔法の力――お見せしたのはほんの片鱗に過ぎませんが、その気になればこの一帯を焦土にしてみせる事くらい、造作もありません。力量の差はあれど、カムラ族の人間は皆この力を有しているのです、私や……ヴィヴィアンとて例外はない」

 淡い明かりを見つめながら、ランスロットは得心したように頷く。

「……なるほど。使い方次第では相当な脅威になる。大衆から忌み嫌われる理由としては充分すぎるでしょう。それだけではなく、その魔法を利用しようと企てた者も少なからずいた筈」

 過ぎた力は、それだけで標的にされる。

 どのような理由であれ。

 どのような目的であれ。

 善であれ悪であれ。

 ガラハドの表情に差した微かな翳りが、無言の肯定となる。

「仰る通り、かつての戦争で、我々の先祖は戦いの道具として利用されていた時代がありました。抵抗できない訳ではなかった筈ですが、相手は国。元より数の少ないカムラ族に勝機はありません。例え一時的にその場を凌げたとしても、その後に待ち受けているのは破滅だけです。

 魔法の炎は戦火を徒らに拡大しました。領土を争う筈だった戦争はやがて魔法を奪い合う戦争へ変わり、そしてカムラ族を滅ぼそうとする戦いに変わっていきました。いよいよ存亡の危機に立たされた我々の先祖は、歴史の表舞台から姿を消したのです。尤も、それも容易ではなかったそうですがね」

 小さな足音が近付いてくる。カップを四つ乗せたトレイは、ヴィヴィアンの体躯には少々大きいように思える。両手に抱えるそれと睨めっこしながらテーブルまで運んできた彼女は、沈黙する面々の前にカップを並べていく。その内のひとつを受け取ったロットは、ランスロットの隣の席に腰を下ろした。

 そうしてから少女は台所に戻ると、今度は食事の支度をするつもりなのか、棚から香辛料の入った小さなビンをいくつか取り出していく。迷いのない手馴れた様子は、日頃からこなしている証拠。年端もいかない子供だというのに、人間が既に完成されている。

「……いや、失礼。久し振りの客人なもので、つい話し過ぎてしまった。つまらない話で申し訳ない」

 頭を搔きながら照れ隠しの笑みを浮かべるガラハドに対して、ランスロットは微笑みながら首を横に振る。

「いえ、カムラ族――あなた方の先祖のお話は、聞いていて非常に興味深い」

 白いカップに注がれているのは、濁りのない透き通ったオレンジ色。覗き込めば、自分の顔がそこに映る。

「ディンブラですね。私の故郷でよく作られていました」

 薔薇にも似た香りは決して主張しすぎず、渋みの少ない優しい風味が口に含んだ者の心を穏やかにさせてくれる。

「私も、かつては追われていた身なのです。大した力のない小国家でしたが、それでも私は自分の生まれ育った国を愛していましたし、国の為に、民の為に尽力していました。

 人の心とは難しいもので。どれだけ最善を尽くしたつもりでいても、百人中百人が納得する結果を得られるのは不可能に近い。その結果として起こったクーデターは、私から全てを奪っていったのです。命があるだけでも奇跡的と言えるでしょう」

「それで、ランスロットさんは色々な地を転々としているんですか」

 ロットの言葉を受けて、ランスロットは水面に注いでいた視線を上げる。

「今の私からしてみると、あなた方は非常に羨ましく思えます――と言ってしまうのは些か失礼に値するかもしれませんが、宛てもなく各地を転々としている身の私からしてみれば、安寧の中に身を置いているあなた方は、非常に」

 人は渡り鳥にはなれない。

 それがどこであれ、どんな場所であれ、帰る場所を得て初めて、人は安息に身と心を委ねる資格を手にする事が出来る。

「ですが、一概に悪い事ばかりでもないと……様々な国を訪ね、様々な人と出会うようになってから思えるようになりました。例えば、アーサー君が先程から気にしている様子の、これ」

 テーブルに立て掛けられている刀剣を取ると、アーサーはさっと視線を逸らした。黒塗りの鞘に収められている鋼の刀身を僅かに引き抜くと、それは鈍い光を反射して見る者を威圧する。

「これは遥か東の島国に伝わる、カタナという名前の剣です。人を斬る事に特化しているという面白い武器で、鍛冶職人に無理を言って譲ってもらいました。閉鎖された空間で、尚も人間同士による戦争を続けているその地にも魔物は存在するというのに、彼ら職人は人を斬る為の武器を生む事に魂を注ぎ込んでいるのです」

「時代錯誤、ですね。戦争をする時代でもないというものそうですし、今は銃火器の開発が主流になっている。今となっては、刀剣を使うのはごく一部の物好きだと思っていたのですが」

「ガラハドさんの言う通りです。時代錯誤。面白いでしょう。面白いのです。世界はとてつもなく広大で、未知に満ち溢れている。全てを失わなければ得られなかった数多の見聞は、今の私にとっては生きる糧なのです。そして今日、あなた方と出会えた事も」

「それは我々も――いや、この子らにとっても同じかもしれない。外界に足を踏み入れた事のないこの子らにとっては、今居るここが全てなのです。他の地には一体何が存在するのか、どのような歴史があって、どのような人々が生活しているのか、ロットやアーサー、ヴィヴィアンも知らない。本で得る知識にはどうしたって限界がありますし、外界を目指すにはまだ幼すぎる。

 ですから、ランスロット殿のような方がここを訪れてくださったのは、とても幸運だと思っています。あなたがこれまでに見聞きしてきたものを、どうかこの子らに聞かせてやって頂きたい。世界の広さを教えてやって頂きたいと、私は思っているのです」

「あなたがお願いするような事ではありません。言われずとも、今夜は心ゆくまでお話致しましょう。私もこうして人とお話しするのは随分と久方振りですからね。それだけでも嬉しいのです」

「それでは、今夜は出来うる限りのおもてなしをさせて頂きましょう。ところでロット、今日の成果はどんなもんだった」

「へ?」

 当人にとってそれは全く想定していなかった言葉であり、反射的に口を突いて出てきたロットの声は些か調子が外れていた。

「へ? じゃないだろ。今日は大物を捕らえてきますよ、なんて自信満々に笑いながら外に行ったんだから、今夜のもてなしに相応しい獲物を持って帰ってきたんだろう? 今思えば、あれは複線だった訳だ」

「ああ……その、いえ。あの時のあれは、その場の勢いと言いますか。それに、途中でランスロットさんと会ったとなれば、狩りをしている場合ではないと思うんですよ。なあ、アーサー」

 尤もらしい理由を並べるのであれば、せめて平静を装うべきだろう。冷ややかな表情を微塵も変えないガラハドを前にして、ロットの笑みは見る見る内に引き攣っていく。

 アーサーが無言を決め込んでいるとなれば、なおのこと。

「つまり?」

「収獲なしです……」

 溜め息と共に、双子の兄は肩を落とす。耳を澄ませば、がくりという音が聞こえてきそうだった。

「ロット」

 呆れ顔のガラハドが口を開くより早く、台所から割り込む声が飛んでくる。

 一同の視線を集めるヴィヴィアンは、身の丈に合わない大きなフライパンを両手で抱えていた。ロットを見る目が冷たいのは、気のせいではないだろう。

「ロットだけ、ご飯抜き」

「そんな……!」

 少年の悲痛な叫びと大人の笑い声は小さな家だけに留まらず、彼らの村に響き渡る。黒暗と沈黙に支配される夜の森が、一瞬だけ騒がしくなった瞬間だった。

 

「兄さん。いつまで寝ているのさ……兄さん!」

 声と共に揺さぶられる無抵抗な身体が自分の意思で動き出すまでに、数拍の間を要した。蓑虫よろしく毛布を覆いかぶさっているロットは、しかし身じろぎするだけで起きようとする気配はない。

「あと五分……せめてあと五分……」

 くぐもった気だるそうな声が、アーサーの眉間に縦皺を刻む。

 毛布を剥がそうとして引っ張るが、どうやら内側から掴まれているのか、びくともしなかった。

「五分寝ようが五十分寝ようが変わらない、むしろ二度寝は身体に悪影響を及ぼすんだから、さっさと起きる。全く、一体いつまで話し込んでいたのさ」

 船が行き交う大海原の上に浮かぶ都市、灼熱の砂漠に築かれる巨大な城、家畜と共に大平原を移動する遊牧民、一面を氷で覆われた極寒の地で天体を観測する孤高の学者――世界を放浪するランスロットの冒険譚は枚挙に暇がなく、ロットがその膨大な情報の奔流に呑み込まれるまでに大して時間は要さなかった。

 さほど興味のないアーサーや、夜更かしするにはまだ幼いヴィヴィアンは途中で寝てしまったが、ロットは深夜まで付き合っていたらしい。正確には、ランスロットが付き合わされたと言うべきか。

「別にいいだろう……今日の家事当番は先生なんだし、特に予定がある訳でもなしに……」

 ロットの言い分を差し引いても、現在の時刻は充分に早い。彼が寝床としている屋根裏部屋に差し込む光は皆無であり、それもその筈、小窓の外から望める空は微かに明るんでいる程度だった。朝というには些か早い。

「どうしても寝ていたいというのなら止めはしないけど、起きた時にはランスロットさんはもういないからね」

 跳ね上がった毛布が天井に当たる。落ちてくるそれがアーサーの身を覆いかぶさった時には、既にロットはベッドから姿を消していた。

「そういう事をどうしてもっと早く言わない!」

 返答を待たずして、梯子を滑るようにして降りていく。下はガラハドとヴィヴィアンが寝起きしている寝室だが、そこには誰もいなかった。

「ランスロットさん」

 寝室の扉を隔てた向こう側、ガラハドとヴィヴィアンと共に玄関先で認めた後ろ姿に向かって声を掛けると、インバネスを身に纏うその者はゆっくりと振り返った。

「おはよう、ロット君。君が起きるのがもう少し遅かったら、私は出発している所だったよ」

「もう言ってしまうのですか? もっとゆっくりしていっても……いや、この村に住んだっていいのに……」

 昨日の今日である。過ごした時間はあまりにも短く、交わした言葉は極めて少ない。まだまだ聞かせてほしいと思う少年の我儘は前面にこそ押し出ていないが、それでもランスロットに苦笑を浮かべさせた。

「その気持ちだけで充分だよ。本当はお言葉に甘えたい所だけど、この村にとって私という存在は異物なのさ。いつまでもいる訳にはいかないし、出て行くなら早い方がいい。ここは私の帰る場所にはなり得ないからね」

 カムラ族が歩んできた歴史を鑑みれば。

 長居はそれを否定する事となり、ともすれば冒涜になりかねない。

 今はそのような時代ではないと分かっていても、前例を認めてしまえば、いつの日か綻びに繋がる可能性がある。歴史から学ばない限り歴史が繰り返されてしまうのは、他ならぬ歴史が証明してくれているから――それを理解しているからこそ、彼らには束の間の休息のみしか提供できない。

 明日の保障などできない。

 ロットとて、理解がない訳ではない。だからこそ、口にした我儘を突き通そうとはしなかった。

「じゃあ……ちょっとだけ、ちょっとだけ待っててください。すぐ戻ります」

 言い置いて、ロットは駆け足で寝室に引き返す。梯子を降りてきたアーサーが何事かと目を見張るが、お構いなしだった。先刻まで眠りに就いていたベッドの脇に置いてある小物棚の引き出しを開け、そこから手のひら大のレンジファインダーカメラを取り出す。それを手に再び玄関へ戻った時には、少しばかり息を切らしていた。

「あの……写真を。記念に写真を、撮ってもいいですか?」言いながら、カメラを見せる。「この日の記憶を、形として長く残しておきたきて」

「それくらいなら構わないよ。お安い御用だ」

 快諾するランスロットを前にして、ロットは今にも飛び跳ねそうな勢いだった。表情のみならず、全身から喜びが伝わってくる。

「なら、私が撮ろうか。アーサーとヴィヴィアンも入っとけ。こういう写真を撮れる機会なんて滅多にないからな」

 ロットからカメラを受け取ったガラハドは、レンズを調整しながら二人に声を掛ける。言われた通りにランスロットと並ぼうとするヴィヴィアンに対して、アーサーは嫌そうな表情を微塵も隠そうともしなかった。

「俺は別に……」

 この場から立ち去ろうという判断は遅すぎた。ヴィヴィアンに腕を掴まれてしまっては拒否の余地が皆無であり、後は彼が何を言おうとお構いなしである。師の娘だからという理由だろうか、どうもロットとアーサーは少女の尻に敷かれているきらいがあり、その光景は珍妙だった。

 穏やかな笑みを浮かべるランスロット。

 寝癖がついたままのロット。

 口をへの字にひん曲げるアーサー。

 カメラを前にしても表情を変えないヴィヴィアン。

 四人の姿を収めたカメラのシャッターが切られる。

 かちゃりという質素な音はほんの一瞬、しかしフィルムにはこの瞬間という永遠の時間が刻まれる。カメラを受け取ったロットは、大事そうにそれを両手で抱えた。

「では、私はそろそろ……」

 ランスロットの言葉尻を捉え、ガラハドは頷く。

「長々と引き留めて失礼した。しかし、本当によろしいのですか? 一人でこの森を抜けるのは安全とは言い切れません。出口までのご案内くらいなら――」

「こう見えても、私は腕に自信があるのですよ。所謂、物好きという奴です」

 帯刀を少し持ち上げてみせる。これまでの旅路をその一振りと共に歩んできたというのであれば、その言葉に嘘偽りはないのだろう。

 ならば、言葉を遮られたガラハドに出来る事はただひとつ――胸の前で両の掌を合わせ、軽く頭を下げる。

 ロットらも続いて取るその姿勢は、彼らカムラ族の民にとっての祈り。

 ランスロットの無事を祈る祈り。

「あなたの旅路に幸あらん事を」

 一礼したランスロットの姿が扉に遮られて消える。

 暫しそれを呆然と眺めていたロットは、何かを思い出したように目を見開く。同時に駆け出した彼は勢いよく家の外に飛び出すと、明け切らない早朝の闇に消えていこうとするランスロットの小さな背中に向かって大きな声を上げた。

「ランスロットさん!」

 森へ向かう歩みが止まる。

 両手を口に添えて、ロットは更に声を張る。

「いつか……いつでもいいです。何年でも、何十年でもいいです。いつかまた、この村に来てください。もっと話を聞かせてください。僕がまだ知らない世界を、教えてください!」

 振り返ったランスロットは、右手を大きく上げて応じる。

「ああ、いつかまた。約束しよう」

 約束は交わされる。

 それが果たされる保障などどこにもないとしても、ロットは手を振り続ける。

 あと何百回か、それとも何千回か、気の遠くなるような何万回か。同じ日々を繰り返したその先に、同じではない特別な日が再び訪れてくれるのを信じて、ロットは手を振り続けた。

 東の空から昇る太陽の光が、少年の笑顔を照らす。

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