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意欲のかけら (得がたい助っ人)

 六


 山肌を流れる朝霧が少しずつ薄くなって人里に迫り、水墨画のような風景になってきた。はるか昔に切り開かれた道は、山と川の境目をうねうねと、一時も先を見通せないまま奥へと続いている。所々枝が覆いかぶさり、木の葉が色づく頃には趣のある風景を提供するのだろうし、初夏から秋口にかけては適当な日陰となってくれるのだろう。逆に雪の季節は、凍みた路面が行き交う人を悩ますのかもしれない。生活するにはちょうど陽気の好い今、特に普段の生活道路としての認識がない者にとって、まことに心地よい山道である。


 その道を、所々薄く流れる靄を巻き上げながら走り去るワゴンが二台。朝の早い住民がようやく起きだす時刻である。今頃このあたりを走っていることからすると徹夜で駆けてきたのだろうが、居眠り運転をしている様子はなく、ゆったりとした速度で山奥をめざして通り過ぎてゆく。



「おきろよー、朝だぞー」


「おい亜矢、もう着くからおきろ!」


 村井の声で目覚めていないのならと、助手席から身を捻って吉村が大きな声をあげた。


「だめか?」


「大丈夫、まかせといて」


 言うが早いか宮内が亜矢の両肩を激しく揺さぶると、ようやく亜矢が目をこすって伸びをした。


「目が覚めた? よく寝るよほんとに」


「どうしたの? ご飯の時間?」


「外見なさいよ。山の朝だよ、靄がかかって気持ちいいよ」


「山? ほんとだ!」


 むくっと身をおこして窓を開けようとガチャガチャやっていたが、スイッチがどこにあるのか判らないようだ。


「窓開かないの?」


「横にスイッチがあるだろ?」


「スイッチスイッチ、これかな?」


 ボタンを押し下げるとサーッと冷気が流れ込んできた。


「ワーッ、匂う! 匂うよ、山の匂いがいっぱいする」


 草いきれと樹の香りを嗅いだとたんに窓から頭を突き出し、思うだけ息を吸い込んでいた亜矢がようやく得心したのか、普通に座りなおした。朝靄で顔を洗ったかのようにびっしり水玉を浮かせて満足そうにしている。


「大丈夫か? モードチェンジしちゃったみたいだけど」


「無理ないよ、秋田の山育ちなんだから」


「そうか山育ちか、懐かしいか?」


「うん、すごく落ち着く。村井さん判る? 木の匂い、土の匂い、コケの匂い。神様がスーって体の中に入ってくる感じ」


「俺には無理だな。油の焼ける臭いなら判るけど、人様に自慢できる生き方してないから見放されてる。神様が入ってきてくれたか?」


「気の毒に、やっぱり神様っているよ、いい匂いしてるもん。ねえ思いっきり深呼吸しようよ、腹黒いのが清められるから。お姉ちゃんは?」


「アタシも無理よ、都会育ちだから。犬の調子をみるので精一杯」


「お父さんは?」


「不出来な子供に振り回されて余裕ない」


「あー、新人がちょっと生意気だからね」


「馬鹿ね、あんたたちのことよ」


「あんたたちに真琴も含んでるだろう?」


 チラッとバックミラーを確認した村井がそのまま吉村を見た。


「だから白髪が増えて困ってる」


「やっぱり」


「でもけっこう家が多いじゃないの」


 山奥の隠れ里だという説明だったのに、民家が点在することを宮内が指摘した。


「まだまだ、この先の村が終点さ。あと十分くらいかな」


「村井さん詳しいね」


「五回目だからすっかり覚えたよ」


「そんなに来てるの?」


「準備やらなにやらでな」


「お父さんは?」


「俺は三回目」


「へー、そうなの。村井さん、けっこう下働きしたんだ」


「し、下働き? 真琴は国語の勉強をしなおせ。結婚できないぞ。見えてきた。それ、あの下の方」


 村井の指差す先、道路から少し下がったあたりに民家が点在していて、そこから二段ほど上に一軒だけぽつんと建っている。


「亜矢の実家そっくりね」


「うん、よく似た感じ」


「問題児の実家はこんなど田舎なのか?」


「ど田舎って失礼な! ふるさとって言ってよね」


「遥かなる太古の風景ってやつね、縄文のままなんでしょう?」


「縄文? そんなに進化していないように感じた? 都会よりよっぽどいいのに」


 続いていた田がとぎれ、わずかばかりの平地に民家が点在している。



「車がくるよ! みんな隠れな!」


 二階の窓を細くあけて外の様子を窺っていた惠子が悲鳴のような声をあげた。寝床からようやく起きだしたばかりで、洗顔をする直前のことである。

 静かな山里に聞きなれない自動車の音がはっきりきこえてきた。加奈は夜着から着替えたばかりだったのでパニックに陥ってしまった。出入り口をしっかり押さえながら、深く窪んだ目が怯えたように互いを見交わすしかできない。


 敷地の手前で停車した車から中年の男が一人降りてきて、後続に乗る誰かを手招きすると中年の女が姿を現し、先に降りた男と並んだ。


「おはよう、名古屋の村井です。隣にいるのは名古屋の福祉課の橋本さんです。今日は皆さんに会いに来たよ。他に仲間が六人。全員私の仲間だから心配しないで出てきてよ。出てきてくれないと入れないよ」


 その声を小さく聞きながら、加奈は小刻みに震える体を動かすこともできず、ただじっと壁に吊った雨合羽に隠れるしかできずにいた。



「名古屋の村井さんと橋本さんだって言ってる、本当かね」


「どうする? 誰か確かめてみる?」


 状況を説明する恵子も、土間で固まっているアキも声が震えている。


「見てくるから隠れて。すぐ逃げられるようにしとくんだよ。アキ、母ちゃんをお願い」


 惠子は、万一誰かを連れ戻しにきたことを考え、裏口から仲間を逃がし、勝手口を細く開けて外を窺った。危険を承知で買って出たものの、万一の恐怖から顔を半分覗かせるのが恵子にとって精一杯の勇気である。

 敷地の入り口を塞ぐように二台のワゴンが停まっていて、運転席にはそれぞれ男の姿がある。車の手前で案内を請う中年の男と女の顔に見覚えがあった。



「おはよう、村井だよ。名古屋の村井、顔を忘れた? 困ったな、……どうすれば信じてもらえる?」


「…………」


「あんたたちのもちかけた相談のことで来たんだけど、信じられない?」


「…………」


「国民宿舎ならどうかな、信じてもらえない?」


 国民宿舎ということを知る者はいない。役場で福祉課の職員に話しただけである。役場が名古屋に連絡してくれたとしたら本物だろうが、それでも万一という疑いが拭えない。


 どうしようか、さんざん迷った末に恵子は自分だけで接触してみることにした。いつでも反撃できるように鍬の柄を後ろ手に隠し、怖々勝手口から進み出て、戸口の前で仁王立ちになった。


「あんた、その人に免許証を持たせなさい」


 虚勢をはろうとするのだが、声が震え頬は粟だっている。


「免許証でいいな? 橋本さんに届けてもらうからね。ついでに橋本さんの身分証明も確認してもらえる?」


 必死の形相で精一杯虚勢をはる恵子が哀れで、一刻も早く誤解を解いてやりたい、そう思い村井はポケットから財布を取り出し橋本に手渡した。受け取った橋本は首から下げていたカードを財布に重ね持ってゆっくり歩いてゆく。あと三歩ほどの距離になって恵子の声がした。


「そこで止まって! 財布と身分証明をこっちに投げて!」


 橋本は身分証明の紐で財布を軽く縛り、そっと放ってわずかに後ずさりするとゆっくりしゃがんだ。


 上目遣いに警戒しながら足元に落ちた財布を拾い、ビニールケースに入った身分証明を見ると、施設で担当してくれた職員の顔がある。財布を開くとパスケースに免許証が入っていて、ここに送り込まれた時に同行した男の顔写真があった。村井と名乗ったのも偽名ではない。

 よかった、本物だった。握り締めた鍬の柄がブルブル震えている。あまりに緊張していたからだろう、柄を握る指が白くなって柄を放すことができない。見栄を張るような余裕など失せていて、ガクガク震える膝が体を支えきれずしゃがみこんでしまった。


「大丈夫、本物だから心配ないよ」


 叫んだつもりだが声が掠れている。二度三度と息を整え、動悸が治まってくるのを待って今度ははっきりした声で叫んだ。


「みんな出てきていいよ! 本物だよ! 名古屋からお客さんが来てくれたよ!」



 村井は車に寄りかかるようにして自分達を信用してくれるまで辛抱強く待つことにした。女の叫ぶ声で安心したのか、勝手口からそろそろと他の女も集まってきた。


「信じてもらえた? そっちに行っていいかな?」


 まだ慎重に声をかける。急な行動が更なる誤解を招きかねないので待つしかないと考えている。


「いいよ、大丈夫。こっちに来ていいよ」


 ようやく了解が得られたので橋本と二人だけで女達の前に進んだ。


「ごめんな、余計な心配させちゃったな。不安だったろうな。ごめん、いくらでもあやまるから許してくれよ」


「車の中の人は?」


「全員仲間なんだ、紹介するから呼んでもいいか?」


「大丈夫なんでしょうね」


「大丈夫、保障する。どうかな」


「いいよ。ただし、そこで止まってよ」


「判った」


 女の了解をとりつけて車に残っている者に手招きをして横に並ばせた。


「紹介するよ。名古屋市救援課長の吉村、係長の宮内、職員の結城、福祉課の相川、広島県警の青木。それと、今日からここでいっしょに生活する由紀子さん。他に番犬が二頭と救助犬が一頭。いきなり犬を見せたら不安だろうからまだ車の中にいる。ただし、車の中は暑いからいいかげんに外に出してやりたいんだけど、だめかな。犬はちゃんと訓練したから絶対に危害を加えない。これも信じてもらうしかないけど」


「危なくないのならいいよ」


「亜矢、許可をもらったから出してやってくれ」


「他には誰もいないのね?」


「あとから福祉の川上さんが来ることになっているよ」


「犬はそっちに繋いでおいてよ」


「わかってるよ。ついでだから、小さい方はハナ、大きい方はリキマル」


「そっちのシェパードは?」


「これは災害救助犬の小次郎。俺達の頼もしい相棒だよ」


「…………」


「とりあえず日陰で話をしようよ、ここは暑い」


 女達が無言で駐車場に使っていた庇の下に移動する。


「土産をもってきたからここに運んでくるよ。おかしな物はないから心配いらない。肉と干魚とジュースと飴玉だよ。とにかく並べるから検査してくれるかな」


「おかしなことしないでよ」


「わかってるよ。橋本さんはここに残ってくれないかな、あとは全員手伝ってくれ」



 座席の下に押し込んだ荷物を運びながら宮内が小声で村井に話しかけた。


「村井さんすごく緊張してるね。あんなに慎重なの初めて見た」


「もっと慎重になってもいいくらいだよ、みんな不安でどうしようもないんだから。目がおどおどしてキョロキョロ動いてるだろ、かわいそうに……。表情もなくしてる」


「あんなになっちゃうんだ、……怖いね」


 初めて現実にふれ、普段快活な宮内でさえ笑顔をなくしている。


「だからな、せいぜい明るく振舞ってくれよ、たのむよ相棒」



「荷物はこれだけ。腐りやすいから肉は早めに食べてくれよ。干魚は少しくらいなら大丈夫だろう。わずかだけど、米と醤油。八丁味噌も持ってきたよ。ジュースは二箱しかないから楽しんで飲んでくれよ。おかしな物あるかな? ぬるくなっちゃったけど、ジュースがあるから飲みながら話さないか?」

 ビニール袋に入れたジュースを女達の前に押しやった。適当に一本ずつ取って返した残りを村井達が分けて、地面に腰をおろした。


「ここの生活はどうかな、退屈じゃない? 不便を我慢しなけりゃいけないから辛いだろうと思うよ」


「その人は?」


 明らかに由紀子のことを指している。


「あんたたちと同じ苦労をさせられた人だよ。連れ戻される不安がいっぱいで、少し心を治さなければいけない。あんたたちもそうだったよな。けどさ、川上さんに相談した内容を知って、ずいぶん立ち直っていると思うよ。それに、自分のことばかり考えるのじゃなくて、他人に注意が向いてきたんだから立派だと思う」


「警察というのは本当なの?」


「本物だよ。ただし、広島県警の警察官だからここでは民間人だけどね。県境の廿日市警察署の副署長だよ」


「どうして警察が来るの? もしかして誰かに知られたの?」


「違う違う。たまたま昨日まで名古屋で救助技術の訓練を受けていて、大人数だからということで車を提供してくれただけだよ。それに、そもそも青木さんが尽力してくれたからここで生活できるようになったんだよ。だから立役者の一人さ」


「そっちの人達は?」


「吉村と宮内のこと? あんたたちの考えていることに協力できるかもしれないから、それを話し合うために同行した」


「もう一人の若いのは?」


「亜矢のことだね。あいつの実家は秋田で林業をしてるんだ。生粋の山っ娘だからいろんな知恵が沁みついててね、危険な場所や山で食べられるものの見分け方を教えるといって率先してついてきたんだ。相川さんは橋本さんとコンビを組んでいるから、あんたたちに深く関わることになる。それよりさ、せめて肉だけでも冷蔵庫にしまってきてよ。こんな季節だからすぐに腐ってしまうよ」


「どうする?」


 少しは落ち着いたのか、恵子が仲間に視線を移した。その恵子と目が合ったとたん、加奈は立ち上がって並べられた土産物を抱えていた。


「とりあえず信用します。暑いから中へ」


 すっかり信用したわけではないが、加奈はぶっきらぼうに言って戸口にむかった。あの女性は明らかに自分と同じ苦を舐めている。それは理屈ではなく、体臭のように加奈に届いていた。


「判った、中で話を聞かせてください」


 アキはアキで、由紀子の消え入りそうな生気を感じ取っていた。


「信用していいんだね? 息子の知り合いじゃないんだね? はっきりしてよ」


 初枝は自分の勘を信じながらも、なおも保証を求めるように村井にせまった。


「俺にも知り合いが多いからさ、あんたの息子と知り合いかもしれん。でもね、今日ここに来たことを知っているのはこれで全部なんだし、誰に言うつもりも必要もないんだよ。もし俺達が何か企むんだったらもっと違うやり方があるじゃないの。それより、あんたたちの苗字を知らないんだよ、だったら知り合いが誰なのかも判らないよ」


「そりゃそうだけど……。信用するしかなさそうだね」



「これで二人になったね。腹を括るしかないね、美鈴ちゃん」


「判った」


「真琴、亜矢、荷物を運んでやってくれ。青木さんと吉村さんは外から見えない場所に車を移動してくれないか。俺はまだここにいる、まだ信用されていないからな。一本吸わせてくれよ、くたくただよ」


 そう言うなり、村井は地面にあぐらをかいてタバコに火をつけた。



「いつものお前と全く違うな、別人みたいだぞ。……それにしてもこんなに他人を信用できなくなるのかな、こうさせた本人は何も考えていないなんて、傷害ぐらいじゃすまない犯罪だぞ」


 車を脇に異動させてきた吉村が険しい表情で呟いた。


「心を壊してしまうんだからもっと厳しい処罰規定が必要ですね。警察官としては不謹慎でしょうが、復讐させてやりたいと思います」


 荒っぽいことに慣れているはずの青木でさえ異様な雰囲気に当惑していた。


「何日も暴行させて、自分の罪に気づかせなければ収まらないんじゃないか?」


「無駄だよ。そんなことすれば余計に陰湿になる。そういう奴に限ってな、災害にでもあったら自分だけ助かろうとするんだろうよ。結局は弱虫なんだと思う」


 軽はずみな吉村の考えを村井は言下に否定した。


「じゃあどうすればいいんだ」


「青木さんはどう思う?」


 吉村の反論を聞き流した村井は、青木の意見を求めた。


「警察の介入できない部分が多くて対処できません」


「だろうね」


「お前はどうすればいいと思ってるんだよ」


 考えに行き詰った吉村は村井に食ってかかった。


「教育しかないと思う。弱い者を狙うことは恥ずかしいと教育するしかない。手遅れな奴もいるがね」


「現に被害者がいるんだぞ、そんなにのんびりしてていいのか?」


「全体の約一割が被害者だという調査結果があるそうだ。言葉だけの暴力を含めたらもっともっと多いだろうな。できたら懲役にすることだな」


「そんなにいるのか? 大げさじゃなくてか? ……信じられんな。でも、少しくらいの懲役で効果あるのか?」


「刑務所で一番馬鹿にされる罪は何だと思う?」


「かっぱらいか?」


「残念ながら、強姦や痴漢。奴等にも誇りがあってな、弱い者に悪さをした者を軽蔑するらしい。工場でしごかれるとか、舎房でも居心地が悪いそうだから期待したいんだがな」


「そうなのか?」


「あくまで噂だけどな」


「真琴の奴出てこないな。そろそろいいのかな」


 村井と話しながら吉村は宮内と亜矢が家から出てこないので心配していた。


「吉村さん、もう少し待ちましょうよ。せっかく待ってたんだし、村井さんの努力を無にしちゃいけないよ」


「そうだったね、どうもセッカチでいかんな」


「な? 辛抱辛抱。もう少しだ」



 ようやく許されて座敷に通されたのはそれから三十分後のことだった。福祉課の川上が来てくれたのは、途方にくれてタバコを吹かしている最中のことである。とんだ勘違いに大笑いしながら説明してくれて、やっと座敷に通してもらえたのである。本人たちの声を川上が伝え、それが実現可能なのか、本人達の意思がどこにあるのか、施設がどんな状態なのかを知るためにやってきたことを改めて説明し、考えを一通り聞くことができた。


 時間を無駄にできないので、早速施設を見に行こうということになった。膝が痛むという初枝を残し、全員が腰をうかせたときに遠慮がちに亜矢が吉村の服を引いた。


「お父さん、なにも全員で行く必要ないと思うんだけど」


 吉村の服をそっと引っ張りながら亜矢が小声で呟いた。


「行きたくないのか?」


「あたしそんなことしについてきたんじゃないよ。危ない場所や食べられるものをさがしてあげる」


 こんな若い娘に何ができるというのか、加奈には二人の会話が不可解であったが吉村はかるく頷いた。


「あのう、美鈴さんといっしょじゃだめ?」


 宮内と同じくらいの年齢だから親近感がわいたのか、亜矢が美鈴を同行者に指名した。


「その場で教えなきゃわからないことばかりだから」


「美鈴さん、どうする?」


 宮内が美鈴に尋ねた。


「私は山に行く、その方が役にたちそうだから」


 しばらく考えていた美鈴は、退屈な話よりはましと考えたのかあっさりと同意した。


「よかった。それなら着替えをしたいのだけど」


 亜矢は美鈴の返事を待っていたかのように立ち上がった。その勢いにつられて美鈴も腰をうかせて奥の小部屋を指差した。


「そっちの部屋で着替えていいよ」


「着替えを取ってきます。車に鍵かかってないよね」


 言い捨てた亜矢がバタバタと表に走り出た。ナップサックを持って戻ってきて、隣の部屋から出てきた時には救援課の制服姿に安全ベルトを締め、何か装置をぶら下げていた。


「あんた制服もってきたの?」


 宮内が呆れたように言った。


「山歩きにはこのほうが動きやすいから。暑いけど乙女の柔肌を傷だらけにしたくないもんね。美鈴さんにも無線機。もう一台はお姉ちゃんにお願い。犬笛持ってるよね、小次郎を連れて行くから無線が通じなかったら小次郎を呼んでくれる? それと、鉈と鎌を貸してください。何かあったら採ってくるから楽しみにしてて」


「安全ベルトはいいけど無理しないでよ」


「ちゃんとロープも持ってます」


 自慢そうにナップサックをポンと叩いて肩にかけた。


「足元は?」


「亜矢様に抜かりがあるもんか、地下足袋持参だよ」


「なんか仕事より張り切ってない?」


「みんなには内緒にしてよ、ばれたらこきつかわれるから」


 冗談を言い合いながら無線機を美鈴にも装着させた。


 何か違うと加奈は思った。この若い娘も、お姉ちゃんと呼ばれる娘も、そして村井も吉村も青木も娘の行動を心配する素振りすらみせない。娘を信頼しているのがよくわかった。


「話す時にはこのボタンを押したまま話してください。ボタンを押している間は他からの声が聞こえないから、話したあとは手を離してね。やってみるよ」


『どう? 聞こえますか?』


 亜矢は無線機の扱いを説明して、実際にマイクに囁いてみた。


『これでいいのかな、聞こえた』


『アタシの声はどう? 聞こえる?』


『聞こえます』


「よし、準備完了! 美鈴さん、行きますか! そうだ、美鈴さん犬怖い?」


「べつに、平気だけど」


「気晴らしに犬にも運動させてやろうと思うんだけど、美鈴さんも犬を連れて行かない? 実用的なのは柴犬、穏やかなのはラブ。どっちがいい?」


「穏やかな方」


「判った、ハナは留守番。……だけど仲間外れはかわいそうだよね、両方連れて行こう。犬にもあたりの様子を覚えさせるときっと助けてくれるよ。それと、念のために長靴にしてね。けっこう危なそうだから」


 そう言い残し、亜矢は美鈴と三頭の犬を従えて山に入っていった。




 村の入り口に山に向かう枝道があり、そこを登っていくと細いながらも国道が通っていて、少し開けた土地を利用して古びた施設が建っている。三十台くらいとめられそうな駐車場と、コンクリート作りの三階建て建物で、塗装が剥れかかり、全部の窓が合板で目隠しされている。全館冷暖房を完備し、自家発電設備も設置されているということであるが、なにぶんにも通行量の乏しい道であり目立った観光地があるわけでもなく、施設をどのように運用するか、収益をあげるにはどうすれば良いか、簡単に解決策が得られるとは思えない。その反面、収容者のことを外部に知られる可能性は低いだろう。つまり、通過客や固定客を相手の事業は成り立たないだろうから、自家製品を開発して地方発送するしか選択肢がないのではないかと思われる。


「川上さん、ここの部屋数はどれくらいですか?」


 駐車場の入り口から全景を眺めていた村井が叫んだ。


「確か二十五室くらいなかったですかね」


「風呂や便所は?」


「全室完備です」


「広さはどうですか?」


「シングルはありません。基本的に多人数で使う部屋ばかりですから最低でも六畳、八畳かもしれません。六人部屋もありますから間仕切りをし直せば個室を多くとれます」


「ところで、食品を配達してくれる業者ははありますか? 配送業者はどうですか?」


「食品というと加工食品ですか? それとも食材ですか?」


「食材です。肉・魚・地域で採れない野菜ですね」


「大丈夫でしょう、岩国からでも来てくれますよ」


「そうですか、町のように考えていいのですね?」


「町のように自由にはいきませんが、毎日でも届きますし、送ることもできますよ。どうかしましたか?」


「どんな事業が成り立つか考えてみようと思いまして」


「裏口に回ってみますか?」


「そうですね。ところで、この建物と敷地を買うとしたらどれくらいの費用がかかるのでしょうね」


「土地だけなら、……どうでしょうね、あまり便利な場所ではないから三百くらい。建物は査定がつかないでしょうね」


「更地を要求すれば解体費用で赤字になるということですか?」


「そうです。だから国有地の売却でも買い手がなかったということでしょうね」




「美鈴さん達は、この小道を毎日通っているの?」


 小川に通じる小道を見るなり亜矢が尋ねた。


「そうだけど、それが何か?」


「草刈りしてる? こんなに草が多いと危ないよ。なるべく端を歩かない方がいいよ、蛇がいるかもしれない」


「蛇?」


「せめて道端の草刈りをした方が安心だよ。河原も草が多すぎる。あとで草刈りをしておかなきゃ」


「草があると蛇がいるの?」


「そうとは限らないけど、水があって身を隠す草がある場所を蛇が好むから。マムシに噛まれたらおおごとだよ。マムシ対策も必要だね」


「脅かさないでよ、そんなこと言われると歩けないよ」


「だから長靴できてもらったの。噛まれても靴だけですむから。この奥に行くのかな?」


「この奥に蕗や茗荷があるの」


「他の食べ物は判る?」


「どれも草でしょ?」


「たとえばね、この葉、これはウド。水気が多いから山で飲み水がなくなったらこれをさがしてかじるといいよ。掘って帰ろうね」


 近くに生えている竹を鉈で切り、手ごろな長さにしておいて半分に割った。それを即席のスコップにして葉の周囲の土をのけてゆくと、白く長いウドが姿をあらわした。


「ね、こういう場所に生えているから忘れないでね」



「あの葉は何か判る?」


「木の葉なんか」


「枝をよく見てよ、青い実がついているでしょ? 梅の木だよ。あっちの細長い葉が桃の木。こっちが栗。あれは何かな?」


 視線の先に青い小さな実をつけた枝がある。


「見覚えがないな……、ちょっと確かめてくるね」


 ロープを器用に使って太い枝によじ登り、実のついた小枝を鉈で払ってロープで滑り降りてきた。


「長いトゲが痛かった、よっぽっど大事な実なんだろうね。みかんに似た匂いだけど、あたしには判らないから持って帰ろうね」



「美鈴さん、もっと小股に歩かなきゃ疲れるよ。見た目は悪いけど、あまり膝を上げないように、疲れたように歩くのが長持ちの秘訣だよ。そこの曲がり角、崩れたんじゃないかな、草の生え方が不自然でしょ」


「そうなの?」


「そこだけ草が生えてないもん。見晴らしはいいけど案外危ないんだよ」


「草が生えていない場所は危険?」


「最近崩れたのかもしれない、用心したほうがいいよ」



 更に奥に進むと、湧き水が道に流れている場所に行き当たった。


「ちょっと待ってね、マムシよけを作るから」


 辺りを見回して親指より少し太い竹を二本、背丈ほどの長さに切り詰めて余分な枝を払った。杖のような棒にして一本を美鈴に持たせる。


「これをどうするの?」


「持っててよ、すぐに教えるから」


 なおも進むと亜矢が美鈴の前で立ち止まった。


「マムシがいる」


 亜矢が示す先に、うねったまま動かないものがある。土のような色をして、ところどころ石のように白く、赤い斑のはいった蛇が道の真ん中に横たわっている。


「蛇はね、舌の先で動物の体温を感じて攻撃するの。だからこうして離れたところからだと相手を感じることができないの。でね、こういうふうに」


 亜矢が勢いよく竹を振り下ろした。

 叩かれて跳ね上がったマムシはのた打ち回っている。


「美鈴さんやってみて」


「そんなこと、気味が悪い」


「まだ死んでないから叩いて! 噛まれたらこっちが死ぬよ。死にたくなかったら早く叩いて!」


 亜矢に叱咤されて美鈴は竹を何度も振り下ろした。


「もういいよ、もう大丈夫。もし生きてても噛む力なんか残ってないよ。次に、棒の先で遠くに跳ね飛ばして。動けないから心配いらないよ。先を引っ掛けて、そのまま横に振ればいいよ。

 いいよ、それで。うまくとばしたよ。覚えておいてね、こんな具合に濡れたところにいるから」


「その度にこんなことするの?」


「噛まれて死ぬよりいいじゃない。もう少し先に行こうか」


「ちょっと休ませてよ。だいたいこんな奥まで来たことないし」


「疲れた? そうか、町での歩き方が癖になってるもんね。あの先が日陰だから休憩しようか」


 木の枝が絡み合い、そこに蔓が絡まって完全に陽を遮っている場所があった。畳三枚ほどのさして広くない場所だが、奥から澄んだ水がチョロチョロ流れている。マムシがいないことを確かめて日陰に座り込み、ジュースで喉をうるおした。


「あんた疲れないの?」


「あたしのお父さん、秋田で林業なんだ。だから子供の頃から山が遊び場だった。学校まで自転車で十五分、雪の季節は歩きだよ」


「かんかん照りだしさ、クラクラしない?」


「これだけ木が茂っているんですよ、クラクラはおおげさすぎますよ。こんな時季なんだから日除けを被ればいいのに、格好かまってるんですか? あたしには気持ちいいんだけど。あれ? この草は何だろう」


 水の中に茂っている草の葉に見覚えがないらしく、じっと見詰めている。


「ただの水草なんでしょ?」


「そうかもしれないけど……、ちょっと掘ってみる」


「そんな面倒なこと、するだけ損だよ」


 美鈴の忠告を意に介さず、亜矢は一番手前の株を引き抜いてみた。


「見てよ! いいもの見つけちゃった」


 言いながら泥がついた株を美鈴に突きつけた。


「汚いわね! それが何だっていうのよ」


「見て見て、この根っこ。見覚えない?」


 薄い緑色をした太い根が泥の間から何本も顔を覗かせている。


「だから、何なのよ!」


「ワサビです! 前の人が植えたのが育ってたんだ、いいもの見つけたね」


「これがワサビ? 髭もじゃじゃないの」


「こうして髭根をむしると納得できないですか?」


 太い根を逆撫でするように指先で髭根の根元をむしると見慣れたワサビが姿をあらわした。


「……せっかくだけどだめだよ、刺身なんか食べられないから意味ないよ」


「そんなこと言わないで持って帰ろうよ。刺身に使うだけじゃなくて、他にも美味しい食べ方があるんだから」


 流れる水でざっと泥を落とし、小次郎のリードを外して茎のあたりをくるくると絡げ、


「よし、収穫持って帰りますか」


 美鈴が握っていたリードでワサビの株をリキマルに背負わせて威勢良く立ち上がった。


「綱しなくて大丈夫?」


「平気平気、ちゃんと横を歩くように教えてあるから」


 美鈴の膝に負担をかけないよう気遣ってゆっくりと来た道を下り始める。



「美鈴さん、下りは登りより小股に歩いてね。走り出したら止まれなくなるからゆっくりね」


「あんた元気だね。私も前は元気だったのに、だんだんこんなになっちゃって」


「前は元気だったんですか? だったら心配ないよ。また元のように元気になれますよ。あたしなんか就職するまではすごく内気だったんだから」


「内気? あんたが?」


「だから就職する前ですよ。人前で何も言えなかったんです」


「就職したら治った?」


「職場の人が自信をもたせてくれました」


「いい人に恵まれたのね」


「そうなんです、特にお姉ちゃんが。他の人もすごく可愛がってくれるんですよ。だからこの職場に就職できて幸せなんです」


「お姉ちゃんってあの若い人? 苗字が違わない?」


「赤の他人だもん。でも、今は本当のお姉ちゃんみたい」


「そう、いい人なんだね」


「ちょっと待って、楢がある」


「またなの? 帰るわよ」


「ちょっと待ってよ。もしかしたらいいものが見つかるかもしれないよ。見てくるからここで待っててね。小次郎、行くよ!」


 言い捨てて斜面を駆け上って行き、草むらに姿を消した。


『美鈴さん、きこえる? やっぱり楢がたくさん生えてる』


 美鈴の耳に声がとびこんできた。


「それがどうしたの、早く帰ろうよ」


『もうちょっと待ってよ、今探してる最中だから』


「何があるの、そんなところに」


『へへーっ、内緒。あっ、あった!』


「だから何よ」


『お土産。手頃なのがないや。運べるように伐るからもう少し待ってね』


「なんだか知らないけど早くしてよ」


 コーンコーンという音からすると太い枝を鉈で伐っていることがうかがえる。


『伐れたよ、これは喜ばれるよ』


 暫くするとがさがさと草を揺らし、両肩にそれぞれ丸太を担いだ亜矢が斜面をゆっくり降りてきた。


「いったい何なの?」


 手の平ほどもある太さの丸太に顔をしかめ、美鈴があきれたように言った。


「ほら、いっぱい出てる」


 丸太から生えた茸を見せようと亜矢が背をむけると、すでに開ききっているものや、まだ頭をもたげたばかりのものまでたくさんの茸が生えている。


「毒じゃないの?」


「立派な椎茸。ひょっとしてと思って探してみたら生えてたの。持って帰れば毎日椎茸を食べられるよ。それで、悪いけどナップサックをお願いできない?」


「あんた、からだ小さいのに力があるんだね。毎日そんな仕事してるの?」


「今年の春から犬の世話係。なりたかったんだー」


「去年は?」


「一年間かけて全部の仕事を勉強させられた」


「その前は?」


「高校生」


「じゃあ未成年なんだ」


「若いでしょ、羨ましい?」


「ちょっとね。でも大丈夫? 重くない?」


「これくらい平気ですよ。一年鍛えられたんだから、何ともないですよ。じゃあ帰りましょうか。小次郎、帰るよ。出てきなさい」


 草むらをかきわけて小次郎がぬっと顔を出し、胴振るいをして亜矢の横に並んだ。



「ちょっと休憩しましょう」


 道端に丸太をあずけて亜矢が立ち止まった。


「疲れたんじゃないの?」


「違うよ、まだ序の口だもの。梅の実をもいでくるから休んでて。ついでにざっと草刈りをしておけば次に来た時にわかりやすいよね」


 美鈴からナップサックを受け取って梅の木に向かって一直線に草をなぎ払って行き、手の届く範囲の実をもいでナップサックに詰め込んでしまう。道に戻った亜矢は、次に桃の木までの小道を作り、まだ堅い小さな実のついた枝を落としてきた。栗の木にも同じことをして戻ると、ナップサックを美鈴に背負わせ、実のついた枝を握らせる。


「さてと、これくらいにして本当に帰りますか」


 道端にあずけておいた丸太を両肩にかついで先に立って歩き出した。


「休憩しなくていいの? 疲れないの?」


「疲れたら話さなくなるからわかりますよ。土方や鳶のおじさんに一年間鍛えられたんだからまだまだ大丈夫」


『亜矢、聞こえる? どこにいるの?』


「美鈴さん、スイッチ押してもらえないかな、両手塞がってるから話せない。右脇につけてるから」


「押すよ」


「お姉ちゃん、亜矢だよ。家が小さく見えてきた。お土産があるからね」


『お土産? 何なの?』


「ないしょ。悪いけど小次郎を呼び戻してくれない? 道が狭くて歩きにくい」


『あんたが命令すればいいのに』


「両手が塞がってるからできないよ」


『しかたないわね』


 話が終わると同時に小次郎が一声吠えて亜矢を振り返った。


「いいよ、さあ行け!」


 亜矢の命令を待っていたかのように小走りで駆け出し、リキマルとハナを振り返って再び駆け出した。ついてこいということだったのだろうか、リキマルとハナも全力で後を追って走り去った。


「どうなってるの? 犬がどっかへいっちゃったけど」


「お姉ちゃんが犬笛で呼び戻したの」


「笛の音なんか聞こえなかったじゃないの」


「人間には聞こえない高い音なんだって。首に鎖がかかってるでしょ? その先についてるのが犬笛。あたしも練習してるんだけど、まだお姉ちゃんみたいにはできなくて」


「難しいの?」


「小次郎はね、本当はお姉ちゃんの相棒だから息が合ってるんだ。それにシェパードみたいな賢い犬は誰の命令でもきくわけじゃないんだって。あたしは新米だからお姉ちゃんみたいにはできないけど、でも言葉での命令をきいてくれるだけましなんだって。他の人の命令は無視するんだけど、あたしの命令には従ってくれる。だからあたしに貸してくれたの」


「そのまま自分が担当すればいいのに」


「それがね、係長の仕事が忙しいからできなくなって」


「大変なんだね」


「偉いさんになったんだから勝手できないしね」


「あんたのことだよ。慣れないことさせられて」


「そんなことないよ。最初は誰でも新米だからできなくて当たり前だもん。全然気にしてないし、失敗すると褒めてくれるんだよ。その方がよく覚わるからたくさん失敗しろだって。褒めてもらうとまた挑戦したくならない? でね、何回も失敗して落ち込んだときに少しだけヒントをくれるの。そうしたら嘘みたいにできるようになるの。不思議だよねー」


「それなら初めからヒントを教えてくれればいいのに」


「そう思って文句言ったんだけど……」


「怒られた?」


「そうじゃなくて、覚える準備ができていないから無駄だって言われた。工夫しなくなるから逆効果なんだってよ」


「怒られたんじゃないの?」


「困って相談するまで笑って眺めてるだけだよ」


「それって苛めじゃない?」


「待ってるんだって。いろんなことを試して、失敗して、助けを求めるのを待ってるんだって」


「なんか効率が悪そうね」


「判らないよ効率なんか。でもね、笑われてるのが悔しいからじーっとお手本を見てるとね、だんだん自分の間違いがわかってくるの。それでね、早く追いついて見返してやろうって。そういうときに褒められるとね」


「のせられちゃう?」


「そうそう、わかってるんだけど嬉しくてね」


「半分遊びみたいな仕事だね」


「そうだね、遊んでるように見えると思う」


 そこまでは笑っていたが、急にきつい表情をして声を落とした。


「だけど、失敗したら死ぬかもしれないよ。仲間を死なせるかもしれないんだよ。口や頭で覚えても意味ないよ」


 言い終わって声の調子を戻して、


「だったら楽しく働かなきゃ損だよね。それっ、もうひといきだから元気出してよ」


 元の元気者に戻っている。



 三頭の犬が駆け戻り、背に括りつけられているワサビを見て皆が驚いているところに、両肩に丸太を担いだ元気いっぱいの亜矢が帰ってきた。


「おまたせー。お土産担いできたよ。誰かおろしてくれない?」


「何のつもり? 材木なんか担いで。秋田では木を食べるの?」


「見てよこれ、やっぱり亜矢が来てよかったでしょう」


 おろした丸太からたくさんの椎茸が生えている。


「椎茸見つけたかね、そりゃお手柄だ。ワサビも見つけたようだし、本当に山育ちなんですね」


 川上が感心して亜矢を見た。


「美鈴さん、お土産を披露しなきゃ」


 美鈴がおずおずと枝を差し出した。


「梅ですね、桃もありましたか。栗もですか。ナップサックが膨らんでいるけど何が入っているんです?」


 美鈴が地面に中身を明けると大きな青梅がゴロゴロ転がり出て、最後にウドが何本か恥ずかしそうに姿をみせた。


「ウドがわかりましたか。柚子もある。ずいぶん食べられる物が増えましたね。どれも葉がついているからちょうどいい、葉を覚えてくださいよ」


「亜矢、あのワサビだけど、どこかの畑から失敬してきたんじゃないでしょうね」


「そんなことするか! 疲れたからって日陰で休憩した時にみつけたの。一株抜いただけだからまだたくさんあるし、場所は美鈴さんが覚えたはずだよ。梅はまだいっぱい実がついていたし、桃もたくさん実がついていたから夏の終わりには美味しく食べられると思うよ。栗は判らない。木の下の草を刈っておいたからすぐ判ると思うよ。あとは、マムシが怖いから草刈りしてくる」


 返事を待たずに鎌を片手に歩き出した。


「待ちなさいよ、アタシも手伝うよ」


「無理しちゃって、お姉ちゃん蛇平気なの?」


「全然だめ」


「だろうねー、田舎者には向かない仕事だよ」


「平気な奴が田舎者なの! いいから手伝うよ、早く終わらせないと」


「あたしも焦ってる」


「話し方はのんびりなのに?」


「生意気言わないで仕事してよね」


「ひょっとして仕返しのつもり?」



 亜矢の指図で道端から一メートルくらいを土が見えるように刈り払い、河原の草も同じように刈り広げて戻ってきた。


「これで大丈夫。草の近くを歩かないようにしてくださいね。マムシは一メートル近く跳びかかると思ってください。美鈴さんに教えたけど、草が茂った水気のある場所をマムシが好むから、なるべく草から離れて歩いてくださいね。長靴がいいんだけどな。もう一つ、大雨が降ったりしたら道で鰻がとれるかもしれないよ。それと、猪の足跡をみつけたから注意してね。家の戸は閉めておいた方が安全だよ。猪が来たら高いところに逃げれば心配ないからね。うまく捕まえたら食べればいいし」


「亜矢、この人達猟師じゃないから。狩猟許可もないんだよ」


「そうなの? 残念だね、ごちそうなのに」


「それだ!」


 突然村井が大声を出した。


「猪肉を出荷できないかね。増えすぎて害獣になってるんだろ? なんとか罠を仕掛けてさ、金にならないか?」


「まず許可がおりるかですよ。それに大量に獲るなんてできますかね? もっと大変なことが……」


 村井のヒラメキを川上が無情にも打ち砕いてしまった。


「何ですか?」


「猪の解体。できますか、血なまぐさいこと」


「そうか……。いいアイデアだと思ったんだがなあ」



「この娘すごいよ、びっくりしちゃった」


 美鈴が女達に亜矢の行動を説明していた。


「まだ行ったことがない山奥まで平気で行って、丸太を自分で担いで帰ってきたんだよ。道端の草をいろいろ教えてくれたり、木に登って実を採ってきたり、滑りやすい場所や崩れそうな場所を教えてくれてさぁ。マムシのいそうな場所も教えてくれた。途中でマムシがいてさ、やっつけ方を教えてくれたんだよ。一匹やっつけたから教えてあげる。これで安心して山に行けるよ」


「マムシを殺す方法? そんなこと教えたのか」


 吉村が驚きをかくさず亜矢を見やった。


「噛まれてからじゃ遅いから」


「どうするんだ?」


「棒で叩くだけ。死ななくても骨がどうにかなるでしょ? あとは、棒の先でチョイと」


「チョイと?」


「跳ね飛ばすだけ」


「攻撃されない?」


 あまりにのんびりとした話し方につられて宮内が口をはさむと、


「蛇って体温に向かって攻撃するんだから、遠くから棒で叩けばこっちのことが判らないんだよ。隕石が降ってきたようなもんだね」


「恐れ入ったね、お前は野生の方がイキイキするな」


 あまりに平然としているので吉村は唖然とするしかなかった。


「まあね」


「ねえ、ワサビのおいしい食べ方って?」


 話が途切れるのを待っていたのか、遠慮がちに美鈴が亜矢を見た。


「ああ、ワサビ醤油にしてね、それをご飯にかけて食べるの。口直しに最高だよ。直接ご飯になすりつけても絶品なんだから。短くなったら細かく刻んで海苔の佃煮に混ぜるとおいしいよ」



「さてと、役場で調べ物をしてきますから、由紀子さんは残ってください、早くうちとけるようにね。由紀子さんをお願いしますね」

 不安そうな表情の由紀子ではあるが、名古屋に戻れば気が変になりそうなのでずっと俯いている。村井達は、ありもしない用事にかこつけて半ば逃げるように町へと車を走らせた。



 役場の隣にある喫茶店に見慣れぬ一団が雪崩れこんできてどっかりと腰をおろした。


「いやーっ疲れた! もう駄目!」


 村井の緊張が解けたのだろう、恥も外聞もなく悲鳴をあげている。


「驚いたな、あんなに人間不信になるものかな」


「本当ですね、犯人の供述を得るより大変だ」


「村井さんが踏ん張ってくれてよかった。私では駄目よ、諦めて帰ってるわね」


「それにしても亜矢が大活躍だったな。さすがは山育ちだな、たいしたもんだ」


「連れてきて損しなかったでしょ?」


「しないしない、今回は亜矢様々だよ。昼飯注文しろよ、今日は俺がフルーツパフェ奢るから」


「青木さんにも迷惑かけてすみません。明日から仕事でしょ?」


「仕事は毎日ですよ」


「帰宅しなくていいんですか?」


「単身赴任の官舎暮らしですよ。誰も待っていません」


「それは寂しいことで。で? 誰とお付き合いを……」


「いませんよそんなの! 女房がいなくてよかった。村井さんには油断できないんだから。平穏に暮らしているんですよ、どうして他人の家庭に波風をたてようとするんですか」


「あんたたちが真面目すぎるんだよ、公務員って奴は余裕がないのかね。俺達なんか鼻歌が歌えるようになって仮免許なんだがな。銜えタバコで中堅」


「ゲームしながらだとベテランか?」


「ご名答」


「青木さん、長く付き合ってもらって申し訳ないのだけど、後はこっちでやるから休んでください」


「そうだね、じゃあ食事を終えたら帰ります。名古屋に行ってよかった。たくさん知り合いができました」


「あー知り合いか、その程度ね。俺は吉村さんと同じ兄弟分のつもりなんだけど、勝手な思い込みは迷惑だろうな」


「違う違う、こっちから言うのは失礼だろうと。控えめにしただけですよ」


「そう! ならよかった」


「今日のことといい役所での騒ぎといい、村井さんは用心深いから心配ないだろうが、必ず落とし穴があることを肝に銘じてくださいよ。考えの足りない奴に巻き込まれる虞がある」


「肝に銘じます。なるべく表に出ない。……つもりなんだよ、いつも。でも知らん顔できないからどうしても……」


「野良犬の宿命だな」


 村井の自嘲を吉村がからかった。


「これからどうしますか?」


 相川が尋ねた。ようやく気心がわかってきた様子である。


「そうだね、少し時間をおいて様子を見に行こう。ワサビがあるんだから魚を買っていこうか」


「俺は村の人達に協力を頼みたいのだがな」


「犬に臭いを覚えさせたいよね」


「橋本さんの希望は?」


「私は特にありません」


「そうですか。じゃあとりあえず今の線でいこう。村井は村、真琴も村、俺と橋本さん、相川さんは家。亜矢はどうする?」


「犬の扱いを教えます」


「そうなると、どうする? 途中で降りるか?」


「家まではいっしょに行くよ。どうせ真琴は犬を連れに行かなきゃいかんだろ?」


「ちょっと気になるんだけど、帰るのはいつ?」


 橋本は由紀子を置き去りにすることに気持ちを奪われている様子であった。


「そうだな、様子をみて、大丈夫なようなら今夜帰ろうか。長居をするとかえって為にならんだろう」


 村井もそのことを心配していたようで、すぐに返事をした。


「運転大丈夫? 寝てないんだからどこかで泊まったほうがいいよ」


「なんとかなるさ」


「だめだよ、精神的に疲れてる。ゆっくり眠らなきゃ」


 せっかくの橋本の気遣いを断ろうとした村井を宮内が制した。


「そうだな、それなら岩国で泊まるか。新幹線の駅があるんだ、ビジネスホテルくらいあるだろう」


「あたし宮島に行くのが夢なんだけど駄目?」


 一泊することになったのをたしかめて、亜矢が意外なおねだりをした。


「そうしなさいよ。宮島なら署のすぐ近くだ。帰りに寄ってくださいよ、素通りは許さないからね」


 遠慮がちな亜矢の我侭を青木が後押しした。


「青木さんが味方してくれたから決定だね」


「遊びじゃないんだけどな」


 どうとりなしていいか迷いながら、吉村がそれに応ずると、


「亜矢は休日をつぶして協力したんだよね。これだけ頑張ったご褒美があってもいいよね。ね、亜矢」


 こんどは宮内が亜矢の味方を買って出た。


「確かにそうだな。じゃあ、ちょっとだけだぞ」


 吉村にとって異存はない。休日をつぶしてくれたことへのささやかな褒美なのだから。


「じゃあそういうことに決定な」


 食べ損ねた朝食と遅い昼食を兼ねて軽い食事をとり、すっかり汗がひくまで粘って店を出た。大皿の刺身と小魚、それにスイカを一玉買って再び女達の元に戻り、残った仕事をすませて名古屋に戻る頃にはわずかに涼しい風が吹きはじめていた。



「由紀子さん、心細いかもしれないけど、本当の自分を取り戻せるように落ち着いて生活してください。今日話し合ったことが実現できるかしっかり検討してみます。俺達だけの考えで進めることはできないので、市長や議会に相談しなけりゃ答えが出せません。でも、なるべく早く返事できるように努力するから辛抱してください」


 そして村井は心底安心したように女たちを見回し、言葉をつないだ。


「あんたたちが前向きになっているのが嬉しかった。近いうちに、できれば稲刈りの頃に来れるようにするからね。由紀子さんを助けてやってくださいね」


「忘れてたけど、犬の餌を入り口に積んでおきました。大皿と小皿は犬の食器です。一日一食で大丈夫です。餌をやる順番と皿を間違えないでくださいね、リキマルが先ですよ。間違えると喧嘩する危険があるから絶対に守ってくださいね。水は毎日取り替えてください。寝かすのは外でもいいけど濡れないように、冬は土間で寝かせてください。普段は縛っておかないように、人の中に連れて行くときはリードをつけてください。そして、綱引きしたり、ボール投げをしたりして遊んでやってください。それと、きつく叱らないように、叩くことは厳禁です。それより、うんと褒めてやってください。そうすればきっと皆さんを守ってくれます。餌がなくなったら川上さんに連絡してください」


「村には事情をよく説明してあるから困った時には相談してもらいたい。大丈夫、ちゃんと秘密を守ってくれるから。それと、次に来るときは今朝みたいに困らせないでくれないかな」


「それじゃあ、検討する時間が惜しいから帰るわね。みんな病気にならないようにね」


「亜矢ちゃん、ありがとう。あんたに負けないように頑張るね」


「美鈴さん名前を覚えてくれたんだ。だけどね、職場の掟にあるんだよ、頑張ってはいけないって。毎日ちょっとずつ進歩すればいいんだよ、無理しちゃだめ。後戻りしたっていいんだよ。どう?」


「そうだね、のんびりやるよ」


「そうだ! 椎茸が生えてる木は日陰に置いて、毎日水をかけてやってね。また生えてくるから捨てちゃだめだよ。ワサビも水をきらさないように。流れる水がいいんだけど、なければ濡らした新聞紙で巻いて冷蔵庫で保存すると長持ちするよ」


「よし、それくらいにしよう。次は稲刈りの頃だ。みんな乗れよ」


 まだ日中をおもわせる陽光の中を車が走り出した。突然違う環境に放り出された由紀子の心境を察してか、車内には会話がない。


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