序
序
中天高く鳶がゆったりと弧を描いている。いったい何を狙っているのか、竹林の葉ごしに現れては隠れるばかりで、いっかな狩りをするでもなく宙をただ舞い続けている。
時折吹く風に煽られる竹の葉が川の流れに似た音をたて、そのたびに金属的な葉の表面が強い陽光をキラキラ反射させるだけで、他に動くものの気配はない。
山のあわいに一軒だけ古い農家が建っている。涼を求めてすべての戸口が開け放たれているのだが、かえってそれが虻やウンカの侵入を許すことになっている。きっと今夜も黒胡麻をふりかけたようなウンカ飯を食べる羽目になってしまうのだろう。
玄関の正面は百坪ほどの畑で、長さも太さも男の腕ほどもあるキュウリやナスが重そうな実をつけている。ほかにも、トマトが、インゲンが、トウモロコシが、そしてピーマンが花とともに艶やかな実をつけている。
畑に水を引き込むための細い水路を利用した洗い場がいかにも素人の手による不細工さをみせていて、いつまで現役だったのか、焚口と朽ちた桶が風呂の名残りをとどめている。
玄関からその洗い場に通じる小道をそのまま進めば小川が一筋。勢いをつければ子供でも跳び越せそうな幅でしかないが、そのまま飲める清水が年中変わらぬ水量で流れていて、丈高い草に覆われた土手に導かれ少し下流で大きな流れにそそぎこんでいる。膝ほどの深さでしかないのに大人の背丈をこえる土手が築かれているところをみると、はるか昔から思わぬ出水が繰り返されきたにちがいない。
土手の草は羽黒トンボが大きな羽を休める格好のネグラであり、根元には蛙がカゲロウなどの羽虫を求めて集まるので、それを狙う蛇にとって格好の猟場となっている。
少し下って、小川が本流に合流するあたりに十軒ほどの集落がある。農作業での芥でも燃やすのだろうか、朝夕には紫煙が幾筋も薄く立ち昇り、のどかさを一層際立たせている。 だがそれは、住民にすれば何のこともない、日常のありふれた一コマにすぎない。
近くの町まで約五キロ、とりたてて名所や景勝地があるわけではない。バス路線が廃止され、行商にも見捨てられ、交通手段をもたない者にとって決して住みよい土地とはいえない。過疎が叫ばれるずっと以前から人口の少ない、隠れ里である。
夏至をすぎた梅雨の晴れ間、すでに午後七時半を過ぎているというのにあたりはまだ夕方のような明るさで空は青く、夕闇れの気配すらない。
「そろそろご飯にするよー」
裏口から初老の女が僅かに足を引き摺って姿をみせ、小川に向かって何度か叫んだ。
田の草取りから戻った加奈は、水路で手足の泥を落としている最中だった。雫を拭っていると、陰気な仲間が力ない足取りで土手を登ってきた。
大きな竹籠を背負う者、笊に収穫物を載せている者。所在なげに素手でいる者、年恰好はまちまちである。奇妙なのはその服装で、農家には不似合いな街着を身につけ、素足にサンダル履きである。皆一様に水路で手足の泥汚れを落とし、母屋に続く小道を戻ってきた。
「今日もナスの煮物しかないんだよ。毎日ナスでは飽きるだろう? いくらかでも買出しに行ってくれるとありがたいんだがねえ」
戸口で叫んでいた初老の女がすまなさそうに言うのに、
「たしかに飽きてきた」
加奈はおもわず陰気に呟いていた。
「加奈、なんてこと言うのよ。母ちゃんにすまないよ」
年嵩の恵子が声を荒げた。
「文句言うつもりはない。だけど、飽きてきたのは事実」
もう五日もナスの煮物ばかりである。思わず漏らした本音であった。
「あんたならどうなの、何か作れるの?」
お定まりの台詞である。料理できないのなら何も言うなとでも言いたいのだろうか。
違う! 恵子の考えは浅すぎる。加奈は心の奥底で唸りながら、表情も声も出しはしない。
「……田楽と炒め物くらいなら」
加奈は一瞬恵子を窺っただけですぐに俯き、短く呟いたきり黙ってしまった。
「じゃあ明日は加奈が作りなさいよ」
恵子がリーダーというわけではないのだが、他人からの指示であれば従ってしまう。加奈の意思とは関係なく、指示に従う習性が身についていた。従順でありさえすれば平穏に過ぎてゆく。その習性は加奈だけではなく、程度の差こそ違えこの家の誰にもしみこんでいる。
「今日さ、稲の様子を見に行った後で、奥の山で食べられそうな物を探してたら見つけちゃってさ、これだけ採ってきたよ」
加奈と同年輩のアキが大きな笊を傾けた。加奈とは同い年。三十歳目前で派手な風貌なのだが、晴れやかな表情は数えるほどしか見せていない。なのに今日は思わぬ収穫に気をよくしたのか、泥を落とした雫をキラキラさせる茗荷を山盛りにして得意げである。
「あらアキ、いい物見つけたじゃないの。私なんか、マムシにでくわしてびっくりして逃げてきただけだよ。悔しいから蕗を摘んできた。たまには刺身でも食べたいけどお金がねえ。今はいいけどさあ、冬は雪が深いそうだから心配だよ」
竹篭を傾げて中を見せた恵子は四十歳代の、体格は良いが気弱な印象。
「恵子さん、そんなこと言わずに茗荷を刻んで食べようよ。醤油かければおいしいじゃない、私好きだよ。ナスやキュウリの塩揉みもおいしいし。そうだ、村の子供に魚の捕り方を教えてもらおうか」
一番年齢の低い美鈴も自分なりに知恵を絞ろうとしているのだが、哀しいことに田舎暮らしの経験が皆無で、何をすればよいか見当すらつかないらしい。顎の円やかさからして、二十歳をすぎていくらもたっていないのだろう。
「そんなことしたら私達のことが漏れないかねえ。生活が苦しいのは我慢できるけどさあ、二度と嫌だよ、あんな生活に戻るのは」
皆から母ちゃんと呼ばれている初枝が不安そうに肩をすぼめた。
「だけど私達だけでやっていける? 私なんかみんなのお荷物なだけだし、どうにかしたくても頭が悪いから……」
言いながら美鈴は心細げに俯いた。
「わかったから、心配しなくていいよ美鈴ちゃん。明日役場で相談してくる。福祉課のあの人なら信用できる。加奈、それでいい?」
恵子に問いかけられた加奈は答えずに俯いていた。こだわりを失って何年たつかさえ数えられない。そして、気弱な自分が能面のように無表情であることは自覚している。
ここは女ばかり五人が暮らす寄り合い所帯。会話の様子から生活資金に窮していることが窺え、ここで生活していることを他人に知られたくない何か事情があるらしい。それがどんな事情か判らないにせよ、すでに相当期間ここで生活していること、半年先の冬篭りを気にかけていることが窺える。
「とにかくご飯食べて相談しようよ。ねっ、お腹すいてたら知恵がわかないよ。あーあ、せめて慰謝料をもらえれば何とかなるのにさ」
沈みがちな空気を振り払おうと、アキがとりなし、ついで愚痴をこぼした。
「あんたまだそんな夢みたいなこと考えてるの? 男の言葉なんか信用できないのに、懲りてないの? たとえ裁判に勝ったって四の五の言って払うもんか。裁判おこすと相手と対面するんでしょう? 怖くない? つきまとわれない? もうまっぴらよ!」
いつものように愚痴をこぼし始めた恵子に我慢できず、アキの口調が険しくなった。
「……そうには違いないけどさ、どう考えても癪じゃない。アキはそれで平気なの?」
「平気なわけないよ! でもさ、どうせ財産がないって嘘ついて踏み倒されるだけだよ。裁判のたびに怖い思いしてさあ、おまけに居場所がばれない? こんどはどこへ逃げればいいの? そんなこと考えたらまた気が変になりそうで……」
それが癖なのか、アキは両手で頭を覆った。
「ごめん、禁句だったね。私馬鹿だから、考えなしに口にしてごめん。愚痴っぽいのがだめなんだよね」
「いい、最近は少し気持ちが楽になってるから。落ち込むこともへったし、同じ事を繰り返すのもなくなったし。ちゃんと治ってきてるようだから大丈夫だよ」
「明美どうしてるかなあ」
最近去った仲間の名をもちだしたのは、恵子なりの護身術である。意味のないことに意識を向けることで、現実逃避を図っているのだろうと加奈は思った。
「さあね、約束を守れないで自分から出て行ったんだから心配する必要なんかないよ」
アキはにべもなく斬って捨てた。
「案外男のところに戻ってたりしてね」
よせばいいのに、恵子の詮索好きな性格が余分な一言を招いた。
「戻ったらどうなるか想像つくでしょう? それも判らないようでは救われないよ。あーやだやだ、考えたくもない!」
汚物を踏みつけてしまったかのようにひどく顔を歪め、アキが吐き捨てた。
「それはそうなんだけど。……でも、相手ばかりが悪いのかなあって考えることはない? 自分にも責任があったのかなあとかさ、もう少し我慢すればよかったと思うことはない?」
じっと話を聞いていた美鈴が遠慮がちに呟いた。
「そんなこと考えない! それが間違いなのよ。美鈴はそんなふうに考えるの?」
とうとうアキが声を荒げてしまった。しかし、美鈴のせりふは誰もが辿る道でもある。
「たまにね、おかしいかなあ」
「当たり前よ! どうして男の思い通りにならなきゃいけないの。私達って持ち物? ペット? 人なんだよ! 心があるんだよ!」
美鈴にむかって小さく叫んだアキだが、やがて落ち着いたのか上がり口に座って誰にともなく呟くような口調で、
「……偉そうなこと言ったけど、そう思えるようになったのは最近だから偉そうにできないよね。美鈴がそう考えるのは無理ないけどさ、今が踏ん張りどころよ」
それは案外自分に言い聞かせているのかもしれない。
「アキ、ちょっと興奮しすぎじゃない? 美鈴ちゃんだってわかってるわよ」
恵子に言われて我に返ったのか、アキはバツのわるそうな顔で俯いた。
「ねえ恵子さん、私思うんだけどさあ、国道沿いの国民宿舎を使えないかなあ」
しばらく俯いて考えていたアキが遠慮がちに呟いた。
「国民宿舎? アキ、現実見てる? 食べ物を買うお金に困ってるんだよ。どこからそんなお金が湧いて出るのよ」
「でも、ここだって貸してもらってるんじゃないの。市内ならともかくさあ、こんな遠いところに住まわせるなんて普通で考えられる? 何の見返りもないんだよ。役場の話だけどさあ、私達みたいな人を社会復帰させるために骨折ってる人がいるんだってね。そういう人に相談したらどうにかならないかなあ」
「どこの誰よ?」
「……それは知らないけど……。でも、相手を納得させる計画を用意したら役場の人が話してくれないかなあ」
「あんた、いったい何がしたいの?」
「ここで生活させてるのは、少しでも早く立ち直らせるためじゃないかな。つまり、私達を自立させるためなんだよ。他人の世話にならずに生きていかなきゃいけない、それはわかってる。けど、ただ自立するだけでは意味ないような気がする。こんな辛い想いをしてるのって私達だけじゃないよ。ほとんどの人は絶望して、嫌々生きてるんじゃないかな。いっそ死んだほうが楽、そう思ったことはない? ここにいるおかげでビクビクしないで暮らせるんだから、他の人でも同じじゃないかな。ねえ、そういう人を助けてあげたくない? 私達みたいな人の受け皿になってやろうよ。それにさあ、他人の世話なら少しは気楽にできないかなあ。だって、最終的には本人の責任だからね。……本当はね、社会に戻れるか不安なんだ。嫌でも男と関わらなきゃいけないし,会いたくない相手に会うかもしれない。それが怖いんだよ」
「ちょっと待ってよ、私達に何ができるの? 難しいことなんか一つも判らないんだよ」
「そんなに堅く考えなくていいと思うんだけど。……つまり、誰かの世話をするっていうような大そうなことじゃなくて、気分転換させてやればいいんじゃないかな。それでね、みんなで商売するの。百万、できたら二百万あれば、アパート借りたり生活用品揃えたりできるし、当座の生活費にもなるから、それを目標に働くの。そうやって社会に戻してあげるのよ。同じ境遇の人達の社会復帰をお手伝いするの。それが私の社会復帰だと思う」
土間に蹲り、恵子とアキの会話を黙って聞いていた加奈は、アキの一言を小学校の先生の言葉と重ねて聞いていた。
苛められていた自分を庇ってくれた先生の、火を噴くような怒りと悲しそうな顔をいまだに忘れることができない。
「力のある子が弱い子を苛めて良いのなら、クラスで一番強い先生が今日から皆を苛める。」
そう宣言した先生は毎日毎日教室から離れることがなかった。当然授業は厳しくなり、忘れ物や遅刻はもちろん、私語やわき見を決して許さなくなった。帰宅して遊ぶ時間を奪うほどの宿題を課し、少しでも忘れると容赦なく授業で攻め立てたし、あげくに家庭訪問を繰り返すことをしてのけたのである。すぐに赦してくれるだろうという大方の予想に反し、一月過ぎ、二月目も同じように過ぎようとしていた。さすがに皆が音をあげた。どうにかして赦してもらうよう謝りに行こうということになったのだが、苛めっ子は違っていた。そもそもの現況を招いたのは加奈だと言い立て、加奈が謝るべきだとまくしたてた。しかたなく加奈が代表で先生に謝りにいったことで先生の怒りが爆発した。授業を中止し、加奈を前に立たせて苛めた覚えのある者も同時に立たせた。苛めているのを見ながら止めなかった者も、知っていながら無関心だった者も立たせた。
「こんな弱虫しかいないクラスを受け持って残念だ!」
クラス全員を立たせて先生は一段と大きな声で言い放ったのである。
「苛めた相手に助けを求めて恥ずかしくないのか。加奈はずっと苛められながら一日も休まず登校してるんだぞ。このクラスで一番強い心を持っているのは加奈なんだぞ。特にその五人、簡単に赦さないからな。これからどうすればいいか全員で考えろ」
そう言うなり先生は姿を消した。
翌日からは教頭先生が代わりに授業にきたが、暫くして新しい担任がやってきた。
先生は体調が戻らず、入院したま卒業式にも顔をみせなかった。
あれから半年、卒業式を終えた加奈にかつての担任が柔和に笑いかけていた。
「加奈は本当は強い子だよ。クラスの誰よりも強い子だよ。それに、他の子と違うことで誰も敵わないものをもっている。だからもっと自信を持とうよ。もっと自分の考えを言おうよ。絶対に加奈を理解してくれる子がみつかるよ」
先生は優しく加奈に諭してくれたが、それが先生の最後の教えでもあった。見舞うたびに容態が悪くなり、ついには話すことすらできなくなっていた。苦しい息をしながらも、見舞いに訪れる加奈に穏やかな眼差しを向ける先生が当時の加奈には十分理解できなかったのだが、こうした特殊な状況におかれた今、加奈の心をゆさぶるに十分な活力をもっている。
「あんた途方もないこと言い出すねえ。現実見えてる? 稼ぎがないんだよ、刺身が買えないんだよ。あきれたねえ」
国民宿舎というのは国道沿いに建つ旧国民宿舎で、営業をやめてかなりの年月放置されている。国有財産売却リストに載ってはいるのだが、集客が見込めず転用するにも産業がなく、まして山間過疎地であることからいまだに売れずに残っている。それはともかく、恵子にとってアキの考えは、まったく現実離れした夢物語でしかない。自分が生きることに精一杯で、失意の底からようやく脱しかけているのが現状なのに、どうして他人の世話という突拍子もないことを思いつくのか、恵子には理解できない。
土間に屈みこんでじっと黙っていた加奈は、アキの考えに興味を抱いていた。
『面白そうだよ、それができたら最高だよ』と、咽喉まで出かかっているのだけれど声にならない。意思表示をするたびに辛い仕打ちを受けてきたことから、自発的に行動することができなくなっていた。話すのは勇気のいる行動なのである。しかし、ふっとよぎった先生の言葉が加奈に思わぬ力を添えてくれた。
「おもしろいと思う。同じ苦しみ、悩んでる人の手助け。できたらすごく自信になる」
断片的に最低限の単語をつなぐだけのたどたどしい話し方しかできないのが、加奈の悩みでもである。
「加奈までそんな与太話にかぶれるの? もう、なんとかしてよ」
意外な展開に恵子が鼻白んだ。
「あたしらみたいな年寄りはどうなるの? 見殺しかね」
年齢も健康も盛りをすぎて、皆に負担をかけることが多いという負い目が初枝にはあった。口にこそ出さないが、いずれ一人ぽっちになる不安に苛まれている。それをわかっていながら、それでもアキは初枝に、実際に役立っていることをもっと自覚してほしいとも思っている。
「年寄りには年寄りの仕事があるはずだよ。母ちゃんだって毎日ごはんの仕度をしてくれてるんだし、一緒にいてくれるだけでいいんだよ。きっと役割はみつかる。ううん、作ればいいんだよ」
自信なさげなまま、アキが初枝に答えた。
「じゃあきくけどさ、商売って何するつもりよ」
早く話を終わらせようと恵子が反論するのに、
「今は何も考えてない。……白状すると、考えられない。相手の顔色を窺うことしかできなくされたから」
アキは正直に今の自分をさらけだした。
「気力がなくなった。どうでもいいやっていう感じ」
加奈はくぐもった声を出した。話さない癖がついてしまい、あまり唇を動かさなくなっている。それも能面を思わせる一因だろうと気付いてはいるのだが、自分ではどうにもしようがない。生気が蘇れば十分に魅力的な女性なのだが、加奈はそれに気づいていない。
「明日だけどさあ、私も行こうか? 心細くない?」
「アキも来てくれる? 頼めるかなあ」
幾分ほっとしたように恵子がアキをチラリと見た。
職員室に一人で入るのをためらう小学生と同じ不安を、女達は抱いている。しかし、加奈にすれば十分すぎるほど羨ましいことであった。




