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白露:古家の住人Ⅱ


「ねえ、おばあちゃん」

 私は努めて軽く聞いた。

「どうしていつも湯呑みを二つ持っていくの?」

 祖母は急須に茶葉を注ぐ手を止めると、言葉を発したあと誤魔化すように笑顔を貼り付けた私をじっと見た。

「そういうお前こそさっきからカチカチカチカチやってるけど一体なんなんだい」

「それは……メール、です」

 後ろ手に隠していたピンクの携帯を降伏の仕草で掲げ持つと、祖母はふんと鼻を鳴らした。ああやっぱり私じゃ無理だよう。私は肩を落として、頭の中で母への言い訳を組み立てた。

 もう御祖母ちゃんも年なんだし様子をちゃんと見てくるのよ特に物忘れの兆候がないかとか、と立て板に水の勢いで言いつけられ送り出されたものの、連休中に観察したかぎりでは、祖母の矍鑠たる有様はまったく衰えを近寄らせていないとしか思えなかった。よって母が心配するような状態にはない。というか、そのような心配をされていると知った時点で腹を立てそうだと予想はしていたのだが、もうその前に探りをいれた段階で完全に貫禄負けである。尻尾を巻いて逃げ出したい。

 居心地悪く立っている私を一瞥すると、祖母は戸棚からもう一つ湯呑みを取り出した。

「もうお前も色気づく齢になったってわけだ」

「……っ、いろけ……」

 思わず絶句した私に祖母は畳み掛けた。

「おや、違うのかい。やけに嬉しそうな顔をしてたけど」

「いえ、間違ってない、です」

 どうしてうちの女性陣はこんなに強いのか。そういうことなら私もいつか強くなるのか。それはちょっと遠慮したい、と考える私の前に、とんと軽い音を立てて湯呑みが置かれた。

「……お前の母親に言わないっていうなら話してもいい」

 言った祖母の顔は複雑な色を湛えていて、私は意味もなくそれと高い笛の音を響かせはじめた薬罐とを交互に見てしまった。怒っているというよりは困惑したような。それよりもなお、照れて、いるような。

「夢物語だと思ってくれていいよ。お前の母親が聞いたら無駄に心配しそうな内容だからね」

 縁側に座ると、祖母はぶっきらぼうに口を切った。私は二人の間に、急須と湯呑みを乗せた盆を慎重に置いた。祖母が湯呑みを温めて緑茶を注ぐ。

 話がはじまるまでの間、私は足をぶらつかせながら庭先から続く眺めを見渡した。家の傍らには竹が一群れ、その下には細い川があるのを知っている。手前に植わっている大木は柿。まだ葉の残るその枝を透かして、なだらかに連なる山並みが見える。

「この家には色々と不思議なことがあるんだが、そのなかでも私以外の誰かに遭う事があって、この湯呑みはそんな時用だ」

 言い切ると祖母は手の中の湯呑みを傾けて口を湿した。まだ手さえ伸ばせずにいる猫舌の私は、祖母の表情がもっとよく見えるように座る位置を変えた。

「……幽霊とか? そういうこと?」

「おや、驚かないのかね」

「驚いてはいるんだけど……小さい頃、泊まりに来たとき不思議なことがあったのは憶えてる。だから」

 誰もいないはずなのに何かがさざめく気配がしたり、朝起きたらイチジクが枕元に置いてあったり。最近はそういうことも起こらなくなって久しいので忘れかけていたが、そういえばこの家はお化け屋敷なのだと、幼心に信じていた。

 そう言うと、じゃあ話は早いねと祖母は頷いた。気のせいか、少し肩の線がやわらいだようだった。

「よくわからないが、幽霊ではないと思う。物も触れるようだし。茶も飲むし。ただ、どうも夢を見ているような感じだね。相手の顔も姿も、遭ったら分かるんだが、後になるとどうもよく憶い出せない。ただ遭って話したということだけを憶えている」

 その中でも特によく遭うのが居て、と祖母は行儀悪く、まだ空の湯呑みを指ではじいた。

「いろんな話をしたよ。他愛ないものばかりだけれど。本の虫みたいな男でね、いつも何かしら読んでいる」

 思い当たることがあって、私は上半身だけ奥の部屋へと振り向いた。そこには、どっしりとした本棚が鎮座している。私の視線を追うまでもなく、そうだよ、と祖母は苦笑した。

「なんだか悔しくてね。話に出てきた題名を憶えられる限り憶えて、私も読んだ。面白かったよ。書物というのはこんなにいいものだったのかと思った。女は学問なんてするもんじゃないと言われ続けていたのは、男がこの楽しみを独占したかったからかとさえ思った。てっきり煙たがられるかと思ったが。」

 しかし祖母が本を読むようになったことを相手は喜んだのだ、と祖母は苦笑から呆れを取り除きつつ言った。

「うまく間が合えば、感想を言い合ったりしてね。相手がまだ読んでいないものを勧めたりもした。要は趣味が合ったんだね。楽しかった。そんな話ができる相手は他にいなかった」

 ……だから、いつも少しでも引き止められればいいと思っていたよ。

 そう言ったのを最後に祖母は口を噤んだ。灰皿を引き寄せて、煙草に火を点ける。

 夏の名残を留めた金色の光が、少しばかり色褪せた山膚に降り注いでいる。空がその高みを思い知らせるように透き通りはじめるこの時期は、理由のない焦燥と切なさが胸の隙間に巣食うようで、どうも昔から落ち着かなかった。

「そのひとのことが、好きだったの?」

 私はなかば失心しながら訊いた。ふうっと煙を一吐きして、その行方を目で追いつつ、祖母は言葉を探しているようだった。

「……好きじゃなかったといえば嘘になるが、どちらかといえば惚れた腫れたということではなく、まるで近しいものを見守るような気持ちで」

 己の中を覗くように半分目を閉じて、けれどその眼差しを柔らかくたわませて。無防備な表情から私は視線を逸らして、煙草の吸い過ぎで枯れてしまった声だけを追った。

「なつかしいと……いとおしいと思っているよ」

 祖母の本棚には、無節操といえるほどにジャンルも年代も様々な書籍が詰め込まれている。周囲に何もないここを訪ねた折には、それに手を伸ばすくらいしか暇つぶしの方法がなく、読書に祖母ほどの情熱がない私でさえも、帰るまでに数冊読破するのが常だった。

 以前、その中から白と黒の装丁に惹かれて手にした短編集に、夢の中でしか会えない男女の話があった。男は女に会えば憶い出す。女は合言葉だけを頼りに男を探し続けている。けれども男は目を覚ませば女を忘れてしまう。

 読んだときは難解さに数度瞬きして、そのまま次の話へと頁を繰ってしまった、そんな話だ。

 過去形と現在形の入り混じった告白に言うべき言葉を見つけられずに、私は膝の上に置いた手を見つめた。祖母の妄想だと言い切れたらいいのに、と切実に想った。母ならそう一刀両断できたかもしれない。私だって、もしもそれを人から聞いたならば。

 けれど、祖母のその貌、その声音。黙り込んだ私をよそに祖母は煙草をくゆらせていたが、ついに根負けしたように、だいぶ短くなったそれをきゅっと灰皿に押し付けた。話してしまったことを今更悔いているようでもある。予想以上に深刻に受け止めた私を揶揄うようでもある。

「なに暗い顔してるんだい。どだい現実的ではないんだから。結局、私はお前の御祖父さんと結婚したわけだし」

「でも」

「もうさみしいとは思わないことにした」

 さえぎったのは清々とした声だった。

「偶然ばかりに頼んだ、数少ない出遭いであったとしても貰ったものは忘れない。そしてたぶんそれは向こうもおなじ」

 ここに、と祖母は芝居がかった所作で、しかし丁重に胸に片手を当てた。ゆるやかに流れる時間とともに、その手からすりぬけていったものを悼みはすまいと誓う仕草にも似ていた。

「それ以上は別に望まない。遭えれば嬉しい。遭えないのが普通。でも、最近は前よりも頻繁に遭うね。きっと私が境界に近づいてきているからだろう」

 さらりと祖母は言い放つ。そうしてから、私に何も言う間を与えずに、顔をしかめてみせた。だからこんなに年を食った姿でも我慢してもらうしかないね。

「それにしてもいい天気だね」

 照れ臭くなったのだろう、唐突に天気についての話題を持ち出した祖母が、ちらりと空のままの三つ目の湯呑みを見やった。あ。どうやってこの場を去ろうかと悩んだその時、計ったようなタイミングで台所からの携帯の着信音が鼓膜を打った。私はだいぶぬるまった自分の湯呑みを掴んで、不躾なほど急いで立ち上がる。

「ほんとね、すごい秋晴れ」

 言い残しざまに後ろ手に障子を閉めて縁側から私を締め出した。途端に薄暗くなる室内、顔を上げたそこに、余すところなく中身が詰め込まれた本棚が立っている。ずらりと並んだ本の重みも感じさせない堅固な造り。

 それは活字として印刷された先人の思考だけではなく、きっと形にされたことのない祖母の感情さえも、そのうちに秘めているのだ。

 世界でふたりきりになりたいという想いの名前を知っている。

 メールの確認を少しだけ後回しにして、私は共犯者に近寄るとその暗い木肌に手を当てた。

 背後から薄紙一枚隔ててかすかな談笑が響いたように思ったが、目を瞑るとそれは優しい闇にまぎれてしまった。



引用:『落葉 他12篇』ガブリエル・ガルシア=マルケス

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