冒険
四・冒険
『吉村だ、今着いたぞ。すぐに照明とショベルを行かせるからな。どんな具合だ?』
『宮内です。行方不明九人のうち六人救出。残り三人が同じ家に埋まってるそうです』
『ずいぶん速いな。腹へってないか? 休憩とってるか?』
『お握りと味噌汁をさっき』
『課長か、村井だ』
『手伝ってくれてるそうだな、青木さんから電話があった』
『世間話は終わってからだ。他の家をまわって落ち着かせてきたんだがな、ついでに由紀子さん達の様子をと思って行ってみたんだけど誰も出てこない』
『全員の無事を確認したんじゃないのか?』
『したんだ。全員無事だったんだけど誰も出てこない』
『無人?』
『行けないから判らないよ』
『どういうことだ?』
『坂道の先はどうも橋だったようだ。深い谷がバックリ口開いて行けないんだ』
『深いのか?』
『高さを考えてみろよ、二階建てがスッポリじゃないか』
『村井さん、亜矢を連れてもう一度行ってみてくれない?』
『亜矢をか?』
『念のために装備を背負わせてるから、何とかするかもしれない』
『危なくないか?』
『亜矢が判断するわよ。亜矢、どこにいるの?』
『みんなで捜索してるよ』
『今の話聞いたよね、やってくれない?』
『いいけど、小次郎連れて行っていい?』
『いいよ、村井さんと合流して。村井さん、灯りで丸を描いててよ、亜矢の目印』
「美鈴さーん、由紀子さーん。いないのー?」
いくら呼びかけてもしんと静まりかえったままである。
「返事ないだろ?」
「うん、どこかに逃げたんだろうか。寒くないかな」
「なんともわからん。それでだ、ここを越えることができたらありがたいんだけどな」
「こんなに暗かったら一旦降りて昇るのは無理だね。飛び越せたらいいんだけど遠すぎるし、あたし天使みたいに羽ないし……」
「悪魔の翼ならあるんじゃないか? 馬鹿、痛いって。本気で怒るなよ、ほんの冗談じゃないか。……やっぱり無理か?」
「考えるから待って、お父さんが仕事をするのを思い出すから」
「ちょっと怖いけどやってみようか」
闇を透かすようにあちこち見回していた亜矢が、何か方法を思いついたようだ。
「何か思いついたのか?」
「空中ブランコみたいなことだけど。この枝にロープをかけて、あの木まで届くかな」
谷をこえた対岸に木が立っているのがぼんやりと見える。
「かなり距離があるぞ」
「それならできるかもしれない。だけど、村井さん小次郎を吊ることができる?」
「吊るくらいはできるけど、滑らないからな。金具がないから」
「そうか……、近藤班長来てるかな」
「どうかな、来てたらできるのか?」
「絶対に支えてくれる」
『近藤班長来てますか? 亜矢です』
『おう、来てるぞ』
『ちょっと手伝ってもらえませんか』
『どこにいるんだ』
『ここです、輪が見えない?』
『そんなところで何してんだ?』
『とにかく急いでお願いします』
「おまえターザンになるつもりか。真っ暗だから飛び降りるのは危ないぞ」
亜矢の考えを聞いた近藤は、亜矢が猪になりかけているように感じた。とはいえ、谷を越えるには他に方法がなさそうなのも確かである。
「だから、むこうの木にしがみつくから。アタシだけでは捜せないから小次郎が必要なんです」
「装備は?」
「ちゃんと持ってます」
「絶対無理しないと約束するか? 約束できないなら諦めろ」
「約束します。やってみて駄目なら朝まで待ちます」
「ロープ垂らしてきてやるから準備しとけ」
谷の脇に立つ大きめの木から垂らされたロープに結び目をつくり、地下足袋の指で挟んだ亜矢を近藤が押して勢いをつけた。子供が遊ぶような仕草で亜矢は振り子の振れ幅をどんどん大きく揺すっていたが、何度目かにふっと闇の中に姿を消した。
「大丈夫か? おい返事せんか」
『亜矢、大丈夫か?』
何度声をかけても返事がないので、もしや聞こえていないのかと近藤の悲痛な声が無線から流れると、一瞬にして無線がシーンと水を打ったようになった。
『痛―い、痛い、痛い』
亜矢の悲鳴が無線に流れた。
『どうした、大丈夫か?』
『うー』
『怪我してないか?』
『うー、痛いー』
『どうした、何があった』
『うー、子供を産めなくなったかも』
『どういうことだ。首は動くか? 手足はどうだ』
『なんとか全部動きますぅ。あー痛いー』
『いったいどうしたんだ、ちゃんと答えんか』
『足で木の幹を捕まえようとしたんだけど、勢いが強すぎてドスンと』
『血は出てないか? 痛みはどうだ、薄れる痛みか?』
『少しずつよくなってきました』
『とにかく、地面に降りて楽な姿勢になれ』
『我慢できますー』
『亜矢、大丈夫なの? 無理しちゃだめだよ。どうしてそんなことになったの』
亜矢の悲鳴は皆の耳にとびこんでいた。
『だから、幹を挟もうと股を開いたままぶつかったから』
『なんだ、股ぐらをやっつけたのか、だらしない奴だな。ちびったか?』
『少し漏れた』
誰かがいつもの調子で軽口をたたき、激痛に吾を忘れたのか亜矢も正直に答えてしまった。
『誰よ! まだ成人したばかりの女の子だよ。ちびったとは何よ! 喧嘩なら買ってやるからアタシの前で言ってみなさいよ。誰か亜矢と同じことをできるの? この中で万能選手は亜矢だけじゃないの。恥ずかしくないの!』
その瞬間、宮内の罵声が鳴り響いた。言った本人は当然鳴りを潜めている。
『おい、とりあえずロープを結んでおけ。どうだ、動けるか?』
『大丈夫、なんとか動ける』
『どうする、朝まで休むか?』
『小次郎を渡してください、やっぱり探しに行きます』
『本当に大丈夫か? やせ我慢するなよ』
『このくらい大丈夫です。それに夜の山は危ないんです。あたしでなきゃ意味ないです』
痛みを堪えているのか、搾り出すような声が伝わってくる。
『判った。用意するからな、ロープをしっかり結ぶんだぞ』
亜矢が括りつけたロープを近藤が引き絞り始め、村井も、近藤が襷に巻いていたロープをひったくって小次郎を宙吊りにする準備にかかった。
「あの馬鹿! やせ我慢しやがって……」
ギシギシとロープを引く近藤の目からぽつりと涙がこぼれた。
『小次郎が着きました。これから探しに行きます』
村井と近藤のいる位置からでは対岸の崖が邪魔をして見通すことができず、ましてや真っ暗である。一瞬見えたヘッドランプが消えると、もう何も見えなくなってしまった。
暫くしてずっと横の方で光が小さく見え隠れしたが、それも僅かなことで再び真っ暗になった。
「違う道ということはないよね、冒険できる人達じゃないからきっとこっちだよね。それにしてもいないな、聞こえないのかな」
山道を奥にたどりながら時折吠えさせ、共に行動しているだろうハナとリキマルの注意をひこうとしているのだが、静まりかえった闇が続いているだけである。足を滑らせたということも考えられるのでどうしても歩みが遅くなる。動かないでいてほしい、それだけを亜矢は念じている。
また三つくらい曲がってきたところで小次郎に吠えさせた。
ザワザワという葉ずれに混じって、小さく犬の吠える声を聞いたような気がした。小次郎のピンと立った耳が右に左に向きを変えていたが、道の奥に向かってまっすぐに顔を向けた。
「判った? あんた耳がいいからね。よし、探せ」
犬の目には夜の山道がどう見えるのか、亜矢の命令に闇をめがけて小次郎が走り出た。
『亜矢です。犬の声が聞こえました。小次郎がそっちに向かっています』
『体は大丈夫か? 痛くないか?』
『痛いのは治まりました』
言葉とは裏腹に、足を引き摺り、苦しげに顔を歪めている。
『真っ暗だろ? 怖くないか?』
『山には慣れてます』
『油断するなよ』
『一度来たところだから心配ありません』
『強くなったもんだな、弱虫だったのに』
『鍛えてもらいました、十分に』
『下手くそだったからな、へっぴり腰が直らなくて……。それがどうだ、一番弟子になりやがった』
『一番弟子ですか?』
『おう、根気も根性もある。イタズラが過ぎるのがいかんがな』
『腕は二の次ですか?』
『腕なんか二の次でいいんだ。仕事をして、みんなを笑わせて、無事に帰ってくればいいんだ。あとは付録みたいなもんだ。俺の手下にほしかったんだぞ』
『じゃあね、鳶のワッペン付けてもいい?』
『特別に許してやる』
『嘘はだめだよ』
『嘘なんかつくか』
『みつけたら連絡するからもう少しいてくれる?』
『ここでタバコ吸ってるから安心しろ』
『こういう時は班長が一番頼りになるよ、じゃあね』
亜矢は、いつもとかわらぬ言葉のやりとりに励まされている。そうでなければ、こんな真っ暗な中に放り出されて、すぐにでも逃げ帰りたいのである。山育ちであるが故に、怖さが骨にしみついているのだから。
小次郎が走り去った方向へ右に左に光をあててゆっくり登っているが、いっこうに誰とも出会わない。どこにいるのだろう、まだ先なんだろうか。思い悩んで犬笛を口にしていた。いくら練習してもなかなか成功しない犬笛だが、吠えろの合図だけは半分くらいの確立で通じるようになっていた。
シュッシュッシュッ。 時間をおいて再び吹いてみる。
何度か繰り返していると、遥か前方から小次郎の咆哮が聞こえてきた。
よし、うまくいった。次は来いの合図だ。
シューッシューッ。 時間をおいて吹き続ける。
犬がいる場所までには誰もいないのだろうと判断し、横に注意を払うことをせずにひたすら登ってゆくと、前から乱れた足音が聞こえ、突然ヘッドランプの明かりの中に三頭の犬が姿を現した。きっと犬笛が通じたんだ。笛の合図で戻ってきた小次郎が愛おしく思えた。
ハナとリキマルがいるということは、まず間違いなく由紀子達がいると思っていいだろう。
「ちゃんと守ってくれたんだね。ありがとうね」
ハナとリキマルの首を撫でながら亜矢は嬉しくてたまらない。
「さあ、みんなのいるところに案内してよ」
加奈は皆といっしょに山を登っていた。それも手探りで。
地震があったのは昼過ぎであった。縦だか横だか、とにかくグラグラ揺れたことはゆれた。しかし、あの程度の地震なら騒ぐこともない。ところが、しばらくしてズズズという音とともにまたしても地面が揺れた。どこかさっきの地震とは違うような気配を皆が感じ、表へ出てみると下の集落が泥に埋まっている。さあ大変だということで何か手伝いをと思ったのだが家の前に谷ができていて自分達が孤立したことがわかった。
さあどうしよう、大騒ぎしたのは恵子だった。あれこれと不安にさせることばかり言い立てて、一人で大騒ぎしていた。
「おにぎり、恵子さん、おにぎり作れ!」
初めて美鈴が怒鳴った。
「靴はいて、カッパ着て!」
美鈴の怒鳴り声で正気に戻ったアキが叫んでいた。
二階の窓が割れる音に加奈が外へ出てみると、時間を置いて小石が谷のむこうから投げ込まれていた。
名古屋へ帰ったはずの村井がそこに立っていた。皆の無事を知った村井は、安全な場所をさがせ、なんなら山へ逃げろ。必ず助けると言って走り去った。
安全な場所と言われても検討がつかないし、裏山から小石がパラパラ落ちてきている。
山にわけいったのはいいが急に暗くなった。梢越しに見える空は明るいのに、足元はすでに黄昏の暗さである。ましてや膝の悪い初枝を庇いながらだから時間ばかりがすぎていった。隣の顔すら朧になる頃、初枝の膝が悲鳴をあげていた。
足元はゴツゴツして体を休める広さもなく、もう少し広い場所をと登っていた。すでに手探りであった。
そして、「あっ」という声を残して由紀子が足を踏み外した。
いくら呼んでも由紀子からの返事がなかった。
加奈はその場に留まることを主張し、誰も反対する者はいなかった。
そして加奈は、おにぎりを食べた。
闇の中から小さな強い光が現れ、右に左に揺れながら近づいてくる。
そのうち犬の鼻息が聞こえだし、光がどんどん近づいてきた。
「みんなここにいたんですか。遠くまで来たんだね」
暗闇の中で不安がっているだろう、努めて明るくふるまって安心させてやろう。亜矢の胸には初めての出動で教えられたことが蘇っていた。
「誰?」
恵子が誰何した。
「亜矢です。助けにきたよ、みんな大丈夫?」
「亜矢ちゃん? どうしてあんたが」
「救援要請でやってきたの。怪我してない?」
「由紀子さんが落ちた! 真っ暗だし声も聞こえないし。ねえどうしたらいい?」
美鈴が早口で悲痛な訴えをしている。突然の経験にうろたえてしまっている。
「あたしが助けるから心配ないよ。先に焚き火をするからね、灯りがないと不安だよね。燃えるものさがすから動かないでね」
草の下に隠れている枯れ枝を集めてきて火を点すと不安そうな顔が並んでいた。皆が手をつないでいるのは互いの存在を確かめたいからだろうか。ただでさえ不安そうな顔に、炎が不気味な影を揺らしている。
「どこで落ちたの?」
亜矢の場合、ことさら意識しなくても、いつもの口調で十分安心感を与えられるかもしれない。宮内がスローな話し方を褒めてくれたのは、こういう場面をみこしてだろうか。とすれば、災害救助は亜矢の天職なのかもしれない。
「みんなでかたまって歩いてきたんだけど、何かがいるような気配がして急ぎ足になったの。母ちゃんの膝が痛み出して、由紀子さんが庇って支えていたんだけど、急にズルって落ちちゃって。何も見えないし、いくら呼んでも返事しないし」
アキが掻い摘んだ説明をした。
「うわーっ、怖かったんだね。みんな怪我してない? 寒くない? 水は?」
「そんなことより、由紀子さん大怪我してたらどうしよう」
変事を教えているにもかかわらず、いっこうに救助を始めようとしないことに、美鈴は半ばパニック状態に陥っている。
「捜して助けるから心配しないでよ。先にみんなが大丈夫か確認させてよ」
「私達はなんともない」
自分達をのことより、仲間を助けてほしい。そう言えずに加奈が呟いた。
「判った。じゃあ捜しに行く。いなくなった場所を覚えてる?」
「どうしよう、由紀子さん死んじゃったらどうしよう」
美鈴は、ほかの事を考えられる状態ではない。ただ慌てている。今の状況を受け入れたくないのだろう。
「生きてるから大丈夫だよ」
「女のあんたじゃ助けられないよ」
「何もしなければよけいに助からないよ。亜矢がいるから心配ないって。あーっ、あたしのことを疑ってるでしょう。これでも鳶の班長にワッペン許されたんだからね。だから落ち着いて教えてよ、どこなの?」
鳶の班長がなにかも、ワッペンのありがたみも美鈴には判らない。ただ、妙に落ち着いた亜矢の話しぶりでいくらか気持ちが静まってきた。
「そこの曲がり角」
「ストンと落ちた? ズルっと落ちた?」
「ズルっと」
「だったら見込みあるよ。今助けるからちょっと待ってね」
『班長、きこえる?』
『なんとか聞こえるぞ。遠いのか? 山の陰か?』
『道が曲がってたから山陰だと思います。さっきの場所から一キロくらい奥です』
『どうだ、見つけたか』
『見つけました。一人が足を滑らせて転落したそうなのでこれから捜しに行きます』
『どうやって捜すんだ、真っ暗だろうが』
『なんとかします。お姉ちゃんに伝えておいてください』
『待てよ、勝手なことをするな』
『早くしないと危ないですよ。パニックになってどこかへ行っちゃうかもしれない。もっと転落するかもしれないですよ』
『お前一人じゃ無理だ、絶対にだめだぞ!』
放っておけば無茶しかねないのを察した近藤が慌てて叫んだ。
『なにこれ、雑音ばかりで聞こえなくなっちゃった』
きっと許してくれない。しかし、早く捜さないと更に悪いことがおきる。近藤の制止を無視するために、亜矢は無線機の不調を装うことにした。
『馬鹿言うな! 絶対動くなよ。こらっ、返事せんか!』
亜矢の意図を悟ったのだろう、近藤の制止が耳に響く。しかし、亜矢の腹は決まっていた。
「合図したらロープを引き上げてください。手伝ってもらえるよね?」
「やるよ、引っ張りあげればいいんだね」
「降りるのは自分でやります。由紀子さんをみつけたら合図するからお願いします」
ナップサックから取り出したロープを二重にして真ん中あたりを木の幹にしっかり結びつけ、片方のロープをクルクル束ねてできた輪の中にロープの端を潜らせ、三十センチ間隔で結び目をつくり、足を滑らせた跡が残るあたりに放りなげた。そして、安全帯の金具にもう片方のロープを巻きつけた。
「じゃあ行ってくるねー」
おどけた調子で手を振り、頭を下にしてそろそろと伝いおりてゆく。
『亜矢、聞こえてるんでしょ? 近藤さんから聞いたよ。絶対に無茶はだめだよ。いい? 判った? 返事しなさい! こらっ、亜矢! 返事しなさい!』
雑音混じりに宮内の心配そうな声が耳元で聞こえる。たしかに怖い。膝がわらうくらいに怖いのだが、山を知らない者が恐ろしさに負けてうろつくことの怖さにくらべれば我慢できるし、実際に不思議なほど落ち着いていることが信じられない。闇に吸い込まれる恐怖心からか、打ち付けた痛みも感じなくなっていた。
首を振って滑った跡を見失わないように目を凝らし、由紀子に声をかけ続ける。もちろん訓練でもしたことのない体勢での降下なのだが、恐怖心を忘れている。
「由紀子さーん、光が見えますかー。動かないでねー。絶対に助けるからねー」
ジワリジワリと下って行き、もう十メートルは降りたかと感じたあたりで草が押し倒されているのをみつけた。
「由紀子さーん、亜矢が助けにきたよー。光が見えたら返事してくださーい」
もう少し、もう少しと降りて行くとわりに広い場所になっている。
ガサッ、右の足元で音がした。ゆっくり首を振り向けてゆくと、うつ伏せに倒れている由紀子が光に捉えられた。
「由紀子さん、大丈夫?」
脛や腕などには擦り傷がたくさんできていて、滲んだ血がかたまっている。
「由紀子さん、助けにきたよ。痛かったね、びっくりしたね」
呼びかけながら腕や足をさぐって骨折をしていないか調べてみる。
「落ち方がうまいね、骨折してないよ。腰はどう? 痛い?」
「誰!」
落ちた衝撃で気絶していたのだろう、突然に光を当てられて由紀子が身を硬くしている。
「亜矢だよ、由紀子さんが滑り落ちたって訊いたから助けにきた。腕や足は骨折していないようだね、腰は痛くない?」
「亜矢さん?」
「うん、救援課の亜矢。ほら、由紀子さんがここに来たときにいっしょだった、覚えてない?」
「ああ、あの子?」
「うん。生傷がいっぱいだけど痛くない?」
「痛くはないわ」
「立てる?」
ゆっくり立ち上がろうとするが、片方の足首に力がはいらない。
「片方の足首がへんだわ、力がはいらない」
「そうか。いいよ、背負ってあげる」
「背負う? 上へ戻る道があるの?」
「ここを登るんだよ」
「登る? 馬鹿言わないでよ」
「やらなきゃ戻れないよ。これでも力持ちなんだから信用してよ」
「無理よ」
「大丈夫、絶対に助ける」
「無理だって」
「鰻食べた日のこと思い出してよ。ねっ、信用してよ」
そういえばあの日、高い屋上から軽業を見せつけていた娘がいた。だが、それが誰なのかは由紀子には判らない。しかし、あえてそれをもちだすのはその内の誰かなのだろう。とはいえ、こんな娘が自分を背負って斜面を登ることができるのだろうか。由紀子の不安は当然のことといえる。
「ロープだって切れるわよ」
「残念でした、あたしたち二人くらい余裕です。それも二重だよ」
「怖いし」
「周りは真っ暗なんだよ、何か見える?」
「……」
「ね、覚悟決めて登ろうよ。上からだって引き上げてくれるんだから」
「どうすればいいの?」
「命綱をかけて、あたしが抱き上げる格好で登るからね。体の向きが怖いかもしれないけど少し我慢してもらえる?」
「落ちたりしない?」
「落下防止の金具がついてるから絶対に落ちない」
「足首に力が入らなくても?」
「腕はなんともないんでしょ? 片足は動くんでしょ?」
「やっぱりだめよ」
「山で夜明かしするのは辛いんだよ、我慢できる? 他の人たちも助けなきゃいけないんだから由紀子さん一人になるよ。耐えられる?」
「本当に怖くない?」
「大丈夫だから、怖かったら目を閉じてたらいいから」
「判った、やってみる」
「そうだよ、生きる努力をしなくちゃ」
ロープの残りで由紀子のための命綱を結び、自分の胴体にグルグル巻きつけて、ロープの終端を大きな玉結びにして転落防止にし、手にしたロープを大きく振った。
だらりと垂れていたロープが大きく揺れ、急に引っ張られた。
美鈴も恵子もアキも加奈も重いロープを懸命に手繰った。ロープを手繰るのにあわせて玉結びになったロープも強く引かれている。
「もう少しだよー、あと三メートルで戻れるよー。もう一息がんばってー」
崖下から亜矢の元気な声が響いてくる。いくら手繰っても三メートルが減らないのをおかしいとは誰も感じていない。実際は何メートルであってもかまわない、二人が戻るまで力を緩められないと皆が覚悟していた。
「班長、亜矢です。由紀子さんを助けました。片方の足首を捻挫したみたいです。どうしたらいいですか? 山を降りた方がいいですか? 朝までここにいますか?」
『馬鹿野郎! 勝手なことをするなと言っただろうが! 怪我してないか?』
救出の報告に怒鳴り声が返ってきた。
「だから、由紀子さんは片足捻挫です」
『この馬鹿っ! お前が怪我してないかと聞いとるんだ!』
「あたしは無傷です」
『亜矢! 心配させるんじゃないわよ。無線に応答しないってどういうことよ』
「無線? 雑音しか聞こえなかったけど」
『嘘をつくな! 近藤さんの隣にいたんだからね、聞こえないわけないよ。あんた当分外出禁止にするからね』
「どうして?」
『あれから誰も無線を使っていないんだよ。みんなを心配させて、勝手なことするな!』
「だけど、由紀子さんきっと怖くなってウロウロしたと思うよ。そうしたら完全に迷子になっちゃう。また転落するかもしれないよ、だからすぐに助けなきゃって」
なんとか弁解しようとするが、自分のことをこれほど心配してくれていたことに気づき、徐々に声が小さくなり、最後は呟くようになっていた。
『気持ちは判るけど、亜矢が怪我したらどうするの? 親や先生に何て言って謝ればいいの。名古屋に帰ったらすぐに次の出番かもしれないのに、亜矢の穴埋めを誰ができるの。しっかり反省しなさい!』
『おい、若女将心配して泣いてたぞ。ちゃんと謝れ、いいな』
「ごめんなさい」
消え入りそうな声になっている。
『無理して降りてくるな、夜明けまでそこにいろ。皆元気なのか? 寒くないか?』
「それは何とかする。埋まった人はみつかったのですか?」
『みつかったそうだ。これから土方の手伝いに行くからな、ゆっくり休め』
ようやく安心したのか、労う口調になっていた。
薄く白い霧があたりを包んでいる。朝になったのだろうか、霧を透かして木立がぼんやりとした輪郭をうかべている。輪になって地面に寝転ぶいつもの仲間がいて、真ん中にはほとんど熾きになってしまった焚き火が小さな炎をゆらし、かすかな煙が立ち昇っていた。
目覚めた加奈が最初に見た光景である。
所々に隙間ができていて、亜矢と犬の姿が消えていた。
「こらっハナ、お尻見せなさいよ。ウンコつけてたら嫌われるよ。ほれ、拭いてあげるから見せなさい」
遠くで声が聞こえ、しばらくして草をかきわけて犬と亜矢が現れた。
「目がさめましたか? 水がみつからなくて、一口で我慢してくださいね。我慢できなかったらこれをカジってください。すごく水気がありますから」
亜矢は泥だらけの手に太いウドを何本か握っていた。
「それ掘ってきてくれたの?」
「水筒の代わりです」
心配させまいとしているのか、それとも天性なのか、無邪気な顔で笑っている。
「あんた強いね」
「そんな、強くなんかないですよ」
「真っ暗なのに、一人で怖くないの?」
「山には慣れてるから。小次郎がついててくれるし、無線があるし」
「由紀子さん抱えてよく登れたね」
「みんなが引っ張ってくれたからですよ」
「協力すると思った?」
「信じるしかないですよ。絶対に助けてくれると信じてました」
「……そう、やっぱりあんた強い」
「飴でも舐めませんか、元気出ますよ」
「うん」
「犬がいると心強くないですか?」
「うん、いつも横にいてくれる。そんなことより、あんた寝てないね」
「何言ってるんですか」
「燃えさし、こんなにないはず」
「まいったな……、加奈さんみちるみたい」
「みちる?」
「友達、いつも冷静なんだ。嘘を見破るのがうまいんだよ」
「そう」
どこを歩いたのか泥だらけである。素手でウドを掘ったのか、手首から先にも、爪の間にも泥がこびりついている。それにひきかえ、寒さをしのぐ術もなく、雨露をしのぐ知恵もなく、渇きを癒すことも、ましてや転落した仲間を救うこともできず、真っ暗闇のなかでかたまって震えるしか能がなかった。そんな技術的な知識ではなく、何をすればよいかを考えられない、知らないことにこそ問題があると加奈は思う。
「夜が明けましたよ、家に帰りますよ」
肩をゆすって皆を目覚めさせる。
「寒くないですか? 地面で寝ると体が痛いでしょう? 少し動くと治りますからね」
「朝? 生きてるんだよね」
「亜矢がいるんだから誰も死なせません。明るくなったから帰りますよ。シートは畳んでポケットにしまってください、寒い日に役立ちますから。由紀子さんは調子どうです? 足首が痛みます?」
「動かすと痛くなってきた」
「そうか、じゃあ少し我慢してもらいますよ」
「ゆっくりなら歩けるかもしれない」
「あのね、捻挫は骨折の親戚なの、無理すると治りが悪いよ」
言いながら使い終わったロープの結び目を全部ほどいて輪にして束ね、ロープの端でクルクルと絡げた。
「ちょっとごめんね」
できた輪に由紀子の足を通した。
「美鈴さんにお願いがあるんだけど」
「何なの?」
「焚き火の跡に土を盛ってください」
「土?」
「山火事になったら大事ですから」
「いいよ、山盛りにしたよ」
「それじゃあ出発します。あたしが先頭を歩くから誰か腰ベルトを引っ張ってください。足滑って尻餅つきそうだから」
「私がやる」「こっちは私が」
加奈と美鈴は、亜矢のベルトを左右からしっかり掴んだ。
「アキと私は母ちゃんの面倒をみるから」
「じゃあゆっくり行きますよ。小股でゆっくりですよ」
由紀子の足をくぐらせた輪に腕を通し、
「掴まってくださいね」
一声かけて立ち上がった。さすがにずっしりくるが何本ものロープが幅広の帯になって、肩に喰いこむ辛さはない。
「班長、亜矢です」
『生きとったか』
「生きてますよ。今下り始めました」
『由紀子さんは?』
宮内が割り込んできた。
「足首が痛くなってきたそうです。きっと興奮してたんだね」
『どうやって山を降りるの?』
「あたしが背負ってます」
『またそんなことを、転んだらどうするの』
「腰ベルトを後ろから支えてもらってます」
『あんたが戻って案内しなさい、近藤さんに行ってもらうから』
「だめだよ、男の人だと怖がる」
『そうか……。休むんだよ、無理しないでよ』
「由紀子さん案外軽いよ、係長の半分くらいかな」
『馬鹿! お姉ちゃんでいいよ』
「仕事中だよ、公私混同はよくないよ」
『もういいよ、そんなこと。ゆっくり帰ってくるんだよ』
「班長は?」
『橋の材料が届いたから仕事を始めた』
「橋?」
『つぶれた家の梁をもらって、ショベルで運んできたの。ちゃんと歩いて渡れるようにするからね』
「頼りになる仲間だね」
『みんな褒めてるよ、美味しいものご馳走してくれるって』
「埋まった人は?」
『全員掘り出した。あとは本人の体力しだい。亜矢はそんなこと気にしなくていい。ちゃんと帰ってくるんだよ』
「あのね、話してると息が切れるからまたあとでね」
歩き始めてまだ五分ほど、いくらも歩いていないというのに膝がわらいだしている。
「少し休みましょう。無理しないほうがいいよ」
「あんた大丈夫? 顔が真っ赤じゃないの」
「恥ずかしがりなだけです。みんな飴舐めませんか?」
心配をかけまいと気丈にふるまいながら、体力回復を願って飴を二粒放りこんだ。まだ何度も休まねば帰ることができないだろうな。膝の屈伸を続けながら亜矢は思っていた。
「もうちょい前だ。もうちょい、ちょい、ちょい。よし、そこでいい。降ろせ」
ショベルの先に吊り下げた梁を谷に渡す仕事が始まっている。
その上をスルスルと伝ってロープを外し、そのまま反対側へ渡ってしまう。
「もう一本もってきてくれ。杭にできるものもいっしょにな」
空身になったショベルが倒壊した家をめざして走り去ると、道を空けていたショベルが梁を吊って進み出てくる。
「もっと前だ、あと一メートル。よし、左に振れ、もうちょい、ちょい。よし降ろせ」
二本目の梁が谷を渡った。
「慌てなくていいからな、怖がらないのにしてやるんだぞ」
亜矢のために無線を空けておこうと大声で怒鳴りあっている。
「無茶するやつだ、心配かけて」
「怒るなよ、精一杯やってるんだから褒めてやれよ」
「甘いよ村井さんは。褒めていい気にさせたらおしまいだよ。次はどうなる? うまくいくって言い切れる? 心配した分のケジメはつけさせる」
「だけど山賊の顔見たか? やけに嬉しそうにしてるじゃないか」
「可愛がってるからな。無事ならけっこうだよ、あいつらが戻れば任務終了ということだ。指揮官やってみてどうだった?」
「どうって、ただ連絡係してただけだから」
「仕事は?」
「みんなが勝手にしてくれた」
「それでいいんだ。指揮官なんてそんなもんだ」
「つまりどういうこと?」
「お飾りっていうこと。ハラハラ,、クヨクヨするだけでいい」
「でも心臓に悪いね」
「毛がはえてるんだろう? 柔な心臓じゃないと思うがな」
「ちゃんと指示してたじゃないか。全部聞いてたんだぞ」
「そんなこと……」
「そろそろ渡れるんじゃないかな。亜矢を出迎えてやろうや」
「あーもう、課長も甘いんだから」
「お姉ちゃんが待っててくれた。ここまで帰ったよ、見える?」
『どこ? ここからは判らない』
「課長も班長も待っててくれたんだ。ここだよ、もっと左」
『どこ。あー、あれか』
ゆっくり左に目を転じてゆくと、疎らになった木立の隙間に人の頭らしきものが見え、先頭が亜矢なのか大きな荷物を背負っている様子が窺えた。
「もうちょっと待っててね、もうちょっとだから」
茂みの先に頭だけをのぞかせてゆっくりとした速さで木立を抜け、丈高い草の間を見え隠れしながら向きを変える。一旦木立にうもれ、やがて小川をはさんだ対岸に姿をみせた。
板を渡しただけの橋の前で迷うような素振りをみせ、とても渡ることなどできないと判断したのだろう、膝ほどの深さの流れに踏み込んだ。流されまいと踏ん張るのを加奈が支え、反対側では美鈴が腰ベルトを引っ張っている。そうしてくれると信じきっているように片手に握った棒を口にやり、何度か噛んでペッと吐き出し、大きく口をあけて息をしている。
「待っててやれよ。ここに戻って亜矢の仕事が終わるんだから」
吉村が制止するのを
「そんなことできるわけないでしょ!」
ボロボロ涙を流しながら大福が駆け出して行った。
「あんなこと教えてないぞ」
由紀子を背負う亜矢をじっと見ていた近藤がぼそっと呟いた。
「あんな、人を背負う方法なんか。俺が知らんのだから教えられるわけがない」
「なら誰かに習ったんじゃないか」
「そんな意味じゃないわ。人を抱えて登るなんてことも教えてない」
「お前も知らんことか?」
「俺たちは鳶職だぞ、荷物しか扱わないんだぞ。人と物では扱い方が違うだろうが。あいつ、鳶から救助に変身しやがった」
「亜矢、替わろう、アタシが背負うから休みなさい」
亜矢が小川を渡りきるのと、宮内が河原につくのがほぼ同時だった。しきりと交替をすすめる宮内に亜矢が同意しない。疲れきっているのは一目で判るのに、頑なに歩みを止めようとしない。
「もうそこに見えてるから。あたしが助けるって約束したから」
「水は? 喉渇いてない?」
「みんなに飲ませたからこれしか」
こぶしから僅かにのぞくまでに短くなったウドを握りしめている。
「強情はらないで交替しようよ」
「お姉ちゃんではその土手だって登れないよ。来てくれてありがとう、安心した」
加奈と美鈴に腰を押してもらって土手を登りつめ、熟れたトマトのように顔を真っ赤にし、泥を拭いきれていないウドで水気をとりながら亜矢が歩いてくる。
近藤は大きく足を開き、じっと腕組みをしたままその姿を見つめていた。
「大福は手を出すな! 亜矢、もうちょっとだ、最後までこい!」
大声で励ます近藤は涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
「着いたー。みんな休もう。加奈さん、美鈴さん、ありがとう」
最後の土手で力を使い果たしたのか、仲間の許に帰り着いた安堵からか、膝をガクガクさせながら亜矢が女達を振り返った。
咄嗟に近藤が亜矢の前で背を向けて腰を落として背負う意志を示し、その亜矢の背では由紀子が泣きながらすがりついていた。
亜矢に代わって村井が由紀子を背負い、疲れきった亜矢を近藤が背負った。
「おいこれは、けっこうくるぞ。こんな小さい体でずっと背負ってきたのか……。たいした根性だ」
村井が驚いたように呟いた。
「あの子がいなかったら私どうなってたか。絶対大丈夫だって励ましてくれて、ただそれに甘えただけで」
「そうしたかったんだよ。あいつは満足してるはずだよ」
「あんな勇気があったら、そうしたら私だって」
「馬鹿言うなよ。勇気なんてな、考えて湧くものじゃないよ。なんとか助けたいと思ったから馬鹿力が出たんだよ。そんなことより医者が先だ。消防、救急車たのむ」
「馬鹿野郎が、俺の命令を聞けんのだったら破門にするぞ」
「ああしか考えつかなかった」
「お姉ちゃん泣かして、どうするんだ」
「きっと待っててくれると信じてた」
「ぶつけたところはどう? 痛まない?」
「念のためだ、救急車に運んでくれ。大福は付き添ってやれ」
「私も行く」
思わず加奈は口走っていた。
「私も、私も行く。またこの子に助けられた。みんな何もできなかったのに、全部この子がしてくれた。私より年下なのに」
「そんなに乗れるかな」
「乗る!」
きっぱり言い切る加奈の顔に強い意志が漲っている。以前とは違う表情に吉村は拒むことができなかった。
「じゃあそうしてください。他の人は一休みしたら移動してもらいます。もうひといき、自分で歩いてもらうからね」
「さて、終わったな。どうする?」
「何が?」
「帰りだよ」
「まだ検分があるんだし、徹夜明けだぞ。眠らせてくれよ」
「その先さ」
「だからさ、検分が昼に終わってもそれから寝たらもう夜だ。今夜出発したって帰りつくのは明日だろ。朝帰っても使い物にならないからな。明日の朝出発するよ」
「議員さんと大将は?」
「俺達は新幹線で帰る。客あっての商売だし、議員さんも外泊が続くとまずいだろうし」
「新幹線までは?」
「鉄道があるじゃないか、嘘つき」
「悪いけどそれでいい?」
「大人ですから新幹線くらい自分で乗れます」
「お前はどうする?」
「明日にする、もうヘトヘトだ。徹夜で働いたの久しぶりだ、体がフワフワしてる。明日、大竹に寄って挨拶して帰ることにする」
「でだ、宿舎は使えるのなら、当分ここに泊めようと思うんだがな」
「誰を?」
「あの六人と家を潰された家族。内緒にしてくれないかなあ」
「内緒もなにも、そんなの緊急避難だから当たり前だろう」
「私達は知らないということで」
「また保身かよ、だめだよそういう消極的な態度」
「そうじゃなくて、……わかりましたよ、秘密の共有ですね」
「だけど活躍してくれたんだから礼を言わんとな、大将も大活躍だった」
緊急避難させることに他人を装う素振りをみせた鈴森を叱りつけた村井だが、彼等の働きを労うことを忘れていない。
「何かしてくれたのか?」
「議員さんたちは寝られるように布団を敷いてくれたし、風呂洗いをしてくれた。大将は食事の心配をしてくれた。浴衣を用意してくれたんだぞ、知らなかっただろう」
「そうか、風呂にもはいれるのか、洗濯もできるんだな? みんな喜ぶよ」
「ちゃんと働くか不安だったけどボイラーを焚いてみたんだ、生きててくれたよ」
「ボイラー? 動かせるのか?」
「馬鹿にするな、技師だぞ、技師。ボイラー技師。隠れた才能ってやつよ。時間と材料さえあれば発電機ででも風呂くらい沸かしてやるけどな」
「水や燃料はどうしたんだ」
「お前達が名古屋でまごまごしてる頃には手配しておいたよ。ただな、請求書がそっちに回るから処理してくれよ」
「そんなこと任せとけ」
「二人とも災難だったけど、あの人達の信用をもらえたんだから我慢してよね」
「我慢だなんて、貴重な体験ができました。なあ都築さん」
「うん。村井さんが怒る意味がよくわかりました」
「たださ、救急車に乗るって言い張っただろ、あの二人。意志が戻ってきたのかな、お人形さんじゃなかったな」
「そうだといいけど」
「年配の方は軽い捻挫ですね、半月くらいは無理をしないようにしてください。若い方は酷く疲れているようです。ひどい打ち身がありますね、痣は簡単に消えませんよ。どうしたのですか?」
「木の幹を挟みそこねたと言ってましたが」
「木の幹? どうしてまた」
「橋が落ちてたから跳び移ろうと。照明がなくて距離が掴めなかったのでしょうが、詳しいことは本人でなければ」
「なんという無茶をしたんですか。骨には異常がないから打ち身だけでしょうが、痣は当分残りますよ。今日は休ませてください」
「着替えを買いたいのですが、近くにお店はありますか?」
「表通りに衣料品屋があるけど、まだ七時ですから開いてませんよ」
「なんとか頼んでみます。それまで休ませてもらえませんか?」
「それはかまいませんが」
「お願いします。二人は由紀子さんについててあげて」
「私は買い物に行く。加奈さんがいれば大丈夫だよ」
「どうして山奥に行ったの?」
宮内は、ようやく落ち着いた美鈴に何があったのか尋ね、亜矢のしたことをすべて知り、外出禁止を当分解除しないでおこうと決めた。
「幅六十三メートル」
「高さは?」
「高さ三十五メートル」
吉村が検分のために現場におりてゆくと、すでに消防や警察が拡大した地図の上に崩れた場所や潰された家の位置を書き込んでいた。
「お疲れ様です。もう始めているのですか、声をかけてくれればよかったのに」
「お疲れだろうと遠慮してました。職員の方は大丈夫でしたか?」
救援課の到着で被害者の救助が予想外に早く終わり、とりあえず休息をとれた平田が引き続き指揮をとっていた。
「はい、疲れていただけでした」
「そうですか。崩れた場所と埋まった家の位置は把握しました。それで、救助にあたってですが、どんな状況だったでしょうか」
最初の出会いでへまをした負い目があるのか、平田は宮内に対し馬鹿丁寧に尋ねた。
「到着と同時に班を四つに分けました。埋まった家にそれぞれ一斑三名。川の土砂を撤去するのに一斑三名。捜索に救助犬を二頭投入しました。犬の指示する場所を重点的に捜索し、全員の発見と救出を完了しました」
「犬が反応しない場合はどうします?」
「今回は空気抜きのために穴をあけておいてくれたので捜索し易かったと思います。闇雲に掘っても効果ありませんから、周囲の土砂を薄くするようにすれば捜索の効果があがると考えます」
「川の土砂については?」
「到着時、すでに溢れるまでに余裕がなかったのですが、機材が到着していないので細い溝を手掘りするしかなかったです。機材が到着して幅二メートル、深さ一メートルの溝を掘り始めましたが作業が進まず、幅を半分にして水を逃がすことを優先しました。いずれ埋まるかもしれないから、あとは重機で土砂を排出してください」
「もう一箇所あったんですね」
「はい、それは別の者が」
当然近藤がいるものと思っていたのに姿が見えない。何をしてるんだと舌打ちしながら吉村は無線機で呼び出した。
「近藤さん、検分始まってるんだ、どこにいるんだよ」
『亜矢と加奈っていう女の人を宥めてるとこなんだ、少し待ってくれないか』
「亜矢がどうした?」
『自分でなきゃ説明できないってきかないんだ』
「体調はよさそうか?」
『普通に見えるがな』
「じゃあ連れてきてくれ。申し訳ないですが、判る者が来ますから少し待ってください」
「疲れてるようなら無理しなくても」
「いや、経験を積ませるいい機会ですから付き合ってやってもらえませんか」
「そういうことなら、ちょっと一服やらせてもらいますよ」
「どうぞ遠慮なく。肩身が狭くなりましたね」
「まったく、完全にのけ者ですよ。あなたタバコは?」
「私はやりませんが、今来る奴なんか煙突です」
「そうですか。ところで大竹の警察署長とは……」
「大竹の署長? さてね、誰のことかな」
「青木さん、署長になったんだって」
事情を知らない吉村に宮内がそっと説明した。
「そうか、責任を負わされたんだな。あの人とは今回のようなことがきっかけで懇意にしてもらってます」、
「初めに責任者だって若い女性が来たから馬鹿にされたと勘違いして相手にしなかったのですが、署長が証明するというのでね、いや驚きましたよ。高をくくっていたのですが、テキパキ指示してるからね、どうなってるんだと」
その言葉は平田なりの侘びでもあった。
「ちゃんとやってましたか?」
「立派なもんです」
「えらく褒めてもらったな、よかったな」
「……それほどでも……」
うかない返事の宮内である。
「どうした、元気ないな」
「亜矢を危ない目にあわせたから。助けに行けってアタシが指示したから」
それは吉村にも思い当たる重圧である。初めての現場指揮で仲間を危険に晒したという自責の念はこれからもつきまとうだけに、それを取り除いてやるのが時分の務めだと吉村は思った。なぜなら、現場指揮を命じたのは自分なのだから。
「大丈夫だ、あいつは馬鹿じゃない、ちゃんと弁えてるさ。ほら、元気なもんだ」
亜矢と加奈が近藤を従えるように近づいてきた。
「なんだタバコ吸ってるでないか。これはお付き合いせんと義理欠くな。俺も一発やらせてもらうぞ」
崩れた橋の下に人かが集まっていて、そのうちの何人かがのんびりタバコを燻らせているのは不思議な光景であった。
それを見て、亜矢が班長と呼ぶ男は当たり前のように盛大に煙を吐き出し始めた。
「班長、せっかくだから鼻にも挿したら?」
「やかましい、俺の幸せを邪魔するな」
「怒ったって怖くないよーだ」
お世辞にも普通の職業人に見えないその中年男に亜矢は馴れ親しんでいるように加奈は感じていた。風貌を度外視しても、名古屋弁の独特なアクセントは喧嘩腰のようにも、叱られているようにも感じるのだが、亜矢は臆することなくやりあっている。加奈にとってそれは不思議な光景であった。
「で、どういう具合にむこうに行ったかから説明するんだぞ。俺は木の枝にロープかけただけだからな」
チビたタバコを挟んだまま、近藤は亜矢を振り返った。
「どの木ですか?」
消防の責任者らしき男が亜矢を見た。
「その木だ。ちょっと待てよ、実際に教えるから」
平田に促された近藤は、足先で掘った穴に吸殻を埋め手馴れた様子で木に登り、
「このあたりだ」太い枝の中ほどを示した。
「それでどうしました?」
「そのロープにぶらさがってあの木に移りました」
亜矢が谷をはさんで立っている高い木を指差した。
「どの木ですか?」
「たしかこの木です」
亜矢は谷を渡り、ぶつかった木の幹をポンと叩いた。
「ずいぶんな距離ですよ、どうやったんです?」
「ブランコみたいに振って勢いをつけて、いけるかなと思った時に手を緩めました」
「飛び移ったのですか?」
真っ暗な闇の中、ヘッドランプの明かりをたよりにできる芸当だろうか。平田は平然と話す亜矢に驚き呆れた様子だったが、加奈にはその重大さはわからない。が、亜矢の行動が少しづつ加奈の知るところとなった。
「そうじゃなくて、幹につかまろうと足を広げて」
「うまくいきましたか?」
「挟み損ねてぶつかりました」
「危ないことを……、怪我しませんでした?」
「怪我はなかったです。猛烈に痛かったけど」
「ちゃんと見えてたんですよね?」
「見えてたら失敗なんかしません」
亜矢は憮然と答えた。見えてさえいれば難しいことではないという自信があった。
「無茶苦茶だなあ、自殺行為ですよ。それからどうしました?」
「犬を渡してもらって山にはいりました。きっと道なりに行ったと思って奥へ進みました。少し進んでは犬に吠えさせて奥に行ったんです」
「来たことを知らせようとしたのですか?」
「犬が反応してくれるのを期待して」
平田の考えは間違いではないが、亜矢は犬の聴覚を利用しようとしたのである。
「反応がありましたか?」
「遠くで犬の声が聞こえました。きっと皆も一緒にいると思い、犬を放しました」
「それで?」
「あとは笛で呼び寄せようと」
「笛?」
「犬笛です。まだ十分使いこなせないはずですが」
宮内が説明を引き取った。
「吠えろの命令は二回に一回くらい成功してたから。まず吠えさせて、来いの命令を吹き続けました」
亜矢としてはすがるべき藁はそれしかなかったのである。
「来た?」
「来てくれた。嬉しかったー」
宮内からの質問に亜矢は嬉しそうに即答した。
「それで避難した人と出会うことができたのね」
「申し訳ないけど現場まで行ってもらえませんか?」
「いいですよ」
加奈にとって、こんなやりとりは生まれて初めてである。亜矢の言うことが本当なら、美鈴が盛んに感心したことが納得できる。きっとありのままを亜矢は語っていると加奈は思った。
山道を登り始めて近藤が呆れたように声をあげた。
「この坂を背負って下ったのか、なんちゅう奴だ」
「なにこれ、足元がツルツル滑って歩けないよ」
雨に濡れた赤土や、大小さまざまな石で覆われた場所。膝より高い段差もあれば、地表に根が延びているような場所もある。ここで生活を始めて半年がたつ自分でさえ歩きにくいと感じることがある。近藤や宮内のような都会育ちには辛い山道だろうことは加奈には容易に想像がついた。なのに亜矢は由紀子を背負って下ってきたのである。亜矢がどんなことをしたのか近藤も宮内も呆れている。自分が亜矢の立場だったら、きっと応援をよびに一人で戻っただろうと加奈は思った。いや、その前に由紀子を助けただろうかと思う。更に、危険を冒して谷を越えただろうかとさえ思った。
「空身で登るだけじゃないか、ブツクサ言わずに歩け。だけど、たいした奴だ」
そういう吉村にしても、先頭で道案内をする亜矢の意外な能力に驚嘆している。子供の頃に戻ったような、不思議な感覚を加奈は感じていた。
「焚き火の跡」
さして広くない場所で加奈が歩みを止め、その先を指差した。加奈が指差す先に小さな土盛りがある。ただただ怖くて、なるべくかたまっていたから知らなかったのだが、昼間に見るそれははかないほどに狭い場所である。助けが現れたことや由紀子を救えた安堵で初めて地面で眠った場所である。
「ここで焚き火をしたのですね? 転落場所は?」
「たぶんここ」
土が削られた跡がくっきり残っていた。
「ここで転落したのですね。深さを測りましょうか」
平田は誰に行かそうかと後に続く署員を見やった。
「俺が行こうか? 俺は何も役立っていないからな」
消防からロープを借りて近藤が降下しようとすると、
「そうじゃない」加奈はぼそっと呟いた。
「ここじゃないのか?」
「ここ」
「何が違う?」
ふにおちない様子で近藤が訊ねた。
「頭を下にして降りた」
加奈は亜矢が逆落としに降りてゆくのをはっきり憶えていた。お使いをたのまれた子供のようであった。
「なんだとー。お前、逆さまに降りたのか?」
「そうしないと光が届かないから……、捜しながら降下するのにこっちの方がいいと思ったから……」
吉村の背に隠れるようにして、亜矢はうつむいてボソボソと言い訳をした。
「教えてないぞ、そんなことは教えてない。俺だってやったことない」
近藤が吉村を窺った。
「下に着いたぞ。草が倒れてるから間違いないだろう」
「十二メートルありますね。上がってください。さて、今度は登りですが、どうしました?」
「片方のロープで命綱を作って由紀子さんが落ちないようにしました。それを上で引き上げてもらい、もう片方のロープを伝って登りました」
「二本持ってたのか?」
亜矢の装備を知らない近藤はとっさに聞き返した。
「三十メートル一本しかないから二つ折にしました。片方はそのまま、もう片方は瘤を作っておきました」
「なるほどな、考えたな」
「二重のモヤイ結びで命綱にして、残りをグルグル巻いて……」
「それで登ったのか」
「はい」
「よく登れたな」
「皆が引き上げてくれました」
「登ってから焚き火をしたのですか?」
感心して聞いていた平田が尋ねた。
「真っ先に焚き火をしました。火があれば明るいし、暖かいから安心すると思いました」
「みんな眠ったのでしょう?」
「火を消さないように枯れ枝を探してました」
「ほとんど眠ってないのですか?」
「はい」
やはり加奈の想像は当たっていた。うとうとして気付いたら亜矢の姿がなく、また目覚めた時には犬の首筋を撫でている。その繰り返しであった。朝になってはっきり目覚めた加奈は焚き火の燃えカスが大量にあることを知ったのである。
「山を降りるのは?」
「足首が痛いということなので背負おうと」
「どうやって?」
「巻いたロープを真ん中でまとめて、由紀子さんの足を通しました。その輪に腕を通して背負いました」
「説明だけでは判らん、ちょっとやってみろ」
亜矢の説明が要領を得ないのか、近藤が実際にしてみせるよう亜矢に命じた。
「こうして輪を作って……、加奈さん手伝ってね」
輪に加奈の足を通し、その輪に腕を差し込んで背負ってみせる。
「こうすれば両手が使えます」
亜矢は実際に背負うまねをしてみせた。
「ちょっと俺にも背負わせてくれんか、いいか?」
加奈の同意を求めて近藤が試してみた。
「なるほど、たしかに両手が自由になる。体重はこれくらいだったのか?」
「ほとんど同じじゃないかな、加奈さん五十キロくらい?」
「これで山を下ったのか」
「そうしか、ほかに方法がなかったし」
「逆さまに降りたことといい、こんな背負い方といい、どうやって思いついた?」
「秋田のお父さんがしてるのを見たことがある」
「あんな逆さまの降下をか?」
「木から降りてくるときに」
「背負うのは?」
「判らない、自然にああなった」
「おい、いいかげんに降ろしてやれよ。加奈さんだって迷惑だ」
吉村が近藤に言った。しかし、加奈は迷惑とは思っていない。それよりも年代をこえ性別をこえ、上下関係すらこえて互いを認め合うことが羨ましかった。
「わかってるんだ、わかってるんだがな」
「だったら早くしないか」
「あいつがどんな思いで背負ってたのか想像したらな、降ろせないんだ。この目方を背負ってあの足場の悪い坂を下ったんだぞ。米俵とは言わんが、そんな目方を背負って歩けるか? それを考えたらなあ……」
「班長、そんな立派なことじゃないですよ。あの場合は当たり前ですよ」
「疲れているのに付き合せてしまって申し訳ないですね。よくわかりました。話してもらったことはとても勉強になりました。ありがとうございました」
「私ね、マムシを殺したんだ」
加奈は自ら発言することがまれである。しかしこの時は何か言わねばと強く思った。ただ、何を言えばよいのか加奈にはわからない。それでも何か言わねばと口にしたのが蝮のことである。あれから自分なりに努力したことを言いたかったのである。
「加奈さんもやったの? 案外簡単でしょう」
ニコニコと加奈に相槌をうつ亜矢を、ギョッとしたように近藤が振り向いた。なにか言いたそうにするのを察して、宮内が近藤の袖を引いて黙らせる。内に閉じこもっている自分が自ら話そうとするのを邪魔させないようにしてくれている。加奈はそれも嬉しかった。
加奈が亜矢に心を開きかけている。宮内はそう感じていた。
「マムシを殺してから少しずつ自信がついてきた」
「よかったね」
「怖いと思ってた相手にでも反撃できるんだと思った。すごく気持ちが楽になった」
「楽になった?」
「鰻屋さんが料理を教えてくれて、夢中になってやった」
「料理がおもしろかったんだ」
「できたものもおいしかった」
「おいしかった?」
「でも、別のことが嬉しかった」
「どんなこと?」
「私達のことを心配してくれてること」
「だって心配だもん」
「そんな人、……いなかった」
「心配してくれる人はいなかったの?」
「わざわざこんな遠くまで来てくれる人はいない」
「そうか、寂しかったね。でも、できたからよかったね」
「アキさんの考え、すごくいいと思う。鰻屋さんや村井さんの言うように木の葉を覚える。心配してくれた人にきちんとお礼を言えるようにする」
最後の言葉は亜矢には意味が通じない。どんな返事をしようか戸惑っていた。
「あれすごくいい考えだと思うよ、アタシ大賛成。加奈さん本気になった?」
宮内は、加奈が自ら行動をおこそうとしていることが嬉しくて、さかんに相槌をうった。
「亜矢ちゃんに笑われないようにする」
「だからね、ゆっくりでいいんだから。亜矢なんか失敗ばかりなんだよ」
宮内は美鈴の言った頑張るなということをさらりと言ってのけた。
「俺だってな、 弟子のつもりだったのに追い越されてまった。嬉しいような哀しいような、泣けてくる」
「近藤さん、涙拭こうよ。近藤さんの仕事が増えたんだから泣く暇ないよ」
「仕事?」
「亜矢がしたことを取り入れなきゃ」
「そうだな」
「もういいか? いいかげんにしないときりがない。検分はこれくらいでいいですか?」
「はい、私達も訓練に活かします」
「よし、これで帰ろう」
「ちょっと待って、みんな山を歩く方法を知らないようだから教えてあげる。山歩きの基本は小股。登りより下りの方がきついんだから、下りはもっと小股で歩くこと。判った?」
「生意気な奴だな、師匠に指図するのか?」
「へへへー、悪いけど、山については年季が違うよーだ」
「いつもこんなですか?」
亜矢と近藤が話すさまは友達のように加奈には感じられた。
「え? 何が」
「上司ですよね、なんか友達みたい」
「確かに仕事については大先輩だよね。けどさ、山のことならはるかに亜矢の方が先輩だよ。仕事の先輩だからってすべてに優れてるわけないんだから、面倒なことは無しにしようという決まりがあるの。いくら大先輩でも、卒業したてでも、みんな対等にしたの。それがアタシ達の職場」
別に不思議ではないと宮内が言った。そういえば宮内は係長であることを加奈は思い出した。対する近藤は、すでに中年であるのに班長らしい。どうにも不可解な組織である。しかし、反目しあうどころか和気藹々としていることが不思議であった。
「誰も怒らない?」
「そうね、つまらない遠慮したり気取ったりすると馬鹿にされるね。自分の意見を中途半端にすると怒るかな。そんなものよ」
「それで納得する?」
「だって皆で決めた掟だもの。前のおじさんなんかさ、頭はあんなだし、顔も声もあんなでしょ、おまけに言葉がきたないんだからやくざみたいでしょ。でも生真面目で優しいんだよ、笑えない冗談を連発するのが困るんだけどね」
宮内が気のおけぬ仲間同士でしか通用しない言い方で近藤を紹介してくれた。
「黙って聞いてりゃふざけやがって。あんなとは何だ。お前だってこんなだろうが。姉ちゃん、一つ教えてやるけどな、うちで一番凶暴なのはそいつなんだぞ。大の男を黙らせるのが道楽なんだとよ。こんなだから浮いた話の一つもなくてな、結婚祝いがいらんから助かる助かる」
「ちょっと、そんなこと言ったらみんなが変に思うじゃないの、やめてよ」
「それじゃあ何か? 俺が嘘ついたとでも言うのか? 俺は嘘つきだと思われるじゃないか、冗談じゃないぞ」
誰もいないことに気を許してだんだん声が大きくなっている。
「うふっ、おもしろい人達」
久しぶりに、本当に久しぶりに加奈は笑った。
「加奈さん笑った。お人形さんみたいだったのに、笑ったよ」
隣を歩く加奈が漏らした忍び笑いに宮内が気付いた。
「加奈さん笑ったよ、近藤さんのお手柄だよ」
「俺の?」
「きっとそうだよ」
「あれ? たくさん人がいる」
農家が見える場所にさしかかった時に、畑のあたりに大勢の人が来ているのに亜矢が気付いた。
「どれ、本当だ。まずいな、ちょっとしゃがんでください。見つかると困る」
「どうかしましたか?」
「人が大勢いるんです.。報道ですかね」
「きっとそうでしょうね。駆けつけた親戚や知人ということは?」
「それはありえません、困ったな……」
「ありえない? どういうことですか?」
「実はね、あそこで生活している人には特殊な事情があって、名前や顔を晒せないんです。このまま帰ったら餌食になってしまう」
「どういうことです?」
「絶対秘密ですよ。実は、あの農家は名古屋市のDVシェルターなんです」
「DVというと、あのDVのことですか? ではこの人も被害者なんですか?」
「そうなんです。せっかく穏やかに暮らしているのを邪魔させたくありません」
「どうしますか?」
「まいったな……、村井がいればごまかしてくれるんだけど」
「どうだ、俺の姪ってことにせんか。趣味で田舎暮らしをしている近藤加奈でどうだ?」
「近藤さん、褒められたから上積みを狙ったな? アタシ賛成、それでしのごうよ。報道の対応は警察と消防にまかせて」
「それだけで納得するわけないだろ」
「救援課として課長とアタシが対応すればいいし、足長おじさんにも協力してもらえばいいじゃない」
「どう説明するんだ?」
「正直によ。ただし、転落したのは加奈さん。それでどう?」
「こいつはどうする?」
「成り行きしだいで亜矢が救助したことを言えばいいよ。亜矢も意味判るよね」
「要は、加奈さんが避難したけどみつからなかったから捜しに行って、滑り落ちた跡をみつけて助けたということ?」
「ピンポン。こんなのでどう?」
「その後しつこく追いかけられないか?」
「転居するのね。どうせあそこには当分帰らないのでしょ? 出歩く人じゃないから国民宿舎にいてもらえばいいよ。一週間もすれば忘れるよ、世間なんて」
「どうします?」
「それで押し通すか。やっかいな奴等だな、まったく」