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秘密結社

 一・秘密結社


 一


 機械の奏でる騒々しさに混じって電話の着信ベルが続いている。


「まったく、便所くらいゆっくりさせてくれよ」


 半分出かかったのを中断してズボンを引き上げながら大急ぎで机に戻った男が、ブツブツ悪態をつきながら受話器をとった。


「お待たせしました、村井鉄工所です」


 他人には聞かせられない言葉で悪態をついていたというのに、手の平を反したように元気な声を張り上げていた。


「おそれいります、山口県の川上と申しますが、村井由蔵さんはご在宅でしょうか?」


 受話器から真面目そうな、おとなしそうな声が伝わってきた。が、その声に心当たりがないようで、わずかに上目遣いになった。


「村井由蔵は私ですが、山口県の川上さんと言われても心当たりが……」


「錦町役場、福祉課の川上です」


「ああ、錦町の……、これは失礼しました。すっかりお世話になりっぱなしで、よく連絡先がわかりましたね。ああ、大隈さんに。今日はどんな用件で、何か問題でもおこしましたか?」


 こんどははっきり思い出したらしく、にこやかになった。


「実は昨日、こちらで生活されている方から相談がありまして、こちらで判断できる内容ではないのでお伝えしようと」


「初めての相談ですね。少しは変化があったのかな、どんな内容なんですか?」


「どうお答えすればよいのか、……ぶっちゃけたところ、事業を興したいそうなんです」


「事業ですか? 事業ねえ。理由とか、何か詳しいことを話しましたか?」


「はい。なんでも同じ境遇の人を呼び寄せて、共に生活しながら回復の手助けをしたいと考えたそうです。働くことも当然含むそうで、当面の生活資金を貯えられるようにしてやれればと。それで、そのための事業を興したいと」


 電話をかけてきた川上も当惑げに口ごもっていた。


「何か具体的な案でもあるのでしょうか」


「まだそこまで具体的な考えではないようです。ただ、そのための資金を工面する方法を尋ねていまして、閉鎖された国民宿舎を利用することができないかとも言っていました」


「そうですか、あの無気力だった人達が他人の世話をね。……そうですか。そりゃまたすごいことを考えたもんだ。いったいどういう心境の変化でしょうね、何かあったんですかね。どういうことなのか、実際に話し合う必要があるかもしれませんね」


「でも遠いですよ、いいんですか?」


 地元から離れたことのない川上は、名古屋をとても遠いところと思い込んでいる。だから村井が何気なく話し合うと言ったことに驚いていた。


「なに、萩の親戚に毎年走ってますから、岩国くらいなら近いもんです。ただね、単なる思いつきかもしれないし、急な話で妙案があるわけでもなし。無駄足かもしれないし、悩ましいですね」


「こういった問題はやっかいですね」


「そうですね、正直言って困惑しますね。でもね、本人がやる気を出してくれたのを問答無用で潰すというのは、能無し政治家みたいで最悪ですから。うまく後押しできればいいんだけど」


「大隈さんにも内容を伝えてありますので、よくご検討ください」


「はい、なるべく早く答えを出すようにします。それで、健康状態や不審人物はどうですか?」


「魚や肉さえ満足に食べていないようです。買い物に出ること自体が不安らしくて。といっても野菜は畑で採れますし、山にも食べられるものはたくさんあります。本人達に見分けることができればですがね。せめて見分け方を覚えてほしいのですが、なかなか……。とにかく、粗食で生活してますから健康状態は改善してるといっていいと思います。それに、変化のない土地ですから精神状態も安定しているようです。不審人物については下の村が阻止してくれますから安心してください。見かけない人物についての情報は一切ありません。こんな田舎にわざわざ来る人なんかいませんよ」


「そうですか、安心しました。経済的に追い込んだ生活をさせていますが、結果的に正解のようですね。工夫するだろうし、我慢するだろうし。冷たいようですが、生きることに意識を集中できるから余計なことを考える暇を奪えるしね。そちらに受け入れていただいて本当に感謝してます。先ほどの件について早速協議しますので、暫く時間をください」


 電話を終えた村井は少し考えた後に受話器をとった。



「おそれいります。港の村井といいますが、大隅さんに取り次いでいただけませんか」


「港の村井さんですね? 申し訳ありませんが大隈は手が離せない状態ですので、後ほどこちらから掛け直させます。失礼ですが、港のどちらの村井さんでしょうか?」


「ただ村井でわかってもらえるはずなんですが。そうですね、救援課に関わった村井だとお伝え下さい」


「あの村井さんですか、これは失礼しました。お待ちください、ちょうどお客様が帰られたようです。すぐに替わりますので少々お待ちください」


 大隅の秘書が鬱陶しい陳情と勘違いして断るつもりだったのだろうか、素性を知って慌てて取り次いでいるに違いない。


「すまんすまん、秘書が勘違いして断わるとこだった。電話よこしたとこみると、そっちにも報せがいったな?」


「そのことで相談したいのだけど、今夜なら都合がいいんだが、どう?」


「わしはかまわんぞ。実はな、若手を巻き込もうと思ってるんだ。見込みのある奴に勉強させようと思ってな」


「新人教育だな。やるな、大隈さん親分肌だったんだ」


「どこぞのカジヤにねじ込まれるといかんからな。本人達は興味を示しているんだけど所属先の親方がなかなか頑固でなあ、話を通しておかんと後で拗れるからな。あんたを見習って所属を無視して目星をつけたんだぞ。こんな話は会派がどうのという内容じゃないからな。錦町から電話もらってすぐ申し入れをしたんだが返事がまだなんだ。なかなか即断即決にはならんな、困ったもんだ。今から吠えてくるから少し待ってくれんか、なるべく今夜集まれるようにするから」


「そっちの世界もややこしいんだな。それはいいけど、こっちの電話番号を登録しといてよ。番号表示なんだろう? 毎回こんなでは困るよ」


「ちゃんと登録しておくから今回は勘弁しろよ。とにかく、話がついたら連絡するから待っててくれ」


 たかが市会議員のくせにもったいぶりやがって。それに、秘書のくせに相手を知らないのも怠慢だ。初めての電話でもあるまいに、ああいう姿勢が癌なんだ。なんだよ偉そうにと村井の腹立ちはなかなか収まらない。



 作業を再開して一時間ほどたった頃に電話が鳴った。


「お待たせしました、村井鉄工所です」


「こちら大隈事務所です。おそれいりますが、村井由蔵さんは御在席でしょうか」


 先ほどの秘書の声である。いくらも時間が経っていないのに相手の声くらい覚えていないのかと更に腹立たしくなった。


「毎度お世話になります。失礼ですがどちらの大隈さんでしょうか、知り合いに大隈という名前が多いものですから。それに、普段耳にしないお声のようですが」


「市会議員の大隈事務所です」


「そうでしたか、私が村井ですが。ひょっとして先ほど取り次いでいただいた方ですか? これはとんだ失礼をしました。それで、何か御用でしょうか?」


「大隈からの伝言です。今夜五時にいつもの鰻屋にご足労いただきたいとのことです」


「大隅さんから直接連絡をもらう約束でしたが」


「生憎席を外しておりますので悪しからず」


「あなたも来られるのですか?」


「はい、同行致します」


「そうですか、ではその折に改めてご挨拶を」


 ほんの一時間ほどしか経っていないのに相手の声を忘れるものだろうか。意地の悪い受け答えをしておいて、今夜現れると言った秘書を懲らしめるべく村井が算段を始めた。




「やあ、遅れてすまん。出掛けに電話がかかってなあ。なんだ、市長がおるじゃないか」


 自分が指定した時刻に遅れたにもかかわらず平然と構えて大隈がやってきて、声をかけていない市長がいることに驚いている。


「悪いとは思ったんだけどね、金づるを呼ばなきゃ話が進まないからさ。いいじゃない、身内同士なんだから」


「わしは金づるってことか」


 村井の言葉尻をつかまえ、憮然とした顔で市長が吐きすてた。


「旦那とかタニマチとでも言い直そうか」


「口の悪いのが治らんな、いっぺん病院行ってこい」


「お互い様、率直と言い換えてもらうとより正確だよ」


「市長は忙しいんじゃないのか? だから報せなかったのに」


 市長と村井の応酬が収まりそうもないので大隈が脇から治めにかかった。大隈としてはおそらく選挙への思惑があるのだろう、自分が主導したということを前面にアピールしたい、そんな魂胆だろう。


「だから、費用捻出の意味からも市長の協力が欠かせないから無理にお願いしたんだよ。心配しなくても、この件は大隅さんを軸に進めることに変更はないからさ、来年の選挙でめいっぱい宣伝してくれればいいよ。なあ市長。ところで大隅さんの秘書さんだけど、相手の声や話し方を覚える練習をした方がいいんじゃないか? 何回も電話してるのに俺の声や話し方を覚えてくれないみたいで、そんなの営業の基本だろ? 会社だったら一発でクビがとぶよ、呑気なもんだ。市長にだってすぐに連絡がつくっていうのに。それとも何か? どうせ議会や役所の関係者じゃないから相手にするだけ損ということか? まさかそれはないよな」


「どういうことかわからんが、妙に引っかかる言い方だなあ。すぐに取り次がんのか?」


「毎回新規扱いだ、これでは連絡できないよ。悪いけどさ、携帯電話の番号教えてくれないかな、これからは直接連絡するから。迷惑にならないようメールするからさ」


 村井の抗議に大隈が血相をかえて秘書に向き直った。


「おい、どういうことだ! こいつなあ、口は悪いけど嘘はつかん奴だぞ、言い訳できるか。今どんなことをしてるか把握してないのか? せっかく目玉にできる事業に取り組んでいることはわかってるはずだろう。発案者が誰だというのもわかってるわな。これが当の本人だ! 相手が誰であれ甘く考えちゃいかん、特にこいつからの電話は無条件で取り次いでくれ。たのむぞ」


 言われた本人は、市長と隣り合わせに座る村井に驚いている。それはそうだろう。電話での受け答えとは全く違うくだけた口調で、大隈や市長と対等に話しているのを目の当たりにしたのだから。

 皆の前で叱られてこそこそと遠くの席に引き下がってゆく。


「すまんな。ちょっと上昇志向が強いというか、野心が強いというか。まだ若いんだから勘弁してやってくれよ」


「大隅さん、そういう言葉は自分の値打ちを下げると思うがな。もっと別の庇い方があるんじゃないか? それはそれとして、救援課の課長と係長にも来てもらうように頼んであるんだ、もう来る頃だから少し待ってもらえるかな。それと、若手の議員さんにも協力してもらえるよう骨を折ってくれたそうだね、先に紹介してよ」


「そうだな、こっちがうちのホープで都築君、そっちが別会派のホープの鈴森君。二人ともしっかりした信念をもってるし、柔軟な考え方ができる英才だ、頭の回転も速いぞ。若いというのがなにより強みだな。この風采のあがらないのが村井さん、影の立役者だ。言っとくがな、何を言い出すやらわからんから気をつけろよ」


「都築です、大隈先生からいろいろ聞かされています」


「鈴森です。村井さんとは、救援課設立に関わった?」


「こいつのおかげでいろんな経験をさせられたわ、善くも悪くもな。おかげで二期目合格だったがな。ワシらにあんなものの言い方する奴は他におらんからな、口が悪いのは覚悟しておくことだな」


 言葉のわりには満更でもなさそうに市長がニヤついている。


「そんな大そうな輩じゃありませんよ。なぜか自分の考えることは世間に、というより議員さんに忘れ去られているようで、かえって新鮮に映るようです。これからちょっとした山場にさしかかりそうなのでぜひ協力をお願いします」


 互いに挨拶をしあっている間に店の戸が引かれた。



「こんにちは、村井さんに呼ばれてきたのですが」


 災害救援課係長の宮内が案内を乞うている。

 災害救援課というのは、緊急雇用対策を目的に設立された災害救助専門の部署なのだが、期待を裏切る活躍で名古屋市の存在を全国に印象づけ、地の自治体との交流のきっかけをもたらしている。その最高責任者である課長と、昨年就任したばかりの初代係長も話し合いに招かれていたようだ。


「いらっしゃい、また来てもらえましたね。うちの鰻を食べてくれた人は必ずまた来てくれるんですよ。もっと早くてもよかったのに。特に美人は毎日でも大歓迎だ」


「うわあ、楽しい大将ねー、それに美人だなんて、すごく正直ね。次は妹達を連れて食べに来ますよ。それで、村井さんは?」


「もう皆さんお揃いですよ。ご案内して」


 小柄な娘が湯呑みとお絞りを盆にのせて案内に立った。


「かわいい店員さんね、アルバイト?」


「いえ、娘です」


「娘さんなのか、学生さん?」


「看護学校に通ってます」


「あら、どこの学校?」


「港区にある学校なんです」


「偶然ねー、何年生?」


「二年生です」


「またまた偶然! あるんだねーこんなこと。じゃあさ、今年転入してきた人知らない? 秋田出身なんだけど」


「久保さんですか? 転入はあの子だけですよ」


「あら、お雪、博子のこと知ってるの?」


「同じクラスの仲良しなんです。お客さん知り合いですか?」


「世間って狭いものねー、悪いことできないわ。博子ね、うちの職員なのよ。お願いだから仲良くしてあげてね。そうだ、今度遊びにいらっしゃいよ。他にも楽しい娘がいっぱいいるんだから。台湾人もいるよ。あっ、アタシ達ね救援課の職員なの」


「えーっ、博子って救援課の職員なんですか? そうすると台湾人ってテレビに映ってた人ですか?」


「そう、丹梅も仲良しなの。ね、きっと来てね」



「おい、道草するな。ごちゃごちゃ言ってないで早く座れよ、始まらんじゃないか」


 座敷の上がり口で立ち話を始めそうなのを察して市長がだみ声をあげた。


「おっと、おじさんに叱られた。またあとでね」


 思わぬところで職員の友達に出会い、世間の狭さに驚いている。

 係長とはいってもまだ若く、今年で二十五歳だから若い者とすぐに仲良くなり歯止めがきかなくなるという欠点がある。とはいえ、その年齢で係長に任命されるくらいだから芯は強く、周囲の者を惹きつけるものをもっている。村井のすすめで救援課長の吉村と養子縁組をしたのだが、公表していないので未だに宮内を名乗っている。


「ごめんなさい、職員の友達だったからつい……」


「すまんが、梅を八人分たのむわ。一つはあっちにな」


 全員そろったところで市長が料理を注文した。


「今日も梅かよ。もう少し奮発してもいいじゃないか」


 一番下の等級である梅という一言に村井が反応した。


「何言ってるんだ。俺達は税金で生活してるんだぞ、梅でも贅沢なくらいだわ。どうせわしにたかる魂胆だろうが」


 市長にすれば皆の食事代を払うつもりでいるのだからなるべく安くすませたいのに、おかまいなしに不平を言われることが納得いかなず、考えるより先に言葉になってしまう。


「俺は税金で生活してないぞ。どっちにしても交際費でおとすつもりなんだろ? だったら所得税が減るんだから腹は痛まないじゃないか、ケチ」


 唯一の民間人である村井は動じないばかりか、控除対象とまで踏み込んで言い募る。


「税金が減ったら国が困るだろうが、住民税も減るんだぞ」


「なにを間抜けな言い訳するんだよ子供みたいに。その分はこの店が払うんだから全体では同じはずじゃないか。素人相手の言い逃れは通用せんからな」


 この男達、庶民的といってしまえばそれまでなのだが、体裁をかまう気など更々ないのか、店内であることを忘れて料理の等級で揉めている。


「外野の言うことは聞かんでいいから、とにかく梅を八人分な」


「お飲み物はどうしましょうか」


「車だからお茶で十分。できたら急須をほしいくらいだ」


「かしこまりました」


 クスクス笑いながら店の娘が障子を閉じた。



「さてと、全員揃ったところで始めようか。今朝、山口県の錦町福祉課から連絡があって、遠隔避難所に収容している人から相談を受けたということが判ったんだが、その内容というのが……」


  大隈が声を落として話を始めた。


「話の腰を折って申し訳ないのですが、遠隔避難所とはいったい何のことですか?」


 上着こそ着ていないが、きちんとネクタイ姿の都築が遮った。


「そうだったな、都築さんと鈴森さんには初耳だな。あんたらDVというのを知ってるか? 早い話が家庭内暴力だな。女房を殴る、年寄りを虐待する、子供を虐待する。交際相手に暴力をふるう奴もおるそうだ。なんとも気の小さい男で情けないが、暴力を受ける側はたまったもんじゃない。警察や裁判所でも対応してはくれるがあくまで法的なもの、極端に言えば口先だけのものだ。確かに警告を無視すりゃ法的処分を受けなきゃならんが、そんなものは被害を受けた後のことだ。被害者の精神的苦痛がどうなるもんでもないし、頭に血が上った奴が事件をおこすことも多いから役に立たん。役所としても、救援を求めてきた相手に対して、俗にいうシェルターに緊急保護をすることはある。母子寮に収容するという方法もあるんだが、なかなか効果が得られんそうだ。なんでかいうと、被害者自身が自分にも責任の一端があると錯覚したり、相手の口車にのせられたりだな。収容先での約束事が窮屈で定着できん人も多いそうだ。それに、どこに移しても相手の陰に怯えて精神的に追い込まれるということもある。それを解決するために去年から対策を練ってきた。細かく説明するのは省くが、住民登録を遠隔地に移動させるとか、住民登録の非開示措置をとるとかだな。だがな、名古屋で暮らす限りいつ発見されるかもしれとんいう不安がつきまとう。ということで、遠隔地に住まわせて精神的な負担をとってやろうということになった。遠隔地といってもただ遠けりゃいいというもんじゃないぞ。幸いなことに、救援課が土砂崩れの救出に行った先で知り合った広島の警察に適当な場所がないか相談したら、山口県の錦町を紹介してくれた。その町は相談した警察と隣接してるので協力要請がしやすいのと、山間過疎地で観光資源もなく交通不便な場所でな、現地を歩いてみてよそ者が目立つということが判ったから役所の協力が得られるのか話し合ってみた。同時に、田畑はどうか、山での採集はどうかも調べて、廃棄された農家を田畑や山での採集権を含めて購入した。そこでの生活を希望する者六名を送り込んで、そこで生活させてるというわけだ」


「農家の購入費用はどうしたのですか」


 鈴森は開襟シャツなのに顔中汗を浮かべている。


「市長とワシと村井さんで出し合った。案外安くてな、全部含めて六十万で済んだ」


「所有者は? 登記はどうしました?」


 大隈の説明だけでは納得せず、更に質問を繰り出してくる。


「それについては市長も大隈さんも立場が微妙です。あらぬ詮索を予防するために私の名義にしました。いずれ市に移管するにしても寄付行為で睨まれますから、

 それが一番安全な方法でしょうね。三人の覚書もありますよ」


 村井は先手を打って若手議員の口封じにかかった。市長や大隅の説明では弁解ととられるおそれがある。無用な摩擦は避けねばならない。


「なるほど、先手は打ってあるのですね。では、先方の役所関係の協力は?」


 議会審議と勘違いしているのか、鼻の下に大粒の汗を浮かべた鈴森がたたみかけた。


「福祉課が面倒みてくれてる。警察関係は広島から手配してもらった。それに、その農家の下流に十軒ほどの村があって、住民には事情を説明して外部からの侵入を警戒してもらってる」


「そんなこといつの間に?」


「だから去年の秋からだ。内容が内容だ、誰も知らんと思ってほしい。福祉課の職員も少し噛んではいるが今の半分も知らんし、この係長なんか初耳のはずだ、なっ?」


 大隅はそう言って宮内をいたずらっぽく見た。


「そうだったんですか。いつもいがみ合っている大隈先生と市長が内緒でこそこそしてるなんて思ってもみなかったな」


「鈴森さん、ワシらだけの時は先生と言わんでくれんか、都築さんもそうだぞ。そういう言葉を使うと野良犬が牙剥くからな。見た目は汚いおっさんでも十分危険人物なんだぞ」


「待った! 最初の風采があがらんというのは我慢できるよ、事実だから。だけど、汚いとか危険人物って言い方はないよ。十分危険だと? そんな評価のし方あるか! 吉村さん、俺達長い付き合いだよな、戦友だろ? お前は味方だよな、犬係長」


「宮内です。普段の行いが祟ってるのよ。アタシに内緒ってのが気に入らないもんねー」


 助け船を諦めた村井は、もういいと言いたげに口を尖らせてソッポを向いた。


「話を戻したいのですが、それで今後どうするのですか」


 なんだよこの人たち、そうとは言えない鈴森が軌道修正を図った。


「脱線するとこだったな、あんたみたいなのが議員だったら議事進行ができんぞ」


「だったらあんただって議長になる資格も能力もないってことだ」


「ちょっと、また脱線させようとする」


 再び横道に逸れそうな様子を察して宮内が止めにはいった。


「すまんすまん、つい挑発されて。今までの経緯を頭に入れておいてくれよ。

 その錦町の福祉課から連絡があって、生活させている者が救済のための事業を始めたいという希望を伝えにきたそうだ。詳しくは聞いてないが、同じように辛い思いをしている者を呼び寄せて、共同生活をしながら社会復帰の手伝いをしたいそうで、近くの閉鎖された国民宿舎を本拠地にできんかということらしい」


 大隅がそこで言葉を切った。


「ではちょっと考えてみましょう。整理すると、その建物の購入の是非、何をさせるか。そもそもそうする必要があるかということですね」


「どこを窓口にするかも考える必要がないですか?」


 都築と鈴森は、市長や大隈のような、普段歯牙にもかけてもらえない者から指名されたことで極度に緊張している。極秘の取り組みと耳打ちされればなおさらだろう。


「窓口は救援課に頼みたい。被災者の生命や心を救うのが目的だから筋は通るだろう。一般職員だと規則に縛られて柔軟な対応ができん。すぐに所管が違うと言い始める。簡単に腰が退ける奴等ばっかりだからな。救援課ならその点安心だ。福祉の腕利きを出向させればいいんだし、もう関わってるという弱みがあるしな」


「大隅さん根性曲がってない? 絶対曲がってるよ」


 唐突に自分達にふられ、すかさず宮内が言い返したが、頓着せずに大隈は話を続けた。


「建物については、購入か貸借かは白紙だ。何をさせるかも白紙。まずはそうした取り組みをする必要があるかということから考えてもらえんか」


 それ以外の説明がないようなのを察して、村井が補足した。


「大隅さん、健康状態について説明受けた?」


「いや、そこまでだ」


「じゃあ補足するけど、生活費に困窮している状況なので健康を害する物を口にする余裕がないそうだね。畑で採れる野菜が中心で、山に自生する物も食べているらしいよ。一度あんた達も案内するけど、山奥に小さな村があって、その一段上にぽつんと建っている農家なんだ。産業もなく、人の出入りがない。当然景色が変わるなんてことはない。携帯電話は禁止だけど、仮に持ってたって圏外で通じない。もちろん電話は引いてない。つまり、外部との交流が閉ざされているから他人に支配される心配はない。農作業や山歩きをする毎日だから精神的にも肉体的にも健康になってきているそうだよ。……そうだよな、そうでなきゃ他人を救おうなんて考えられないよな」


「そうですか。では生活費はどうしているのでしょうか。何か特別なことでも?」


 冷たいほうじ茶で喉をしめらせた都築が質問した。


「生活保護費を先方の福祉課に送っている。公共料金を差し引いて、米・味噌・醤油を届けてもらってる。残りは一括して手渡してもらってる。その支給のことがあるから名古屋に住民届けを戻したんだ。これは村井さんが仕組んだ」


「生活保護費を地方に送金していいんですか?」


 会派が違うことが原因なのか、鈴森の質問は追究の観さえある。


「ありえないよね。でもね、非公式とはいえ名古屋の施設で生活してるんだし、現に名古屋市民なんだし、少し解釈を緩くすればセーフかなと。柔軟な運用ってことで」


 運用の問題なんだから大目にみてよと言いたげに村井が二人の議員に説明した。


「どうだ、理解できたか?」


「ここまではなんとか」


「よし、それなら決めようか。相手の求めに応じて行動する価値があるかどうかだ」


 これまでの説明で現状を認識できたか尋ねた大隈は、二人が頷いたのを見るなり次へ踏み出すかを決めようと言った。


「今ですか? 今初めて知ったんですよ!」


 通常だとこれでお開きになり、後日あらためて対策をもちよって検討する。当然その流れでゆくものと思っていた二人は、あまりに性急な展開に驚いた。


「臨機応変じゃないか。物事には時機というものがある。迷う時間なんかないんだぞ。

 目の前で子供が池にはまった。あんたならどうする?

 飛び込むか、物をさがすか、人を呼ぶか、見なかったことにするか。咄嗟の判断だ。

 気力を無くしたり心を病んだりした人が壮大な希望を表明したんだ、鬱だった人が他人の心配をするというのは破天荒なことじゃないか。しかもな、ただ心配するだけじゃなく救おうと考えてるんだ。本来なら行政の仕事だわ、だから心して考えにゃいかんことだ。よし、挙手で決めようか」


 資料を集め、環境をふまえ、議論をつくしての意思決定は大切だが、緊急時の対応を二人に教えたいと大隈は考えている。そして今回扱う内容は、社会に埋もれて顕在化しにくいことであり、遠からぬ将来には大規模な啓発活動を必要とする内容である。頭でっかちにならず、躍動的な議員に育ってほしいと大隈は願っているのである。


「どうしよう、もっと簡単なことだと思ってたのに話がでかいよ」


「後でやっかいなことにならないか心配だよな」


 あまりに急な展開に若手議員はうろたえていた。


「相談できたか? それじゃあいくぞ。とりあえず動いてみるという者」


 救援課長と係長、それに市長が手を揚げた。


「あれ? 大隅さんと村井さんは反対なんですか?」


 都築も鈴森も、大隈と村井が賛成の挙手をしていないことを不思議そうにしている。


「ちゃんと見ろよ。ワシらは話を主導してる立場だから、あんたらにいらん圧力かけると思って遠慮してるだけだ。ちゃんと意思表示してるつもりだがな」


 言われて二人を見ると、食卓においた手の指が天井を向いている。


「何ですかそれ、子供みたいなことをして」


「ちゃんと意思表示してるだろ? それで、どうする?」


「わかりました、勉強させていただきます」


「よろしくお願いします」


「全員賛成ということだな? それでは動くことにするからな。そうそう、いい言葉があるんだ。係長、あの褒めてというやつ教えてやってくれんか」


「褒めて、褒めて、やる気をだしたときにどうするの?」


「背中をおしてやる」


 保育士が園児に教えるように係長が発声すると、大の男が四人揃って嬉しそうな声で続き、それを異様に感じたのだろう、都築が素っ頓狂な声をあげた。


「何なんですか、今のは」


「犬を訓練する時の心得だそうだ」


「なんだ、犬ですか」


 都築と鈴森が顔を見合わせ、呆れたように市長や大隈に視線を戻した。


「だからいいんじゃないか。いいか、言葉が通じん相手に教えるんだぞ、人を相手にするのとは訳が違う。その難しいことに取り組む時に身につけたコツだそうだ。人が相手なら言葉が通じるんだからもっとうまくいくはずだろう?」


 初めての者には理解できまいと市長が噛んでふくめるように説明したのだが、納得したのかどうか二人の議員はしきりと首をひねっていた。


「それでどうするの? 様子を見に行くの?」


 宮内が村井に尋ねた。


「話し合わないと何も始まらんからな」


「二週間したら青木さんが帰るんだが、どうだ、青木さんが帰るのに同行しようか」


 救援課長の吉村が村井に向き直った。


「アタシもだめ? 特に意味はないけど、番犬をどうかな」


 宮内は、自分が役に立たないことはわかっているが、同性として興味をひかれた。その口実として番犬を提案したのである。宮内は災害救助犬を担当する部下をたばねている。


「大福も行きたいのか? とんぼ帰りだぞ」


 真琴と言いかけて咄嗟にまずいと思った吉村は、職場での呼び名を使った。


「わかってるわよ。でも女性ばかりなんでしょう? 監視がいないと飢えた狼が何しでかすか判らないからね」


 からかうように、宮内が箸をおいて村井を指差した。


「馬鹿か! もううんざりだ女なんか」


「あら、村井さん盛大に見栄張っちゃったね。奥さんの前で言える?」


「この小娘が! 返答に困ることを言うな! なんとかしろよ課長、親なんだろ」


「番犬にするような犬がいるのか? それとも救助犬にできない犬がいるのか?」


 村井の抗議などどこふく風と受け流し、二人とも箸を動かしている。


「そういうのもいるけど、それはそれで役割があるから愛護センターでさがしてくる。一週間くらいでちゃんとしつけるよ」


「青木さんが帰るのは二週間先だから念入りにな」



「おい、話がすんだから来いよ。市長と懇談させてやるぞ。これで判ったろう。この人は馬車馬をしたがるが、本当は闇を牛耳る帝王なんだ」


 大隈が一人ぽつねんと座る秘書に声をかけた。


「よせよ! どうせなら天の声とでも言ってくれないかな」


 宮内からも大隈からもからかわれているのに、村井は嬉しそうに言い返した。


「それはそうと、毎度ここでは市長が破産してしまうからな、救援課で会合するようにできんか、あそこなら秘密が保てる」


「いいですよ、貸しますよ。大隈さんの頼みなら断れないよ。応接室を使えばいい」


「ちょっと待てよ。あんたたちは市役所が本拠地だから関係ないだろうけど、俺の負担はどうなるんだよ。庶民はいつも犠牲を強いられるってわけか、ありがたくて涙が出るよ」


 大隈が会議の場を提供しろと吉村に言い、吉村も快く応じる。そのやりとりを村井が遮った。ただの市民に対し、毎回遠方に出向けと宣告されたと同じだからである。


「そんなことよりも、具体的に何から始めますか?」


 一瞬蔑むような眼で村井を窺い、都築が大隈に指示を仰いだ。市政と無関係な者が異を唱えるべきではない、嫌なら参加するなとでも言いたげな態度であった。


「いやにキッパリと無視されちゃった。手弁当なのに負担増かよ。この二人、俺の身分を勘違いしてないかな、報酬のほの字も貰ってないのに。大隈さん、ちゃんと説明した?」


「うるさい奴だな。銭金の話をするな、下品だ。とりあえずは国民宿舎をいくらで購入できるか調べることにしよう。それと、その扱いというか、名目を考えておかんとな」


 大隈は村井の抗議など完全に無視している。


「でもいずれ公にしなけりゃいけませんよ」


「その時は正直にDVシェルター開設費と発表したらいい。ただし、施設の性質上所在は公表できんとな。どうせ発表するのはわしの仕事だ、まかせとけ」


 公表は当然市長の仕事だ、万事呑み込んでいると市長は平然としている。


「議会は俺が根回しするから心配するな。よし、今日はこれで解散だな。どうだった、秘密結社の会議」


 他の誰も知らない事業を始めようとしている。更に、まだ当分の間公表はおろか漏洩すら嫌う内容である。突然知らされ引き入れられた新人がどんな反応を示すか、大隈はそれを楽しんでいるのかもしれない。


「団長にどう報告しようか困りますよ」


 一本釣りされた関係で、助け舟を望めない鈴森の不安はもっともである。


「そうだなあ、……福祉関連の協議とでも言っとけ。ただし市長と同席したなんて間違っても言うんじゃないぞ」


 自分が介在していることを隠しておきたい市長が適当な口実を提示し、自分は同席しなかったことにするよう念をおした。


「内容を訊かれたら? 適当な返事だと見抜かれますよ」


「困ったな……、それくらい働かす知恵はないのか」


 福祉関連と口にしたが具体的なことを考えていなかった市長は、そう言われると言葉に詰まってしまい、あいつなら何か知恵を働かせるかもしれないとチラチラ村井を窺った。


「待機児童対策の研究会でどうかな、一般的な説明をしておけばいいでしょう。俺をチラチラ見るのは反則だよ市長」


 まったく嘘のつけない市長だと呆れた村井が助け舟をだした。


「わしは真面目一徹だからな、あんたみたいに嘘八百並べる才能がないんだから」


 言いながら市長は片手で拝む真似をしている。


「嘘八百だろうが、政治家なんて。絞り取るばかりで溜まった銭も払わないくせに」


「何か言ったか?」


「いや、褒めただけ。ベタ褒め」


「ぼそぼそ小声で言うな、気になって仕方ないから。よし、これで解散しよう。さっそく福祉の担当者を救援課に出向させるように手配するからな」


「たのむよ市長、そっち方面はあんたの受け持ちだからな。課長と係長は二人とも地下鉄だよな、送ってやるよ」


「大福―、村井さんが送ってくれるそうだから帰るぞ」



 雑談に移ったのを見計らって宮内は席を立ち、店の娘と話し始めていた。


「あのう、市長に似た人がいたんですけど」


「えっ? うん、市長だよ。もう何度も来てるんだよこの店。ここね、アタシ達の秘密の会議室なの。これ誰にも内緒だよ」


「そうなんですか、知らなかった」


「もう帰るようだからまた話そうよ。日曜日は何してるの?」


「朝は犬の散歩をたまに……、あとは特に……」


「犬飼ってるの? じゃあさ、躾け教室に来ない? 救助犬養成講座っていうのもやっててね、犬がたくさん集まるから楽しいよ。大丈夫、迎えに来てあげるから。アタシこの近くに住んでるんだよ。終わったらそのままお雪と遊べばいいじゃない。次の日曜、八時に迎えに来るからね。そうだ! ねえ大将、日曜日の出張サービスできない?」


 何を思いついたのか宮内が大将に出張サービスを頼み始めた。


「別にかまわないけど、どこへ?」


「救援課。みんなで美味しい鰻を食べて、元気になってもらいたくて……」


「そらあいいな、気が晴れるだろうな。人数は?」


 出張サービスなんて開店以来まったくなかった。市場と店が生活の場である大将は、違った景色の中で仕事をすることを羨んでいた。だから即答で了解し、人数を尋ねた。


「在籍が三百、お客さんが十。職員の家族がくるかもしれないから、ざっと三百五十かな。はっきり判らない」


「冗談じゃない! 俺が蒲焼きになってしまう。ご飯の用意だってできないし」


 土用のかきいれ時ですらそれほどの人数を捌くことはないだけに、言葉が尖ってしまう。


「ご飯や汁物はうちで用意できるよ、だって毎日作ってるんだから。大将には鰻を焼いてもらうだけでいいよ。お給仕なら捨てるほどいるから心配ないし」


「二人に一匹、それで我慢してくれ。それでも大変な数なんだぞ。値段も半分ですむ」


 鰻を焼くだけと簡単に言うが、生半可な数ではない。飯や汁物を割り引いたとしても半分にするのがやっとだった。


「半分か……、ちょっと物足りないだろうな。でも皆に食べさせてあげたい美味しさなのよね、ちょっと相談してみます」


「いいかげんにしろよ、話が長いよ」


 店の入り口が開いて、なかなか来ない宮内を吉村が叱った。


「叱られちゃった。村井さんは?」


「駐車場、エンジンかけて待ってるよ」


「そりゃ大変だ。じゃあ日曜日、八時に迎えにくるからね」




「係長、悪いけどこの話はチャックな」


 走り出すと村井がまじめくさって念をおした。


「わかってます。でも情けないねー男って」


「そうだな、大人になれない馬鹿がたくさんいるってことだ」


「これも村井さんが発端なの?」


「知人からの相談が発端なんだけど、結局はそうなるかな」


「忙しい人だね、他人のことに振り回されて」


「責めてやるなよ。自分のことしか考えない者ばかりの世の中に住む珍獣なんだから」


 若いだけあって宮内の言葉は直球勝負である。父親たる吉村はそれをやんわり庇った。


「責めてなんかないよ、どっちかっていうと褒めてるの。村井さんは損得抜きで行動するし、お父さんは真面目一徹だし、この二人が議員や市長になればいいのに」


「馬鹿言うな、そんなことは飯の種にすることではないわ」


「やっぱりね、村井さんならそうくると思った」


「このまま帰るだろ? そろそろ家の近くだから降りるか?」


「帰り道で降ろしてよ。なんか安心するの、この二人」


「そのわりになかったな、チョコレート。キリンさんになって待ってたのに」


「あら、ほしかったの。てっきり硬派だとふんだのに」


「硬派ですよ、硬派。我慢しますよそれくらい」


「おもしろいな二人の会話。村井さんも押しまくられてる」


「よせよ村井さんだなんて、お前でいいよ。もう長い付き合いじゃないか、つまらん遠慮はやめようや。係長みろよ、自然に話してくれてる。格好つけたってお互い性格掴んでいるんだから意味ないよ」


「そうだな、今更だよな。それじゃあ宜しくたのむわ、相棒」


「まかいとけ」


「楽しそうだね。それで、話の腰を折って悪いけど、そもそもの発端は何なの?」


「俺も掻い摘んだことしか知らんぞ」


「運転しながら説明できないよ。変に興奮して事故でもおこしたらつまらん」


「どうする、俺の家で話すか?」


「若い娘を連れてるからな」


「ちょっと、アタシのけ者? 娘なんだけど」


「少し時間かかるからな」


「ちゃんと送ってもらえるんだよね」


「どうせ帰り道だからな」


「それなら問題ないよ、二人では文殊の知恵にならないからね」


「それじゃあ遠慮なくモヤモヤを吹き飛ばしてもらうか」


「丈夫だろ、うちの若女将」


「立派すぎるな。俺なんかタジタジだ」


「お前がタジタジだったら市長や大隅さんはどうなるんだ」


「孫悟空だろうな、きっと。いや、そこまで大物とも思えんな、猪八戒がいいとこか」



「俺にも仲間がいてな、いつも愉快につきあってもらってる同業者なんだが、その人の友達が嫁ぎ先で酷いいじめを受けているという話を聞いたのがそもそもの発端なんだ」


「いくつなの、その女の人」


「俺より少し年上で、六十歳をちょっと過ぎてるそうだ」


「そんな年齢なら姑として嫁をいびる年代じゃない」


「そうなんだけど、嫁ぎ先の環境が」


 村井は知っている限りを二人に話した。



「でも、せっかく家を出ることができたのにどうして……」


「そこなんだ。戻ったら元の生活に逆戻りするからよせって知り合いが忠告したらしいんだけど、自分が至らなかった部分があるのだろうからやり直してみると」


「うまくいくわけないじゃない」


「問題があるのは相手で、本人には何も責任がないことをくどく言ったそうだが帰ってしまって、案の定一月くらいで助けを求める電話があったそうだ。ただ暴力だけならまだ許せるとしても、その時には精神を病んでいたらしい」


「そんなの警察に訴えなきゃ」


「でもな、本人が戻ることを決めた事情も理解できるんだ」


「何なの」


「お金、生活費。現金を握らせてもらえなかったから貯えが全くなくて、家を出たのはいいが食うことすらできない。それが理由だろうな」


「裁判は? 訴えなかったの?」


「したらしいよ。素人だしな、精神的に不安定だから弁護士を頼ったらしいんだが、どういういきさつか裁判のつもりが調停に移されてしまったようで、結局もう一度やりなおすということで決着したらしい」


「弁護士って何なの? 依頼人の主張を代弁するのが弁護士じゃないの。どうして裁判が調停になっちゃうの」


「俺がそれを知ったのはすべて終わった後でな、先に知ってたらいろんな知恵をつけられたのに遅かったんだ。弁護士が調停に移した理由は、最終的には金だろうよ。無一文の女から弁護費用を回収できるか? つまりそういうことだ」


「ムカムカしてきた。真琴、コーヒーのお代わり頼めんか」


「温和な吉村さんが腹立てたのか、穏やかにたのむよ」


「だけど村井さんがどうやって裁判の知恵つけられるの?」


 カップに湯を注ぎながら、宮内は次々に疑問を口にする。


「訴状を作ってやるとか、弁護士抜きでどうするかというようなことをだな」


「村井さん弁護士できるの? だったら代理で裁判おこしてやればいいじゃない」


「どうして俺が弁護士なんだ。工業高校卒だぞ、職人として誇りをもっているんだぞ、馬鹿にするな」


「でも訴状の書き方知ってるって、意味が通じないんだけど」


「それは……、知ってるんだから仕方ないじゃないか。それに民事事件だから弁護士は必要ないんだ。裁判をおこす費用さえあれば提訴できる」


「ちょっと疑問なんだけどさ、村井さんの別の顔って何よ?」


「そんなに器用じゃないよ。どこかに継ぎ目でもあるか? 顔を取り替えるのだって痛いんだろ?」


「そうじゃなくてさ、隠れた仕事してない? たとえば民生委員とかさ。絶対に秘密を守るから」


「民生? そっちの系統じゃないよ。保護司、もう十七年目かな」


「何なの、それ」

「犯罪者の立ち直りの手伝いをする仕事だ、そうだったのか」


 吉村は、何故村井が社会的な課題に首を突っ込むのかようやく理解できた。事情はいろいろあるだろうが、救援課にせよ今回の件にせよ見ぬふりをすれば通ることである。その解決をめざしているには違いなかろうが、手弁当であくせくする理由が少し理解できた。


「救援課を開設するに当たって経歴問わずにしたからな、今更保護司ですなんて言えないよ。もし気にする奴がいたら嫌がる。嫌な思いをさせるより希望をもって働かせるのが大事だからな、絶対秘密だぞ。漏らしたらばちまわすからな」


「それで法律の知識があるのか」


「そんなことは別だよ。俺達は裁判が終わった後からが仕事なんだから裁判の知識なんか必要ない。それに刑法犯専門だしな」


「ならどうして」


「困ったな。単なる知識欲だし、困った人にアドバイスするためでもあるし……、自分でもよくわからん」


「だから今回の件といい、救援課の件といい、手弁当で働くのか」


「人ってさ、誰でも他人のために働いているんだよ。それに気付いていないだけさ。それに、報酬を得るより感謝される方が段違いに満足できる。とんだ脱線だな、話を戻すぞ」



「そういうことだったの。いろいろ調べてみても生活資金にぶちあたるわけね。それで名古屋に住民登録を戻して生活保護を受けられるようにしたのね」


「青木さんに相談をもちかけたのは、その手続きが完了するのを見越してか?」


「決定してすぐだ。なんとか早く住む場所を確保したかった。だけど、農家での生活を経験したことがない人ばかりだから作物の植え付けを済ませてから送り込みたかったんだ。実際には田植えが終わってから送り込んだし、野菜の苗は福祉課に頼んで後から植えてもらった。村の人達や地元の警察にも事情を説明して警戒をお願いしてある。警察や役所に相談する時は保護司の肩書きが役に立つんだ、けっこう信用してくれるからな」


「村井さんは走り回ってるんだね。いつもつっかかってくる変なおじさんだと思ってたんだけど、大変なことを背負(しょ)いこんでるんだ」


「そんなことはない、変なおじさんさ」


「それでいろんなことを見てるのか。作業所を案内してくれたのもその一コマなんだな。やっぱり勝てる相手じゃないな」


「だから、そんな大そうな男じゃないって。真琴、おかわり」


「お前も真琴って呼ぶか?」


「仕事を離れてるんだから犬係長はないよ。これは俺の愛情表現だ」


「ほんと、真琴って呼ばれるのっていいね。垣根がなくなったみたいで」


 宮内はまんざらでもない様子である。


「さてな、これからどう行動するか考えんとな」


「それなんだけど、たしか入庁式の直前だったかな。近藤さんの奥さんが無給で手伝いたいって舟橋さんに言ってたそうなの。それでその時に緊急食料の製造販売をもちかけてみたのね、もちろん軽い気持ちで。それから舟橋さんと近藤さんが献立を研究してるんだけど、その線はどうかな」


 本人たちにできる事業といっても検討がつかない。地理的条件もあるだろうし能力の問題もある。さりとて急に具体案を思いつけない宮内は、舟橋との会話を思い出していた。


「非常食なあ。考えはいいけど安定して売れるか?」


「待てよ、どうしてろくに考えもしないでアイデアを潰すんだよ。自分にいい案があるのか? 簡単に否定するのはペケじゃないのか? 仮にも課長なんだからさ、その先を考えなきゃ」


 これだよ、ろくに検討もしないでアイデアを潰してしまう癖、まだ気付かないのかな

 村井は寂しく思った。そんなことを繰り返したら誰も発言しなくなる。そう信じている村井は、率直に指摘をした。きっと理解してくれるという希望をこめて。


「そうだな、……つい」


「よし、ちょっと考えてみようや」



「いいねこういうの。村井さんの言うように、人の役に立つことって快感かもしれないね」


「救援課に所属すること自体が快感かもしれんな」


 興にのって話し合っている最中に、宮内が怪訝な表情で黙り込んだ。


「待った! ちょっと待った! 水差すけど、いい?」


 失敗をみつかった時のようなばつの悪い表情に変わっている。


「なんだよ」


「うっかり流されるとこだった。ちょっと楽天的すぎない?」


「そうだな、うっかりこいつのペースに引き込まれてるな」


 若い頃に戻ったようにはしゃいでいた吉村が、急に現実に引き戻された。


「楽天的で悪いか? アイデアなんて簡単に湧いてでるもんじゃないぞ。何かちょっとしたヒントが閃いた時にな、先に失敗の種を考えたらどうなるよ。何もしないのが安全って落ち着いちゃう。それでは何も始まらない、そんなだから能無しって言われるんだよ。エジソンの言葉を知らないのか? 百の失敗が一つの成功につながるっていうの」


「要は余計なことを考える頭がなかったりして」


 あくまで正当性を主張する村井に宮内がつっこみを入れた。


「こら! そういう恥部はもっとやんわりと言うもんだ」


「お芝居するな、いつも先読みするくせに。またやられたよ」


 何杯目かのコーヒーを飲みながら嬉しそうに三人が話し合っている。いつのまにか近所の灯りが消えだす時刻になっていた。


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