『アイ・ウィル・ビー・ウィズ・ユー』 ①
その夜、ラビットは唐突に目が覚めた。喉が乾いている。水でも飲んで、また眠ろう。
ウォーターサーバーから水をコップに注ぎ、喉に流し込む。一息ついた。
リビングの明かりはまだ点いている。そこではリンクスがグラス片手にテレビを見ていた。役者の服装がやけに古臭い。古い映画だろうか。
リンクスはどこか物憂げな表情で、琥珀色の液体が入ったグラスを傾ける。綺麗な仕草だ。
「……まだ、起きていたのか?」
リンクスはテレビを見たままだが、こちらに気付いたようだ。
「あっ、ちょっと目が覚めて……」
突っ立っているのもなんなので、リンクスの後ろに立つ。前にも思ったことだが、リンクスの髪はいい匂いがする。同じシャンプーを使っているのに、不思議なものだ。
「……映画ですか?」
「ああ。古い映画だ。私がまだ、子供の頃にやっていたやつだ。小さい頃、一回だけ姉と映画館に行ったことがあってな。その時にやっていた映画がこれだ」
アクション映画だろうか。画面では銃撃戦が繰り広げられている。
リンクスの過去。軍警察時代は目を三角にして金を稼いでいたと聞いたが、それ以前のことは知らない。
「今見てみると、しょうもない映画だよ。ヒロインは可愛いだけの大根だし、主人公も高校生って設定のくせにどう見てもおっさんだ。話もあってないようなものだしな」
確かに主人公の見た目は酷い。もっといい役者はいなかったのか心配してしまうほどに。
アクションシーン。火薬をたっぷり使っているようで、派手な爆発が起こっている。爆発を背に主人公が敵から逃げていた。
「……だけど、面白いんだよ。いや、面白く見えてしまうんだ。」
「B級だから、ですか?」
「いや。……思い出補正、ってやつだろうな」
リンクスがグラスを傾けた。からり、と涼しげな音がした。
「姉さんと一緒に見た、たった一つの映画だ。私も無邪気だったからな、わくわくどきどきしながら見てた。そのことを思い出す。……年を取ると、過去の思い出に浸って生きてしまうものなんだな。実感したよ」
グラスが空いた。リンクスがボトルに手を伸ばす。
「あ、お酌しましょうか?」
「ヴィクセンじゃあるまいし、お前から酌をされて喜ぶと思うか?」
リンクスは苦笑しながらも、グラスをこちらに差し出してきた。彼女の隣に座り、ボトルを傾け、グラスを満たす。
「ああ、これぐらいでいい」
六割ほど入ったところで、ストップがかかった。リンクスは軽くグラスを回した後、口に含んだ。
せっかくだし、少し気になったところを聞いておこう。
「……リンクスさんのお姉さん、どんな人だったんですか?」
「いい人『だった』」
「だった?」
過去形が引っかかる。
「……私は第六階層に産まれた。それはもうしょうもないところだったよ。私の両親は、まだ真面目に働いていたが、それでもうちは貧乏だった」
なるほど。リンクスがお金にうるさいことに納得がいった。
「真面目な奴ほど損をするのが第六階層だ。両親は早くに死んだ。そして、姉さんが私を育てることになった。姉さんがお前ぐらいの頃にな」
あ、これは重い話だ。何気なく聞いたことを後悔する。ラビットにとって、そしてリンクスにとってもいい気分になる話ではないだろう。
だが、リンクスは言葉を止めなかった。
「小さい女にできる仕事といったら、花売りだ」
「お花、ですか?」
「……体を売っていたんだよ。幸い、需要は腐るほどあった。それなりの金を稼いでくれていたよ」
自分と同じぐらいの年頃の少女が体を売る。そういえば、第四階層で出会ったジェシカも同じぐらいの年頃だった。自分は恵まれているのか、そうでもないのか。体を売って少しばかりの金を得る生活と、銃を握って大金を得る生活。……五十歩百歩か。
「私は第六階層が嫌だった。暗くて湿っていて、物騒で。少しでも早くおさらばしたかった。でも、私みたいな底辺が脱出するには、軍警察に入るぐらいしかなかったんだ。エレベーターも高いし、新生活を始める金も必要だしな。軍警察に入れば、寮はあるし、少しは移動の自由が利く。ひょっとしたら上の階層に配属されるかもしれない。だから、私は勉強したよ。環境に文句を言う奴に晴れ舞台は一生来ないとも言うしな。私は努力した。そして、軍警察に入ることができた」
リンクスはいつになく饒舌だ。彼女の頬はほんのりと紅色を帯びている。ひょっとしたら酒のせいなのかもしれない。
「姉さんとはそこで離れ離れになった。だけど、そのうち迎えるんだ。あのクソみたいな場所から救うんだ。そう誓って、ひたすら金を稼いだ。だけど、姉さんを救うことはできなかった」
リンクスがグラスを置いた。中には氷だけが入っている。あの言い方だと、姉はもう生きていないのだろう。今までの生き甲斐が否定されたと考えると、なんと救いのない話だろう。
「……すみません、変なこと聞いちゃって」
「いいさ。さっきも言っただろう。年寄りは思い出に浸ってしまう、ってな」
リンクスが笑った。リンクスの過去。それは決して生易しいものではなかったのだろう。それに比べれば、今はどうなのか。
「……なぁ、ラビット。人間って、どこまでが幸せで、どこからが辛いと思う?」
「……そんなこと、わかりませんよ。僕はまだ子供なんですから」
「何、すぐにわかる。誰かに食わせてもらっている間が幸せで、誰かを食わせなければならなくなったら辛い。私は一人になったとたんに辛くなった。暗い部屋に帰ることが辛かった」
暗い部屋に戻る。施設に居た頃を思い出すと、確かにそれは嫌だった。今は違う。リンクスが居る。それは大きい。その言葉によれば、今の自分は幸せなのだろう。確かにそう思う。
「そう考えると、子供の頃はまだ幸せだった。そして、今も悪くはない。……明るい部屋に帰れるからな」
リンクスがこちらを向いて、微笑んだ。それは紅色の頬と併せて、とても綺麗だった。慌てて視線を逸らす。その仕草がおかしかったのか、リンクスがくすくすと笑った。
「……いかんな。酔っぱらった年寄りは。話が滅茶苦茶だ。付き合わせて悪かった」
「いいですよ。話を切り出したのは僕ですし」
「私はもう寝る。どうだ? 眠れそうか?」
テレビの映画は終わっていた。今は安っぽい通販番組が流れている。
「どうですかね。でも、多分眠れそうです」
そもそも喉が乾いて起きたのだ。目を瞑っていればそのうち眠れるだろう。
……寝る前に思いついたことを伝えておこう。リンクスの話を聞いていて思ったこと。
「リンクスさん。僕、頑張りますから」
「何をだ?」
「リンクスさんがこれからも明るい部屋に帰れるよう、頑張ります」
「……生意気言うな、バカ」
リンクスはくすりと笑うと、グラスを流しに持っていく際に、ラビットの頭をがしがしと撫でるのだった。
AMC訓練施設。格闘訓練場の外で、リンクスは雑誌を読んでいた。
「どうした、まだやるか?」
「はいっ! もう一丁お願いします!」
「よく言った! それでこそ男だ!」
訓練場からはスカイアイとラビットの声が聞こえてくる。随分と熱心なことだ。先日、ラビットを晩酌に付き合わせてから、どうもやる気を出している。酔った勢いで何か言ったのだろうか。覚えていない。
「あら、マリアさん。ラビット君は?」
ミストアイだ。いつもの爆弾解体の講師でもやっていたのか、白衣姿である。
「中でスポ根やってるよ」
「チェスターさんの声もしますわね。ふふ、面倒などと言っておきながら、いざ始めてみるとああなんですから」
ミストアイはころころと笑いながら、同じテーブルに座る。
「ラビット君、ずいぶんとやる気をお出しになれていますけど、何かありましたの?」
「いや、それがよくわからない。この間晩酌に付き合わせたんだが、それからだ」
「あらあら。ひょっとして……あなたもヴィクセンさんと似たようなご趣味で?」
「何を考えてる。というか、あいつと一緒にするな」
「ふふ、失礼」
ミストアイは口元を隠し、ころころと笑った。
「ところで最近、お仕事のほう、お暇でしょう?」
「ああ。まぁ、暇でも金はもらえる。いい身分だよ」
「特に政府筋の依頼が減っていますわ」
「政府の依頼が? ……まぁ、確かに」
政府からの依頼も減っているし、そういえば強化人間計画の支援も打ち切られた。
「ちょっと面倒なことになるかもしれませんわ。頭に入れておいてくださいまし」
「……確かに、備えておいて損はないか」
嫌な流れだ。そして、嫌な予感もする。これが杞憂であってくれればいいのだが。
ラビットがよろよろと出てきた。ずいぶんと痛めつけられたのだろう。
「どうした、ザマぁないな」
「あんまり見ないでくださいよ、もうっ!」
「あんまり鍛えていると、ヴィクセンさんのお眼鏡から外れますわよ?」
「それは望むところですよ!」
嫌な予感は置いといて、今はこの微笑ましい男を見ておくか。
リンクスはくすりと笑った。




