聖徳太子虚構説についての私見
聖徳太子は虚構との説についての私見。
部分部分の物証をあげつらって全体の結論をある目的に誘導しようとする人たちへの反論として
聖徳太子は「いない」と主張する人たちと「実在する」とする人たちの争いは激しさを増すばかりであるが、個人としては、海外の文献にも登場する人物が実在しないというのも奇怪しいとは思わないのだろうかと考えている。
まず、聖徳太子虚構説の論旨について私が理解しているのは次の点である。
「飛鳥朝廷の有力な王族として厩戸皇子は実在したが、日本の歴史書や信仰の対象として祭ってある寺院や遺物などの物証は全て後世の創作であって日本の歴史書に書かれている政治家、今に残る信仰対象としての聖徳太子は虚構である。」
まず、日本の歴史書の系図に記載されている厩戸皇子の実在は否定しない。
次に、日本の歴史書に数々の功績を記録されている推古天皇の皇太子としての厩戸皇子(聖徳太子)の記録や事績は虚構であるとする。記録と実施年代の整合性が取れない等の理由があげられている。(例としてこの時代に皇太子の制度は無かった。また、行った政治業績も後世のものが含まれているとする。)
さらに後世の信仰対象となった聖徳太子の遺物、物証や伝承、記録等は全て後世の創作だとする。(遺物や物証については明らかに後世の作であるものが混じっているので全てが真正なものでないのは明らかであるが真正の可能性があるものも多い。)
問題は、少なくても日本人以外の書いた国家の公式文書に登場する人物の実在を否定するには、まずその人物の特定から行うべきであると思う。
すなわち、隋の歴史書に登場する聖徳太子とされてきた人物と、実在の厩戸皇子が全く別の人物と証明する方が先だと思うのだ。
日本の記録の聖徳太子は虚構ですから、隋の歴史書に乗っている話も虚構ですなどということはありえない。外国に対して外交を行った人物が存在するのだから、その人物と虚構とした人物が別人であることをまず証明する必要がある。
ただし、隋の歴史書には厩戸皇子や聖徳太子の名は出現しない。だが、使者の裴世清に面会した倭王で政治的な指導者アメタラシヒコである。女帝であった推古天皇ではない。それゆえに歴史家はこれを皇太子厩戸皇子、聖徳太子だとしている。日本の歴史書の系図が正しいとするなら当然の結論である。
では一体、隋に国書を送って相手を怒らせたのは誰なのか。
その人物が当時の大国であった隋が記録に残しているほど問題を起こしたにも関わらず、日本国では何の処分もないままでいられたのは何故か。
隋国の返書を無くしたとする使者「小野妹子」を罪にも問わずに再度使者になって渡航させたのは誰か。
日本に来日した随国の使者である裴世清が会った人物アメタラシヒコは誰なのか。
さらにその使者と一緒に遣隋使を派遣して知識輸入を行ったのは誰なのか。
遣隋使に派遣された高向玄理(聖徳太子自らが選んだと伝えられる)などの人物がその後も朝廷に重用されたのは何故か。
上記の事柄を行ったのがそれぞれ別個の政治家であるとしたならば、何故にその政策に一貫性が見られるのか。
少なくても実績を上げた個人の存在を否定するなら、その実績を実際に実施した同じ政治目的に向かって連合する政治グループの存在を証明した上で、その中で誰がこの部分の担当をしたとか確定できない限りは否定したことにはなるまい。
この視点でみると、聖徳太子虚構説の論者たちの言説の目的が一体何かという事が見えてくる。私の責任で一括りに言ってしまえば日本の歴史書は正確では無いから、偉大な政治行為も事績も全て後からのデッチあげでその時代の日本にはそんな事をする能力は無かったのだと遠回しに言いたいだけなのだ。すぐそばの大国にけんかを売るような度胸と知識、そしてその上で外交を繰り広げるような度量を備えた人物はいなかったのだと主張したいのだ。だが、相手の国の文書に明らかにしてやられたと歯噛みしている証拠が残っているのだから、そんな悪巧みは通じない。
それにしても日本人はとりわけこの手の策略に弱い。
何か一部分の物証をあげられて、それから導きだされた結論がこれだ、さあ認めろというタイプの脅しである。物証があってもその先の結論とはイコールではない。勝手に相手が結論と結び付けただけであり、それがすべての証拠になるというわけではないのだ。
致命的な証拠とそれ自身が間違っていても結論とは何も関係しない事象とを混同してはならない。そこを見分ける事が必要なのだ。
聖徳太子が実在してもしなくても、私自身には本当はどうでも良いことなのですが、その意見の落としどころを見透かしての思想誘導があまりにも酷いので書き込みました。
まさか外国の外交文書に書かれている人物の実在まで否定は出来ないはずですが、彼らはそれをした人物まで否定しようとしている点に悪意が見られるのです。