母と娘
エルレアの手からすべり落ちた燭台が、遠くの方で石の床に落ちて、灯火が消える。
何者かによって部屋の奥へと引きずりこまれたエルレアは、必死に視線を巡らせた。
身体に巻きついた影のようなものの感触は、もう無い。
雷鳴が届くのが速かったのか、空が光ったのが速かったのか、それさえもよく分からなかった。
地面から揺れるような衝撃と爆発音に似た轟き、地響きが屋敷に響きわたる。
「お養母様……!」
窓から差し込んだ閃光の中、部屋の奥、暖炉の脇にあるロッキングチェアが揺れていた。
そしてそのロッキングチェアに、養母ハーモニアが座っている。
立ち上がろうとしたエルレアは、ぐらりと平衡感覚が狂うのを感じて膝をついた。
闇の中、誰かが自分に歩み寄ってくる。
細く短い四肢。子供。まだ年端のいかない少女だ。
美しい金色の髪を揺らして首を傾げる。
少女のあどけない顔が、エルレアにはよく知っているもののように感じた。
全ての物が闇に呑まれている世界で、身体の内側から発光しているように不自然に色鮮やかな『彼女』は、自分に向かって慈愛深い微笑みを浮かべて言った。
「お飲みになって、お兄様」
透明な液体が入った小さなワイングラスが差し出される。
無邪気な子供が秘密のイタズラを特別に教える時のように囁いた。
「一瞬です。お兄様を苦しませることはしませんわ」
少女は奥にあるベッドを指差した。
「夢を見ましょう、お兄様。とても楽しく、暖かい夢を。庭には沢山の薔薇やチューリップ、お兄様が好きなアイリスの花も咲いていますわ。そこでお兄様と私はずっと一緒に暮らしますの。永遠に、幸せに。私とお兄様は一緒になるんですもの」
抱きついてきた少女は、ほう、と息をついた。
「もう何も心配しなくていいのです。民に責任を感じる必要もありませんわ。だってお兄様は立派に、民のために尽くして己の全てを捧げられたのですから」
ワイングラスの液体を飲み干し、ベッドに静かに横たわると、少女は小さな身体で覆いかぶさるように頬に口付けてきた。
「愛していますわ、お兄様」
言い終わると、今まで何もかも理解した大人のような微笑みを湛えていた少女の顔が、仮面が剥がれ落ちるようにくしゃりと歪んだ。
少女はぎゅっと胸にしがみつき、顔をこすりつけるようにして泣き始めた。
幼い少女らしく、だだをこねるように。
「お許しください……お許しください……お兄様」
ひとしきり泣いた後、少女はサイドテーブルの上に置かれた光る物を手に取った。
嫌に重い瞼をついに閉じる直前、その煌きが最後に目に入った。
胸を貫かれる激痛にエルレアはたまらず身をよじって呻いた。
「セ……レ、ン……」
思い出すのは義弟の顔ばかり。
先ほどの少女のせいだろうか。
養父も養母も健在だが、セレンには同じ年頃の信頼できる人間が自分しか居ない。
おいていくにはあまりに、あまりに幼い。
「お養母、様……」
傍に居るはずのハーモニアに、エルレアは必死で助けを求めた。
室内は完全なる闇に支配されていた。
雨音に混じって、誰かの足音が聞こえた。
その足音の主は自分のすぐ傍で立ち止まる。
音の方向に頭を向けようとしたエルレアは、次の言葉で凍りついた。
「あなたを殺せば、私は楽になれるのかしら……?」
それは養母ハーモニアの沈んだ声だった。
「私は……それほどお養母様の、重荷に……なっていたのですか……?」
「憎い」
よくできた悪夢のようだと思った。
養母は実子のセレンも自分も同じように扱い、愛してくれていた。
本当の母のようだとかすかにでも思っていたのは傲慢だったのだろうか。
養母の優しさに甘えて、越えてはいけない一線を越えてしまったのだろうか。
ひんやりとしたなよやかな手が自分の頬を包む感触がした。
「憎い。この顔が憎い。『あの人』によく似たこの顔が……!!」
胸の痛みで頭がクラクラする。
ふ、と養母が笑う気配がした。
「あなたは存在してはいけないものだったのよ。生まれてきてはいけなかったの」
そうだろうか。そうかもしれない。
生まれなければいけなかったと思うほど、自分の存在価値を見出せていない。
「どうしてあの子が死んで、あなたが生きているんでしょうね……あなたが死ねばよかったのに。そう、今のようにあなたが。あの子はあんなに気立てがよくて素直で、可愛らしかったのに。誰も振り向かない道端の雑草のようなあなたと違って、帝国民全員があの子を愛していたのに」
「なんの……話を……」
「そうね、あなたは知らなくていいの。お死になさい。自分が罪深き子だということだけを胸に刻んで」
「お養母、様」
エルレアは振り絞った声で、必死に養母に言葉を伝えようとした。
「生まれてはいけない子だったと仰るなら、どうして……私を育てようとしたのですか……? 私は、お養母様が笑顔で迎え入れてくださった、その時のことを昨日のことのように覚えています」
「お黙りなさい! あなたに何が分かるというの。あなたに、このグリーシュの、何が!!」
凄まじい怒りの感情の波が自分を襲ったように感じた。
「……っ」
限界だ。
容赦ない痛みに耐えられず意識を手放すその間際、誰かに肩を抱かれる感覚がした。
「子供が何者になろうと何者であろうと親は受け入れ愛するもの。そうではありませんか? この子が何者であろうと、何者でもなかろうと、親となると決めた私にとっては些末なこと。お分かりになるはずです、お母様。この子も含めて全てが私の選んだ……私が望んだ姿です」
耳元で生まれたその新たな声は、まぎれもなく、いつもの凛として穏やかなハーモニアの声だった。