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加奈の決意

 五 加奈の決意


 


「休みなんだろう、すまんな。なんかいい知恵をかしてくれるそうで悪いな」


「わざわざ行ってくれたそうじゃないか、本当に助かるわ」


 名古屋に帰った次の定休日、村井を通じて全員が鰻屋に呼ばれている。

 わざわざ店に集合をかけたことで何かしらご馳走になれると市長はふんでいる。ひょっとすると解決策がみつかったのかもしれないと期待していた。


「まあむこうに何があるのか知らんことには話しにならんからな、けっこうなおまけがついたけどな。それはともかく、鰻屋のおでんでも食べてもらおうと思ってな」


 今日は客など来ていない。客でなければ愛想を遣う必要など更々ない。そう割り切った大将はぞんざいな言葉を使っていた。


「おでんか、ちぃと早いんじゃないか?」


 集まった者達は大将の言葉遣いが違うことなど歯牙にもかけていない。


「まあそう言わずに食べてくれよ」


「……」


「なかなか味がしみこんで旨いな」


「これを通信販売で売ればいいと思うんだがな。ちょっとためしてくれ」


 大将はそう言って小瓶を皆にまわした。


「市販品があるけど味に難ありでな、この味なら料理屋に使ってもらえると思うがな。手間と材料さえ惜しまなければきっと注文がくる。刺身と天ぷらもあるぞ。食べる前にちょっと細工するからな」


「細工? 未完成なのか?」


「こうしてちょっと添え物をするとどうだ?」


 冷蔵庫から色鮮やかな木の葉を取り出すと、てんぷらの添え物にした。


「おお、秋らしくなった」


「ちょっとした添え物で印象がこんなに違うだろ。この添え物がけっこう高価でな、だからこれも商売にならないかと思ったわけさ。それを実感させるために料理をな。実際に四国の老人がやってる商売のパクリだ」


「なるほどな」


「お客じゃないからすぐに雑炊で悪いがな、ちょっと草の葉を散らしておいた。別に食べなくてもいいけど、どんな感じがする? 何の葉か判るか?」


「ちょっとだけツンとするな」


「そういう植物だもの」


「いったい何なんだよ」


「ワサビの葉。今日のだしものはこれだけだ。どうだった?」


「こりゃあいい、あの家を作業場にしてもいいんだし、村の住民を巻き込んでもいいんだし。わしは大賛成だ」


 どうせ自分には名案がないということもあり、市長は一も二もなく賛成した。


「他の人はどう? 意見きかせてよ」


「いきなり多数決でどうですか?」


「都築さん、拙速すぎない?」


 即断即決って言ったの誰でした?」


「一本やられたな。よし、決とるぞ。賛成の者」


 全員が手を揚げている。


「なんだ、そういうことか」


「さすがだなあ、後引く旨さだな。まいったわ」


「ところでどうでした、鈴森さん」


「いい経験しました。DV被害にあうとどんなことになるのかを知ることができました。あの人達の負った苦しみを何とかしなきゃ。ただ悩みがあります」


「どんな?」


「誰にも話せない、協力してくれる仲間を募れないという悩みです。それと、私達がいかに役立たずかを思い知らされて」


「俺だって誰にも相談できないのは同じだよ。でもさ、これにかかわらなかったら鈴森さんと仲良くすることはなかったと思うな」


 都築も鈴森と同じことで悩んでいたらしい。ちゃんとした友をもてなかったのは自分の責任だという大将の一言が耳に痛かった。


「そうですね。それに救援活動の現場も見たし、村井さんの能力というか、人脈というか、本当に感心しましたよ。一体何をしたと思います?」


「都築さん、褒めすぎだわ。村井さんの人脈なんて大して意味ないだろう」


「大隅さんちょっと考えが浅いですよ。何をしたと思います?」


「見当がつかんが、どうせ大したことはできんて」


「初めて行った警察署で署長に面会を求めたんですよ、まいっちゃった」


「まさか。冗談言うなよ」


「本当ですよ。所長室で懇談して、初対面の副署長もさそって食事をしたんですから」


「山が崩れたろ、どことどこへ連絡しろ、ああ言えこう言えだ。自分は現場で土方やってな、時間みてボイラーで湯を沸かして。移動に便利なように先導を頼むわ、駅に出迎えを手配するわ、コマネズミだった。それができたのは人脈のおかげだと思うがな。あんたらにはできないんじゃないかな」

 初めて村井の実力にふれた三人が口々に状況を説明するのを村井が遮った。


「そんなことはいいって、たいして役にはたってないさ」


「それに大活躍した職員がいましてね」


「やめてくださいよ、ちょっと間違えたら大事だったんだから」


 都築も鈴森もきっと文系なのだろう、災害救助現場を間近で見た興奮がまだ続いているのか、花形役者だった亜矢の活躍を報告しようとするのを吉村が慌てて遮った。


「何があったんだ、隠すことないじゃないか」


「さあね、係長が詳しく知ってるんじゃないですか」


「もったいぶらんで言えよ」


「じゃあ言うけど……」



「そんな豪傑がおったのか」


「前回活躍した職員というのがその娘で」


「そらあ褒めてやらにゃあいかん、褒美をやってもいいぐらいだ」


「勘違いして次にも似たことをされるといけないから外出禁止にしてあるんです。それでね、アタシの勘なんだけど、亜矢が加奈さんと美鈴さんの心を開いたみたいなの。」


 宮内としては、指示に従わなかったことを理由に外出禁止にしたのではないが、その真意が市長には理解できていないようである。


「だったらなおさら褒めてやらにゃいかんじゃないか、そんな冷たいことをするなよ。チヤホヤしてはいかんが認めてやらにゃ」


「週末にでも店によこしてくださいよ、ご馳走してやるから」


「だめだめ、そんなことしたら五人勢ぞろいしちゃう」


「そうか、五人となると辛いな」


「よし、わしが褒美で一万出すからみんなも二千円ずつ出せ。それで食事させてやろうじゃないか。どうせいつもわしの奢りだから文句ないだろう?」


 表だって褒めてやれないわけを知った市長が気前よく食事代の提供をもちかけた。


「よし、今度の週末、六時から奥の座敷は御予約席にしておくよ。係長は引率してくれるんだろ?」


「私も?」


「あんたがいないとお通夜になるんじゃないかなと思ってね」


「コンパニオンをやれってこと? 一番苦手なんだよね」


「初めて現場指揮したんだからな、ご褒美のおすそ分けでいいじゃないか。それに長女を外すわけにはいかんだろう。ところで野良犬、市長や議員さんに吠えたけど、本当は好きなんだろう? それであんな憎まれ口たたくわけだ」


「悔しいけど好きだ、それに能力も認める。ただな、現場を肌でわかろうとしないことが不満なんだ」


「やっぱりな、案外そうじゃないかと思ったよ。本当に怒ったら帰るだろうし、もう出てこないだろうし。そういうことですから市長も大隈さんも機嫌直してくださいよ」


「さすがお父さん、うまく収めるねえ」


「こういうやりとりができるのは相手を認めているからじゃないか。さてと、手順を確認するけど、試作品を送らせて、売り物に仕立てることが一番だな。売る方法は?」


「インターネットでいいはずだ」


「売主は?」


「個人名でもかまわん」


「なるほどな。じゃあ連絡は野良犬にまかせる」


「ちょっと待ってください、肝心の本人たちの様子はどうでした?」


「それがびっくりでね橋本さん……」


 詳しく様子を伝える村井の声に熱がこもっている。ある意味、学生サークルの延長なのかもしれない。




 植物図鑑を送った返事として、試作品に本人達の手紙が添えられて村井の元に届いたのはそれから五日後のことだった。どれを読んでもお礼の気持ちが連綿と綴られていて、自立心が芽生えてきたような印象を受ける。蝮を殺したことをきっかけとして、闇夜を彷徨したことや亜矢の姿が強く気持ちを奮い立たせたらしい。自衛を意識し、自分に害を及ぼすことのない人の存在を意識しはじめている。


 ことに加奈からの手紙はかなり長文で、自分の受けた仕打ちを克明に書き、当時すでに複数の女性と深い関係をもっていた相手のこと、現在も関係が続いているとすれば自分と同じ辛酸を舐めているだろうこと。相手の住所氏名まで書かれていて、亜矢の行いからただ恐怖心だけで逃避していてはいけないという思いを打ち明けている。そして、離婚訴訟で争う意志をほのめかせていた。


 実際に提訴するにせよ、せぬにせよ、強い気持ちを維持できなければ戦うことは覚束ないことは承知しているのだろう。でありながら、気持ちを強く保ち続ける自信がもてないので気持ちが揺れているのだろう。加奈が相手との関係解消に一歩進もうという意志をもったことに驚き、読み進むうちに暗い怒りが村井の中に渦巻いてきている。加奈が解消を望むのであれば、自分は何をしてやればよいのだろう、何ができるのだろうと考えた。

 刑事告発により刑事被告人として裁判を受けさせ、その後で離婚と、これまでに受けた苦痛に対する損害賠償を提起することが考えられる。ただ、そのための証拠集めができるのだろうか。警察が、検察がまともに受け止めてくれるだろうか。いくら考えても霧の中のように朧な希望すら見出せない自分に気付いていた。


「なんか重すぎるわよ、この手紙。よく我慢したもんだ」


 手紙を読み終えた橋本が深くため息をついて、読み終えた最後の一枚を相川に手渡した。


「なんかさ、腹が立つっていう程度では済まないんだよね、眼の裏側が痛いような熱いような感覚になって、興奮しっぱなしだよ」


「こういうことが繰り返されているのよ、だから守ってあげようとしてるのに」


「歯切れが悪いね」


「せっかく守ろうとしてるのに自分から戻る人ばかりなの」


「こんなことしておもしろいんですかね」


 読み終えた相川の表情が険しくなっている。


「相川さんにはそういう趣味はないの?」


「こんなことしたら家を追い出されますよ。親戚から友達から、みんなに広まって誰にも相手してもらえなくされます。給料だって差し押さえられるでしょうし」


「そこまでするの?」


「きっとしますよ。だから飼い猫になっているのが一番平和なんですよ」


「飼い猫はいいな、ぴったりだよ」


「笑い事じゃないですよ。それで私達何をに手伝えというのです?」


「協力はしてほしいけどなあ、二人とも公務員だから個人に踏み込むことはまずいよな」


「個人的なことには踏み込むことができませんね、そうしたい気持ちはやまやまですが」


「そこでね、支援団体に紹介してもらえないだろうか」


「そんなの直接電話すればいいじゃないの」


「いろんな話をしっかり教えてもらいたいと思ってね」


「どんな内容を?」


「相談内容だね。どんな被害を受けているのか、どうやって解決しているのか。どれくらいの相談件数があるのか。そういうことをじっくり教えてほしいんだけど短時間ですむ内容ではないからね。それに、どうせなら詳しい人から教えてもらいたいし」


「そうね、ちょっと考えてみる」


「僕にできることはありますか?」


「何でもいい?」


「いいですよ」


「それなら……、仕事で出歩くことが多いよね。手紙に書かれている三人がその場所に住んでいるか調べてもらえないかな」


「調べてどうするつもりですか?」


「いずれ接触することになるだろうな。どういうかたちで接触するかは考えてないけど」


「筋書きを考えたのですか?」


「あらすじ程度かな」


「聞かせてよ」


「まず、なんとかして二人の女性も被害を受けていないか知りたいんだよ。被害を受けているのなら、いつ頃からそうなったのか、相手との関係を望んでいるのか。望んでいないとすれば解消を希望するか。そういうことを訊ねたいんだけど、そうすると張本人に伝わる可能性が高いからなあ」


「もし知られたら?」


「説得できるだろうか……。刑事告発するから証人になってくれ、いや、そんなこと無謀だな」


「とにかく、それくらいならやってみます」


「村井さんは何をするつもりなの?」


「一度警察で相談にのってもらおうかなとね」


「警察ですか?」


「うん。考えている罪状で告発できるのか相談してみるよ」


「どんな罪状?」


「それはいずれ教えるよ。刑事事件として裁判が始まったら、次は民事だな」


「離婚訴訟ですね?」


「うん。離婚と財産分与。強いられた性交渉を含む慰謝料請求。配偶者以外の女性との関係、つまり不貞行為に対する慰謝料請求。当然その相手にも慰謝料を請求できる」


「相手も被害を受けていたら二重の悲劇ですよ」


「その時は相手の女性に対する慰謝料請求を取り下げればいいよ」


「それでも傷つくんじゃないですか?」


「そこなんだよな問題は……。これは理想なんだけど、その人も協調して当たってくれればいいんだけど」


「そんなことができるかしら」


「わからんよ。でも誠実に話してみたいな。やぶ蛇かもしれんし、うーん、悩むね」


「このことを他の人に話しましたか?」


「いや、あんた達にしか話していない。というより、今朝届いた荷物に添えられていたんだから。いずれ皆に読んでもらうつもりだよ、どんなことが行われているか正しく知ってもらうために。でも、今である必要はないからね」


「そうですね、それがいいと思います。こんなの読んだらショックですよ」


「あえて読ませるとすれば若い議員二人かな。この問題に目覚めさせて議会を主導させたい、浅はかな希望かもしれないけどね」


「ぼやいてないで動いてみましょう。それじゃあ早速調べてみましょう。行くわよ相川君」


「何からします?」


「DVの支援組織へ行こうか。これなら公務だもんね」


 また他人を巻き込んでしまったな。空になったコーヒーカップを玩びながら村井は憂鬱な気分である。



「いらっしゃい、この前はお手柄だったね」


 じりじりと来店を待っていた大将が、のれんをくぐって現れた一団に調理場から声をかけた。


「ようやく外出させてもらえるようになりました。へー、ここがお店なんだ」


 誰に言われたのかわからずキョロキョロしている亜矢は、宮内につつかれてようやく声の主に気付いたのである。声高に話す人のいない店内は、亜矢にとって居心地がよさそうであった。


「そこにいると他のお客の邪魔だから奥へ行ってくれないか。珠希、ご案内しなさい」


「いらっしゃいませ」


 絣の上掛けを着たたまきが盆を持って現れた。


「あーっ、うなたまが店員さんやってる」


「アルバイトしなきゃお小遣いないから」


「もらえないの?」


「高校卒業したんだから稼げって、厳しいんだよ」


「どうせいつかは働くんだし、ここなら変なお客に絡まれないから安心じゃない」


「いえてる」


「早く案内しろよ、埃がたつじゃないか」


「叱られた。奥座敷、ご予約席にどうぞー」


 宮内を含めて六人がゾロゾロ案内されてゆくと、


「大将、今日は珍しくギャルの団体さんだな」


 常連客から声がかかった。


「災害救援課の美女軍団だ。若いっていいねえ、頭の薄くなった親父ばがりが客だと老け込んで困っちゃう」


「薄くて悪かったな」


「あんたは薄いだけじゃないよ、口も悪い。あはははは」


「言ったな、おぼえとけ」


 たしかに華やいだ空気を運んできたのだろう。



「えーっと、注文は……」


「今日はおまかせだそうですよ。注文は受け付けるなだって」


 万事心得ているというように珠希がお茶とお絞りだけを並べながら言った。


「どういうこと? あとから丸裸にされるとか……」


「奈緒ならそうするのか。言ってて恥ずかしくない? 大将に任せておけばいいわよ。ただし、おかわりは自前だからね」


「お姉ちゃん何か知ってるな、どういうこと?」


「いつも皆がしっかりやってるからご褒美だって」


「誰の?」


「市長がそう言ってたよ。だからありがたく食べなさい」


「市長? あまり見ないのに」


「みちるは妙な想像しなくていいの。ちゃんとアタシが報告してるんだから」


「そう言われるとよけいに妙な気分になるんだけど」


「いいからいいから。それより亜矢、少しは懲りた? もうあんなことしないでよ」


「なるべくしないようにする」


 亜矢が元気に答えた。


「なるべくじゃない。絶対だめ! まだ痣が残ってるくせに」


「……判った」


 宮内の瞳に凶暴な光が見え隠れするのを感じ、亜矢は本気で心配されていることをあらためて知った。今の亜矢は素直に従うしかない。



「お待ち……どうしたの、しょんぼりして」


 刺身を運んできた珠希が重い雰囲気に言葉を飲み込んだ。


「亜矢の勇み足を注意されているの。頑張ったのに」


「奈緒、駄目だっていうの。一つ間違えたらどうなったか想像してみてよ、亜矢大怪我してたかもしれないんだよ。最悪のこと考えた? 嫌だよアタシ」


「それは違うと思うな。漁船が難破したりすると仲間の船が駆けつけるんだよ、時化た海にだってとびこむんだよ。海はね、山と違って待ったなしなんだ、息がで

 きないだけで死んじゃうんだから。足の遅い船では間に合わないかもしれないけど、助けを待ってる、生きてるって信じて走るそうだよ。真っ暗なところに取り残されたら不安になって動くのが人の弱さじゃないかな。それを心配して亜矢が判断したんだと思うよ。あの判断は正しいと思うけどな」


 漁業の町で生まれ、水難事故に接する機会の多かったみちるの反論には真実味がこもっている。


「みちるの考えは正しい。確かに正しいけど、アタシは別の意味で責任を感じる。それはわかってくれる?」


「……それは理解できる」


「アタシはあんた達が大事なの。妹を失いたくない気持ちは理解してくれる?」


「うん」


「家族だったら尚更でしょ? 先生や友達だってそうでしょ? いい、厳しい内容だけどよく覚えておいてよ。相手を救えなくても仕方ない。見殺しにすることもあるかもしれない。残念だけどそれが寿命なの。あんた達の命を危険にさらすほど大切な命はどこにもない。遊びじゃないのはわかってるよね、よく覚えておきなさい」


「大福の言うこと、わたしには判る。親を失って力が抜けた。大福も同じ。私と同じ。親をなくした哀しさを知ってる。もうそんなことは嫌だと私も思う。大事な姉妹を亡くしたくない。お雪はどう思う?」


 親を失ったつらさを丹梅は知っている。突然両親を亡くしたのは宮内も同じである。もう二度とそういう思いをしたくないという気持ちは丹梅と宮内が一番強かった。


「どっちの考えも理解できるけど、でも、私が名古屋に来れたのも、ホームシックにならずにすんでいるのも亜矢のおかげだから。みんなそうだよ、誰も怪我したりいなくなったりしてほしくない」


 博子は夢に手が届かず失意にあったのを亜矢に救われたと思っている。名古屋で働くきっかけをくれたのが亜矢だった。その亜矢が活躍するのは嬉しいが、だからといって危険なことはしてほしくなかった。


「……判った。次は許可をもらってからにする。これでいい?」


「判ったらいいよ。こんどやったら張り倒すからね」


 少し大人しくなってくれればと宮内は鬼の貌をみせた。


「おいおい、せっかく料理を用意したんだからさ、堅い話はやめて食べてくれよ。いい魚を仕入れたんだぞ」


 離れて様子を窺っていた大将が座をとりもとうと座敷の上がり口に寄ってきた。


「ちょっと早いがヒラメのいいのがあってな、なかなか口に入らんネタだ。食べてくれ」


「そうね、せっかくだから食べよう」


 まだ硬さを引きずっているからか、行儀よく一切れずつ口に運ぶ。


「どうだ、旨いだろう。上等なヒラメだからな」


「ほんと、おいしい」


 いかにもおいしそうに相槌を打ったのは宮内一人である。


「他は? 旨くないか? あっそうか、味を知らんのだな。高級魚だから初めて食べるんじゃないか? 無理ない、無理ない」


 味を知らないのも当然だろうとニヤニヤする大将をチラッと見て、みちるがぼそっと呟いた。


「名古屋ではこれが旨いヒラメけ?」


 遠慮がちにみちるが呟いた。


「なんかゴム噛んでるみでーだな」


 奈緒が小声でみちるに相槌をうった。


「甘さが何もねーでねぇか?」


「そっだな、スーパーでも売れねえど」


 追い討ちをかけるように秋田組が肘を突付きあって顔を見合わせている。


「おい、旨くないのか? 高級品だぞ、天然物なんだぞ」


「大将、東北出身なのよこの娘達、舌が肥えてるの。一番味を知らないのはアタシ」


 思わぬ反応に戸惑う大将にすまなそうに宮内が言い訳をした。


「東北? どこだ」


「おれ八戸」「宮古だ」「秋田が二人」


「なんだ、本場で育ったのか。それならしかたないな。そっちの外人は?」


「生の魚は苦手。青森で食べた魚の方がおいしかった」


「ごめんね、悪気はないから……」


「まいったな。……まあいいや。それなら、ワサビの代わりにその小皿の中のものをつけて試してくれないか」


「これか? 一口だけでいいか?」


「一切れだけでいいよ、やってみてくれ」


「……」


「どうだ?」


 ニッと笑ったみちるがもう一切れ口に運び、指をぐっと突き出した。


「これだばうめえ、生き返ったぞ。おめーらもやってみれ」


「みちる、大将に判るように話してあげてよ。方言丸出しにすると意味が通じないよ」


「これはおいしいわ。奈緒も試してよ」


「……」


「うん、ゴムじゃなくなった。これならおいしいよ。ピリピリした辛さが合うね」


「うん、これならおいしいけど……」


「けど何だよ?」


「ヒラメより別の魚の方がいいんじゃないかな」


「そうだよね、タイとかイカとか」


「あたしはサンマで試してみたい、宮古はサンマだもんね」


「刺身もいいけど、それより鍋に使う方がいいんじゃないかな」


「いっそごはんに塗りつけるのは?」


「辛いのが残らなければいいけど……、これってお粥むきじゃない?」


「なんだおい、市長なんかよりよっぽど舌が肥えてるじゃないか。まいったな……」


「そんなこと言われても……」


「どうしたの?」


「味見させてみたんだよ。ちょっと期待外れだっただけだ」


「どうして? おいしかったよ」


「もっと驚くと想像してたんだよ、がっかりだ」


「なんだそんなことか。だけど、本当にゴムから魚に変身したよ。あれって値段高いの?」


「値段って、俺が作ったものだからな。何でだ?」


「実家に送ってやろうかなと思って」


「実家? そんなに好かったのか?」


「馬鹿にされるもの送ってもしかたないよ。いくらなの?」


「いいや、一瓶やる」


 言葉と同時に他の三人も手が上がる。


「丹梅も手伝って」


 亜矢に促された丹梅を合わせて全員が手を上げている。


「なんだ全員か、親元に送ってやるのか? よし判った、一肌ぬいでやる」



 同じ頃、村井は警察署の生活安全課で加奈からの手紙を見せて善後策を相談していた。


「なるほどね、この内容を立証できれば事件になるでしょうね」


「だけど立証というのができないですよね」


「いつもそうなんですよ。なんとかしたくても結局当事者同士の合意の上ということにせざるをえない」


「つまり野放し」


「そうなんです」


「でもね、二人の女性から協力を得られるとどうなります?」


「そうなれば立証できますよ。それも相互に立証しあうことになるから、仮に二人も被害者だったら三人に対する犯行ということになりますね」


「ということは、犯行が日常化しているということですから、他にも被害者がいるかもしれないですね」


「可能性としてはありますね」


「相手に飽きてきたとかね」


「それもあるでしょうが、中にはいるんですよ、そういう癖の奴が」


「仮にだけど、二人から証言が得られて、被害届けを提出させたら動いてもらえます?」


「もちろん。それが我々の仕事です」


「とりあえず、三人の居住確認をしているんですが、さてその次にどうしようかと……」


「へたに気付かれると全部無駄になりますからね、素人が首を突っ込まない方がいい。とりあえず内偵してみましょう。本当は被害届けが先なんですけどね、名目

 はいくらでもたちますから」


「申し訳ないですね、そうしてもらえれば助かります」


「これだけのことを仮に三人にしていたとなるとかなり凶悪ですね、大事件ですよ」


「私が受け持っているのとは少し内容が違うけど、やっぱり三人を手にかけた奴が十一年の刑になっていますからね、十五年くらい貰うんじゃないですかね」


「へたな殺人より重いのですか?」


「そうですね。無期を求刑されることもあります。心を殺すんだから当然ですよね」


「いずれにしても調査してから判断しましょう」


「署長まだいるかな、ちょっと事情を説明しておくわ」


「一緒に行きましょうか、暇そうにしてましたよ」



「やっぱりおいしい、おじさんの鰻」


 亜矢も奈緒もニコニコして箸を動かしている。


「旨いか?」


「去年初めて名古屋の鰻を食べて驚いたんだけど、おじさんの鰻はもっとおいしい。八戸に支店出さない?」


「八戸? なんでだ」


「家族も食べられる。こんなにおいしいなら繁盛するよ」


「八戸はちょっとな、遠すぎて通勤できない」


「宮古は? うんと近いよ」


「それでも遠いなあ。定期代で潰れちゃう」


「地方発送しないの?」


「地方発送? 腐ってしまう」


「真空包装できないの?」


「余った材料を保存するとか、まあ自家用に使うだけだな」


「それでいいから送ってよ。悪くなっても文句言わないから」


「そんな無茶なこと……」


「お願い、家族と先生に送ってよ。すごく喜ぶと思う」


「あたしもそうする。料金はあとで払うからお願い」


「責任もてんがいいのか?」


「もう涼しくなってきたんだから簡単に傷まないでしょう? 真空包装なら関係ないし」


「判ったよ、送ってやるよ。うなたま、紙と鉛筆持ってきてくれ。それと、のれんを中に入れて本日終了の札を掛けといてくれ」


「まだ早いですよ、お店閉めちゃうんですか?」


「もうお客は来ない時間だからな、どおってことないさ」



「はい、紙と鉛筆。ねえ、どうして重い雰囲気だったの?」


「あああれね、亜矢が暴走しないように釘挿してたの」


「暴走? 何かあったの?」


「うん。実はね……」



「何なのそれ、危ないよ。なんでそんなことしたの?」


「だって、ランプは頭につけてるんだから足元しか見えないし」


「怖くなかった?」


「本当はね、すごく怖かったんだよ。膝がガクガクだったもん」


「落ちたとこってどんな場所なの? 垂直だった?」


「垂直なんて登れないよ。六十度くらいだったのかなあ」


「話を聞いただけでも怖かったのに、亜矢のしたことを取り入れるって近藤さんが」


「近藤さん?」


「三人で登ったときにゲンコツしたおじさん、鳶の責任者なの。その近藤さんがみんなに見せるって言い出して、みんなの見てる前で亜矢にさせたのよ」


「どこで?」


「いつもの屋上から」


「えーっ、そんなの無茶だよ、垂直だもん。逃げればいいのに」


「あの時は暗くてどれだけ深いか判らないからできたんだけど、真昼間の屋上だからね、お尻が退けちゃって。どうしてもやれって言われて仕方なく目をつむって……」


「やったの?」


「うん」


「うわー、怖いことしたんだ」


「怖かったー。本当に死ぬかと思った」


「何を見せてくれるんだろうってガヤガヤしてたのがね、亜矢が始めたらシーンとなって。ぼーっとして半分口開いて固まってた」


「訓練生なんかね、あんなことさせられるのかって泣きそうだったよ」


「アタシだって見るの初めてでしょ、驚いたわよ。アタシよりはるかに頑丈な心臓してるって感心したもの。最後に人を背負うところを見せてね、あれは誰にでもできるからお手本としてよかったね」


「お雪、お願いだから里中先生には秘密にしといて」


「言えるわけないよ。そんなこと言ったらきっと気絶するよあの先生」


「驚いたもんだ。蜘蛛女になったわけだ」


「大将、だめだっていい気にさせたら。珠希ちゃんが喧嘩売って歩いてもいいの?」


「それもそうだな、でもお灸をすえたんだろう? そろそろ勘弁してやってよ」


「そうね、十分反省しただろうから許してあげる。ところでさ、亜矢の好きな犬種ってある?」


「好きな犬種ねえ、やっぱりシェパードかな」


「シェパードなのか、じゃあ仕方ないから断わるか。……実はね、獣医さんの知り合いが子犬の貰い手に困ってるんだって。シェパードじゃないのよね、残念だけど」


「どんな犬?」


「ドーベルマン」


「ドーベルマン? それがどうしたの、貰えるの?」


「犬笛ができたのだったわね」


「あれから小次郎が動いてくれるようになってきた」


「ずいぶん腕を上げたから亜矢の相棒にどうかなと思ってね」


「ドーベルマン? あこがれなんだー。忠実だし賢いし。獰猛だっていう評判ね、あれ嘘なんだって。きちんとした躾けをしてないから獰猛になっちゃうんだって。子犬から育てたら優しい性格にできるそうだよ。精悍だしさ、嗅覚なんて抜群らしいよ。作業犬としてはシェパードより上かもしれないそうだよ。いいなー。……でも小次郎はどうするの?」


「小次郎は亜矢にあずけてるだけで、いずれ返してもらうつもりだったから」


「返す?」


「小次郎はもう七歳だからね、いつまでも働けないよ」


「どうして、十歳すぎて働けないの?」


「大型犬は寿命が短いんだ。十歳くらいでぼちぼち寿命が尽きちゃう。だから今のうちに次の親分を育てないと」


「小次郎はどうなるの?」


「まだまだ現役で働いてもらうから、それまでは亜矢が担当しててちょうだい。だって他の人の命令は無視するんだから。亜矢だけだよ小次郎を手懐けたの、たいしたもんだ。毎日散歩を続けたのがよかったんだね、小次郎の心を開いたんだろうね。本当に弱ったらアタシが面倒みるから」


「そうすると二役ってことか、忙しくなるね」


 ニンマリしている亜矢の様子を窺いながらみちるがボソッと呟いた。


「お姉ちゃん、やったね。成功おめでとう」


「何のこと?」


「濡れ手に粟。一挙両得。二兎追い、鴨ねぎ……」


「あんた性格直しなさいよ」


「新しく救助犬を育てるのはいいよ、でも亜矢を封印しようとしてるでしょう。魂胆が丸見えだよ」


「ちょっ、あんた考えすぎよ。そんなことしないわよ」


「おでこ、汗かいてるよ。はい、お絞り。そっと拭いたら」


「う、うるさいわね! 大将、今日はシャーベット出ないの?」


「まだ料理が残ってるじゃないか、図星さされて焦ったか?」


「ほらね、図星だった」


「アタシや亜矢のことより、建築士の勉強進んでるのでしょうね、佐竹さん張り切ってるのに」


「こっちにきたか」


「奈緒は外回りちゃんとできてるの? 丹梅も現場で訓練受けなきゃだめだよ、頭でっかちでは役に立たないんだよ。お雪、あんただって学校の試験大丈夫なんでしょうね。ちゃんと卒業できるんでしょうね。うなたまも同じだよ、うちでしごかれたいの?」


「あらー、八つ当たりしてるわ。でも、うなたまも職員になったらいいかも。ねえねえ、看護士の募集しない?」


「うるさい! ……それいいかもね。うなたま、就職決まった?」




 それから更に二週間過ぎ、十一月になった。

 錦町から何度か試作品が届き、その度に不都合を修正させてようやく売り物になる味に仕上がり、添えられてくる木の葉も種類が増え色も鮮やかになったことを受け、その報告がされている。


「この味なら大丈夫だ、同業者にも売り込んでやるよ。どうだこの鮮やかなモミジ、他にもいろいろあるぞ。イチョウだろ、栗だろ、柿だろ、インターネットで売ればいい」


「電話がないんだろ? インターネットは無理だな」


「どうかしら、電話を工事したら。もうずいぶん落ち着いたようだし、電話がなければ売ることも注文を受けることもできないんだし。こっちから連絡が自由にならないし、そろそろいいんじゃない?」


「いつも慎ましい橋本さんの大胆な提案だけど、どうする?」


「おかしなことにならなきゃいいけどな」


「心配はそこですよね、でも通信手段は必要ですし」


「私は工事すべきだと思います。大将がどれだけ苦労したか知ってますから」


「アタシも工事すべきだと思います。だってあそこ圏外だから携帯が通じないんだもの」


「おい野良犬、今日はえらく静かだな」


「俺? ……うん、電話は必要だよ」


「なんだ、それだけか。なんか歯切れが悪くないか?」


「うん、ちょっとね。この手紙読んでくれないか、枚数が多いから順に送ってほしいんだけど、係長は読まない方がいいよ、ショック受けるから。その間にコーヒーいれてよ」


「アタシのけ者?」


「うん。きっと怒り出す。読まないほうがいい」


「よくよくなの?」


「うん、とびっきり」



「DVというのはこういうことなのか……」


「こんなことが現実にあるのか……。小説じゃあないんだろうな」


 市長も大隈も読み進むうちに表情が強ばり、言葉をなくしている。


「なんですかこれ、考えられませんよ。こんなこと野放しにしていいわけないですよ」


「あの人達、全員こんなめにあっていたのですか……。よく自殺せずに踏ん張ったもんだ、僕の認識は甘い」


「これでは病気にもなる、悪くすれば自殺しかねん。お前が慎重になってた意味が判るよ」


「殴りつけてやろうか? 足腰立たなくするぐらいわけないぞ」


「わかってるだろう、お前は存在すること自体が凶器なんだからな。そんなことしなくてもきっちり思い知らせてやるから」


「どうするんだよ」


「手紙にあるように離婚を後押ししてやろうと思う」


「離婚したって痛くも痒くもないだろう」


「それは離婚しなくても同じだ。クビキから開放してやるのが最優先だと思う」


「だけど簡単に離婚に同意するだろうか」


「同意? するしないじゃなくて、させてやる。同意せざるを得なくさせてやる」


「裁判だな? だけど相手だって弁護士を雇うかもしれんぞ、太刀打ちできるのか?」


「そんなの関係ないよ。別の裁判で身動きできなくなるさ」


「どういうことだ、言ってる意味がわからんのだけど」


「その手紙が届いて二週間になる。今日までの二週間でいろんなことを調べてもらったり訊いたりしたんだ。橋本さんと相川さんに協力してもらったし、警察が内偵してくれて間違いなく離婚にもちこめることが判った」


「警察? そんなとこに相談したのか」


「手紙の内容が事実なら犯罪だからな」


「犯罪といっても暴行と傷害くらいじゃないですか?」


「脅迫、強要、暴行に傷害。とどめは強姦」


「強姦? 夫婦なんですよ。夫婦なのに強姦が成り立つのですか?」


「夫婦だろうが愛人だろうが関係ないさ。拒んでいるのに無理矢理迫れば強姦だよ」


「知らなかったなー」

「一般的な、不特定を相手にした事件でも、三人も手にかければ十年は刑務所暮らしだよ。無期懲役になる馬鹿もいるくらいさ。それが日常的に行われていたらどうかな」


「なるほどな、刑事事件にするわけか」


「そこで有罪になれば、離婚訴訟でも問答無用になるさ。離婚訴訟といっても、ただ離婚を認めさせるだけじゃないよ。財産分与で半分。暴行や強姦に対する慰謝料請求、不貞行為に対する慰謝料請求。つまり無一文にするわけさ。相手は会社員だそうだ、それも大手のな。当然退職金も慰謝料で消えてしまうよな。仮釈放があってもせいぜい一年くらいじゃないかな。そうすりゃ四十七歳。性犯罪だからな、釈放されても警察に居場所を把握されて、このご時世だから簡単に就職できなくて貯金もない。どんな末路か知らんが、本人が望んだ結果だよ」


「だけど、交際している二人が相手に有利な証言をするかもしれんぞ」


「確かにそうだ、でも逆もあるさ。二人だって被害者かもしれない。性格なんてそう簡単に変わるもんじゃないからその方が自然だろ? だとすれば、二人からも被害届けが出るかもしれない。警察はそっちにもっていくだろうな」


「それで電話が必要だということか」


「だからまた行ってこなきゃいけなくなって、女房が怒るだろうなと思うとな……」


「気の毒なこったな」


「気の毒だろ? 誰か交替してくれよ、もう二回も行ってるんだし、三回目なんて無理だよ。もう限界こえてる」


「困ったな、交替といっても役立たずばかりだからなぁ」


 役立たずよばわりされたことを逆手にとって、市長と大隈がじっとりとした視線を村井に向けている。無言のうちに出張を迫っているのだろう。



「ところであの元気印どうしてる?」


「元気印? 誰のことだ?」


「ほれ、犬使いの妹分。男勝りの名物娘だよ」


「ああ亜矢ね。新しい犬をあてがって興味を逸らしてます」


「そうか、お前といっしょで無茶やる奴だから目先を変えるのがいいかもしれんな」


「アタシは無茶なことしないよ」


「やったやった、無茶苦茶だったわ」


「そうかな、おしとやかなのに」


「どんな犬なんだ?」


「ドーベルマン」


「また怖そうな犬を与えたもんだな、ちゃんと躾けができるんだろうな」


「子犬から育てればね。そのうち二代目親分になるわよ」


「人が怖がらないか?」


「育て方しだいよ。今はとにかく人に馴れさせることに専念させてる。誰が触っても怒らない犬にするためにね。もっとも、今やっとかないと大きくなったら矯正

 できないから」


「名前は?」


「小次郎に対抗するような名前がいいっていろいろ考えたみたいよ。十兵衛だとか官兵衛だとか。で、結局甚八に決めたみたい」


「甚八か、真田十勇士の根津甚八かな? いい名前だな」


「おい、話を戻すぞ、休憩はすんだだろう? 電話工事の件だけど、実施しよう。そこで、工事の監督とボイラー点検、それと自家発電機の点検を村井さんに頼みたい。これは正式な業務としてだ。ちゃんと日当と交通費を払う。こういうことで行ってもらえんか」


「日当なあ。俺さあ、町工場だけど経営者なんだよな。できたら業務委託のほうが実入りがいいんだよな。でなければ女房を説得するのは無理だと思うよ」


「判った。明日の午後一番でわしが説得に行く。それでどうだ」


「市長が説得してくれるならいいけど……」


「よし、そんなら今日は解散だ」




「これで表向きの仕事は終わったわけだ」


 到着早々にボイラー点検をし、自家発電機の点検と試運転を済ませて電話工事に立会い、山で採れるだけの柚子を採って納屋にしまい、ようやく一日を終えて夕食を食べたあとで村井がきりだした。


「ここで話していいかな?」


 いつもと違って真面目な顔で村井が切り出した。村井がなんの話をするのか加奈には想像がついている。ただ黙って頷くだけであった。


「実はね、加奈さんから手紙をもらって考えたんだ。みんなにも関係するかもしれない内容だから聴いてほしい。加奈さんは離婚を望んでいる。それをどう支えるか皆で相談してたんだ」


「加奈離婚することにしたの?」


 真っ先に恵子が口を切った。


「簡単に離婚に応じてもらえると思う?」


 アキも加奈の決断に驚いている。相手の対応を心配するだけで加奈の決断を否定はしなかった。


「離婚訴訟をおこしたらあんたも裁判所に行かなきゃいけないんだよ、我慢できる?」


「みんなの疑問はもっともだと思うけど、加奈さんの気持ちはどうかな」


「簡単に離婚が成立するとは思わない。相手と顔を合わせて平気でいられるかも判らない。でも離婚したい」


 加奈は一語一語、ゆっくり区切って話した。いつものように単語を並べた話し方ではなく、短いながらも文章にしていた。


「そうか。たとえば、相手が重い病気なら離婚しなくても相手がすぐに死ぬかもしれない。そうなれば財産を全部相続できるけど、そういうことを考えたことがある?」


「財産なんかどうでもいい。早く自由になりたい」


「そうか。じゃあ別の質問だけど、話し合いで離婚できる可能性はあると思う?」


「話し合いにはならない。絶対に酷いことをされるだけ」


「話し合いがだめなら裁判しか思いつかないんだけど、どんな裁判にでも耐えられる?」


「我慢する」


「いいんだね?」


「我慢する」


 この時ばかりは村井の目をじっと見据えてきっぱり言った。


「判った。決心が固いのならいいだろう。どうすれば離婚できるかを考えてみた。その方法で大丈夫か調べたんだけど、まず間違いなく離婚できるだろう。ただね、相手にどんなことを望む?」


「何も求めない」


「訊き方が悪かったな、相手に罰を与えてもかまわないかな?」


「どうなってもいい。死んだっていい」


「まさか、殺すわけにはいかないよ。でも社会的にということになれば殺すより酷いよ。いっそ仏さんにしてやるのが慈悲かもしれない」


「それでもいい、蝮にでも咬まれて死ねばいい。苦しんで死ねばいい」


 他人がどう思おうと、加奈はそう思った。相手が死ねば完全に呪縛から解き放たれると信じ、死んでほしいとさえ願っていたのである。


「そうか、ずいぶん罪なことをしてきたんだな……。ところでね、相手の女性に対してはどう思っているかな」


「相手が被害者なら同情する。楽しんでいたのなら許さない」


「加奈さんはどっちだと思う? 被害者なのか、それとも楽しんでいたのか」


「楽しんだのは最初だけ。きっと被害者だと思う」


「被害者だとしたら許してあげられるかな?」


「許してあげる」


「そうか。もう一つ、裁判が決着するまでかなりの期間がかかるのはどうかな、辛抱できる? 心配しなくても絶対手出しさせないことは約束する」


「住むところがない。生活できない」


「それは確保するよ。加奈さん一人くらいあずかってくれる場所があるから責任もって交渉する。由紀子さんも何日か生活したよな、救援課。用心棒なんか三百人もいるし、犬だって二十頭いる。二段ベッドだから寝心地は悪いかもしれないけど安全な場所だよ」


「あの子のいる所?」


 村井の話しぶりで加奈をどこにかくまうつもりまのかおぼろげにわかってきた。


「あの子というと?」


「亜矢という子」


「そうだよ」


 あの子がいるところなら心強い。そして互いを認め合う雰囲気なら安心である。


「それなら大丈夫」


「ただし、働いてもらうよ。タダメシは許されないから」


「いったい加奈に何をさせようとしてるんですか、危険はないんでしょうね」


 アキが不安げに村井に尋ねた。


「前置きが長くなってごめんね。だけど加奈さんの意志を確かめておかないと先に進めないんだよ。じゃあ説明するよ、加奈さんが関わる裁判は三つ」


「三つ? 離婚訴訟だけじゃないの?」


「離婚を確実にするために刑事裁判に関わってもらう。そこで有罪にしてから民事訴訟をおこす」


「刑事裁判というと……」


「事件にするのさ、そこで裁いてもらう。そこで有罪になれば民事でもこっちの主張が認められるよ」


「そんなことできるの?」


「みんな同じようなめにあってるんだろうけど、暴行・傷害・脅迫・強要ということだよね」


「うん」


「この罪で裁判といってもなかなか証明が難しいんだよね。実際には不可能と思った方がいい。だけど、女性にとっての切り札がある」


「切り札?」


「何だと思う?」


「さあ……」


「強姦」


 一切の笑みを消して村井が呟いた。


「そんなの認めてくれるの?」


「嫌がってるのを無理矢理押し倒したらいくら夫婦でも強姦罪が適用されるんだ。都合がいいことに強姦は親告罪でね、暴行のように第三者の証言を必要としない。つまり、入り口にしやすいわけさ。そして交際相手にも事情聴取がされて、暴行や傷害を証言すれば常習性を立証できるし、被害届けを出してくれるかもしれない。出し易くするきっかけにもなると思うんだ」


「そんなことするだろうか」


「だからさ、民事裁判での取引をもちかけるのさ。離婚申し立ての原因となった不貞行為に対する慰謝料請求を、相手の女性には請求しないということで説得できないかなと考えるんだけどね」


「慰謝料って、村井さんは何をしようとしてるの?」


「まずは、刑事裁判で二人が被害届けを出すことで刑の重さが段違いに重くなることが一つ。次に、離婚を認めさせること。そして、本人の財産をなくすること。刑を終えた後のことを想像できるかな。無一文で就職もできず、居場所も警察に把握されて。……悲惨な人生だな」


「でもそれは村井さんの想像じゃないの?」


「無断で悪かったけど、警察に手紙を見せて相談したんだ。そうしたら内偵してくれてね、被害届けが出れば事件にできる確信をもったそうだよ。まんざら絵空事ではないんだよ」


「警察って簡単に内偵してくれるの?」


「うーん、仲良しだから特別かな」


「どうする? 加奈が決めるんだよ」


 アキはそう言って加奈を見つめた。


「うん、信じる。あの子と同じように村井さんを信じる」


 信じてみよう。今回自分たちに関ってくれた人を信じてみよう。こんな遠くにまで何度も着てくれて、自分達が安心して生きられるよう力になってくれる人達を信じようと加奈は思った。


「そうか。じゃあどうする、俺は明日帰るけど後日来るか? いっしょに来るか?」


「すぐに着替えの用意する」


 加奈はそう言って席を立った。


「うまくいけばいいけどね」


 心配性の恵子にできることといえば、静かに見守るだけである。


「うまくいけばみんなも勇気が湧くと思うよ。同じように早く自由になれるといいな」


「待って、裁判費用はどうするの?」


 思い出したようにアキが声をあげた。裁判となれば弁護士をたのむことになるだろう。その費用は巨額になるとアキは聞きかじっていたのである。


「費用? 刑事事件はお金なんかいらないしさ、民事は慰謝料の請求額しだいだけど、心配しなくても目玉が飛び出ることはないよ。立て替えるから大丈夫、後で清算してくれればいい」


 それに対し、村井は平然としていた。


「弁護士ってすごくお金かかるんでしょう?」


「そのために刑事裁判を先に済ませるのさ。有罪が確定したら言い逃れできないじゃないの。それに、無理して弁護を依頼する必要なんかないよ」


「弁護士いらないの?」


「刑事事件の被告人じゃないから絶対必要というものではないよ」


「なんだ、そうなの。それなら尻込みしなくていいのかな」


「ただし、民事で確実に勝てるようにしておかなきゃいけないよ。闇雲に突っ込んでもやぶ蛇だから」


「私達が相談してものってくれる?」


「のるよ、弱い者に酷いことをするような奴は許せないから。

 いいことを教えてやるよ。この件、あんた達に関わっているのは十人。その十人で相談しながらやっているんだけどね、若手議員二人と福祉課の二人。救援課の二人、鰻屋と俺。そこまでは顔を知ってるよな。残りの二人は誰だと思う? 古狸の議員と市長がメンバーなんだ。だから国民宿舎だって使えるようになったんだよ」


「市長なんかが私達のために働いてくれてるんですか?」


 これまで役所が支援してくれたことなど一度もなかった。その役所が、市長や議員までもが味方してくれているのだと村井は言うが、恵子には信じがたいことである。


「だから心配しないでいいんだよ。自分が立ち直ることだけ考えればいいんだからね」




「おはようございます」


 ニュースを見ながら朝食を食べていた佐伯は、早朝の来訪者を知ると不機嫌な表情を隠さず玄関口に出た。


「おはようございます。佐伯達也さんですね?」


「どなたです?」


「警察なんですが、朝早くにすみませんね」


「警察? 警察が何の用ですか、こんな朝から」


「実は、婦女暴行の被害届けが出ていまして、詳しいお話をお聞きしたいのですが」


「婦女暴行って何のことです? 知りませんよそんなこと」


「そうですか。じゃあこれを確認してもらえますか」


 カバンから取り出した薄っぺらい印刷物を佐伯に見せた。


「なんです?」


「初めてでしょうね。捜索差し押さえ許可状というものでね、裁判所がこの家を調べて証拠品を押収してもいいと許可したんです」


「意味がわかりませんが」


「まあ言い分は後でゆっくり聞きますから部屋に戻ってもらえますかね。今から家の中を調べさせてもらいますから」


「ちょっと待ってくださいよ、いったい何のことですか。これから仕事なんですよ、冗談じゃない」


「こっちも冗談でこんなことはしませんよ。まあ落ち着いて座ってください」


「会社に遅刻するじゃないですか。やめてくださいよ」


「今日は休んでもらいます。会社には連絡しておきます」


「やめてくださいよ、警察なんかが連絡したら会社に行けなくなってしまうじゃないですか、冗談じゃない。いったいどういうことですか」


「心当たりがない? 佐伯加奈という人から被害届けが出てるんだけど」


「加奈? 女房ですよ」


「そうです、奥さんですね。その奥さんから被害届けが出てるんです。ところで奥さんの所在はご存知ですか?」


「いえ、三月頃に家出したままです」


「家出したのですか。では捜索願いはどうしました?」


「何もしていません」


「半年以上家出が続いてるのに心配じゃなかったのですか?」


「大人なんだから……、いずれ戻ると思いましたから」


「放っておいたということですね。とにかく思い出してくださいよ、心当たりはないですか?」


「あるわけないでしょう、知りませんよ」


「そうですか。……実はね、あんたに逮捕状も出てるんだよ」


「逮捕? どうして逮捕されなきゃいけないのですか?」


「じゃあ先に読み上げようか? 今執行して腰縄で表に出てもいいの? 気の毒だから車に乗ってから執行しようと思ったんだけど、余計な世話だったかな。どうする?」


「いったいどんなことなのか教えてくださいよ」


「そうか……。あんたは佐伯加奈という女性に暴力をふるい、嫌がっているのに性行為を強要したということで逮捕状が出てるんだけど覚えがない?」


「あれは夫婦生活の一部ですよ、他人にとやかく言われる筋合いはないはずです」


「そういう事実があったことを認めたね?」


「それが僕達の夫婦生活ですよ。何の権利があって他人の生活に口を挟むのですか」


「お互いが合意ならね。あんたはそのつもりでもそのことで被害届けが出ててね、しかもその事実を今認めたね。これね、立派に強姦罪が成立するんだよ」


「強姦?」


 ただとまどっていた佐伯の声が急に裏返った。


「だから簡単には帰れないということ。家宅捜索がすんだら着替えを用意したほうがいいよ」


「強姦ですか……」


「なんだ、今頃になって足が震えてきたのか。やったことのわりに気が小さいんだな」


「これからどうなるのです?」


「警察で取り調べて、調書が揃ったら送検。検察での取調べを経て起訴。それから公判」


「いつ頃帰られるのですか?」


「それは裁判官が決める。どっちにしても簡単には帰れないよ。それで、どうする、逮捕状の執行。今がいいか、それとも後にするか、それくらい選ばせてやるよ」



 同じ頃、交際相手宅にも捜査員が出向いていた。


「あなた佐伯さんと交際されていますよね」


「交際ではありません」


「交際ではないとしたらどういう関係ですか?」


「どうって、……脅されてしかたなく……」


「脅されてですか。警察に相談してくれればよかったのに。どんな内容なのか詳しく教えていただきたいので警察まで来てもらえませんか」


「そんな、私が話したのが知れたら何をされるか判らないから嫌です」


「心配しなくても佐伯さんには何もされません」


「どういうことですか?」


「心配いりませんよ、佐伯さんはもう何もできません」


「だからどういうことですか?」


「何もできないということです。ただ、少し時間をとるから今日は仕事を休んでいただくことになります。もう少し後で会社に連絡すればいいでしょう」


「本当に大丈夫なんですか?」


「心配いりませんよ」



 その翌日、警察から村井に連絡がはいり、お礼方々別の案件に協力してもらうために警察に出向くと、トイレから出てきた署長と出くわした。お礼を兼ねた相談で課長と喫茶店に行くと言うと、


「まだ他にもあるのですか? 馬鹿な男がいっぱいだな。それならうちの署で全部引き受けましょうか、そのほうが慣れというか、効率があがりますよ」


「でも迷惑では……」


「迷惑なことがあるもんか。そうしよう」


 勝手に決めて自分もついてくる。


「別の案件というのはどういうことですか?」


 署長も課長も興味津々である。


「まだ五人いるんです、似たようなのが」


「五人? どういうことですか」


「実は、DV被害者を立ち直らせるための施設を春に開設しまして、現在六人がそこで生活しています。そのうちの一人が今回の佐伯加奈という人です。今回佐伯の件がうまくいったということで他の者も勇気を出して行動をおこそうとするかもしれません。だから手助けをお願いできればと……」


「DVの施設と言ったけど、誰が管理している施設ですか?」


「現時点では非公式ですが、名古屋市の施設です。市長と、市会議員三人、福祉課の職員二人と、救援課。それに鰻屋の主人と私が運営しています」


「市長? 市長も絡んでいるのですか?」


「公的なものですから金づるとして欠かせません」


「でも市長なんかは名目だけなんでしょう?」


「いえ、そんなことは許しませんよ。ちゃんと毎月の会合には出席してもらっています」


「噂にもなってないですよ」


「人目につかないようにしてますから。なんといっても秘密結社ですからね」


「そんな施設がありましたか」


「だから春に開設しましてね、…………」



「そういうことだったんですか。ところで加奈さんはどこにいるのですか?」


「救援課で保護してもらっています。あそこなら用心棒がウジャウジャいるし、寮にもなっていますから安心です。調理の手伝いや繕い物をさせられてますよ」


「そりゃあいいわ、そこなら安全だろう」


「ただし、連絡は私を通してくださいね、所在は秘密になってますから」


「弁護士に訊かれたら?」


「住民登録してある場所しか知らないと答えてください。どうしても困ったら私が仲介しますから連絡してください」


「決着がつくまで救援課で保護するのですか?」


「用事がなくなったら山口に戻そうと思っています。仲間も心配してるでしょうからね。だから公判の日程しだいですね」




「よし、夕食の準備はできた。しばらく遊んできていいよ。気分転換して、うーんと笑ってりゃあ」


 舟橋の豪快な声がまだ加奈の耳に残っている。遊んで来いと言われて運動場に出てみた加奈は夕方の散歩にでかけようと実習生を待っている亜矢を見つけ、誘われるまま久々に名古屋城に向かっている。人ごみに抵抗感はあるが、救援課の制服を着ているし、帽子で顔を半分くらい隠しているので知人に出くわすこともないだろうと勇気をふるってみた。加奈にとってはこんな日常生活でさえ冒険なのである。


「加奈さん歩くの速いね」


 亜矢に言われてそうなのかと気付く。たとえ半年にせよ田舎暮らしで知らぬ間に足腰が鍛えられているのだと気付く。


「ハナやリキマルと遊んでやってる?」


「うん、遊んでる」


「ちゃんと世話をしてやれば絶対裏切らないからね」


 人波を避けながら足早に歩く。なのに息も切らせず相槌もうてる。丈夫な体になったものだと加奈は感心していた。


「赤信号だよ」


 亜矢が歩行者信号を指差すと、どの犬もその場に座って次の命令を待っている。


「よーしできた、えらいえらい」


 頭や首を撫でて褒められて、犬たちが座ったまま盛んに尻尾を振った。


「加奈さんも甚八を褒めてやってよ。こうして教えるんだから」


 慌てて加奈が甚八の頭を撫でると、甚八は加奈に顔を向けて眼を細めている。

 亜矢と甚八が出会った時にはすでに断尾も断耳もされた後で、動くのか動かないのか親指ほどの長さの尾が立っているだけである。



「よーし、行くよ」


 亜矢の号令で小次郎が立ち上がった。


「加奈さんも甚八に号令かけてよ。じゃないと動かないよ」


「行くよ」


 加奈の号令で甚八が立ち上がった。日常繰り返される散歩なのだろう。通行人も驚いたような様子はなく、時には息遣いで間近に迫っているのを察するのだろう、歩道の端に寄ってくれることも珍しくない。


「ごめんなさい、おじゃまします」


 犬をつれた十人ほどの集団は通行人に声をかけながら官庁街を歩いて行く。


「毎日散歩するの?」


 歩きながら亜矢に聞いてみた。


「うん」


「雨が振ったら?」


「カッパ着て」


「雪は?」


「カッパ着て。大雨や台風以外は毎日」


「飽きない?」


「相棒だから当たり前です。ちゃんと世話しないと働いてくれませんよ」


「そう」


「加奈さんが住んでるとこいいな、今ごろはモミジで真っ赤になってきれいだろうな」


「ああいう所が好き?」


「実家が秋田の山ん中なんです。だから、ああいう所だと落ち着くんです」


「秋田?」


「父が林業だから特に。こんな街中だと自然なんてないじゃないですか。山には神様がいるような気がしませんか? 深呼吸したらすーっと神様を吸い込むみたいな」


「神様を吸い込む?」


「おかしかった?」


「いや、心がきれいになるんだろうね」


「加奈さんは山で生活してるからきっときれいですよ」


「もっといろんなことを憶えないと」


「町の生活は役に立たないからね」


 散歩途中の短い会話である。しかし、亜矢のせかせかしない話し方が加奈にはとても心地よかった。おもしろいのではなく、安心できるという感覚であった。



「みんなどうする? 大手門まで行く?」


「今日は早足だから疲れたよ、ここでいいんじゃないですか?」


 実習生が疲れたようである。


「だらしないなー、まだ高校卒業したばかりじゃないの」


「今日は速い、いつもと違う」


「軟弱だな。加奈さんは?」


「これくらい別に……」


「あんた達だらしないよ。もっと歩かなきゃ」


「もういいよ、だいたい勤務時間外ですよ」


「こういうのも仕事のうちだよ、犬に負けないようにしなきゃ」


「もう無理」


「しかたないな、五分休んだら帰ろうか」


「たった五分? 先輩、酷いよ」



「ありがとう」


 わけもなく加奈は呟いていた。


「何が?」


「気分転換」


「気が晴れた?」


「マムシも」


「マムシ?」


「殺し方教えてくれた」


「ああ、あれね」


「捜しに来てくれた」


「素人ばかりだから遭難すると思って」


「由紀子さんを助けてくれた」


「加奈さんが引き上げてくれたんじゃないの。あたし一人で登れるわけないよ」


「由紀子さんを背負ってくれた」


「あたし膝がガクガクだったんだ、正直言うと。股もパンパンになってたからもう限界超えてたみたい。加奈さんと美鈴さんがあたしを支えてくれたんだよ」


「私、亜矢さんの姿見て勇気が湧いてきた。冒険してみようと踏ん切りがついた」


「本当に正直に言うと泣きたいくらい怖かったんだけどね、きっと皆が待ってると思って我慢したんだ。小次郎がいなかったら行けなかったよ。だから褒められることはないよ」


 本心なのか虚栄心なのか、それとも自分に負担を感じさせないための配慮か、亜矢はむき出しの自分を隠そうとしない。加奈には到底できないことである。


「わからなければそれでいい」


「あたしね、年末まで就職決まらなかったんです。このまま駄目かなって半分諦めてたらここに就職できて、毎日がすごく楽しいの。最初の試験で採用されてたらこんなに楽しかっただろうかって考えることがあってね、判らないもんだね」


「そうだね。嫌なことがあった分だけ後が楽しいんだろうね。私もそうなればいいけど」


「加奈さんも自信をつけてもらえばいいのに。あたしね、みんなみたいに早口で話せないから口数が少なかったんだ。そしたら亜矢ののんびりした話し方がいいってお姉ちゃんが褒めてくれて、それから自信がついてきたんだよ。加奈さんも話すのがゆっくりだし、口数が少ないから話しててほっとする」


「そういえばいないね」


「お姉ちゃん? 採用試験で出張。あと一週間帰らない」


「そう、会えないかもしれない」


「また会えますよ。そろそろ帰ろうか、ごはんが待ってるよ」


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