レモンのエッセイシリーズ 言葉の奴隷
第二回 言葉の奴隷
昨日予告した内容を変更して、今日は「ヤバイ」という日本語について書いてみようと思う。
今日の日本では現代人による「日本語の破壊」というトピックを良く耳にする。
若者から作り出される大量の幼い日本語が、日常会話を侵食し始めていることを危険視する人は多いだろう。
昨日までなかった言葉が今日には日本中で使われている、なんてことがザラの世の中になってしまった。
「てへぺろ」や「げきおこ」など、昨日聞いたと思えば、明日には流行語大賞にノミネートされているのである。
スマートフォンやネットの普及は言葉社会を大きく変えた。
またそういった過程で生み出された言葉は考えられないほど早く死を迎える。
中には2週間程度の短命な言葉すらある。本来言葉とは平均して数百年程度の寿命を持っているのだが、それと比較すると一息程度の寿命しかない。
非常に言葉という存在の地位が危うくなってしまっているのではないだろうか。
しかし若者の中には「それのどこがいけないのか」という疑問を投げる者が非常に多くいるだろう。
自分達の言葉が否定されることは自分を否定されることに等しい。怒りや疑問をもって当然だ。
その疑問に答えようと思う。
ここからは私の勝手な意見だから鵜呑みにしてもらっては困るが読者が考えるきっかけになれば嬉しい。
私が思うに、そういった「幼い(ここでは生まれてから日が浅いという意)日本語」の使用により生まれる問題は使用者の「人間性」を著しく低下させてしまうこと、この一点に限る。
人間は皆思考をするとき、脳内で言葉を使う。思考全てを言葉に頼っていると言い換えることも可能だろう。
そして「思考」は人を成長させる。ある事象に関して熟考することで人の「人間性」は厚みをましていく。
つまり人は考えることで成長できる、という言葉があるが、上記をふまえると真に人間を成長させるのは「言葉」である。
だから全ての人類の育ての親である言葉が幼いと、その人間の人間性まで幼稚になってしまう。
そして幼稚な人間性は幼稚な言葉を生み出す。例えば「ヤバイ」だ。様々な感情を表現でき、なおかつどんな局面でも使える非常に便利な言葉だが、その便利さに落とし穴がある。
他人の、幸福感、不快感、悲壮感、嫌悪感、全てを同じ言葉で表現している若者の中では、次第に「幸福感」も「不快感」も同じ感情だと誤認し始め、他人の痛みが分からなくなる。
最近の犯罪が稚拙で幼稚になってきているのはこのためではないだろうか。
さらに「ヤバイ」はどんな感情でも表現できてしまうため、他に存在する感情表現を行うための言葉が身に付かない。
だから「ヤバイ」を超える痛みに出会った若者は「死」という単語しか出てこないのだ。
「ヤバイ」と「死」との間の感情を表現する言葉を知らない若者は簡単に「死にたい」と口にする。
しかし、「死」という言葉の重みは変わらないので次第に自分を追い詰め、最終的には本当に自殺してしまったりする。
ここに、この点に、大人が若者の言葉の崩壊を危惧するキモがあるのだ。
「そんなことあるわけないだろ」と思う人がいたなら、本当に自分が「ヤバイ」と「死」の間を表現する言葉を知っているかを今一度良く考えて欲しい
次回はLINEといじめについて書く