表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/14

茗荷のように

 六・茗荷のように


 相変わらず景気が一向に上向かないまま今年も年の瀬がやってきた。こんな世相なら新年をもう少し先延ばししても良さそうなものなのに、庶民の窮状には無頓着に、時間だけは決まりきったペースを守って通り過ぎてゆく。


 この十二月定例議会に、大隈ら三人がいよいよ議案を提出することになっていた。

『DV被害者自立支援協議会』設置を提案し、市の基本計画の主要課題と位置づけて、これまでの支援のあり方からより積極的な支援に踏み出そうという提案である。

 地域の社会福祉事務所にDV対策専従班をおき、福祉課からの出向と定年退官した元警察官を配置し、硬軟いずれにも対応できるよう制度整備をめざしたものになっていた。


 一方で市長も、『DV被害者自立支援施設』の設置を提案するよう準備を整えている。

 既存施設ばかりでなく、特に希望する者については遠隔地に避難させ、自活療養させながら社会復帰を図るという目的を打ち出している。

 ほぼ同時に提案することで両案を一体のものに取りまとめ、あらためて市長と議員の共同提案とする作戦をたてていた。そして、その折に国民宿舎の購入を事後承諾させる手筈である。佐伯が逮捕されて約十日、翌々日から定例議会が始まることになっていて、救援課の応接室では持ち寄った議案を皆で検討し、議会を納得させる作戦が練られていた。



「この内容なら合格でしょう、必要なことは十分盛り込まれていると思います」

 提案趣旨と細目を丹念に読んでいた橋本が、にっこりして顔を上げた。


「俺も橋本さんの意見に賛成だな、いいと思う」

 細目に齟齬がないか調べていた吉村も、満足げである。


「都築さんと鈴森さんの才能は見事だろうが、わしの目が確かな証拠だわ」

 大隅は、提案を作成した二人のことをそういって褒めた。


「施設に関する提案もいいと思います。吉村さんや橋本さんほど目が肥えてないから自信ありませんが、市長の提案もよいものに仕上がっていると思います」


「相川さんさすがね、そういう書類の批評ができるもの。アタシは素人だからさっぱり判らない。両案を取りまとめた修正案は?」

 相川も点検をしていた。そして満足げに発言したのを宮内が羨ましげにし、鰻屋を窺った。

「俺を見るなよ、俺は鰻を焼くのが本職だ。チンプンカンプンだ」


「一応の手筈が整ったわけだな。そこでだ、水を注すようで悪いんだけど、市長も大隈さんも実態を直接見てないのが弱点だと思う。だから、本当に必要なのかと質問されることを想定して対策を講じる必要はないかな?」

 言いにくいことを指摘するのは村井の係である。


「そこなんだ問題は。橋本さんには福祉課の職員として説明してもらって、都築さんと鈴森さんから実態を報告してもらうくらいしか、いい知恵が湧かなくて困ったもんだ」

 村井の指摘に対して、市長も大隅も素直に応じた。


「そこでさ、かなり冒険だけど、加奈さんの手紙を読み上げたらどうだろう。本当は加奈さんの口から説明してもらうのがいいと思うんだけど。反対されるよな」


「アタシは賛成できない。仲間はずれにされたもんねー。加奈さん傷つかないかな、アタシに読ませられない内容なんでしょ?」

 村井の提案を宮内は遮った。議会で説明というが、相手は無責任、無理解な天狗かもしれない。ましてや、傍聴人のことも心配であった。


「でもね係長、私も女だけど少し意見が違うよ。被害者の生の言葉が一番強いと思うな。だからあくまで加奈さんが首を縦にふればだけどね」

 加奈の気持ちを気遣う宮内の意見に橋本が反対した。加奈を守る方法ならいくらでも考えられるという自信が顔にあらわれている。


「当事者にしか判らない苦しみがあると思うんだけどな。そんなことしたら二重に苦しめない?」


「どうだろう、加奈さんの気持ちを直に確かめてみたら。提案内容がまとまったことだし、それを聴かせるということで直接確かめてみないか?」

 吉村は折中案を出してみた。そんな意見を口にするようになったのである。規則に縛られ公務員生活では、口にしにくいことであった。


「課長にしては大胆な発言ね、市長や大隈さんの考えは?」

 妙な方向に決まってしまう。そんな、本人の気持ちを思いやらないことを皆がやろうとしている。宮内はじりじりとした怒りを感じていた。


「そりゃあ最強の説得材料には違いないが……」

「本人の気持ちを考えてやらんとなあ」

 市長も大隅も曖昧に言葉を濁している。つまり、暗に同意しているのである。


「要するに答えを出せないってことね。村井さんは?」

「俺の意見か? あまり言いたくない内容なんだけど……」

「言わなきゃ判らないよ」

「怒らないって約束してくれる?」

「保留」


「実はな、なんとか説得して報道で取り上げてもらうと世間の関心が高まると思うんだよ。そこで提案内容を詳しく説明して、本人達にDVとはどういうことかを語ってもらうといいと思うんだ。そうすれば、たとえ議会が紛糾したり非難されたりしても市民を味方にできる。ばかげた提案なのか、弱い者を切り捨てる政策なのかを市民に判断してもらえる。仮に議会が好意的だったにしても、加奈さんの例を引き合いに出して抑制効果が期待できないだろうか。いい気になってしていることが、実は長い懲役をくらう犯罪だということに気付かせることができないだろうか」


「村井さんらしいね、すぐにコップからとび出すようなことを言う。さっきの案より過激じゃないの、賛成できないよ」


「なあ、そのコップっていうのは一般的な常識ということだろ? 俺の考え方は過激だし奇抜かもしれん。でも係長は他人に誇れるコップをもっているのか? もっと理想的な社会を夢見ることはないのか? 誰もが仲良く生きようとさえしてくれればこんな問題はおこらない。どこまでいっても心が弱いのが問題なんだけど、そういうことに眼を向けるゆとりのない人が多いことが悪いと思わんか? 哀しいことにそれが一般的なコップじゃないかな。もっと住みよい社会にしたいと思わないか?」


「そんなにうまくカモが寄るだろうか」

「それが悩みなんだよ。俺に社会を軌道修正させる霊力でもあれば……」

「れ、霊力? 村井さん教祖様になろうとしてるの?」

「そうじゃないけど、神や仏の力でも借りたい気分」


「とりあえず加奈さんに提案内容を説明しませんか。加奈さんがどう判断するかは加奈さんしだいということにしませんか?」

 宮内と村井の掛け合い漫才が先細りになった。しかし誰も発言しようとしないので、橋本は加奈に決めさせようと思った。


「よし、橋本さんの言うようにしてみよう、考えたって埒があかん。犬係長、呼び出してくれ」

 市長は宮内の案にのった。


「また犬って言った、もう何年の付き合いなのよ。こんど言ったら市役所を襲撃するからね。シェパードとドーベルマンがいるんだからパニックになるよ」



 十二月の定例議会は多くの場合、これまでに結論を下せなかった案件を再検討するために開催されるといってもよいだろうが、今年の議会は来年四月の議員選挙をにらんで少しでも選挙を有利にするために雑多な提案がされている。とはいえ、早急に成果を得るのが目的なので緊急に審議しなければならないような重要な案件は少ない。その中で三名の議員が共同提案したものは異彩を放っていた。


 また、市長提案の案件の中にも似た内容のものがあり、提案者が協議して修正し、共同提案として再提出された。

 どの議員もDVという言葉は知っているし、それがどんなことかも知識として知っていた。

 委員会審議が始まり、多くの委員からの質問には市長と三名の議員が対応することになった。

 冒頭、DVの実態を知ってもらうために被害者からの説明と、短時間ではあるが被害者に対する質問の機会を許可願いたいと申し出、加奈が参考人として委員の前で自分の受けたDVの実態を細かく話す機会を得ることができた。最後に、自分達を支えてくれた人がいること。そして同じ被害を受けている人がたくさんいて、何のために生まれたのだろうと諦めながら生きていることを語った。体に受けた傷は簡単に癒えるが、心を壊されたらどうなるか想像してほしい、そういう愚かな社会を改めるよう尽力してほしいと語った。


 加奈の語った内容、とりわけDVの実態については議員からの質問はなかった。加奈の胸中を配慮してであろうし、語った内容に衝撃を受けたのかもしれない。単なる知識とは全く次元の異なる悲惨さを感じたのだろう。その反動として、加奈達を支えた人物に対して批判が続出し、独断で国民宿舎を買収したことにも強烈な批判が噴出した。

 橋本も事務を担当してきたことから説明に立ち、市長の特命により支援したこと、そして被害者達の精神的疾患を知り、仕事を離れた時間も私的に支援を続けたこと。支援者は十名でその他にも二名いること。錦町に送り込んでから現在に至る状況、それに刑事告発による被害者救済などを細かく説明し、従来の制度では被害者救済は形骸化され、事実上無力であることを説明した。

 委員からは、諮問会議などに意見を求めるのが本来のあり方なのに、いくら私的な組織にせよ行政機能を利用する活動を追認させようとするのはおかしいと反発がある。


 何日も委員会は紛糾したがそれは織りこみ済みで、市長がたびたび報道を通じて提案の正当性や重要性を市民に訴えた。その甲斐あって廃案にならず、継続審議として年を越すことになったのは、問題の重要性を委員が理解したからで、だからといって仲間外れにされたことや、議会に相談せずに独走したことに対して不満を抱いたことに対する、体のいい意趣返しだろう。会期末直前には委員の同意も得られ、和やかな雰囲気で審議されていた。


 佐伯に対する裁判の日程が決まったのもちょうど同じ頃である。




「こっちは計画通りだ。二人の答弁は合格だな、次の議会で決まるんじゃないか?」

 市長と大隅がインスタントコーヒーに眼を細めながら頷きあっている。


「一番効いたのは加奈さんの説明でしたね。橋本さんの説明もよかった。僕らは公私を織り交ぜていればよかっただけです。現地を見て、実際に話し合ったことを正直に説明するだけですから子供の使いみたいなもんですけど、それが王道なんですね。村井さんが教えてくれなかったら教科書どおりにしか答えられなかったでしょうね」

 鈴森はほっとしていた。初めて議員としての仕事ができた深い満足感に包まれている。


「行ってよかったね、知ると判るの違いは大きいよ。いい勉強になった」

 それは都築も同じである。草刈りや横断歩道のように行政の尻を叩くことしかできず、欲求不満であった。しかし、自分の想いは組織内で叶えられることがなく、くさっていた。


「私焦ったわよ、どこまで話していいか考えてたんだけど、別に悪いことしてるわけじゃないからいいやって正直に全部話しちゃった。正直ってのが基本ね、何回質問されても同じ答えしかできないからつまらない詮索されずにすんだし」

 橋本も大役を終えたことに満足していた。議員からの質問に答えられる事務方は橋本しかいなかった。何度説明を求められても食い違いがないよう、橋本はすべて正直に話すことを心がけていた。それが実り、再質問や更にふみこんだ質問を受けずにすんだのである。


「ところで、裁判の日程が決まったそうだな」

 議会のことはともかく、行政の取り組みを逸脱した行為、裁判を利用した支援の行方が示されるのである。ただ、これは行政が関わるべきことではないと誰もが認識している。しかし、いよいよ裁判が始まるとなると、やはり気にかかるのである。市長は、そういう意味からも嘘の下手な人物である。


「うん、検事から連絡があった。一月下旬から始まるらしい」

 村井の返事は素っ気なかった。

「弁護士から働きかけはないのか?」


「事情聴取意外は受け付けていない。自由に会いたいって何度も申し入れがあったんだけど、対人恐怖症になっているからという理由で、検察庁の部屋で面会してるよ。弁護士が怒っちゃってな、いつも俺が同席するし、検事を通じてじゃないと連絡できないし。現住所には住んでいないしな」


「弁護士を怒らせて大丈夫なの?」

 弁護士が怒ったことを世間話のように語る村井を、宮内が眼を丸くして窺った。

「弁護士ったって民間人だからな、何の権限もないんだぞ、怖くもなんともないよ。面会自体を拒んでいるわけではないし、俺は同席しても糸を引いたり口を挟んだりしない。そもそも対人恐怖症にしたのは誰か考えろってつっぱねてる。この人が心を許すのは何人もいないし、皆仕事で都合が悪いから俺が付き添ってる。そう言ったら黙ったよ」


「罪を認めそう?」

「合意の上だって争う姿勢をみせていたけど、他の被害者の証言も出てきただろ、だから方針転換して情状酌量を狙ってるようだ。被害者が三人だ、言い逃れなんて通用せんよ」

「宥めにでようということ?」

「だろうな。だから三人に話しておきたいことがあって」

「どんなこと?」

「結審までの間に弁護士からの働きかけがあると考えた方がいい」

「働きかけ? いったい何のこと?」

「休憩時間を狙って、おそらく家族、たぶん両親に会ってくれと言うんじゃないかな」

「会ってどうするの?」

 宮内には、村井の言わんとすることがわからない。

「両親が被害者に会ったという事実を利用して、謝罪を済ませたということにすりかえる可能性が考えられる。だから、判決が下るまでは面会を拒否すればいい。そう助言をな」

「謝罪したらどうなるの?」

 まだわからない。

「いくらか刑が軽くなるかもしれない」

「うわっ、みみっちいこと考えるんだね」

 ようやく宮内は村井の言葉を理解した。それはあまりに下衆っぽいやりくちに思えた。


「少しでも成果を上げないと収入に影響するからな。それとは別に、大隈大先生に折り入ってお願いがあるんだけど」

「だめだ」

 なんの躊躇いもなく大隅は真っ向否定した。


「まだ何も言ってないけど」

「いつも悪態つく奴が先生だと? 大先生だ? 震えがくるようなことを言うな!」


「退職警察官雇用の件なんだけどさ、これからも世話になる可能性が高いし、全部引き受けると言ってくれてるから俺に任せてくれないだろうか。世話になる警察署に花を持たせてやれば気持ちよく協力してもらえるからさ」

「あっちもこっちも先回りする奴だな。わしはてっきり費用弁償かと思った」


「そっちは放棄しないよ、救援課の分も放棄しないからな。とにかく、閉会したら時間つくれるだろ? 引き合わせるから皆に付き合ってもらいたいんだ」

「皆って、……ここにいる皆か?」

 大隅は、きょとんとして村井を見た。警察に引き合わせると平然と言う顔を呆れたように見た。都築や鈴森が感心したように、村井は自分の知らぬ世界で人脈を作っているのかもしれない。まさかと鼻先で否定したい。しかし、底が見えないのである。


「少なくとも行政の長は絶対顔を出してもらわんと真実味がない。どんなメンバーが関わったかを知ってもらうのも無駄じゃないと思うがな」

 市長も大隅と似たことを感じていた。ただ、警察に出向くのは自分の宣伝にもなるとはいえ、民間人のお膳立てということが癪にさわった。できれば自分が音頭をとりたい。でも、わざわざ村井がそこまで考えてくれたことにも頭がさがった。


「いいね、行こうよ。警察も仲間に引き入れようよ。アタシ小次郎と甚八を連れて行く。亜矢も連れて行く。亜矢が立役者だったもんね」

「若女将、乗り気だな」

 ふっと力が抜けた市長は、宮内に相槌をうった。

「うん。村井さんの別の顔を暴いてやる。きっと知らない顔があるよ」

「別の顔ってどういうことだ、わしも大隈さんも蚊帳の外ということか?」

 市長は、きょとんとして宮内をうかがった。

「ようやく保護司だって白状しました。若女将はまだ他にもあると睨んでるんです」

「言えよ、誰にも言わんから全部白状しろ」


「嫌だよ。今日はお開きにしようや、雲行きが怪しくなってきた。一年がかりで新しい政策が実現することになったんだ、いい正月が迎えられそうだ」

 村井は、いつも自分のことになると話をはぐらかしてしまう。村井の目的は問題解決であり、そのために働いていることが楽しいのである。個人的なことには興味がないのである。


「こっちも採用通知が届く頃だし、肩の荷がおりた気分。今年も学生を救えるし、梯子も順調に売れてるし、非常食の試作品もできたし、嬉しい忙しさだよ。それと、どうしようかなあって迷ってるんだけど、うなたまを職員に引き抜くと大将怒る?」

 村井に引き摺られるように、宮内も話題をかえた。

「娘に直接話せばいいじゃないか、あいつの人生だからな」


「うなたまって誰のことだ?」

 市長も大隈も珠希のことを一切知らない。


「大将の娘さんで、珠希っていう名前なの。鰻屋の珠希だからうなたま。職員の同級生で、看護学校を春に卒業なのよ。だから看護士を二人にしてやろうかなと狙っているの」

「店の跡継ぎじゃないのか?」


「店か? ありゃあ生活のためにやってるだけだ。跡継ぎのなんのって考えたことなんかない。それに、俺は好きな商売で生きてきた。珠希も好きな職業につけばいい」

 じっと市長にみつめられた鰻屋は、なにやら照れくさそうにそう応えた。


「そうか、遠慮する必要はないということだな。係長、任すから定員の中でやってくれ。決まったら教えろよ、市立病院で修行できるように手配するから。それと、何とか言ったな、非常食?」

「舟橋さんと近藤さんの奥さんが中心になって、佐竹さんの奥さんと大将も味付けに協力してくれて」

 そう言う宮内は得意げである。

「救援課が何でも屋になってきたな。どうだ、市長室に試食用に置いてやろうか、お客が毎日来るから宣伝になるぞ」

「そうさせてもらえよ、せっかくの好意だ。ついでに他の売り物を考えたらどうだ、ほれ、名士にすがれば知恵を貸してくれるから」

 じっと成り行きをうかがっていた吉村が、いたずらっぽく宮内の肩を叩き、そっと村井を指差した。

「何かある? 村井さんピント外れな分、意外な発想するもんね」




 起訴されたことを見届けた加奈は、誰よりも事の成り行きを案じてくれる仲間の許に戻っていた。議会にDV被害者救済のための提案がなされ、一月議会で決定の見通しがたったことや、そのために委員会で発言したことや刑事裁判で被害を清算できること等を細かく語ってきかせた。見ず知らずだった自分達のことをも見捨てない人がいるのだから希望を失くさないようにしよう、正月の話題はそればかりであった。現実のものになったことは一つもない。しかし、裁判にしても救済案にしても初日の出を仰ぎ見るような、沸々と希望が湧いてくるのを実感していた。


 一面膝まで埋まるほどの積雪で外に出歩く用はない。自分はこうだった、私はこうだったと当時のことを語り合う日が続き、裁判とはどういうものか、法が本当に自分達を守ってくれるのかを見届けたいと美鈴が由紀子を強引に誘ったらしく、裁判の日程が決まったことを受け、加奈が再び救援課の門をくぐった時には美鈴と由紀子を伴っていた。


 京都で途中下車するよう連絡を受けていた。列車が京都駅のホームに行き足を止める寸前、流れる人ごみを眺めていた美鈴が小さく叫んだ。


「亜矢ちゃんがいる」

 乗降口の先頭にいた美鈴が、到着を待つ亜矢をみつけた。その言葉通り、亜矢と宮内は人ごみをさけるようにして加奈たち三人を待っていた。人ごみをさけているようにみえたのは、大きな犬が護衛のように控えていたからである。三人は挨拶を交わす間もなく事務室に案内され、救援課の制服に着替えさせられた。


「加奈さんは甚八、小次郎は美鈴さんにお願いします。由紀子さんはどうしよう」

 亜矢がリードを二人に握らせ、宮内の指示を仰いだ。

「由紀子さんはリュックを背負ってください」

 宮内は自分のリュックを由紀子に背負わせると、三人のバッグを亜矢に持たせた。

「よし完璧。誰が見ても救援課の職員だよ」

 にんまりした宮内は、そのまま事務室をあとにした。


 京都から三十分ほどで名古屋に着く。木曽川を渡り、庄内川を渡る頃にはすでに半分ほどの速度になっていた。もう名古屋なのである。駅に降りた瞬間から知人に見られる危険が格段に増すのである。京都からわずか三十分。その間に三人の表情が強張っていた。

 昇降口の前に、十人を越える職員が待っていた。加奈も美鈴もその中に包み込まれてしまう。そんなにまでして自分達を守ってくれる人がいる。加奈はそれが嬉しかった。

 それを計画したのは宮内である。救助犬を新幹線や人ごみに馴れさせる訓練を口実に、あっさり許可を得たのである。市長からは宮内係長への協力を要請する自筆で書いた名刺を一枚もらっていた。加奈がそれを知ったのは裁判が終わったあとである。



「へぇー、亜矢ちゃんここで生活してるの。学校みたいだね」

 美鈴は初めて庁舎を見るのだし、ニュースに全く関心がなかった。

「元は小学校なんだって、校舎が寮になってるの。美鈴さんもここの住人になるわけだ。仕事させられるよ、お客さんになんかしてくれないから」

「そうか、じゃあ何しようか。マムシキラーの美鈴なんだけど」

「残念でした、マムシは冬眠してます。そのうち若親分からお達しがあるよ」

「若親分? どんな人? 怖い?」

「アタシのお姉ちゃんだよ」

「この人が若親分? そんなに偉い人なの」

 たしか一度は宮内係長と紹介されたはずだが、美鈴はそんなことを覚えていないようで、あらためて宮内を見つめた。

「そうでもないよ、自分では嫌がってるし」


「子分一号! 小次郎と陣八を運動場に戻して十分休憩。あとはジャンプの練習。今日の訓練はそれで終わり。判った?」

 門をくぐるなり宮内の口調が厳しくなった。


「合点でぇ! 若頭」

「ここはヤクザじゃない! 上品にしなさい。ほかは解散、仕事に戻ってよ」

「合点でぇ!」

「亜矢! グランド五周駆け足!」


「あらら、体育教師に変身した。誰でもいいからよ、何か言ってみれ。また何かに変身すっかもしれねえど」

 背の高い娘がそれをからかった。


「みちる! グランド五周駆け足! 便所掃除追加!」


「このタイミングだからなぁ、やっぱりみちるが悪い。係長のタテガミ逆撫でするようなこと言ってやって、いいわけねえべ」

 もう一人、気の強そうな娘もそれに加わった。


「奈緒! 風呂掃除しなさい!」

「どうして? あたしはみちるを嗜めたんだよ」

「アタシのどこにタテガミがあるのよ! こそこそ隠れて悪口言うな!」


「ふーん、こういう雰囲気なんだ。こうして自信をつけてもらったのか」

 自由にものを言い合う雰囲気を、美鈴は懐かしく感じたようだ。


「じゃあ後で散歩、誘いにくるからねー」

 二頭のリードを受け取った亜矢は、一声残して走り去った。


「散歩? どこまで行くのか加奈さん知ってる?」

「お城」

「遠くない?」

「案外近い」

「そうかな、けっこう疲れたりして」

「山の行き帰りで鍛えられてる。町の人には負けなくなってる」

「本当かなー、由紀子さんどう思う?」

「さあ、そういえばお腹の肉が減って足が細くなったような……」


「お肉が減った? アタシも散歩しようかな」

 由紀子の一言に宮内が即座に反応した。役職はどうあれ若者には違いない。


「宮内さんそんなにスタイルいいのに?」


「でしょう、必要ないよね」


 そんな宮内に美鈴が茶々を入れた。

「キュッと括れてますよ、ベストです」


「そうよね、まだいけるよね。はいはい、三人様、事務所へどうぞー」

 もうすっかりここで世話になっていることで気心も知れている。今日は特に念入りに自分達を気遣ってくれたことを加奈は感じていた。




「では判決を言い渡します。被告人は前へ」


「……」


「主文、被告を懲役十五年六月に処す。尚、勾留期間のうち三十八日を刑期に算入するものとする。

 判決理由を読み上げますので被告人は席に戻ってください。

 被告人は妻である佐伯加奈に対し、平成……」


 裁判官が判決理由を読み上げる間、加奈はじっと被告席でうな垂れる夫を見つめている。

 結婚当初は平凡な生活だったものが、些細な夫婦喧嘩が元で無理矢理性行為を迫られ、苦しくて泣いていたのを見て快感を覚えたのだろう。次第に歯止めがきかなくなって外にも相手を求めるようになり、飽きてきたのか更に相手を増やしてしまった。

 本人にしてみれば当人同士の問題として悪いことをしているという意識がなかったのかもしれない。出発点で自分が強く拒めば今日はなかったのかもしれない。その場で対峙できなかった自分にも原因の一端があるのかもしれないとも思う。しかし、その複雑な思いは表に出さずにおこうとも思っていた。

 加奈の胸中をどう斟酌しているのか、由紀子と美鈴は加奈を挟んで傍聴席の隅で裁判官の声に聞き入っていた。


「……被告が三人の被害者に対し、暴力や暴言で畏怖させ服従せしめ、強いて姦淫におよぶ日常を繰り返していたことは、実に身勝手で何等酌量の余地はない。よって冒頭の判決に至った。この決定に不服がある時は、今日から……」


「ここまで聴いたら十分だ、面倒なことにならないうちに出よう」

 村井は、周りの様子をさぐりながら、由紀子の袖をそっと引いて目立たぬように腰をあげた。


「どうかしたんですか? 裁判長が何か言ってますよ。聴かなくていいんですか?」


「この先はお決まり文句だよ。そんなことより報道の餌食になるほうが心配、早く出るよ」

 目立たぬように気を配り、エレベーターのボタンを押しておいて階段を駆け下る。途中で別の階段に移動し、無駄なことを繰り返して裁判所から外に出た。


 急ぎ足で外堀まで出て、追いかけてくる者がいないのを確かめ、ようやく普通の速さに戻した。


「さて一区切りついた。これで二週間すれば刑が確定するよ」


「……上告しませんか? ズルズル引き延ばされて加奈さんが負担になることはないですか?」

 由紀子は判決を聞いてもなお安心できない様子である。


「時間の無駄さ、いくらか減刑されるかもしれない。けど、逆にもっと重くなるかもしれない。それにまだ他に被害者がいるかもしれないしね。これで安心できるだろ?」


「離婚訴訟は?」

「慌てないでいい、刑が確定してからにしようよ」

「どうして? 判決が出たじゃない」

 美鈴が割って入った。


「ここは地方裁判所だからね、高等裁判所に上告する時間が認められているんだ。あと半月の間に上告しなかったら判決が確定する。それまで待ったほうがいいよ」

「面倒なんだね」

「法律で裁いてもらう以上、手続きは守らなきゃ。早く帰って結果を電話してやろうよ、きっと心配してるよ」


「私達、本当に恵まれている」

 あいかわらずぼそっとした話し方で、加奈がうつむきながら呟いた。


「何が恵まれている?」

 歩む速さとは裏腹に、村井が呑気そうに聞き返した。


「心配してくれる人がいる」

「別に心配なんかしてないよ」

「他人なのに助けてくれる」

「お互い助け合って生きてるんじゃないかな」

「私達が生きられるようにしてくれている」


「だからさ、次に俺達が世話になるかもしれないから貯金をしているようなものさ。そう考えようよ」

「お返しができないかもしれない」

 加奈の気がかりなことであった。自分を助けてくれた相手に礼をする財力のないことが悔しかった。かといって手足になって働くことも遠く離れて暮らすことから不可能である。だが別の見方がある。礼をするということは社会生活を営む要素である。対人恐怖にさいなまれ、社会を忌避していながら社会生活が不可欠なことを見失ってはいないことが重要である。加奈がそれに気付いていないだけである。


「あんた達が他の人をお世話するんだろう? その人が俺達のお世話をしてくれるかもしれないじゃないか。もっと大きく見ないとちっぽけな人間になっちゃうぞ」

 そんな言葉をのみこみ、村井は努めて気楽に応じた。


「……アキさんが言い出したとき」

「うん」


「今の自分にそんなことできるのか疑問だった」

「そうか、疑問だったか」


「でも面白そうだとも思った」

「どんなことに興味をもった?」


「他人のお世話をすること。そうすれば自分も変われるかもしれないと思った」

「どう変わりたい?」


「自分の口で考えを言いたかった」

「言わなかった?」


「言えば酷いめにあうから……」

「辛かったんだな。今だから白状するけどさ、こんなにうまく物事が運ぶなんて考えられなかったんだ。どう頑張っても町工場の親父が行政に認めさせて方針転換させるなんてできっこないんだし、他人を信じられなくされた人との付き合い方も見当がつかないまま今日になったんだ。俺にできたことはほんの少し、あとは周りの仲間がやってくれた。だから申し訳なくてな」


「ほっとします、村井さんの話し方。身構えなくていいんだというのが伝わってきます」

 由紀子は村井に出会った日のことを思い出していた。


「そうだといいんだけど、ほら、口は悪いし言葉も雑だし、好くないのは自覚してるけどつい地が出るからな」

「私は話しやすかったですよ。皆で鰻食べた日、初めてなのに自然に話ができました。いつも対等に扱ってくれます」


「そうだったかな、緊張させないようにとばかり気がいってたから覚えてないや」

 褒められて嬉しいとは感じないのか、村井の返事はそっけない。


「夏だって外でじーっと待ってたよね、あれ善かった」

 由紀子を錦に連れて行った時の対応を美鈴が言った。


「亜矢さんと話してると落ち着く」

 由紀子や美鈴につられて加奈が一言呟いた。

「なんだ、ちゃんと自分の口で考えを言ってるじゃないの」


「?」


「問題児と話すと落ち着くんだろ?」

「そうだけど、それが?」

「それが自分の気持ちだよ。自分の気持ちを言えたじゃないの。どうして問題児がいい?」

「ゆっくり話すこと」

「そうか、あんたも口数が少ないし早口じゃないな」

「私達を助けるためにいろんなことをしてくれた」


「あの場合は特別だよ。もし問題児が二人いたらあんなに働かなかったと思うよ」

「どうして?」

「どうしても頼ろうとするからな、それが人の弱さだと思う。あのときは頼る相手がいなかったから無我夢中だったと思う」


「怖かったと言ってた」

「そうだろうな、それで当たり前だよ。泣いて帰ったっていいんだけど、あんた達を安心させたかったんだろうな」

「精一杯働く姿を見てたら自分も何かしなくてはと思った」

「力が湧いてきたんだな、けっこうけっこう」


「だから思い切って手紙を書けた」

「そうか、問題児のお手柄だな。二人とも裁判を見届けてどうだった?」


「私も同じようにできますか?」

 由紀子がひかえめに言った。


「内容を聴いてからだよ。されたことを証明できればいいんだがな、今回は他にも被害者がいて協力を得られたから大丈夫だったけど、水掛け論になる可能性があるからやっかいなんだよ。そうだ、警察に裁判の結果を報告に行くから一緒にどうだ? 相談してみればいい」


「だけど警察にはいいイメージがないんだよね。ねえ加奈さん、怖くなかった?」

 美鈴は若いせいもあって警察を煙いだけの存在と捉えているらしい。


「身の上相談と同じ」

 口調こそ素っ気ないが、加奈はしっかり美鈴を見つめていた。

「怖くなんかないよ、何があったのか知りたいだけなんだから。話の内容しだいで事件になるか判断して、相手を調べてくれる。裁判で有罪にできないようならそれで終了。別の方法を考えないとな。警察に行く時は俺が付き添うから安心してほしい」


「だったら相談してみようかな」


「美鈴さんが決めることだよ、相手に遠慮する必要はない。それだけのことをしたんだから責任とらなきゃだめだ。放っておいたら被害者が増えるかもしれない。いや、きっと増える」


「すぐ行く?」

「いや、心配してくれた友達に知らせるのが先じゃないかな。俺も議員に連絡したいから少し休憩してからにしようよ」


 農村生活で知らぬ間に鍛えられたのだろう、少し早足なのに息を乱す者はおらず、裁判所から二十分ほどで救援課の入り口が見えてきた。




 それから半月すぎ、刑の確定を待って離婚訴訟を申し出た。

 刑事裁判の謄本を取り寄せて証拠とし、不法行為や不貞行為による離婚の申し立て、財産分与と慰謝料請求も併せて申し出た。また、由紀子と美鈴の件について内偵調査が行われている。


 一方で、統一地方選挙を四月にひかえて議員達は支持者を繋ぎ止めるのに余念がなく、あちこちで集会を開く御用聞きに精出している。直接かかわった三人はもちろん、委員会で審議したというだけで自分の成果のように振舞う議員もいて滑稽にさえ感じられるが、市民にDVの悲惨さを広めるために大変役立っている。



「なあ、市政報告会を三人共同でやるんだけど出席してくれよ。今回のことにどう取り組んだか説明してくれよ」

 三人が口を揃えて村井の出席をねだっている。


「悪いんだけど、特別公務員は選挙にかかわってはいけないそうだから、勘弁してよ」

 議員と関わること自体、村井は決して嫌っていない。だが、彼らには選挙という就職試験が待ち構えている。その先棒を担がされるのが嫌なのである。なんとか口実をつけて距離をおこうとするのはただ一点、選挙があるからなのだ。

「任期が終わったんだろ? そういう縛りは解除されたんだろ?」


「なんだ覚えてたのか……。でもやっぱりだめだよ、投票の立会人を頼まれちゃったから。筋は通さないとな」


「本人達に出てもらうというのは……」


「問題外だよ、恥ずかしくないの? ……じゃあさ、文章を書くから名前を伏せて代読してもらえないかな」

 そう宥めるくらいしか村井にはできない。どうしても不可能ということではなく、村井なりの筋の通し方の問題である。


「……私達は人目を忍んで活動を続けてきました。もちろん私一人では何もできなかったのは確かです。だけど、何人かで共同作業ということになれば話は別です。得意な分野を分担することで可能性がうんと広がりました。しかし、これは根本的な解決とは程遠いものなのです。なぜ被害者が不便な生活を余儀なくされて、加害者がのうのうと暮らせるのですか、逆じゃないですか。被害者にそんな不便を強いるというのは二重に苦しめていることなんです。ただ哀しいことに、多くの事件で被害者が引越しせざるをえない状況なのは事実なのです。それが一番手っ取り早く加害者と距離を置く方法だからです。でも、それは本末転倒です。そういう更なる責め苦を許さない社会にしなければいけません。

 皆さん茗荷をご存知ですよね。赤紫色をした、らっきょうを大きくしたような芽なんですが、吸い物に散らしてありますね。いい香りがするのですが、どんな場所で採れるが知っていますか? あれね、土の下にあるのを掘り出したものなんですね。土の下には四方に茎がつながっているんですよ。何でもない土の下にいっぱい茎を伸ばして芽吹こうとしているんです。私達の活動は、世間から隠れてしっかり手を繋ぐことで日の目を見ることができました。ちょうど茗荷のような仲間達です。市政をもっと身近なものにするには、茗荷のように市民が手をしっかり繋いで協力しあわなければいけないし、それが一番わかりやすい納得のいく方法だと思います。特に、この問題に関しては市長がテレビで内容を全部訴えていたからすべて皆さんに伝わっていると思います。

 市政にはまだまだ改善しなければいけないことがたくさんあります。ですから、単に地域への利益誘導のようなことを要望するのではなく、広い目で見ていただきたい。それが私からのお願いです」


 こっそり覗いた報告会で、村井が書いた文章を読み上げた後、大隈がそう結んで出席者に深く頭を下げていた。

 目ざとく村井を見つけて鈴森が立ち上がったのを首を振って制し、会場の隅で終わるまでじっと待つのが村井にとって精一杯の義理であった。


「来てくれたのなら壇に上がってもらえばよかったのに、声くらいかけろよ水臭い」

 聴衆を送り出した会場は、すぐさま片付け作業が始まっていた。ガチャガチャとパイプ椅子を片付けるすぐ横で、大隅は村井を引き止めていた。

「だから、そういうのは遠慮するって言ったはずだよ。でもさすがだなあ、最後の挨拶はよく考えた名文だったよ」

「そうか、どこが好かった?」

「茗荷というところ、地下で手を結ぶ暗黒組織ってのが好かった。一部物足りないが」

「どこがだ、教えてくれよ」


「今回のことは対症療法みたいなもので、ワクチンを与えて療養させたということだよね。本当のありかたは病気にならないよう人々に注意を促すべきじゃないだろうか。揉め事を解決したいのに、傷害事件や殺人事件になってしまったら最悪だよね。犯人を捕えても手遅れだもん。話し合いで解決する努力を広めるべきだと思うがね」

「じゃあ何か? あまり成果を吹聴するのはいかんということか?」


「成果を報告するのは間違ってないよ、社会への注意喚起になる。ただな、それで終わってしまいそうで、それでは本質的な解決には……。それに、今回は偶然成功しただけさ。そんなに都合よくいくもんか」

「もう一歩踏み込めということだな? よし、明日からそうする。やっぱり何だな、あんたには悪魔の繊細さが備わっとるな」

 今夜の大隅は妙に素直であった。


「馬鹿なことを言わないでよ。視点が違うだけだよ」


「いろんなことを教えてもらい、経験させてもらいました。ありがとうございました」

 都築と鈴森が神妙に頭を下げた。

「ましただって。大隈さん、どうする? この二人」

 むっとしたように二人を見つめたまま、村井が陰気な声を大隅にむけた。

「……そうだな、まだ理解できとらんようだな」

 大隅は、残念そうに村井に相槌を打った。

「何がですか? 気に障ることを言いましたか?」

 自分たちは礼を述べたつもりなのに、二人が不機嫌そうにしている。わけがわからぬ二人は、おずおずと村井の、大隅の顔色を窺った。


「気に障る? えら障りじゃ! ありがとうございましたって、これで俺達と縁切りみたいに聞こえるんだがな。そうは簡単に縁切りさせないから覚悟するんだな」

 村井がぼそっと呟いた。

「どうすればいいんです?」


「どうもこうも、みんな同志なんだ。気心は判っただろう?」

 やれやれという表情で大隅が仲をとりもった。

「そうですか、てっきりお払い箱だと……。次に何かするときは手足になって働きます」

「あのなぁ、手足になってどうするんだ、自分がかき回さんか。言いたい放題言ってみんなで考えたらいいじゃないか。遠慮会釈なかったろうこいつ。けどな、こんな友達おるか? わしにはいなかった。あんたらも認めてもらえたんだぞ」

「同志ですか? 年齢も貫禄も大違いですが」

「関係あるか。口先だけで歳とったって意味ないんだ。若いのならそれをもっと発揮するんだよ、わしらには絶対に手の届かない財産なんだからな、そうだろ? 野良よ」


「こんなことになるとは想像できなかったです。腹の探り合いが続くんだろうなとは覚悟してましたけど」

「本当に充実した一年でした。世間狭いことを教えられました」

「見たとおり風采は悪いがな、でもいい友達だろう、自慢していいんだぞ」


「やめてくれよ、誰にだって同じように接してるよ。だけど、若手がそんなこと言っていいの? 党の縛りがきつくなるよ」

 村井は、ここでもまた得がたい友をもてたことを嬉しく思いながら、若手を締め付けるしがらみが気になっている。

「いいんです。誰かに不利になるようなことをしているとは思いませんし、それをとやかく言うなら吠えてやります」

「おおっ、放し飼いになってきた。いかん、いつものつもりで長話になるとこだった。秘書さんが迷惑そうにしてるから帰るわ」

「おう、すまんかったな」



 そして助走期間がすぎ、救援課に新人が集まる日、いよいよ議会選挙が告示され彼らにとっての就職試験が始まった。


 各社会福祉事務所に配置されることになったDV対策専従班。二名ずつ福祉課員が配置されて開設準備が始まり、資料整理や民生委員との連絡に余念がない。退職警察官の任用についても、村井の我侭を是として世話になる警察署の顔がたつように配慮され、すべての福祉事務所に配置されることになっている。その統括に任命された橋本は、あいかわらず救援課内の机を明け渡す素振りすらみせず、期限を定めない居候をきめこんでいた。



「そっちの集計できた? こっちは悲惨よ。すぐに収容しなきゃいけない人が五人もいる」

 役所の仕事は市民が相手。ましてや、橋本が相手をするのは家庭環境に問題がある者ばかりである。腹の底から笑う機会など、救援課を離れたら巡ってこないのではないかとさえ感じるほど居心地のいい場所であった。

「こっちだって三人、それも全部幼児をかかえています。母子寮が満室になりますよ」

 相川は、橋本とは別行動をとっている。この一年の経験が相川をずんと成長させていた。

「そうね。じゃあ手分けして面接しようか。他の人達にも手伝ってもらおうよ。私シェルターへ行ってくる」

「僕は母子寮へ行きます。担当地域外からも来てもらいます、場慣れしないとね」


「相川君冴えてる。私は警視と行ってくるね」

「やめてくださいよ、警視じゃないですよ。それに定年ですよ」

 よく日に焼けた男が困ったように呟いた。吉村と同年代で、図抜けて体格が良い男である。


「いいじゃない階級なんか。 本物の警視とお近づきになるんだから箔をつけなきゃ」

「せっかく働くことができたのに不満というのではないですが、勝手が違って……」

「どういうのなら気持ちいいの?」

「完全な縦社会でしたから、上意下達でないとどうも。命令に従っていれば安心というのが本音ですが」

「ごめんね、それは無理。ゆっくり慣れてもらうしかないわね。私なんか居心地がいいから居候続けてるのよ、役所なんかに戻りたくないわよ。さて、行きますか警視」

 橋本は、そんな訴えを一蹴して立ち上がった。



 肝心の避難施設である錦町の国民宿舎は改装工事を施されることになり、経費節約の意味もあって救援課に工事要請がきていた。

 なんといっても救援課本部の工事が僅かな費用でできたことが最大の理由で、所在無げに訓練ばかりしている職員を有効に活用しようとの魂胆であることはいうまでない。

 だからこの改装工事には救援課設立当時の職員が派遣されることになって、現在の班長や、主力で働ける職員を災害派遣要員として残し、古株の職員が佐竹の指揮の下、材木や壁紙などの材料を満載して一週間の予定で工事に精出している。



 そうした慌しさと無縁な様子なのが錦町の六人である。

 具体的なプログラムなど考えもしなかったのだし、仮に用意があったところで役にたたないことを体験でわかっていたので呑気なものである。現地に詳しく住人に馴染みが深い亜矢が調整役で派遣されたことをいいことにして、食べられる野草を教わるのに夢中になっていた。


「私、ここに来てよかった。追われる心配をしなくてすんだから。山や畑で働くと気持ちよく疲れてぐっすり眠れる。他人の機嫌ばかりにビクビクしなくてすんだのが一番よかった。同じように気持ちを楽にできるようにしてあげたい」


 車座になっておにぎりを食べている時のことである。佐伯の刑が確定してから徐々に加奈への呪縛が解けてきて、少しづつ話すようになっていた。殊に今は亜矢がいてくれるという安心もあった。


「加奈さん変わった?」

 大きなおにぎりをぺろりと平らげた亜矢が、まじまじと加奈を見つめた。

「私が?」

「うん。よく話すようになったね」

「そうかな」

「そうだよ、裁判からこっち明るくなってきたよ」


「ねえアキ、私達も裁判おこそうか」

 恵子は加奈の変貌に驚いていた。離婚という単なる手続きだけで、こんなにも心が明るくなるのだろうか。それなら自分もと思っている。

「加奈みたいにうまくいけばいいけどね。なんか自信がなくて」

 アキは慎重である。その慎重さが自分を追い詰めることも知っている。だが、うまくいく保障がないことから二の足をふんでいる。

「けどさ、冒険する価値があるんじゃない? 私やってみる」


「……そうだね、やってみるか。どうせこっちの居場所は判らないだろうから」

 恵子がやるのなら自分にだって。やはり誰かに引っ張ってもらわねば決断できない。

「手紙書こうかな、亜矢ちゃんに届けてもらうように」


「みんなおかしいですよ、もっと重い空気を背負ってたのに急にお天気になったみたい。自分から食べるもの教えろって言うし」

 会うたびに皆が明るくなっている。俯いてボソボソ言ったかとおもえば、急に叫び出す。なかなか感情のコントロールができなかった女たちが、よく話すようになったと亜矢は感じていた。が、他の職員、特に男の職員がいるととたんに口をつぐんでしまう。おぼろげにその理由がわかるような気がする。

「亜矢ちゃんがそうしてくれたんだよ。私ね、あんなに一生懸命に力出したことなんかなかったんだから」

 恵子が言った。

「何の話?」

 突然話題が変ったのに、美鈴はついてこれない。

「美鈴ちゃんもロープ引いたじゃない、重かったよねー」

「ああ、あれか。重かったよ、四人で引っ張っても上がってこないんだから」

 実感のこもらない言い方である。それば美鈴の交友関係を想像させるに十分な、遊び歩く若者の言葉であった。

「美鈴だけさぼってた?」

 珍しく加奈が冗談を言った。

「加奈さんひどい。血管切れるくらい頑張ったのに」

「アキさんなんか最後は倒れてた」

 こんどはアキに軽口を叩いた。

「加奈、あんた口数が増えたのはいいけど余分も増えたよ。無事に戻ってきたんだから腰抜かすよ」


「私だけじゃなかったんだ。酷い目に遭っている時でもあんな力は出なかった。亜矢ちゃんが引き出してくれたんだよ」

 そう語る加奈の目は、糸をひいたように細くなっていた。

「そういえばさ、なんか飾りが増えてない?」

 服装に敏感な美鈴は、亜矢の作業衣に見慣れぬ刺繍が増えたのを見逃さなかった。


「へへー、班長の許可もらったから鳶のワッペンつけちゃった」

「でも、これって蜘蛛じゃない。どこが鳶と関係あるの?」


「頭から降りるような奴は蜘蛛と同じだからこれでいいって……。こんなのをつける奴は当分現れないだろうなって班長がゲラゲラ笑うんですよ。でも慣れちゃった。最初は怖かったけど、でもね、アタシ達が怪我しないように心配して大声出してるのがわかって……。やっぱり見た目で判断しちゃだめだってね。甚八と同じだよ」


「そういえばいつもの犬は?」

「小次郎はお姉ちゃんと留守番」

「どうしてこの犬なの?」

「甚八は自動車での移動経験がないから練習です」

「大丈夫だった?」

「ゲーゲーやるし、オナラは連発するし。かなり苦しんだみたい」

「かわいそうに」

「乗り越えなきゃいけない試練なんです」

「あはは、私達叱られた」

「そんな……、甚八のことを言っただけですよ」


「私達が考えることだから、亜矢ちゃんが気にすることじゃない」

 アキは亜矢の慌てるさまが面白いのだが、余計な気遣いをさせぬよう笑ってみせた。


「鳶の班長がよく言うんです。今は便利な世の中で、どこへでもあっという間に行けるようになったけど、想像さえすれば月でも太陽でも一瞬で行ける。遠い星にだって一瞬で行ける。もっと心を遊ばせろって」


「そうか、なら名古屋なんかご近所だね。私も魂を飛ばそうかな」

「加奈さんだと本物が来そうで不気味だね」


「よっしゃ、食べ物さがしてみんなにご馳走しようか」


「今日は特別に刺身にしようよ、ワサビ使ってさ」


「恵子さんが食べたいんでしょう」


「ちょっと、何言うのよ美鈴ちゃん。ささやかなお礼じゃないの、やだね」


 賑やかに話しながら女達が山道を奥へ奥へと登ってゆく。未踏の地だったはずのワサビ田は遥か後ろになっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ