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意欲のかけら (ジレンマ)

 十一


 名古屋に戻った二日後、救援課の応接室で会議が開かれている。夕食の時刻を過ぎているので廊下を行き交う足音はまばらで、当番の職員が事務室で談笑しているのが聞こえてくるような静けさになっている。


「そうか、客商売には適さんのだな? まあその方が都合いいかもしれん。うっかり知人に出会うという心配がないからな」


「そこでどんな事業ができるかですよ」


「そこだな問題は。どうやって稼ぐかだ」


 本人達の様子を上の空で聞き流し、事業の内容を苦にする議員達に村井が喰いついた。


「稼がなきゃいけませんか? そんなに利益が必要ですか?」


「それが一番手っ取り早く成果になるからなあ。励みがないと仕事が……。お他楽になるからなあ」


  大隅が腕組みをして考えこんでいる。


「自立資金を積み立てるためにも利益がな。でなきゃ、議会を説得できんぞ」


 市長も難しそうに唸るばかりである。なぜ村井が剥きになっているのかに考えが及ばない議員に呆れて、更に村井が食い下がった。


「なあ、あんたたちどうしてそんなに仕事のことばかり心配するんだ? そんなことより施設をどうするか考えなきゃいかんだろうが。いったいどれくらいの費用が必要なんだよ」


「そっちか? 案外安くてな、三百くらいで何とかなりそうだ」


 誰かに調べさせたのだろう。市長が間髪いれずに答えた。


「三百? ふっかけすぎだよ。年金関係の施設売却の時はもっと安いのがゴロゴロしとったじゃないか。それも現役で使用中の施設だったぞ。もっと交渉しなきゃだめだよ」


「だけど、施設を手に入れてもその後をどうするんだ? やっぱり事業内容じゃないか。議会を通すのは簡単じゃないんだぞ」


 腕組みを解くでもなく、大隅は他人事のように言う。


「事業内容なら腹案があります、まだ成功していないけどね。そっちはどうなんです? 何かアイデアがあった?」


「どうだ? ワシは白紙なんだが」


「そんな簡単に思いつくわけないだろうが、表向きの仕事だって忙しいんだぞ」


 やはり具体的な案はないようで、二人して顔を見合わせている。


「そうですね、あっちこっち引っ張りまわされてなかなか時間がとれないのが現実で」


 都築もあたりさわりのない言い方で逃げにかかっている。


「なるほどね、案外そうじゃないかと予想はしていたけど、大当たりだったわけだ」


「仕方ないじゃないか、アイデアなんか簡単に湧くもんか」


 腕組みを解いた大隅が開き直った。


「だから相談してるんだよ、簡単に閃くもんじゃないのはわかってるさ。だからこそ、銭金のことばかり考えてちゃ何もできないんじゃないの。たしかに利益は大事だけど、それは別の次元のことじゃないか。どんな志をもつかが一番大切じゃないのか?」


「理屈はそうだけど、予算を使う以上議会を説得する裏づけがいるんだぞ、そっちも大事じゃないか」


「そんなだから世の中がよくならないんだよ」


「それで、さっき言った腹案ってなんだ?」


 なんとか事をおさめたい市長が村井に聞き返した。開き直ることといい、逆質問といい、二人は議会と間違えているのではないかと村井は思った。


「悪いけど言いたくない。言ったら否定するか尻馬に乗るかで、きっと自分で考えようとしないだろうからな」


「なんでそう言い切れる?」


「ならちゃんと自分の案を出すか?」


「そりゃあ、名案だったら賛成するわさ」


「妙案じゃなかったら?」


「他になかったら仕方ないということだな」


「それが問題なんだよ。考えてくれよ自分の頭で。どんな案でも馬鹿にしないからさ」


「そんなこと言われても、急には……」


「他の人はどうなの?」


「……」


 若手議員はただ黙ったままである。


「なんだよ、だんまりか。ちょっと教えてもらいたいんだけど、立候補したときにどう訴えたんだ? 名古屋を住みよくするためにこんなことをするって訴えたんじゃないのか? それがどうだ、アイデアが一つも出ない。議員ってのは市の事務局が作った筋書きを審議するためにいるのか、要は誰だっていいわけなんだ。そんなことのために高い報酬を払うわけだ、そんな仕事しかできないくせに格好つけて秘書を雇うわけだ。呆れた職業だな。当選した途端に理想をなくしてしまうんだな、つまらん。言い返せるか!」


「部外者からはそう見えるか……。これでも努力してるつもりなんだが……」


 苦しまぎれに大隅が愚痴をこぼした。


「民間だって努力してる。そうしなきゃ僅かばかりの給料すら貰えなくなるからな。二足も三足も草鞋を履き替えている者もいるんだよ、少々の努力は当たり前じゃないか。それを承知で苦労を買って出たんだろ? 甘えるなよ」


「そう言わずに、機嫌直して教えてくれよ」


 村井が散々悪態をついているにもかかわらず、こんどは泣き落としにかかってきた。


「判ったよ。実は、非常食を作れないかと苦心してるんだよ。非常食を作って売るってのはどうかな?」


「そんな物が商売になるのか?」


「そんなことわからんよ。でもね、長期間保存できて安かったら売れないか? 研究する価値ないかな?」


「それを売るのか? 誰が買ってくれる?」


「まだ完成してないんだし」


「なんだ、具体的な案じゃないのか。そうか……。それなら次回にいろんな案を持ち寄ることにしよう、なるべく具体的なのをな。今日はここまでにしよう。いずれにしても元気でよかった」


 さんざん悪態をついたくせに具体的な材料にならないと知った市長は、日延べを言い出した。


「なんだかなあ」


 これまでの話を黙って聞いていた吉村がイラついたように声をあげた。


「どうした? 奥歯に物の挟まったような言い方だな」


 これまで一度として口にしたことのない言葉に市長がめんくらっている。


「こいつがすごく緊張してね、我慢して我慢して対応したから何とかなったんですよ。それをもっとわかってほしいんですがね。あんな姿初めてですよ、私達の前にいる村井とは全く別人でしたよ」


「それは認めるって。俺達ではぶち壊すのが落ちなのはよくわかってるから、怒るなよ」


「もう一人、同行した職員がよく働いてくれて、そいつのおかげでもあるんです」


「連れてきてくれ、わしから礼を言う」


「それはだめです、職員は中身を知らないから」


「じゃあ、どうしろと……」


「否定的な発言をしないでくださいよ。問題があってもとりあえず先に進んでみて、それから問題を解決するように考えを改めてくださいよ。だいたいあなたたちはどんな具体案を示したのですか、白紙じゃないですか。村井に便乗してるのに難癖ばかりつけて」


「何をそんなにムキなってるんだ」


「あなたたちは実態を少しも理解していない! 心が壊れたらどうなるか知らないから呑気な態度でいられるんですよ。家族が被害者だったらそんな態度でいられますか? あなたたちが病気になるかも、犯罪者になるかもしれないんですよ。どうして罪のない人があんなに人間不信になるんですか、猜疑心の塊ですよ。おどおどした眼、能面みたいな顔。想像できますか? 生きる気力を奪われて、まともに見られませんよ」


「現場を知らんのがいかんのだな。すまんな吉村」


「俺はいいですよ、痩せても枯れても公務員だから。でも村井は民間人なんです、もっと気遣ってやってください。いつも矢面に立っているんですよ。生活がかかっているのに、一銭にもならないことで走り回って……。確かに好きでやってるのかもしれません、頼まれもしないのに勝手にあくせくしてるのかもしれません。だがそれは無責任な一般市民の見方ですよ、少なくとも現実を知る行政の態度ではないはずです。そのうちこいつが潰れてしまう。それで胸張れますか? 後味が悪くないですか?」


 橋本と相川は黙って議員達を見つめ、いつも軽口を言う宮内でさえ何も言わずに大隈と市長を見つめていた。


「判った。もっと真面目に考える。本気で動く。それでいかんか?」


「その言葉を信用しますよ」


 重苦しい雰囲気で会議が終わった。



「あんなこと言っていいの? 相手は市長よ」


 初めてやりとりを間近にした橋本は信じられないように村井を見つめていた。


「毎度のことですよ、なにも心配いりません。村井の本性が少しはみえましたか? 錦の時とは正反対でしょう。始末におえん奴ですよ」


「付き合い方にコツがあるの?」


 吉村の説明を上の空で聞きながら、橋本は怖々村井を窺っている。


「付き合い方? コツなんかないけど……。喰いつかれないか心配になった?」


「……まあ」


「そんな心配は一切いらないよ。根っこが馬鹿だからな、みんなが仲良く生きられれば満足してるよ。うちの職員に唸ったことだってないし」


「そう、よかった。面倒な人と知り合いになっちゃったって心配だったのよ。でも、どうしてあんなにムキになってたの?」


 ようやく安心したのか、橋本は村井の本心を尋ねてみた。


「何が? さっきのやりとりのことなら社員教育のつもりなんだけど」


「社員教育?」


 とぼけたような表情で言った村井の言葉があまりに予想外だったのか、鸚鵡返しに答えた橋本の声が裏返っていた。


「特に新人の」


「どういうことなんです?」


「今の話で判ったでしょう、奴らには立案能力が欠けています。想像力がないのか、出し惜しみか、要は無関心なんですよ。奴らの存在理由は、単なる員数集めじゃないはずですよね、それに名古屋市のためでもないはずです。市だ県だ国だっていうのは行政上のくくりでしかないですからね。肝心なのはそこで暮らす人が仲良く暮らせるかなんです。その人達のために行政があるわけで、自治体のために行政があるんじゃないです。

 議員は行政の仕事を監視して、人々が安心して暮らせるようにするのが役目で、そのために政策提案をしなけりゃいけません。つまり、社会で何が問題になっているかを感じとることが出発点のはずです。それをどんな方法で解決するかを考えて、実行するために議会に諮るのが仕事なんです。今回のことはすでに課題が与えられているんです。解決策の原案もあるんです。ずいぶん楽なはずですよ、なのに具体案を考えられない。馬鹿にしてるよ。俺にまかせろって大見得きって議員になったんだよ、立候補するってのはそういうことじゃないの。だからな、腹が立つかもしれないけど、教育をしてやらなきゃと思ったらああなっちゃった」


「睨まれるわよ」


「いいさ、俺は市から何も貰っていない。何かされたら報道を利用して喧嘩してやる。それより、俺に付き合って吠えたけど、よかったのか? 上司だぞ」


 公務員臭さが薄れてきた吉村を好ましそうに村井が見ていた。


「いいさ、あの姿を見てないから気楽に考えるんだ。あれで市民の代表か」


「よせよせ、結局は票のためなんだから」


「そこの野良犬と定年犬、頭ひやしてコーヒー飲まない? みんないらない?」


「さすが若女将、気が利くね」


「いいわね。あの娘も呼んであげようよ」


「そんなことしたら五人衆勢揃いしますよ」


「いいじゃない、楽しくて」


「気分転換してもらえ、俺のことでカリカリするなよ」


「そうじゃないよ。あれが仕事に対する姿勢なんだ、本心なんだ。近藤や木村にしごいてもらわんとだめだな、あいつら」


 まだ興奮がおさまっていない吉村は、言い足りなかった不満を爆発させていた。


「なにやっても無駄だよ、奴ら自分を特別扱いしてるから。自分は優秀だと勘違いしてるから」


「呼ぶよ、いいのね?」


「呼んでやれよ、甘えさせてもらうから」

「あーっ、村井さん助平なこと考えてない?」


「生き物はみな助平なんだよ!」


「普通言わないよー」


「みんなが嘘つきで、俺が正直なだけだ」




 錦町に来はしたものの、由紀子の鬱々とした気持ちが晴れることはない。


 叩かれ蹴られ罵声をあび、かと思えば無視されたり性行為を強要された生活が骨の髄にまでしみこんでいるようで、絶対大丈夫と太鼓判を押されたというのに、いつ夫が現れるか判らないという不安から眠れない夜が続いている。だからといって薬で無理やり眠ることはもうできない。毎日の作業がまっているし、それより、薬がもう残っていない。名古屋にいれば、名古屋でなくても病院がある町であれば薬を手に入れることができようが、ここには薬局がない。コンビ二すらない。仮に病院や薬局があったにしても薬を買う現金がない。


 村井の言うように、風景に同化し、農作業で健康的に疲れれば、体が勝手に治してくれるのかもしれないとは思うのだが、しかし夜になり、わずかに小川の流れる音や竹の葉が擦れ合う音しか聞こえなくなると、騒音に包まれて生きてきたせいか耳鳴りを感じ、それがかえって意識を乱すことになる。

 いったい自分は何のために産れたのだろう。この先どうなるのだろう。やはり名古屋に戻ったほうがいいのだろうか。

 毎夜きまって堂々巡りをしたあげく、膝を抱えて蹲ったまま眠ってしまう。


 別れ際に聞いたあの言葉、『頑張るのはだめ、無理しないで少しずつ進歩すればいい』というあの言葉が、なぜか心に残っている。

 なにも好き好んでこんな状態になったわけではない。あの娘達のように明るく笑いあって生活を楽しんでいたのに、我に返れば、いわれのない苦しみを受け、笑うことを忘れてしまった自分しかいない。相手と接するのが怖くて人を避けているのだから当然なのだが、なぜこんなことになってしまったのだろう。男を選ぶ目ができていなかったのが一番の原因だろうし、見切りをつけられない優柔不断さも原因だろうと思う。それが情けなく、いまだにそこから逃れられない自分がもっと情けないとも思う。ましてや、今の自分を肯定することなどとうていできない。開き直るだけの気力があればどんなに楽だろう。

 灯りを消した部屋の隅で、由紀子の堂々巡りが尽きることなく続いていた。



「ねえ恵子さん、由紀子さんまだ使い物にならないようだね」


 風呂上りの火照りを縁側でさましながら美鈴が恵子に話しかけた。


「焦ってもだめよ、まだ十日だから仕方ないよ。あんたどれくらいかかった?」


 色の濃い茶を飲みながら恵子が答えた。


「二月くらいかな。なんとか外に出られるようになるのに二週間。怖い夢をみないで眠られるのにひと月。日にち薬だよね」


 夜空に横たわる天の川を眺めながら美鈴が指を折った。


「そうね、私達が治してあげられないしね。でも、何かしてあげられるんじゃないかな、アキには考えがあるんじゃないの?」


「残念だけど思いつかない」


 山歩きでついた生傷をさすりながらアキが残念そうに返事をした。


「加奈はどう?」


 いつも自分から発言しない加奈に恵子が矛先をむけると、


「山に、美鈴が行った山奥に行ってみようか」


 発言の機会を待っていたかのように加奈が応えた。


「何しに?」


 必ず家が見える範囲にしか出歩かない加奈の意外な提案である。その理由が恵子には理解できなかった。


「なにも。目的がないのもいいかなって思っただけ」


 見知らぬ山奥を見に行く以外に目的がないのは事実であった。ただ、何もせずにいたら何一つ変わらないことを言いたかっただけなのである。


「母ちゃんはどう思う?」


「いいね、知らない場所を調べるのもいいね。美鈴ちゃんを先頭にして食べ物をさがしに行くのはどうかね。私は遠慮するよ、膝の具合が……」


「ごめんね恵子さん。あんなこと言い出したくせにヒントがみつからなくて。でも、由紀子さんの回復を手伝うことができたら夢に影ができると思うの、だからなんとしても回復させないとね」


 アキは何一つ具体的な考えがないことを皆に詫びた。アキ自身気付いていないのだが、ここで暮らす全員が自発的な行動をとれないのである。それは生まれつきでは決してなく、長い時間をかけてそうせざるをえなくさせられた結果であった。


「アキさん、夢に影ができるってどういうこと?」


 時折アキは難しいことを言う。まだ人としての経験を積んでいない美鈴には意味がわからないことが多く、それもその一つであった。


「美鈴の影は美鈴の体があるからできるんだよね。もし美鈴が幽霊だったら影なんかできる? できないよね。夢もただ憧れているだけなら幽霊といっしょ、さわることも掴むこともできないもんね。現実のものにしなきゃ意味ないと思わない?」


 そういうことなのかと美鈴は思った。


「だけどさ、ああなるまでにかかった時間が問題じゃないかな。美鈴なんかは短い間だろうし、加奈さんは美鈴にくらべたらずっと長いよね。恵子さんも私もかなり長い。母ちゃんなんか別格というくらい長いよ」


 前向きに考えるかと思えば素人ではお手上げとでも言いたいような口ぶりである。


「アキさん、期間の問題じゃないと思うけど」


 まるで自分は程度が軽いと言われたようで、美鈴は少しむっとしていた。


「ごめんね、美鈴が軽いというんじゃないよ。ただね、期間が長ければそれだけ心が壊れてるんじゃないかな」


「されたことの内容はどうなの? 加奈さんはどう思う?」


 やっぱり自分達は別格といおうとしている。そう思った美鈴は加奈に意見を求めてみた。


「けっこうウェイト占めてる」


 美鈴の気持ちは十分に理解できる。自分の感じる痛みは決して他人に伝わらないことを加奈は知っている。誰もが自分ほど辛い思いをした者はいないと思っているだろうと加奈は信じていた。


「そうね、辛いよね。他に気付いたことない?」


「あまり考えたくない」


「要は、そういうのがごちゃ混ぜになって、恵子さんみたいに自分で考えるのをやめようとさせるんだと思う。私の場合、何をするのも自分で決められなくなっちゃった。ううん、決められなくされた。それが今も続いているの」


 途切れ途切れにそこまで言ったアキはそれで口を閉ざしてしまった。


「そう考えられるアキさんはすごいと思うよ。まだ私には無理」


 重い、自分たちがこんなに重いことばかりを話すかぎり由紀子の心を癒すなんてできっこない。加奈はそう考えアキの前向きさに期待して褒めてみた。


「私ね、このまえ名古屋から来た女の子と山に行ったでしょ、その時に強い子だなって羨ましかったんだ。自分で考えていろんなことをしたんだよ。いろんなことを知ってたし。マムシが心配だからって草刈りしたのもあの子の考えだし、体を使って働くことを楽しんでた。あの子なら何日も山で生活できるだろうね、生きられるだろうね。だけど、私は化粧や服装や恋愛にばかり興味がいって、生きるのに大切な知恵も知識もないんだよね。もっと生きることに懸命にならなきゃいけないんだね、あの子と話してそう感じた」


 美鈴は先日訪れた亜矢をとても羨ましく思っている。思ったことをすぐさま行動に移す積極性、知らないことを知ろうとする積極性、年上相手に臆さない積極性。初対面の自分にさえ気軽に話しかける積極性。どれも自分に欠けていることである。

「そういえばあの子、夏なのに長袖の作業衣着て地下足袋だったよね。皮手袋なんか汗で色が変わってるの見た? どんな仕事か知らないけど、妙に様になってたね。でも、美鈴ちゃんも頑張ってるよ」


 恵子も制服に着替えた亜矢の姿を思い出していた。着込まれて体に馴染んだ制服といい、地下足袋を履いて安全ベルトを巻いた姿といい、汗で変色して飴色になった手袋といい、恵子にはとてもまぶしい印象を残した娘であった。


「それよ、あの子が帰り際に言ったの覚えてない? 『頑張らなくていい、毎日少しずつ進歩すればいい』 あれ嬉しかったなあ。いくら頑張っても進歩してないことにくさってたから嬉しかった。気持ちが楽になった。それと、初めての仕事がうまくいかないのは当たり前、失敗すると褒めてもらえるそうだよ。失敗するほどよく覚わるとも言ってた」


「失敗すると褒めてくれるの? 逆じゃないの」


 きっと美鈴の聞き違いではないかと恵子は思った。


「確かにそう言ったよ。それに、就職する前は内気だったんだって。それがあんなに元気な子になってるんだから私達だって大丈夫よ。つまり、由紀子さんのこともそうだけど、そんなに急いで成果を求めなくてもいいんじゃないかな」


「そうね、美鈴の言うとおりかもしれないね。何度も何度も繰り返すのがいいのかもしれないね」


 美鈴の言うように、頑張らないことが許されるのならどんなにか気持ちが楽なはずだとアキも思う。ただ、誰もが言うように頑張れという言葉が重圧なのはわかっていても、そうしか考えられないことも一方で事実であった。


「とにかくさ、侵入者の警戒をしてくれているというのを信用しようよ」


 ここは美鈴の説に従って遊んでみよう。アキは少し足を踏み出すことにした。


「それでどうするの? お茶飲みながら話してたって前に進まないんだからさ、何をするか考えようよ」


「山に行こう、ワサビのあるところまで」


 炎天下で立ち尽くし、じっと信用するまで待ってくれたあの人達がいる。もう少しあの人達を信用してみよう。加奈はそう言うことができず、見知らぬ世界の探検を提案したのである。固く閉ざした心がほんの少しだが緩んだことに気付かないまま。


「どうする、加奈さんのリクエスト」


「行こうか。引っ込み思案の加奈の発案だから、その気になっている時が勝負かもね」


「由紀子さんの気晴らしになるかもしれないしね」


 美鈴と恵子、そしてアキの三人が加奈の提案を相談しだした。


「私は美鈴ちゃんがちゃんと覚えているかが楽しみだね。案外忘れてたりしてね」


「覚えられるわけないよ。これは何の花だ、これはどんな食べ物だって次から次に言われたらどうなる? あーそう、そう言うしかないよ。化粧やファッションでは負けない自信があるけど、腹の足しにならないんだね。こんなど田舎に来て判ったよ」


「美鈴ちゃんは若いから当たり前よ。私なんかこの歳になっても田舎暮らしの知恵なんかゼロ」


 苦笑いでつまらない話を聞き流そうとしていたアキが一瞬けげんな表情をし、ついで小さく叫んでいた。


「それだよ! それだよ恵子さん。私達に欠けていたこと、こうなった原因のひとつ」


「どういうこと?」


「私達って、目先ばっかり見て生きてきたんじゃないかな。世の中を上手に泳ぐためのつまらないことに気をとられて、自分をごまかしていたんじゃないかな。化粧したり流行を追いかけたり、友達と話す内容だってくだらないことが多かったような気がする。うわついてても食べられたから。で、金づると離れるとたちまち生活できなくなっちゃう。何だかんだいって、相手に頼ってたんじゃないかな」


「だけど暴力は許せない」


 まるで他人事のように加奈が言った。自分が被害者なのに興奮するでもなく吐き捨てるでもない。そういう感情を封じ込めることで最低限の自分を保っているのだろう。


「そうじゃなくて、善い悪いの問題じゃなくて、もっと底にあるものだよ。男と女の違いが関係ないかな」


「アキの話は難しいよ。そんな言い方だと、私達みたいなのは仕方ないことになるの?」


 またアキがおかしな理屈をこね始めた。恵子は衝動的に行動する癖があったので、物事をじっくり考えるのは苦手だった。


「動物として考えたらそういう面があるのかなと思っただけだよ。あくまで動物としてだよ、メスってさ、子育てするから餌探しができなくて、オスに頼ることが多いんだって。オスが餌を運んでくるまで耐えなきゃいけないから皮下脂肪が厚くなって、筋肉が小さくなってるそうだよ」


「そんなことない。ライオンみたいに、狩をするメスは多い」


 思わず加奈が口走った。加奈の稼ぎを奪うことしか考えなかった男が現実にいるのである。アキの説は加奈には受け容れ難いことだった。


「それもそうか……。やっぱりさ、本能をうまく宥めるのが心だから、結局は心が弱いんだよ」


「その弱い心を治すにはどうすればいいの?」


「加奈と同じ、私には答えが出せない」


 アキがポツリと呟いた。


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