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意欲のかけら (由紀子)

 二・意欲のかけら


 一


「こんにちは。突然来ちゃったけど、都合悪くなかったですか?」


 柔らかな声で不意の訪問を詫びているのは福祉課の職員である。DV被害に遭った者を一時的に保護する施設を巡回し、収容者の状態を調査するのも彼の大事な仕事である。男の問いかけに相手はうな垂れたまま言葉を返さない。


「どうです? いくらか落ち着きましたか? ご飯はどう? 残さず食べられた? 狭い部屋でごめんなさいね、気が晴れないよね」


 男とコンビを組んでいる女性職員も優しく語りかける。年齢相応に落ち着いた口調で、少し低めの掠れた声である。男性職員の上司にあたるのだがいつも気さくで、係長でもある。


「大丈夫です」


 窓から離れた場所に戻った女は、女性職員には僅かに言葉を返した。

 中肉・色白、女性職員より少し年下で、三十すぎである。


「今日は、由紀子さんが今後どうしたいかを知りたくて来ちゃった。それでさ、どうしたい? これから」


 万一を考え、職員は女性を外の視線から遮るために、窓をふさぐように回り込んだ。


「……」


「聞き方が悪かったね、この先由紀子さんはどうしたいのか知りたいのだけどな」


「……」


「困ったな……、別に由紀子さんを責めてないからね。じゃあね、由紀子さんが一番したいことって何?」


「……忘れたいです」


 ずっと俯いて口を噤んでいた女がぽつりと呟いた。


「忘れたいか……。どんなことを? 今までのこと?」


「……辛かった」


「そうよ、由紀子さんは前向きに生きる権利があるのよ。意地でも頑張らなくちゃ」


「何度も逃げようとしたんだけど連れ戻されて、もっと酷いことされて」


「追いかけられたの? 許せないわね」


「何度も逃げようとしました。……でもだめだった」


「どうしてだめだったの?」


「……お金がなくて」


「お金がなかった? 食べ物はどうしてたの、買い置き?」


「毎日千円だけ下駄箱の上に。……おかずが粗末だからってまた……」


「それだけしかお金がないのに難癖つけて暴力ふるうの? 呆れた男ね! まともな死に方できないわよ」


「実家に電話しても判ってもらえなかったし、実家に逃げたら連れ戻されると思ったし」


「相談する相手がいなかったんだね。警察に相談しなかったの?」


「しました。全部話して助けてほしいとお願いしました。でも、夫婦のことだから介入できないって。次に殴られたりしたらすぐに助けに行くとは言ってくれたけど。……殴られてからしか助けてもらえないんですね。なんでもいい、安心して眠りたいです」


 初めて心の内をぶちまけたのかもしれない。最後は搾り出すようで、話せたことに安堵する反面、余計なことを話したことによる災いに不安を抱いているようだ。


「ごめんね嫌な話しをさせて。今日来たのはね、由紀子さんの気持ちを確かめるためだったの。どんな方法でもかまわないから自由になりたいと思うのなら一つ提案があります。ただし贅沢はできない、それどころか貧乏な生活を強いられる。それと、ここと同じで携帯電話は禁止。居場所を誰かに知らせることも禁止。そして、田舎で農作業。これなら協力できるんだけど、どう?」


「そこなら絶対に連れ戻される心配はないんですか?」


 由紀子が不安そうに女性職員をうかがった。


「当たり前よ、その施設の存在自体極秘だもの。知ってるのは名古屋広しといえども十人もいないんだから。市の職員だって警察だって知らない場所よ、絶対見つからない」


「誰にも見つからないならどこでもいいです、お願いします」


「そんなに簡単に決めていいのかな、ど田舎の生活だよ。町まで遠いし、バスも走らないし、お店もないんだよ。それでもいいの?」


「……こんな不安な生活、もういや!」


 いつ連れ戻されるか判らない恐怖にくらべれば、多少の不自由など取るに足らない事柄なのだろう、その切実さは女性職員に痛いほど伝わってくる。


「いいのね、やってみるのね?」


「やってみます」


「じゃあ早速荷物をまとめてください。何日間か中継基地で生活してもらいます。ここよりはるかに安全だから心配しないで、絶対安全なのを保証するから」


「中継基地?」


「そう、中継基地。三百人くらいの用心棒がいるから誰も手出しできない場所」


 言いながら携帯電話を取り出し、住所録を開いていた。




「こちら名古屋市災害救援課、宮内です。……橋本さんですか? 福祉課の? 橋本さん、橋本さん……。ああ、隠密行動の橋本さんですか。今日はいったい、課長なら外で騒いでますが、どんなご用件ですか?

 …………

 そういうことですか、それなら早く来てくださいよ。今日は暑気払いの食事会でね、みんなで鰻を食べてるんです。……違いますよ! 鰻屋さんに出張してもらって焼きたてを食べてるんです。なかなか焼けなくて、まだ半数にいきわたっていないから楽々間に合いますよ。人数は? 三人ね。ちなみに千円会費ですから。一時間以内に来てくださいよ」


 今日の救援課、休日を利用して宮内が目論んだ暑気払いの食事会が行われている。校舎で日陰になる場所に急ごしらえの大きなコンロを据え、鰻屋の大将が汗まみれになって炭火と格闘していた。厨房では炊けた飯を団扇で冷ます者や汁物を用意する者、それを運ぶ者でごったがえしているが、遊びのことだから文句を言う者など誰もいない。



「さっきからえらく唸っているけど大丈夫か?」


 様子を窺いに群がる職員をつかまえては相手かまわず唸り続けている大将が心配になり、吉村は村井に尋ねてみた。


「あれか? 口が悪いだけで上機嫌だよ、放っといてやれよ」


 村井は吉村と違い、現場作業をする者の気質を知っている。今のは冗談だとか、そろそろ怒り始めたとか、そんなことは僅かな変化で見逃さない。今の鰻屋は上機嫌なのである。


「これって、もしかして私達のためにしてくれたのですか?」


 青い事業服を着た男が戸惑いながら吉村に尋ねた。広島県西端に位置する廿日市警察署の青木副署長である。


「宮内に尋ねてください、あいつの発案ですから。青木さん達がいる間に暑気払いをしようという魂胆でしょう。週末には広島に戻るんだから今日しかチャンスがないのは事実ですがね、あの大将の焼く鰻は旨いですよ」


「ここだけの話だけどな、あいつ結構凶暴なんだ。いい年して空手に狂っててな」


 クスクス笑いながら村井は空手の真似をしてみせた。


「そうか、空手にね。……そういえば、今年の新人に琉球空手の有段者がいたな」


 吉村は少し考えて新人の特技を思い出した。


「そう? そりゃあ喜ぶわ。対戦させろと言いだすぞきっと。隠しダマに使えるな」


「あー、いたいた。課長と村井さんだけだね、都合がいいわ」


 村井が鰻屋の秘密を暴露したところに宮内が現れた。


「私は外しましょうか?」


「それが青木さんにも関係あるのよね」


「どうした?」


「福祉の橋本さんから電話があって、例の避難所に一人送り込みたいそうなの。それで、移動までの間ここで保護してほしいって。鰻に間に合うよう一時間くらいで来てって返事しといたよ」


「判った。そういうことなら青木さんにも相談したいからちょうどいい」


「避難所というと?」


 名古屋市民ではない自分に関係あるとは何だろう、避難所というものにも心当たりがない。いったい何をさせようとしているのか、青木にはまだ内容がのみこめていない。


「例の、錦町ですよ」


「錦町? ……ああ、そういうことか。いいですよ、何でも協力しますよ。つまらん男がいるもんだね、なんなら稽古つけてやろうか。軽く落とすくらいわけないよ」


 青木は避難所の意味を理解すると、原因をつくった男に対する怒りがこみあげてきた。警察官であるだけに正義感が人一倍強いのである。


「どうする、すぐに話を訊くか?」


「あーやだやだ。生真面目なのはいいけど余裕がなさすぎるよ。せっかく鰻で暑気払いしてるのに、先に気持ちをほぐしてやる優しさがないのかよ。よくそれで人助けの課長が務まるもんだ」


 すぐにでも事情を知ろうとする吉村を慌てて村井がおしとどめた。


「そんな大口叩くのならお前が対応しろよ」


 自分の知らない社会で生きる村井ならどんな対応をするのだろう、今日はしっかり見学させてもらおう。吉村はそう考え、傍観者をきめこむことにした。


「判ったよ。ただし途中までだぞ。そういうことなら前振りがいるから、係長手伝ってくれ。そんな不細工な顔しなくても大丈夫だよ、簡単なことだから。食事会がすむまででいいから、妹を集めて俺のそばで騒いでくれないか。それと、番犬を貰ってきたんだったな、それも連れてきてくれよ。とにかく賑やかにたのむよ。まずそれが第一段階、本番はその後だ」


「普段どおりに騒げばいいのね。ところでさ、不細工な顔って誰のことよ」


「空耳じゃないのか? とにかく、いつもどおりにな。それと、本人が来たらこうしてくれ」


 宮内の耳元で二言、三言囁いた。



 由紀子は福祉課の職員に護られるように救援課にやってきた。

 なるべく人目を避ける必要からタクシーを何度か迂回させ、敷地内の、大勢が集っている場所にまで車を乗り入れてきたのである。

 特別な手配りでもされていたのか、タクシーを降りたとたんに人垣に囲まれ、人数の多さに驚いた様子をみせながら体育館に案内されてきた。ちょっと用事で表に出たような身なりで、荷物といっても福祉課の職員が提げている紙袋一つしかない。男も女も入り混じって馬鹿騒ぎをしているのを見て、いくらかでも安心してくれれば良いが、それにしても暗く硬い表情が印象的である。

 ろくに挨拶もせぬまま宮内に伴われて事務所に行き、しばらくして救援課の制服に着替えて戻ってきた。


「何を先走ってるんだ、ろくに挨拶もしていないのに。順序が逆だろう」


 自分で考えていたシナリオを反故にされた吉村が宮内の暴走を叱りつけた。


「いいえ、あんな格好してたら目立つから着替えが先です」


「だけど順番ってものが……」


「結果オーライ。安全が最優先なんです。いくら課長でもこれはゆずれません」


 宮内は叱られて小さくなるどころか吉村に全部を言わさず、腰に手を当てて胸をはった。


「課長、勝ち目ないよ。こういうことは男じゃだめだ、係長に任せたらいいよ。さすがだねえ」


 その宮内を応援するかのように村井が吉村を宥めていた。


「でしょう。ついでに髪型も変えちゃった。少しは印象が変わったと思うよ」


 さして長くない髪を両肩に垂らすようにまとめてある。


「輪ゴムかよ。気の毒に」


 手近な輪ゴムを使うあたり、身をかまわない性格そのままである。


「そうか、せめて紐にすればよかったかな」


「リボンとかさ」


「だめだめ、そんなことしたら浮き上がっちゃう。格好かまわない人ばかりなんだからこれが自然だよ」


 ニヤニヤする村井に宮内が小さく舌を出し、悪戯っぽく合図した。どうやら村井が囁いたことを宮内が実行したようで、村井は宮内の気転として部外者を装うつもりらしい。そんなやりとりの最中に鰻が焼けたという声がかかった。


「さあ、鰻を食べましょうよ。ここには用心棒がウジャウジャいるんだから、何の心配もないわよ」


「橋本さん、悪いけどさ、アタシ達蟻やゴキブリじゃないんだから、ウジャウジャって言わないでよ」


「どうです、番犬がゾロゾロいるでしょう」


「アタシは犬か! 相川さんも調子に乗って。…・・・あっ、犬よ、犬」


「犬がどうかした?」


「番犬をもらってきたのよ。由紀子さん犬は平気?」


「昔飼ってたから平気です」


「よかった、苦手な人もいるから心配だったの」


『亜矢、聞こえる? ハナとリキマル連れてきてよ。池の前にいるから』


『判った、急いで団体で行くからね』


 無線指示に元気な返事が還ってきた。


「どうしよう、団体でおしよせるって。全員集合してるそうだよ」


「まあいいじゃないか、気が晴れるかもしれん」


 吉村は諦めたように言った。


「誰が来るんです?」


 橋本は災害救援課の職員をまったく知らない。ただ、由紀子を怖がらせなければよいがと心配である。


「橋本さんも相川さんも初めてですね。うちのお転婆五人衆です。全員未成年、けっこうムードメーカーなんですよ」


 宮内は、料理を受け取る順番を待つ間にさりげなく職員の様子を由紀子に聴かせようとしている。


「お前の分はないぞ、部外者だろ? 安心して、課長の分は残しといたから」


「ちょっと待った、俺のは残り物?」


「責任者の宿命だろうが。先に子分を満足させるほど親分の貫禄が光るってもんだ」


「まいったね。……そうだ、大将空手に狂ってるんだって?」


「こいつが言ったな? おしゃべりめが」


「新人に琉球空手の有段者がいるんだけど、紹介しようか?」


「琉球空手? まだ見たことがない。たのみます、拝みます。紹介してくださいよ。ねえ課長、後生だから、ポチになるから」


「態度が変わったね、商売人丸出しだ。これ食べたら呼ぶから待っててよ」


「鰻なんかいつでも食えるだろ? 先に呼んでくださいよ課長、サービスするからさあ」


「どうにも締まらない大将だな、いつもの雰囲気が消えちゃったよ。判ったから、とにかく料理をたのむよ」


「あいよ!」



 一団が池の縁に陣取った時に犬を連れた娘達が駆けてきて、池のむこうできょろきょろあたりを見回している。吉村達がいるのを見つけたようで、一人が指で示すと一斉に駆け寄ってきた。


「いたいた、連れてきたよ。小次郎も連れてきちゃった」


 小柄な娘が大きなシェパードを、長身の娘が黒いラブラドールを。勝気そうな娘が赤茶色の柴犬を連れてきた。シェパードのリードを握る娘が悪戯っぽく笑う後ろから、白黒斑模様の犬が顔をのぞかせた。


「あれ? その犬は誰のだっけ」


 それに答えるように亜矢の背中越しに鰻屋の娘が姿を現した。


「あら、ひょっとして今日もアルバイト? 犬はどうしてたの」


「亜矢ちゃんが運動場に入れてくれました」


「そう、喧嘩しなかった?」


「小次郎が監視してくれてたみたい。おかげで喧嘩しかける犬はいなかったみたいです」


「そうか。どう、妹達とは馴れた?」


「もうすっかり。楽しそうで羨ましいです」


「じゃあ、せっせと遊びにきなさいよ。奈緒、みちる.。悪いけどお茶をもってきてくれない?」


 長身の娘と、勝気そうな娘が、混んだ厨房を避けて事務室めざして走り去った。


「これが五人衆? 一人多くないですか?」


「飛び入りがいるから。いい娘たちでしょう、みんな妹なんですよ」


「妹さん?」


「そう。戸籍上は赤の他人なんだけど、妹」


「どういうことですか?」


 わけを知らない橋本が吉村に説明を求めた。


「気持ちの問題ですよ」


 妙な苦笑いをしながら吉村が答えた。


「念のために、アタシ達の父親もいますよ」


「父親? いったい誰が?」


「今橋本さんが話した相手」


「吉村課長が?」


「なあ係長、俺は?」


「村井さん? ……そうねぇ、妙に馴れ馴れしいおっさん」


「これだもんな、いいかげんイジケちまうぞ」


「勝手にどうぞー」


「二人ともここの雰囲気が判っただろ? 人をコケにして楽しむ奴等ばかりだけど、役所よりずっと気楽だと思うよ。明日からここが職場になるんじゃないのか? 内示があったんだろ?」


「橋本さんが同僚? アタシ初耳だけど」


 宮内がぽかんとした顔で吉村を窺った。


「ごめん、伝えるのを忘れてた。金曜に内示があったんだった。発令は明日、仕事は明後日からだ」


「なんだ、それではあらためて、よろしくお願いします」


 転入を初めて知り、慌てて橋本に向き直った。


「こちらこそ。私達は福祉専従の居候だから宮内さんがリーダーよ」


「いろんなことを教えてくださいね。アタシ馬鹿ばかりしてるし、どうして係長にされたかも判らないんだから」


「立派な若女将じゃないの。自分から名乗り出たわけじゃないでしょ? それだけ人望があるのよ。そのままでいいのよ。由紀子さん、ここの雰囲気どう? 安心できない?」


「楽しそうです」


「橋本さん、喉に詰まること言うのは反則。先に食べようよ、おいしんだよこの鰻」


 宮内自身は自覚していなくても訓練士の本能がそうさせるのだろうか、緊張をほぐすことばかりが気にかかるようだ。


「ごめんなさい、うっかりしてた。由紀子さん食べましょ」


 相手を気遣うあまり、不用意に身構えさせている。ここは仲間を信頼しよう、橋本はそう決めた。



「お姉ちゃん、お茶横取りしてきたよ」


 勝気な娘が湯呑みを載せた盆を得意そうに掲げてみせた。


「横取り? 奈緒らしいわ。誰も文句言わなかった?」


「お客さんの接待だって言ったら譲ってくれた」


「こんな時は奈緒の押しが一番。お姉ちゃん人選がうまいね」


 長身の娘がポットから茶を注いでまわる。


「揉めないようにみちるをつけたのだけど、大丈夫だったみたいね」


「まかしといて、営業で鍛えられてるから」


 奈緒と呼ばれた勝気そうな娘が、自慢げに胸をはった。


「お姉ちゃん、この人は?」


 みちるという名の長身の娘が、初めての顔に気づいた。


「由紀子さんっていうの。……ほら、議員の大隈さんの遠縁なんだって」


 名前だけは教えてもらったものの、他の情報を宮内自身まったく知らない。かといって来た理由を話せるわけでもない。どう説明しようか、頭の中で火花を飛ばした結果、大隈の遠縁とごまかすことにしてしまったのである。


「じゃあ、市長や近藤班長みたいにバリバリの名古屋弁?」


「そんなことないよ、アタシみたいな美しい標準語」


「お姉ちゃんのが……、美しい? 標準語? そりゃーねーべ、あるわけねーべ」


「絶対ベロ抜かれるんでねーか?」


「鬼が困るべ、なーんぼ抜いても次のベロがあっからよー」


 みちると奈緒が囃すのに亜矢が追い討ちをかけた。


「鮫の歯みでぇーにか?」


 看護学生の博子もつられて囃したて、それがどれほど楽しいのか相手を目の前にして皆で言いたい放題に笑い転げている。


「あんたたちお客さんの前で何てこと……。お雪までいっしょになって。こらっ、鰻屋! あんたまで何よ!」


 見れば、鰻屋の娘も前屈みになって笑いこけていた。


「俺を馬鹿にしたバチだ。なんてったって天の声だからな」


 いかにも楽しそうに村井は相好を崩していた。


「ふんだっ!」


 そんな宮内達のやり取りを見て、微かに由紀子が笑った。


「由紀子さん、こんなお転婆の相手にならないで食べましょ」


 宮内なりの演技なのだろう、脹れた風を装いながら由紀子の気持ちを解きほぐそうとしている。



「どうだ、店と同じ味になってるか?」


 コンロの火を落とした鰻屋も近寄ってきた。


「せっかくのお食事を邪魔したらだめよ」


 その後ろから女房が袖を遠慮がちに引いているのが好ましい。


「うるさいな、客に訊かなきゃわからんだろうが」


「ちょっと大将、奥さんに言いすぎじゃない?」


「係長、言わせてやってよ。人前だけなんだからさ、威勢がいいの。な、(たま)()ちゃん」


「珠希っていうんだ、教えてもらってなかったもんね」


「お父さんね、家に帰ったら猫ですから。家ではお母さんが虎なんです。お父さんが猫パンチを出そうとしても、お母さんの一睨みで便所に隠れちゃうくらい怖いんですよ」


「ふーん、そういうことなら許してあげる。珠希ちゃんか。珠希、珠希……」


「……うなたま」


 遠慮がちに博子が呟いたのを宮内が聞きつけた。


「うなたま?」


「鰻屋の珠希だから、うなたま」


「それいいね、これからそう呼ぼう.。鰻屋よりずっといいよね」


「係、じゃなくて、宮……。お、お姉ちゃんが教えたんでしょう? 学校でね、突然お雪って呼ばれてびっくりしたよ。……だから仕返し……」


「うなたまか……、語呂がいいな、それ貰うわ。店の名前になりそうだ。うん、いいわ」


「お父さん!」


「味はどうだ? うちの鰻を食べた人は必ずまた食べてくれる。百科事典にも書いてあるから間違いないぞ。それに、たくさんの人と食べると余計に旨い。ということでな、割引券。たいして値引きできんが」


「職員に行儀を教えてくれるのか? 気遣いさせて悪いね」


「ついでといっちゃあなんだけど、料理人の腕をみこんで頼みがあるんだ。相談にのってくれないか。ただし言っとくが、銭にはならん。はっきり言うと銭を失う」


 何気ない風を装って村井がチラッと鰻屋を窺った。


「内容しだいだな、面白けりゃいいけど」


「たのむな」


 何事か、暗黙の了解が得られたようである。



「全部食べたね、美味しかった? いつも残してたよね。よかった」


 小一時間後、由紀子が食べ終わったのを見計らって鰻屋の大将が揉み手で擦り寄ってきた。


「課長、そろそろいいだろ? ウズウズしてるんだよ。首見てよ、首。ろくろっ首みたいになってるだろ、なっ?」


「青筋立ってるよ、血圧が高そうだね。健康診断受けてる? 納豆がいいらしいよ、血液がサラサラになるんだって」


「はぐらかすなよ。我慢して待ってるっていうのによー」


「わかってるって、ちょっと待ってくれよ」


 オモチャをねだる子供のような大将を軽くあしらい、吉村はマイクのスイッチを入れた。


『中星、聞こえるか?』


『何ですか?』


『鰻屋の大将がな、空手に狂ってるそうなんだ。お前のことを話したらどうしても手合わせしたいって大声で泣くんだけど、相手してやってくれんか?』


『いいですよ。服装はどうします?』


「相手するってよ。服装をどうするか訊いてるんだけど」


「できたら琉球空手の格好が見たいな。俺はこのままでいいや。珠希は……」


「私もやるの?」


「せっかくのチャンスじゃないか、教えてもらえ」


「胴着がないよ」


「あたしのジャージ着る? 少し大きいかもしれないけど」


 一番小柄な亜矢が耳打ちしている。


『琉球空手の格好が見たいそうだ。あるのか?』


『持ってきてます』


『そうか、すまんが仕度してくれんか』


『すぐ仕度します』


「すぐ仕度するってよ」


「課長、なんだか言葉がぞんざいになってない?」


「そうか? 付き合ってる相手に染まったかな、雑な奴ばかりだから」


「お姉ちゃん、俺達職人は馬鹿丁寧な言葉を使われると苛々してくるんだ。今の話し方の方が気楽でいいの。心配してくれてありがとうな」



「跳んだ! 中星の奴跳びやがった!」


「馬鹿、相手の女の子だって同じくらい跳んだじゃないか」


「だけど動きに切れがないぞ」


「そりゃあ当たり前だ。あの大きな乳が邪魔で動きが鈍るのは当たり前だろうが。あれならFくらいあるんじゃないか?」


 歓声をあげる後から手が伸び、二人の耳を思い切り捻り上げた。


「痛い! 何するんだよ!」


「悪かったわね、小さな乳で。小さくてごめんね!」



 珠希がさかんに攻撃をかけようと拳を突き出すものの、中星はゆらりゆらりとかわして相手を動かせている。いきなり、いきなりとしか言いようがない。ふっと気を抜いたのか次の動作に移ろうとした珠希の眼の前に中星の拳が突きつけられていた。肘がまだ(たわ)んだままなので、そのまま突き出せば当然顔面を直撃している。


「まいりました。ありがとうございました」


 礼の直後、珠希はその場にへたりこんでしまい、方々から大きな歓声があがっているのも聞こえていない。


「ありがとうございました。強いですね。名古屋で練習ができなくてモヤモヤしてたんです。あーすっきりした」


 へたりこんだ珠希を気遣って中星が近寄った。


「うなたま、大丈夫? あんた強いねー。びっくりしちゃった」


 お雪も心配そうに駆けてくる。


「強い人ですね。もう少し練習したらもっと強くなるよ」


「二人ともすごいね、こんなの初めて見た。中星君疲れてない? 大将が出てきたけど大丈夫?」


「まだ平気だよ。練習ほど疲れてないよ」



 大将の攻撃は娘に比べると格段に鋭いのに、中星はゆらゆらと逃げ回っている。中星の逃げる先に見当をつけているのだろうが、拳も蹴りもむなしく空を切っている。たまに組み合いそうになってもすぐさま間合いをとって突きと蹴りが繰り出され、暫くして大将の動きが緩慢になってきたところを中星の蹴りが襲う。


「それまで!」


 肩で息をしている大将をみかねて吉村が助け舟をだした。

 汗まみれになって荒い息をしている大将が満足そうに笑った。


「ありがとうございました。強いなあ!」


「ありがとうございました。大将も強いですよ、勉強になりました」


 中星も嬉しそうに笑っている。


「なかなかやるもんだな、年寄りの冷や水じゃなかったんだ」


「様になってた? あいつ強いわ、子供扱いされちゃった」


「そうか、よかったな。特別なサービスしたんだから出張費なしでもいいんじゃないか?」


「よせよ、臨時休業してきたんだぞ」


「冗談だよ。そんなケチな根性じゃないわ」


「教えてほしいんだがな、琉球空手の極意って何だ?」


「そんなこと教えてもらえませんよ。だけど、これかな? というのはありますよ」


「それでいい、教えてくれないか?」


「勝負しないこと。闘わないこと」


「どうして?」


「闘わないんだから絶対に負けない。誰も怪我しない」


「偉い! よくそれに気がついた! それが一番大切なことだ。俺はそう信じてる」


 大将は感激したのか中星の肩をバンバン叩いている。



 少し離れた場所では、ようやく汗のひいた珠希を囲んで三人娘がヒソヒソと内緒話をしていた。


『近藤班長、亜矢です』


『どうした?』


『いいもの見せてもらったお礼を考えたんだけど。あたしたち三人で壁のぼりを披露したいんだけど、いい?』


『久しぶりにやるか。下で支えてやるからやってみろ。新入りはようく見とけ。女だからって舐めてたら酷い目にあうのを叩き込んどけよ』


 許可をもらって亜矢、奈緒、みちるの三人が立ち上がった。


「お礼をするから見ててね。三人であそこを登って、あとはお楽しみ。丹梅は小次郎をおねがいね」


 言い置いて駆けてゆく。



「橋本さん、由紀子さん。ついでに相川さんも。さっきまでいっしょにいた娘達の壁登りを見てやってください」


「壁登りってどこの壁ですか?」


 救援課の訓練内容を知らない橋本が誰にともなく呟いた。


「本館の壁ですよ。ロープを伝って屋上まで登るんです。あの三人なら大丈夫」


「でも娘さんですよ」


「大丈夫、心配しないで見物してください。お金払っても見られませんよ」



 三人が運動靴を地下足袋に履き替えてロープの下で大きく手を振り、安全帯の金具にロープを巻きつけた。そして競争でもするかのように猛然と登りだした。もちろん新入りは唖然として眺めているばかりだが、同期の者は盛んに囃したてている。屋上にたどりついたあとはピョンピョンと跳ね降りるのがいつもの降下法なのだが、何か魂胆があるようでいっこうに降下を始めようとしない。


「いいかげんに降りて来い」


 下で近藤が叫ぶのを合図にしたかのように三人が同時に降下を始めた。


『よーい、いち』『にい』『さん』


 声を掛け合いながら交互に横跳びをして、紐を編みながら降りてくる。


「何やってるんだ? あいつら」


「あんな横っ跳びの練習したか?」


「だけど息が合ってるな、たいしたもんだ」


 興がのってきたのか、小幅だった横跳びが徐々に大きくなり、半分降りた頃には壁面を横向きに走っている。本人たちが一番楽しいらしく、キャッキャ、キャッキャと笑い声もとどいてくる。見守る同期生の感想をよそに、三人は横とびをやめないまま地上に降り立った。



「こら! そこに並べ! 何を血迷ったことしとるんだ! 誰があんなことを教えた!」


「横跳びができなきゃ困ります。今のはあまり移動してません」


 一番小柄な亜矢が真っ向から反論した。


「確かにそうだけど、危ないだろうが」


「そうは思いません。現場では風や雨や落石や障害物がつきものです。ここでの訓練が完璧にできたって現場では無力かもしれません。それは班長が一番わかっているはずです」


「馬鹿か! もうちょっと頭をつかわんか!」


「どうして?」


「蓑虫になりたいのか? せめて身長分だけでも高さを違えて始めんか。もっと考えろ! 叱られてるんだから楽しそうに笑うな!」


 近藤の叱る意味が判ったのか、三人がニヤッと笑うと近藤も嬉しそうに表情を崩した。


「今回はゲンコツだけで許したる。頭出せ」


 素直に差し出された頭をゴンゴンゴンと叩いておいて、


「で、誰がロープを元に戻すんだ?」


「おねがいしまーす」


 言うが早いか三人とも後を見ずに駆け戻ってきた。



「みんなすごかったねー、あんなの初めて見たよ。あれならヘリからでも降りられるかもしれないよ、明日学校で話してやろう」


 珠希が興奮を抑え切れないようにまくしたて、


「里中先生の話、本当だったんだ。亜矢すごいよー。クラスのみんなだってびっくりするよ、先生の話なんか誰も信じてなかったんだから。嘘みたいだよ」


 博子も里中が興奮して話したのを思い出していた。


「へへーん、どうだ! おそれいったか!」


「大丈夫、大丈夫。あんなことできなくてもお雪は一人しかいない看護士なんだから、引っ張りだこになるの間違いないよ。覚悟しといた方がいいよ」


「何を?」


「判らないの? 仮病が増えるってことよ。医務室は作らないほうがいいかもね」



「おたくでは娘にこんなことさせてるのか? 無茶苦茶だぞ、公表できんぞ」


 鰻屋の大将は呆れたように三人を見ていた。


「自分だって娘に空手をさせてるくせに。まあ、基本的に男女の区別はないからな。そのかわり、調理のうまい男もいるからおあいこだよ」


「言うことも平等だから、することも平等? 信じられない」


 橋本も呆れている。


「なあ課長、ここは暑いから冷たいコーヒーでもご馳走してもらえんか? 橋本さん、由紀子さん、相川さんも涼しいところに移動しようよ。青木さんと係長は当然付き合うよな」


 そんな様子を見ながら、そろそろ緊張がほぐれただろうと村井は本題に移ることを促した。


「わがままな奴だな、まったく。でも確かに暑いから喉が渇いたでしょう、あっちでお茶でも飲みましょう」




「これが救援課の雰囲気です。どんな印象を受けましたか?」


 応接室に案内するなり由紀子に感想を尋ねようとする吉村を、村井が慌てて遮った。


「吉村さん、だめだよそんな緊張させる話し方、硬すぎるわ。こういうのは橋本さんが専門なんだろ?」


 村井は橋本がどんな話し方をするのか興味があった。吉村は傍観者になるということを橋本は知らないのだから話を主導しようとするかもしれないと思ったのである。


「硬いか? じゃあ橋本さんお願いできますか?」


「その前に、ここにおられる人を紹介していただけませんか」


 促された橋本にしても避難所の詳細は知らない。それに知らない者ばかりが同席している席で事務的な話ができるはずがなく、どうすれば良いのか困惑した。


「そうでしたね、では端から順に紹介しますと……」


「だから、話し方が硬いから緊張させるっていうの! もういいよ、俺がやるから」


 橋本は遠慮して話を主導しようはしていないことを察して、村井が前に出た。


「そうか?」


「ごめんね、内輪揉めしちゃって。

 橋本さんがご婦人を案内したということで大方の察しはついています。この部屋にいる者は全員由紀子さんの味方ですから安心してください。絶対に由紀子さんを傷つけたり利用したりしないし、裏切ったりもしません。体を張ってでも由紀子さんを守る仲間です。そのことはわかってください。

 まず、私のことを話します。私は港区で保護司をしている村井由蔵という者です。もっぱら犯罪者の更正を手伝ってまして、本職は鉄工所の主です。

 隣の青い服の人は広島県の警察官で、副署長をしている青木さんです。災害救助技術の訓練のためにここで研修を受けています。

 その隣の若いのが救援課の宮内係長。警察犬訓練士の卵だったんですが、災害救助犬の訓練士として働いています。気転が利いて芯が強くて、職員から一目おかれる女性なんですが、まだ遊び盛りなので誰からもオモチャにされています。色白でポッチャリしているから大福と呼ばれています。さわると粉がつきますよ。

 その隣、さっきから硬い口調の男が救援課長の吉村。根っからの公務員なのでどうしても冗談が下手でね、困ったもんですよ。話し方が硬いのを除けば人情味のある男ですよ。

 相川さんと橋本さんはご存知ですね?」


 膝の上で握り締めているこぶしから少しだけ力みがとれてきのか、由紀子の指がいくらか赤みを帯びてきている。


「鰻どうでした? 由紀子さんは運のいい人ですよ、今日はたまたま暑気払いの食事会だったんですから。それに、あの鰻屋のは旨いって評判なんですよ。たくさんの職員が子供みたいにはしゃいでいたでしょう? ここはそういう職場なんです。

 どうですか、何か感じましたか?」


「楽しそうだなと」


「楽しそうでしたか、由紀子さんはどうでした?」


「少し気持ちが楽になりました」


「気持ちが楽になったんですか、それはよかった」


「いつかあんなに笑うことができるようになるかなと思いました」


「楽しく笑いたいのですね? 心配ないですよ、きっと笑えるようになりますよ。でも、どうしたら笑えると思いますか?」


「……嫌なことを忘れられたら」


「嫌なことを忘れたいのですね? どうすれば忘れられるかな、……どう思います?」


「仕事に打ち込むとか、人目を気にしないとか」


「仕事に打ち込めば忘れられますか?」


「余計なことを考える暇がなくなるから」


「余計なことを考えるから笑えないんだ。そうなんですか……。余計なこととは、たとえばどんなことです?」


「……暴力をふるわれたり、逃げても見つかって連れ戻されたりすることです」


「暴力をふるわれていたんですね? 辛かったですね。逃げても連れ戻されたんですね? 哀しいですね。連れ戻されてどうしました? 諦めたのですか?」


「遠くへ逃げようとしたんだけど、……お金がなくて」


「お金がない? どうして」


「全部取り上げられていました。逃げないように」


「全部取り上げられたのですか、それで何もできなかった?」


「警察に相談したけど、煮え切らない対応で」


「警察に相談したのですね、でも、対応が不満なんですね?」


「次に暴力をふるわれたらすぐ助けると言ってくれましたが、すぐに連絡なんか……」


「暴力を受けている最中に連絡なんかできないよね、そりゃあ無茶だ」


「それで、知り合いが教えてくれたように、福祉課へ行って保護してもらいました」


「そうですか、知り合いが福祉課に相談することを教えてくれましたか」



「ちょっと吉村さん、この人どういう人なんです? 私が何日もかかってようやく話してもらったことを簡単に聞き出しちゃったじゃない」


 村井の語りかけに由紀子が答えるのを見て橋本が目をむいた。


「自分で言ってたでしょ、保護司なんだって。だからそういう話し方が身についているんじゃないかな」


「いやいや、警察の対応のまずさを指摘されましたね」


「やっぱりな。木村さんの疑問、これで解けた」


「何をコソコソ話してるんだよ」


「お前の話術に驚いているだけ」


「話術? 何を馬鹿言ってるんだよ。それでどうする? 準備運動はすませたぞ」


「村井さん、続けてください。私が話すより安心できるみたいだから」


 橋本は素直に状況を受け止めている。面子にこだわるという無駄は一切ない。


「そうなの? 俺が続けていい?」


 うつむいたままの由紀子が軽く頷いたのを確認して村井が続きを始めた。


「こんな美人にそう思ってもらえるなんて、生まれて初めてだ」


「もう死ぬまでないかもよ、村井さん」


 由紀子の発言を邪魔せずにいようとするあまり静かになりすぎたことに危うさを感じ、咄嗟に宮内がボケをかました。


「真琴! 喧嘩売るのか?」


「ごめんごめん、正直だからつい」


「まったくお前は、年長者を屁とも思ってないんだから。困った娘でしょ?

 さてと、由紀子さんがここに来たということは、これからの生活に納得したことになるけど、それでいいのですか?」


 宮内の合いの手をありがたく思いながら、村井が話を再開した。


「はい、逃げ隠れしないですむのなら」


「でも生活が一変しますよ。嫌でも働かなくてはいけないし、自由に好きな物を食べることもできないかもしれません。外部との連絡もできなくなりますし、交通の不便な過疎の山間地ですよ」


「どこでもいいです」


「共同生活になりますが、かまいませんか?」


「共同生活ですか?」


「そうです。由紀子さんと同じ思いで苦しんでいる人達との共同生活です。もちろん全員女性ですが、二十代から六十代まで年齢はまちまちです」


「女ばかりなら大丈夫です」


「そうですか。そういうことなら詳しい説明をしますので、その後でもう一度考えてください。私達は無理に由紀子さんをそこで生活させようなんて考えていませんからね、あくまでどうするかは由紀子さんが決めてください。

 そこは名古屋から遠く離れた町の、特にひっそりとした山間地です。平家の落人の隠れ里というのがあったのを聞いたことがありますか? 村里の者でさえ行かない山奥だったそうです。そんな山奥ではないけど、過疎地であることに違いありません。そこには皆で食べるに十分な田んぼと畑があります。もちろん電気もガスも水道もありますよ。その家のすぐ前には小川があります。山からしみ出たきれいな水が流れていて、近くの山には何かしら食べられるものが自生しています。

 その家から少し下、本当に見下ろすところに十軒ほどの集落があるだけの静かな場所です。携帯電話の持込を禁止していますが、そのあたりには中継基地がないので携帯電話は使えません。町まではかなりの距離を歩くか、自転車で行くしか方法がないので、島流しのような状況になってしまいます。そこで農作業や山歩きをして心を治してほしいのです。

 生活費を心配されるかもしれませんね。そこに暮らす人の生活保護費をまとめて町の福祉課に送金します。そこから公共料金を引いて、調味料や米代も引いて、残りを皆さんの副食費や貯えにしてもらいます。といっても、お金は一括管理してもらうので、この分は私が自由に使うということはできません。それと、連れ戻される恐怖がつきまとうでしょう。でもね、下の村に協力をお願いしてありますし、警察が毎日巡回してくれています。本当に辺鄙な田舎です。変化や刺激がありません。でも、由紀子さんにはそういう環境での生活が必要なのかもしれません。

 好いことばかりではありませんよ。都会暮らしに慣れた者には驚くようなことや、辛いことがたくさんあると思います。それに耐えられるかが問題です。

 慌てなくてもいいですからよく考えてください。もし由紀子さんがそれでもよければ、金曜日に出発します。さっき二匹の犬がいたでしょう? あれを番犬にするために連れて行くのに相乗りしてもらいます。一時間でも二時間でもかまわないからよく考えてくださいね、その間適当に馬鹿話してますから」


「…………」


 由紀子がうつむいたまま黙って頷いた。



「ねえねえ村井さん、話し方のコツを教えてよ。ほら、実習生の相談にのってあげられるじゃない」


「いつも前向きだな、係長。コツって言われても困るんだけどな、話す相手の気持ちに寄り添うことが大切だと思うよ」


「寄り添う?」


「うん。寄り添うというと難しそうだけど、相手の言い分をじっくり聞いてやることが手始めかな、相手の言い分を無条件で受け入れるんだ。おぼろげに相手の考えを掴んだら第二段階だ」


「第二段階?」


「うん。こんどは相手の気持ちで考えるということかな」


「それって難しくない?」


「そりゃあ簡単じゃないさ、自分の考えを脇において相手の気持ちを優先させるのだからな。でな、全部相手の気持ちで考えりゃいいかというと違うんだ。自分の気持ちでチェックしなきゃいかん」


「どういうこと?」


「泥棒にも三分の理って言葉知ってるか?」


「初耳」


「泥棒にも泥棒するだけの理屈、言い訳だがな、それがある。けどな、泥棒にとっては理屈でも、盗られた方の落ち度は? カギがかかってなかったからって盗んでいいのか? 鍵をかけること自体、他人を信用していないということだろう? 本当は恥ずかしい、哀しい社会だってことじゃないかな。腹がへって死にそうだからって年寄りの財布をひったくっていいのか? それくらいなら頭を下げまくって施しを受けたらいいのに、くだらんプライドは残っているんだろう? だから、相手の気持ちを理解しながら批判することが必要さ」


「なんかすごく難しそうだね」


「そんなことない、誰だってしてることさ。難しいのはもっと別」


「別のこと?」


「自分の言い分をじっくり聞いてくれてる、相手にそう思わせるのが一番難しいよ。そうじゃないかな、青木さん」


「そうですね、頭からどやしつけても自供しませんよね。捜査員と犯人との間に信頼関係が生まれないと難しい場合がありますね」


「そうか、なんか意味が判らないことをしなけりゃだめなんだ。チンプンカンプンだわ、アタシには無理ね」


「あれ? ずいぶん俺の話し方を盗んでるのは誰だ?」


「まだそこまでは……、こんどゆっくり教えてもらえるかな」


「たいしたものですね、保護司さんってそのくらい話を聞きだすことができるのですか? 私達ももっと練習しなけりゃだめね」


「俺なんかはヒヨっ子だからもっと上手な人がたくさんいると思いますよ。残念ながら現場を見学したことはありませんがね。そんな心配しなくても、橋本さんは基礎ができてるじゃないですか。こっちが教えてもらいたいくらいですよ」


「そのやりかたで市長や議員を説得したのか?」


 吉村にとっては、対個人ではなく予算委員会を納得させられる会話術に興味がある。それこそ切実な問題なのである。


「冗談じゃない、奴等にこんな話し方をしたらのぼせ上がるだけだよ。それは課長だってわかってるだろ? 奴等には別の話し方が効果的だよ」


「どうするんだ?」


「自信満々に話すことだよ。奴等、票を集めること以外は素人さ、だからそれを逆手にとればいい。虚栄心をコチョコチョっとくすぐって、専門的なことで幻惑して、知名度が上がると思わせれば案外操縦できるようだ。ま、支配欲が強すぎて見境がつかなくなるんだろうよ。他に興味がないのかもしれんな」


「青木さん、危険人物に違いないよねこういう奴」


「吉村さんもそう思います? ほんと、危険な人だ。今のところ社会に貢献する方向を向いているからいいけど、今のだって詐欺の手口そのもの、注意申報に載せとこうかな」


「やめてよ! なんで警察に疑われなきゃいかん? けっこう信用あるんだぞ、これでも」


「いや、帰ったら必ず報告します」


「ますますわからなくなってきた」


 村井が話すのを聞いていて頭をかきながら橋本が呟いた。


「なにがです?」


「村井さん」


「見たとおり。身も飾らない、心も飾らない平凡な男だよ。福祉課はそういう人に接する機会が多いでしょう?」



「あのう、お願いします。連れて行ってください」


 話し合っているのを邪魔するのが躊躇われるのか、由紀子が遠慮がちに声をあげた。


「そんなに慌てないでいいからゆっくり考えてください。まだいくらも時間経ってないよ、大事なことなんだから何度も考えてください」


「もう十分です。今の生活から連れ出してください」


「それほど辛いのはよくわかります。でも他の方法があるかもしれない。そっちの方が由紀子さんのためになるかもしれない。だからもっと考えてください」


「もう十分です。恨み言は言いません」


「そうですか……。ただな、この先を話したら後戻りできませんよ、今生活している人に迷惑がかかるといけないのでね。これで最後にします、もう一度考えてください」


「いえ、もう迷いません。どうかお願いします」


「そうですか、なら全部話します。みんないいな?」


 村井がことさらゆっくり見回すと、皆一様に頷いていた。


「よし、じゃあその前に、モードチェンジ!」


「いきなり何事だ? 全くわからん奴だな。ゲームじゃあるまいし、何だよそのモードというのは」


「ここからは身内モードに変更するぞ、余計な遠慮は一切禁止。いいな!」


「まあ、かまいませんよ」


「それだよ橋本さん、かまいませんよだなんて職業語は禁止。家にいるように気楽に」


「判ったわよ! これでいいの?」


「それなら合格だな。じゃあ手始めに、真琴、お茶をたのめんかな。俺はコーヒーがいい、熱いやつな。他は? 皆それでいいの? それじゃあたのむわ。そうそう、インスタントでなきゃだめだぞ、気取って豆なんかでいれたら飲まないからな」


「お前の独壇場だな」


 もう勝手にしてくれと言いたげに吉村が呆れている。


「いや、ここまでが俺の仕事。この先はお前がやってくれ」


「あのう、真琴というのは?」


 初めて由紀子が自発的に発言した。


「ああ、名前を教えてなかったね。係長の名前が宮内真琴。身内モードなんだから係長なんて呼ばないで真琴と呼び捨て。その方があいつも嬉しいんだよ」


「そうなんですか、元気な人だなあって」


「元気なんて生ぬるい。由紀子さんはあいつの本性を知らないから無理ないけど、市長にだって直談判するような向こう見ずですよ」


「おじさん、むこうまで聞こえるような大声出さないでよ。言いたいことは面と向かって言うのが礼儀でしょ? どうしても喧嘩売るのなら覚悟してよ、小次郎呼ぶから。すぐ来るからね」


「どうよ、これだよ。もう少しおとなしいとうんと可愛いのに」


「はいはい、アタシを肴にするのはいつでもできるから話を戻そうよ」


「そうだな、じゃあ課長、続きをたのむわ」



「その場所なんですが、広島と山口の県境を少し西に行った錦町というところです」


「山口県? どうしてそんな遠いところに……」


 遠くに収容施設を開設したことは知っていても、それが想像をはるかに超えた遠方であることに橋本が驚いた。


「去年の七月に広島で土砂崩れがあって、名古屋から救助に行ったのは覚えてる? その時に現場指揮をしていたのが青木さんなんだ。すごい山の中でね、地元の人でなけりゃ通らないような場所だった。この話、遠隔地に避難所を作りたいというのを知ったのは、その話を村井が覚えていたからで、遠隔地に避難所をつくりたいから青木さんに相談してくれと突然言われて、事情を聞いて初めてコソコソしてるのを知ったというわけさ。青木さんに無理な相談をしたところ、どうせなら救援課と縁のない土地のほうがいいだろう、ちょうど県境だからと隣接する山口県の警察に問い合わせくれて、目的に適う土地を紹介してもらったというわけさ。それで、俺と村井とが現地に行っていろいろと。親分きどりで大隈さんもついてきたけど頼りなくて、そのくせ偉そうにしたがるから笑えて笑えて」


「それで青木さんがここで訓練を受けているのですか」


 ようやく合点がいったかのように橋本が頷いた。


「いろいろ教えていただきました。でも何ですかあの娘達、うちの若いのが呆気にとられていましたよ。それも笑いながらだからな、まいっちゃうよ」


「さっきのはサービスのつもりでしょうね。まさか壁を走るとは思わなかったけど」


「誰でもあんなことできるのですか? 近藤さんがあの土砂降りの中で救助活動してくれたのが頷けますよ」


「他にもいろいろできますよ。山に放置しても案外生き延びるんじゃないですかね」


「やっぱり専門家にはかなわんな。警察の対応に不満があるのは当然です。私達自身にも至らないところがたくさんあります。民事不介入の原則があります。そうじゃなくて、失敗して叩かれるのを嫌う、……つまり保身ですね。組織として保身をはかるんだから個人が逆らうなんてできません。公務員の哀しい根性ってやつですよ」


「それで、協力を得て開設したのが今年の春。早速希望者を六人送り込んだけど、どうしても気持ちが揺らぐ人がいてね、一人脱落してしまったそうだよ」


「六人に一人なら優秀じゃないの。一時保護施設なんかほとんど全員が脱落するわよ」


 脱落するたびに無力感に苛まれるのだろう、橋本は投げやりな表情を隠そうとせず、相川もしきりと頷いている。


「そんなにか?」


「いろんな制約を我慢できないのが一番みたいね。自分の我慢が足りなかったと考える人もたくさんいるし、やっぱりなんといっても生活費よね。無一文では生活できないから戻らざるをえない人もいる」


「由紀子さんは自分を失っていなかったんだな」


「そう、だから誘ってみたの。でも、先のことを知らずに誘うって無責任よね」


「まあまあ、それについては考えがあるから続きを聞いてよ」


 さめたコーヒーを取り替えようと、宮内が席を立った。


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