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意欲のかけら (初めの一歩)

 十三


 空と山の区別がつかないほどに暗い、まさしく墨を流したような空に瞬いていた星々の内から、気弱なものから順に店仕舞いにかかり、威勢のよさを競っていた明るい星でさえコソコソと身づくろいを始める。折りよく空に薄い雲がいくつも層をなしている。

 東の山裾からじわじわと光が押し寄せてきて、真っ黒だった空を灰色に薄めながら、中天から西へ押しやろうとせめぎ合いを始める。

 山の輪郭がようやくはっきりしだす頃、空に浮く薄雲を紫や橙に染めて一際眩い光が天をめざして駆け上がろうとしている。その眩さゆえに反って山肌を暗くしてしまう。


 朝の光は木々を目覚めさせ、葉が絡めとった夜露を空に解き放とうとする。木々や草の葉にたまった夜露はいったん自由になれるものの、なかなか温まらない大地に冷やされて白い靄に姿を変える。その靄が山肌を伝い、里をつつみ、稲や野菜に宿った夜露を呼び込んで目指すべき宙に駆け上がる頃、ようやく人々が営みを始める。白い靄がたなびきながら山奥深く消えてゆくのを見て、人は神を意識したのではあるまいか。


 そんな山里の営みとは無縁な者がそこにいた。清々しさが霞と消え、朝の農作業を終えて一服しようかという時分になって、ようやく女達が二頭の犬を連れて山奥めざして歩き始めた。


 亜矢の忠告を覚えていたようで、全員が麦わら帽をかむり長靴を履いている。目的などないはずなのにちゃっかり竹篭を背負っているあたり、主婦の習性は失われていないようである。小川を渡ってすぐに蛇叩きの竹を準備し、それを杖代わりにしっとり濡れた土の道をゆっくり登ってゆく。


「小股で歩くのが疲れないコツだそうだよ、下りはもっと小股で歩くんだって。ずいぶん先まで歩くんだから楽にしてよ。確かこのあたりでウドを掘ったような気がする。掘った跡が残ってるからボーっと歩かないでね」


 山に分け入ると美鈴が得意そうな顔をした。


「けど何だね、山の中って色が少ないと思わない? 花が咲いててもよさそうなのに茶色と緑色ばかりだよ」


 確かに恵子の言うように、山の中には咲き乱れる花などどこにもなく、シダや名も知れぬ雑草が鮮やかな緑で大地を覆っているばかりである。


「咲いてても、私達に見つけられないだけかもしれない。春なら梅や桃が咲く。もうすぐ八月だから目立つような花は咲かない」


 どこにしまいこんでいたのか、加奈は思わず口走った言葉を他人事のように聞いていた。

「加奈さんは物知りなの? それにしても、鳥も啼かないね」


 そうではない。鶯が縄張りを主張し続けているし山鳩もツグミも鳴いているのだが、美鈴が気付かないだけなのである。


「あったあった! ここに生えてたんだ、掘った跡がある」


 しきりと土手を気にしていた美鈴が大声をあげた。


「どんな葉っぱだったか覚えてる?」


 川上がしきりと葉っぱを覚えろと言っていたことを恵子は覚えていた。自分は受け流したのを棚に上げて美鈴にそれを尋ねている。


「それは……。地面からにゅっと突き出てて、けっこう太くて、薄い緑色をしてたとしか……。もしかして、これ違うかな?」


「掘ってみたらいいじゃない。だめもとでさ」


 しだいに自信を失う美鈴にアキが助け舟をだした。


「掘り方を見てたんでしょ?」


「スコップ忘れた」


 一団の一番後ろを歩く加奈は、誰の荷物にもスコップがないことに気付いた。


「加奈さん、心配しなくても掘り方は覚えてるよ」


「どうやって掘ったの?」


 アキは道具を作ることに興味をひかれたと加奈は察していた。きっとうどを得るより意味深いとかんじたのだろう、美鈴の動作をじっと見つめている。


「やってみる。太めの竹をスコップにしてさ、……」


 ちっぽけなウドではあるが、その日初の収穫であった。



「ちょっと、大丈夫なの? もうずいぶん来たよ」


「まだまだ、まだ半分くらい。恵子さん怖がりだね」


「誰かこんな奥まで来た人いる? まさか迷子じゃないよね」


「まっすぐ歩いてきたから心配ないよ。ほら、あの草が倒れているところで梅をもいだの」


「どれよ、何箇所も倒れてるじゃない」


「恵子さん、私に文句言わずに自分でもさがしてよ。梅干しを漬けたことあるんでしょ? 私は主婦の経験ないからね」


「梅干しくらい漬けたけどさ……、美鈴ちゃんもそのうち判るわよ、梅はスーパーで袋に詰めて売ってるものなの」


 照れ隠しの意味をこめた恵子の開き直りに頓着せず、美鈴は道を外れて一本の木に目を凝らした。


「あれがそうかな、ちょっと見てくるね」



「あったよ、いっぱい生ってる。みんなおいでよ」


 木の下で美鈴が得意そうに手招きしている。


「本当だ、あんなに高くまで生ってるね、どうして食べる?」


 もぐ前に食べることを考えている恵子が、加奈にはうっとおしかった。行動をおこす前に必ず意欲を殺ぐ発言をし、皆に指図したがるくせに泣き言ばかり言うし、意味のない逃げせりふばかり言うからである。もっとも、後ろ向きなのは全員なのも十分にわかっている。


「そんなことより捥ごうよ、梅狩りなんて初めてでしょ? ほら、由紀子さんも」


 そこには女達が知っている青々した梅ではなく、薄緑の中に赤い筋を刷いたような、熟し始めの実が鈴なりに生っていた。嫌な記憶をその時ばかりは忘れ去って、女達は梅の実を捥ぐのに興じていた。どうやって食べるかという目的もなく、捥ぐことだけに没頭し、気付いたら銘々の竹篭が半分くらい埋まっている。


「ところで、桃はどれ?」


 さんざん梅を捥いだあとで、恵子は桃の木があることを思い出した。


「細長い葉っぱだって言ってた」


 うろ覚えの美鈴は自信なさげに小声で答えた。


「道をつけてくれたんでしょ、だったら手当たり次第に探してみようよ」


「恵子さん疲れたんじゃなかった?」


「冗談じゃない、こんな楽しいことなら疲れなんか忘れるわよ」


 普段とは手の平を返したようにイキイキした恵子が滑稽にさえ感じられ、皆が自然な笑顔になっていた。



「道に水が流れてる、この先は要注意らしいよ。この前も五分くらい登ったところにいたんだよ」


 美鈴の言うとおり、ゴツゴツした道に黒い帯があった。


「なるべく真ん中を歩けばいいのね?」


「手遅れっていう感じ……」


 道の真ん中を歩くよう注意されたことを恵子が口にすると、それを打ち砕くように加奈が不気味なことを言った。


「加奈、へんな冗談やめてよ」


「冗談じゃない。あれ見えない?」


 加奈はわずかに指を大きな石に向けた。


「どこよ、何もいないじゃないの」


「いる。見えない?」


「どこよ、いないって」


「右の岩の上」


 加奈は右手の岩を指差した。腰の高さほどの岩の上が少し平らになっていて、そこに捨てられたボロ縄が載っていて、時折のぞかせる舌が蛇であることを証明していた。


「岩? どこに……。うわっ、嫌なのを見ちゃった。どうしよう、諦めて帰らない?」


 その存在に気がついたとたん、恵子の頬がサーッと粟立っていた。


「やってみる。どこを叩けばいいの?」


 逃げてばかりの半生だった。今もまた逃げることなら簡単にできる。が、それでは何も変わらない。せめて一度くらい拳を振り上げてもかまわないだろう。加奈はそう思った。


「加奈さん勇気あるね、気味が悪くないの?」


「早くしないと逃げられる。どこを叩けばいいの?」


 美鈴が加奈の挑戦を驚いている。美鈴だけでなく、普段の加奈を知る者にとって信じられないことであった。


「どこでもいいんじゃないかな。でもあの子、胴体の真ん中を叩いてた」


「真ん中。やってみる」


 足を竦めた一団から加奈が進み出た。いつものように能面を思わせる顔のままだが、思いつめたような気配を纏っているようにも感じられる。少しだけだが眼を見開き、うなじの髪が僅かに逆立っていた。


 ジリジリと半歩ずつ間合いをつめて、僅かに棒が届かない距離で歩みを止めた。

 一度体験したことで気持ちに余裕があるのか、美鈴が同じように加奈に並ぶ。

 青白い顔をそむけながら大きく振りかぶった竹の棒が振り下ろされた。


 朝日を浴びて体温を上げ、野鼠か蛙でも探しにゆくつもりだった蝮の胴体を棒が叩いた。

 怖々叩いたので蝮の行動を鈍らせるにはいたらず、叩かれた蝮はどこからの攻撃かと頭をあちこちに向けて盛んに舌を伸ばしてはいる。が、気配を感じ取れないせいか、その場で胴体をくねらせるばかりでさほど動く様子をみせない。


「加奈さん、力いっぱい叩かないと死なないよ。早くしないと逃げちゃうよ」


 美鈴はマムシが弱っていないことを知り、加奈を励ました。


「本当にむかってこない?」


「大丈夫だったよ、だから早く叩いて! ビュンビュン音がするくらい速く!」


 ビュッ、加奈は思い切って棒を振り下ろした。カツン。勢いよく振り下ろされた棒が岩を叩いた。ビュッ、ベチッ。くねらせていた胴体を強く叩く音がし、その反動でマムシが跳ね上げられた。


「当たった! もっと叩いて、もっと!」


 それから何度もカツン、ベチッという音が続いた。


「もう大丈夫じゃないかな」


 美鈴の声が遠くに聞こえた。我に返った加奈が岩の上を見ると、腹が破れた蝮がぼろ縄のようにのびていて、周囲に血が飛び散っていた。


「……」


「次にね、棒の先にひっかけて、横へ跳ね飛ばしておしまい」


 気味悪そうに顔をしかめながら、加奈はジワジワと蝮に近づいてゆく。

 ビュッ、だらりとのびた蝮を土手の下に振りとばして大きく息をついた。


「やったね! やったね加奈!」


「気分どう? 気味が悪くない?」


 遠くで様子を見ていた恵子とアキが駆け寄ってきた。


「無理しなくていいよ、休もうか?」


「大丈夫、何ともないから」


 飛び散った血から顔をそむけながらどうして恵子がしきりと休むように勧めるのか、その理由が加奈には理解できなかった。


「真っ青だよ、休んだほうがいいよ加奈さん」


 アキも加奈の顔色を見るなり休むことをすすめている。


「大丈夫、生き物を殺したから気持ち悪かっただけ」


 たしかに気持ちよいとはいえないが、アキはおおげさすぎると加奈は胸の内で呟いていた。


「もう少し我慢できる? 休んだ場所がもう少し先なの。日陰もあるよ」


 こんな場所より日陰のほうがいいだろうと美鈴は皆をうながした。


「行く。本当に大丈夫だから」


 そう言って加奈は血のついた棒を杖にして歩き始めた。



 たとえ一匹とはいえ、いつも姿をみるたびに避けていた毒蛇を殺したことが意識にどんな影響を及ぼしたのか、本人達に自覚はないだろうが、おどおどした様子が影を潜め、周囲に気を配って歩くようになっている。ワサビが生えている場所に着いても、草むらを竹の棒で叩いて蛇が隠れていないことを確かめ、座ろうとしているところも念入りに棒で叩いてようやく腰を落ち着けた。


「なんかさっきから棒で叩きまくっているよね。おかしいね」


 棒一本で毒蛇を撃退できることを学んだアキが照れたように自嘲した。


「ああすればよかったんだ……」


「どうした? 加奈」


 俯いて膝を抱えた加奈の呟きを恵子が聞きつけた。


「ああすればよかったんだ。暴力をふるう奴なんか、あのマムシみたいにすればよかったんだ」


「だけど何もできなかった。勇気なんてでなかった」


 どこにそんな勇気があるだろうか。アキは加奈が血に酔ったのではないかと心配になってきた。


「アキさんもやってみない、なんか、さっきまでの私と違うような気がする」


「どう違うの?」


「うまく言えない。でも、がむしゃらに反撃したら相手が怯むような気がする」


「相手が怯む? たしかに弱い女に暴力をふるうような奴だから臆病者に違いないか……。そうだね、やってみるか」


 アキはあえて加奈に反論せず、気持ちが落ち着くのを待つことにした。


「恵子さんも由紀子さんもやってみようよ。うまく言えないけど、変われるような気がする」


「そう、加奈は少し自信がついたようだね」


 恵子は加奈の言葉を考えようとはしていない。アキの考えすらおもんばかる余裕がない。気味の悪い毒蛇と、それを殺した事実を忘れたい一心で適当な相槌をうっていた。


「自分で言うのもなんだけどさ、前ほどビクビクしなくなったような気がするよ。それもマムシをやっつけてから」


「美鈴もそうなの? じゃあ次は勇気を振り絞るか」


 恵子のみせるよそよそしさをごまかすためにアキは美鈴に相槌をうった。


「ところで美鈴ちゃん、ワサビはどこにあったの?」


 なかなかワサビのありかが話題にならないことに焦れた恵子が我慢しきれず美鈴に尋ねた。


「ワサビ? どこだと思う?」


「そっちの奥の方じゃないの? さがそうよ」


「どうして?」


「おいしかったからよ。ワサビ醤油をご飯にかけるなんて食べ方初めてだよ。そのままなすりつけて食べるっていうのも初めて。ご飯だけで食べられて、おかずがいらないよ。ねえ教えてよ」


「教えてもいいけど、小さいのを一株だけだよ。簡単に大きくならないんだって」


「種蒔いたらじきに大きくならないの?」


「何年もかかるんだって」


「じゃあ小さいのを一株だけ、約束するから。稲刈りが終わったら一株。それだけにするからさ」


「じゃあね、恵子さんの左手に触ってるのにしようか」


「左手? この葉っぱ?」


「うん。ちょっとまって、こっちの出口に近い方がいいかな。これを抜いてよ」


「こっちの、これ?」


「うん」


「こんな草を抜くの?」


「うん」


「私はワサビがほしいんだよ」


「うん」


「なんで草取りしなきゃいけないの」


「それワサビだよ」


「これが? ワサビってこんな場所にはえてるの?」


「もういい。信用しないのなら私が抜くから」


「判った、私にやらせてよ」


「そっとね、泥を巻き上げないようにね」


 細い茎の根元を握り、静かに左右に揺らすとズルッと株が抜けてきた。


「なにこれ、簡単に抜けるのね」


 たっぷりと水に浸かった土を細かなヒゲ根で抱いているだけなのでたやすくズッポリ抜けてしまう。泥を抱えたヒゲ根の隙間から太く短い立派なワサビが何本も突き出ている。


「こんなところに生えてるなんて知らなかったよね。私達って本当に何も知らないんだね」


「一株だけど、たくさん根っこがあるよ、こんなにどうする?」


 恵子が抜いた株から十本ほどの根が突き出ていた。恵子もアキも始めての体験である。


「全部ワサビ醤油にする?」


 よほどワサビ醤油が気に入ったとみえ、恵子がはしゃいでいた。


「冷蔵庫だよ、もったいないよそんな使い方」


「そうか、悪い癖がでちゃうね」


 恵子とアキのやりとりを黙って見ていた由紀子であるが、まだ近所への挨拶を済ませていないことが気になっていたので手土産にちょうどいいと考え、遠慮しながら考えを述べてみた。


「あのう、村の人達におすそわけしませんか。ここにきた朝に会ったきりでまだ挨拶をしていないし、知らない土地だからよけいにご近所付き合いが大切だと思います」


 由紀子の一言が居心地の悪い沈黙を生んでいた。浮かれたような雰囲気が一瞬で消え去り、互いを見交わしている。


「ごめんなさい、皆さんの楽しい気分に水をさすつもりはないので気を悪くしないでください」


 由紀子はせっかくの雰囲気を自分の発言でだいなしにしてしまったとオロオロし始めた。

 そしてどうにも取り繕うことができないと悟ると肩をすぼめて消え入りそうに俯いている。その姿はあまりにもあわれであると加奈に映った。そして、誰も気にしていなかったことを由紀子が思い出してくれたと感じた。社会と関ることこそ避けて通れないことであり、今の自分達には到底困難なことである。自分のことだけを見つめるあまり置き去りにしてしまった社会性であった。由紀子さんは偉い。自分達とは違う生き方のできる人だと加奈は思った。


「近所付き合いなんか考えてなかった。自分のことばかりで世間の付き合いを忘れてた。こんなことでは主婦失格だ」


 そう恵子が答え、


「私も自分しか見てなかった。言われて気づくなんて間抜けだよ」


 アキも恥ずかしげに首を垂れた。


「私も。こんなだから友達が少なかったのかな」


 年端のいかない美鈴までもが恥ずかしげに下を向いた。


「ごめんなさい.。思いつきを言っただけだから」


「アキ、どう思う? 今まで連れ戻されるのが不安で世間を締め出してきたけど、世間付き合いをしたほうがいいかな」


「恵子さんはどう思うの?」


「正直言って怖い。だけど、自分達だけで生きられるかというと不安でたまらないよ」


「加奈は?」


 恵子の言葉をしばらくかみしめたあとでアキが加奈を窺った。


「不安には違いないけど、全部自分達だけでできないのは事実だと思う。はっきりしてるのは、世間付き合いを考える人がいなかったということ」


 加奈は頷いたままではあったが心にうかんだことを口にした。


「それでどうなの?」


「私達は最近ここにやってきたんだから、こっちが相手を信用するのが先かもしれない」


「美鈴ちゃんは?」


 アキは次に美鈴の考えを求めた。


「お試しでやってみてもいいかな。こんどは反撃できそうな気がする」


 加奈とは違って美鈴は小声ながら即答した。


「私も同じ。マムシを殺したからそう思えるのかな」


 加奈は美鈴と同じことを考えていた。もし自分に危害を加える者がいたら、こんどは敵わぬまでも反撃してやろうと考えていた。なぜそう思ったのか加奈自身にも説明できないが、きっと効果があると思いたかったのだろう。


「同じ考えということでいいんだね。判った、家に帰ったらみんなで持っていこう。そういうことならもう一株抜かない?」


 それから誰も異議をとなえないのをうけ、恵子が皆に念を押した。

 それこそが、世間付き合いを取り戻すことこそが再生への第一歩であることを皆が自覚している。しかし、理性だけでは感情を操作できない。加奈はそんな歯がゆさを朧に感じていた。



 いつもより少し早いが鮎釣りに行こうと、軽トラックに釣り道具を積み込んでいる吉田が何気なく釣竿の先に目をやったとき、坂を下ってくる女達に気付いた。どこへ行くつもりなのか笊を持っている。どこかへ行くといってもバスが運行している地域ではないし、二頭の犬を連れている。珍しいことがおこったものだと感心して眺めていると、魚を調理しに洗い場に出てきた若嫁も不思議そうに女達の姿を眼で追っていた。


「なんと珍しいことじゃ、どこへ行くのか知らんが雨でも降らにゃあええが」


「それぃや、どこ行くんかいのう」


 心配そうに眺めている二人の気持ちを知ってか知らずか、小道を折れて近づいてくる。さてさてどこかの家を訪ねるのだろうかとそのまま立っていると、二人の前で歩みを止めて、ペコリとおじぎをした。


「上の家に住む者です。早くご挨拶に来なければいけなかったのですが、ようやく外に出て人と話せるようになったので挨拶に来ました。どうかよろしくおねがいします」


 吉田にしてみれば失敗作のナスやキュウリが笊に山盛りになっている。そして、葉を落とさないままの立派なワサビも盛られていた。


「そうかね、外に出られるようになったかいね。そらあ何ぃね、辛かったじゃろう。詮無ぁこといね。挨拶ちゅうても、そねぃなことせんでもえぇんじゃけえ、何でもなぁことじゃ。ナスもキュウリもこさえたかいね、都会で食べるんたぁ違うてうまあじゃろ? ワサビはどねいしたかね」


 吉田は女達とワサビを交互に見つめていた。ナスやキュウリはどうでもいい、乱暴な言い方をすれば誰でもつくれる野菜である。その証拠にまともな代物は半分もない。育ちすぎや虫食い、熟して種が大きくなった物ばかりである。それにひきかえワサビは素人がどう頑張っても育てられないものである。土地を選び、水を選ぶ。吉田でさえおいそれと手をだせないものである。まして育てるには永い時間がかかる。春に移り住んだ者が育てることは不可能である。吉田はそれが不思議であった。


「山でとってきました。たくさんあればいいのですが、皆さんにと思って」


「ワサビ田があるたぁ聞いてなぁが、よう見つけんさったのう」


 近くでワサビを育てた話を吉田は聞いていない。運よくワサビ田に行き当たったとして、それがワサビであることをどうやって知ったのだろう。吉田の不審はますます深くなった。


「この前来た子が見つけてくれました。町の生活しか知らないので教えてください」


「そねいなこと、何でもなぁことじゃ。これから挨拶に回りんさるんかいね?」


 この前来たといっても名古屋からの一団以外によそ者は来ていない。しかし、都会の者が見つけることなど不可能に吉田はどうしても納得できずにいた。


「はい、そうしようと思います」


「よし、呼んできてやるけぇ、ちぃと待っとりんさい」


「そんな、ご迷惑では……」


「世話ぁない、ちぃと待っとりんさいよ」


 ほんの十軒ほどの村とはいっても、それぞれが家の前に畑をもっている。全部に声をかけようとすると思いのほか歩かねばならないのだが、気軽な調子で歩いてゆく。


「お茶でもいれるけぇ、上がって飲みんさい」


 取り残されたかっこうの女達を、若嫁が座敷に誘った。


「いえ、迷惑になるだけですし、すぐに帰りますから」


「そねぃなこと言っちゃあやれんよ。いつになったら降りてきんさるかちゅうて話よったんよ。遠慮しちゃあいけんよ」


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