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意欲のかけら  (夫の追及)

 四


 明けて月曜日、区役所に由紀子の住民登録を閲覧に訪れた男が窓口で係員と揉めていた。


「俺の女房の住民登録を見ることができないのか?」


「ですから、秋田県に住民登録が移されていて、以後は縦覧停止措置がとられていますのでお教えできません」


「どういうことなんだ、俺の女房だぞ」


「ですが、今説明した理由で教えてはいけないことになっています。本来なら秋田県に転居されたことも教えてはいけないんですよ、こちらとしてはこれが精一杯です」


「そんな馬鹿なことがあるか! 見せろ!」


「すみません。何度も言うようですがお教えできません」


「お前じゃ話にならん。上の者をつれて来い!」


「上司を呼んでも同じことですよ。市長でも知事でも、大臣にかけあっても教えられません。裁判所の命令なら別ですが」


「いいから上司を呼んで来い!」


「わかりました、暫くお待ちください」


 憮然とした表情を隠そうともせず係員が係長の席に向かう時、何気ない風をよそおって片手にメモ用紙を持っていた。


「係長、今朝届いた要請に該当する人が来てまして、要請通りに答えたのですが納得せずに上司を呼べって怒鳴ってるんです」


 要請メモを一読した係長が指示をだす。


「担当者に至急連絡してくれ。返事がくるまで引き延ばすから」


 そう答えて窓口に向かった。



「わかりました、それでは午後四時にまた来るよう伝えていただけませんか。少し騒動がおきるかもしれないけど、勘弁してください」


 窓口係からの連絡を受けた橋本はすぐさま吉村に一報をいれる。そして、吉村から村井に報せが届き、作戦が練られた。


「作戦といっても俺には考えられないがなあ」


「そうだな……、ちょっと荒っぽいがこんなのはどうだ?]


 村井は咄嗟に考えたことを吉村に話してみた。落ち着いていればもっと慎重なたくらみを思いつくかもしれないが、なにせ急なことである。多少雑なことには目をつむるしかないと思ったのである。それに、吉村にしても案があるわけでもなさそうである。


「あくまでこっちがグルだというのを悟られないことだ」


「それで円くおさまるか?」


「そんなこと判るか! 自転車操業かもしれんが、とにかく急場を凌がないと」


「じゃあ近藤と青木さんに手伝ってもらおう。集合は? 現地受付に三時でいいか? 遅れるなよ」



 作戦の内容がそのまま橋本に伝えられ、近藤と青木にも伝えられた。事情を知らない近藤は何のことかと戸惑っていたが、DV加害者が被害者の居場所をさがしていると知っていろめきたった。青木は心得たもので、警戒のためにと若手を三人同行させてくれることになった。



「お待たせしました。担当の橋本です。今まで市外に出ていましたので二度手間をかけさせて申し訳ありません。奥さんの住民登録の件でしたね」


「女房の住民登録をとろうとしたんだけど、縦覧停止ってどういうことなんだ?」


「縦覧停止ですか? お名前は? 念のためですが、決まりなので気を悪くしないでくださいね。請求人の身元確認を義務付けられていますので、免許証があれば見せてください」


「免許? これでいいか?」


「はいけっこうです。この方ですが、秋田県に移動されて、後に縦覧停止になっていますね」


「だから,、どうしてそんなことになるのか知りたい」


「それはこちらではなんとも、ただご本人の意向でそういう措置がとられていますよ。何か心当たりはありませんか?」


「そんなこと他人に関係ないだろう。俺達は夫婦なんだぞ、教えるのは当たり前だろうが」


「おっしゃる通りです。でも、ご本人がそう希望したにはそれなりの理由があると思いますが、心当たりはないですか?」


「関係ないって。他人が口をはさむことじゃないだろうが」


「ですが、いくら夫婦でも元は他人ですので。それぞれ一人の人間ですからね、本人の承諾なしにお教えすることはできません」


「こんなに頭さげてもだめか?」


「残念ですが……」


「お前じゃ話にならん。上司を呼べ!」


「生憎ですが、この件については私が最終的な責任者でして……」


 初めは抑えたぎみだったのが次第に激高してきたのか、ほとんど怒鳴るように男の押し問答が続く。それを聞きとがめたようなふりで近藤が近づいてゆく。


「ちょっと、いらん世話だろうが、声が大きすぎるんじゃないか? 他の人が迷惑そうにしてるからもう少し静かにしないか」


 穏やかに語りかける声に男が振り向くと、日焼けした顔に無精髭、手甲・脚半に地下足袋姿の作業員が立っている。


「あんた関係ないだろう、あっち行けよ」


「だからさ、そんなに怒鳴るから他の人が怯えてるって言ってるだろ? ここはあんたの家じゃないんだからさ、もう少し静かにできないのか?」


「やかましいわ! このハゲ!」


「なんだと? 悪いけどな、俺には親からもらった立派な名前があるんだ。赤の他人にむかってハゲはないぞ。あやまれ!」


「関係ないって言っとるだろうが」


「やかましい! あやまれ。ごめんってあやまれば許してやるから」


「やかましい! むこうに行け!」


 近藤がうまく男を煽り立てているところに村井が通りかかった。


「なんだ、騒がしいと思ったら橋本さんじゃないの。いったいどうしたの? 見てみろ、他の人が怖がってるよ」


「実はね、住民登録が縦覧停止になっているのを納得してもらえなくて」


「縦覧停止? 妙だな、橋本さん福祉課じゃないか。なんでこんな窓口にいるんだ?」


「だから、その関係で……。あとは判るでしょう?」


「あー、なるほどね、そういうことか……」


「なんだよお前は」


 突然割って入った村井が呑気に世間話じみたことを言い出したので、由紀子の亭主と名乗る男が気色ばんで村井にせまった。


「通りすがりだがね、この人の知り合いなの。それで? 何が不満なの?」


 いかにも修羅場に慣れているように村井は平然と男に向き合った。


「女房の居場所を教えないんだ」


「あのね、縦覧停止っていうのは、居場所を誰にも知られたくないから教えるなということだよ。奥さんなんでしょ? 普通ならそんなことしないでしょう。それに、橋本さんは福祉課の職員だ。てことは、……あんた何か心当たりない?」


「関係ないだろうが! 俺の女房じゃないか」


「悪いけど、女房子供といえども持ち物じゃないんでね。みんな一人の人間だから黙って見過ごすわけにはいかんよ」


「もうやめてくださいよ、橋本さんは女性なんですよ」


 橋本を庇うように相川が男と橋本との間に割ってはいり、それにつられたのか、男が相川の胸元を掴み、もう一方の手で相川の横面を張り倒してしまった。


「やりやがったな、この野郎!」


 近藤がとびかかって男を床に押し倒し、ズボンのベルトで後ろ手に締め上げてしまった。それを確認して青木が近寄ってくる。


「私は広島県警察の青木といいます。今の一部始終を目撃しました。警察への説明にも裁判での証言にも協力します。公務執行妨害と暴行の現行犯でその方が逮捕したのは正当な行為です。念のために名刺をおいてゆきます。すぐ警察に連絡してください」


 男が警察に連行され、事情を説明するのに時間を費やしはしたが、由紀子にとって時間が稼げたことになる。




「村井さん、あれはいかん。そのうち大怪我するかもしれないから慎んでくださいよ」


 穏やかな話し方とは裏腹に、そう言う青木の目は据わっていた。


「そうだね。時間がないから咄嗟の判断だったけど、素人のすることではないね」


「でも、これで追求できなくなります。相川君には気の毒だけどよかったと思うわ」


「橋本さん、庇ってくれるのはありがたいが褒められたことじゃない。罠にはめたことには違いない。しっかり反省します」


「みんな情けないねいい歳して。済んだことは戻せない、先のことなら自由につくれる。そんなの常識でしょ?」


「ありがとうな係長、お前の前向きさが救いだよ」


「村井さんらしくないよ、喧嘩しようよ」


 陰気な空気を吹き飛ばそうと宮内が空元気をだしていた。



 由紀子は何があったかすら知らずに、昼も夜も舟橋に用事をいいつけられて立ち働いている。


「どうだね、体動かしてるとご飯が美味しいだろ? 何があったか知らないけどさ、こうして知り合ったのも何かの縁だと思って何でも相談するんだよ、遠慮なんかいらないからさ。どうだい? 皆が美味しそうにご飯食べてるの見てどう思う?」


「作ってよかったなと思います」


「でしょう。調理場に顔だして旨かったって言いに来る人がいてね、この人いい育ち方した人だなあって値踏みするんだわ。せーっかく作るんだでね、旨かったって言われたら最高に幸せだがね」


「そうですね」


「あんたも今日はみんなを喜ばせたんだよ」


「私が?」


「そうだよ、ボタンつけやら繕い物してあげたがね。すーっごく喜んどるよ」


「あんなことでですか?」


「あんなもこんなもあるもんか。誰でもね、本当は人が喜んでくれるのが一番幸せなんだよ」


「人を喜ばせるのが幸せですか」


「そうだよ、ここの連中は特にそうだわ。口は悪いけど根は優しい人ばっかだでね」


「そうなんですか」


「あんたもいっしょにご飯食べたんだで、あんたが嫌だ言ってももう身内だでね」


「でも、少ししたらここを出て行きます」


「いつでも帰ってりゃあ。待っとるよ」


 舟橋の屈託ない笑顔が由紀子には眩しく見えた。



 それから何日かして救援課での研修を終えた青木達が広島に帰ることになった。ひとつやっかいなのは、話を聞きつけた亜矢が同行すると言いだしたことである。誰にも知られずに行ってこようと目論んでいたのに、山育ちであることをいかして、危ない場所や食べられる植物をさがすという口実で押し切られてしまった。町の生活しか知らない吉村にとって魅力的な申し出にちがいなく、いくぶん投げやりな気持ちで同行を認めたのである。


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